【追悼】鈴木邦男

覚悟はしていた鈴木邦男さんの死・・・

平野悠

私が初めて鈴木さんと出会ったのは95年7月、新宿にトークライブハウス「ロフトプラスワン」オープンの3日目のことだったな。パリ人肉事件の佐川一政さんのイベントの日にお客さんとしてやってきた。
当時鈴木さんは「右翼」と世間では恐れられながら週刊「スパ!」で夕刻のコペルニクスという連載をしていて若者にかなり人気はあった。

もう25年以上昔のことだ。私は鈴木さんに出演を要請し鈴木さんは快く承諾しロフトプラスワンをとても愛してくれて、それからプラスワンと鈴木さんの蜜月は長く続いた。
ロフトプラスワン出演を契機に鈴木さんは新右翼(民族主義〜反米愛国〜憲法尊重)という旗を鮮明にし、既成右翼と思想的にも距離を取った。
それまでの右翼界隈の連中と付き合うよりしょぼくれた左翼と付き合う方がとても面白かったらしい。あの赤軍議長の塩見孝也さんも連合赤軍の植垣さんもそうだ。
それからの鈴木さんは多くの文化人や格闘技者と交流を重ね、沢山の人をプラスワンに連れてきてくれた。感謝である。

もう5〜6年ほど前になるのか?コロナが流行る前のことだ。
「ネイキッドロフトの前でつまずいて転んだんだ」と言っていておでこにこぶができていた鈴木邦男さんがいた。
鈴木邦男さんを主題にした映画「愛国者に気をつけろ」(中村真夕監督作品)の時もどうも迫力がなかった。
「えっ、柔道四段、合気道三段の鈴木さんが転ぶなんて・・・」と私はびっくりした覚えがある。どうも気色が冴えない。

それから何度かロフトのステージに上がったが、やはりちょっとおかしかった。

それから鈴木さんは病院を転々とすることになる。私も3~4度病院に鈴木さんの見舞いに行った。
さらにはそれから誰が決めたか面会謝絶~音信不通になって3年余りが過ぎた。
もう見舞いにも行けないことになった。 誰か周り?が完全なバリケードを巡らしているらしいという噂が飛んだ。

誰に聞いても鈴木さんの様子がわからず、誰がどこで見守っているのかの情報も全くなかった。

鈴木邦男さんと深く付き合ったのは私だけではない。その人たちと連絡を取っても誰も鈴木さんの状態を誰も知る事はなかった。

鈴木さんには感謝、感謝なのだ。も一度でいい鈴木さんに感謝の言葉を言いたいと思っていたが実現せずに終わってしまった感がある。

生涯結婚もせず「運動」にいそしみ
金銭には誠実で綺麗な人だった。
「平野さん、金貸してくれ!」そんなことが何回かあった。
「へえ、いくらですか」
「5万円・・・」
・・・それが何週間後には必ず返してきた。律義な人だった。