【追悼】鈴木邦男

ドキュメンタリー映画「愛国者に気をつけろ!鈴木邦男」を撮って

中村真夕(映画監督)

鈴木邦男という生きかたをちゃんと捉えられたかは分からない。でもちゃんと捉えておかないといけないと思って、「愛国者に気をつけろ!鈴木邦男」というドキュメンタリー映画を撮った。今思うと、あのタイミングで鈴木さんに撮影をさせてもらって、本当に良かったと思う。コロナが蔓延する直前の2020年2月に劇場公開し、鈴木さんも毎日上映に来てくれた。

撮影を始めたきっかけは、鈴木さん単独のドキュメンタリーがありそうでなかったということからだった。正直、鈴木さんについて語るだけの知識も背景もなかった私だったが、何かあの時、「鈴木さんの生き様を残しておかなければ」という強いものに駆られていた。鈴木さんは詩人で父の正津勉の古い友人で、前から親しくさせていただいていた。「親戚のおじさん」みたいな感じで、お会いすると「お父さん、元気?」と必ず聞いて下さった。そんな「親戚の娘」のような立ち位置を利用して、私は厚かましく鈴木さんに詰め寄り、「自宅で撮影させてください!」と申し入れ、あの伝説の「みやま荘」に通い始めた。鈴木さんは何十年も住んでいる古い木造のワンルームのアパートで本に囲まれて、70を過ぎても書生か修行僧のような生活をしていた。鈴木さんはあれだけの経歴の人なのに、いつも謙虚で自虐的なユーモアがある面白いおじさんだった。「僕はバカですから、ずっと勉強しないといけないんです、ははは」と笑いながら、週に何十冊という本を読み、色々な背景の人たちに会いに行き、いつも好奇心に溢れ、幾つになっても学ぶ姿勢を忘れない人だった。そんな誰からも愛される人に鈴木邦男という人物になったのは、いくつもの挫折を乗り越えてきたからだと、撮影をしながら私は知っていった。山口二矢に憧れ、民族運動に目覚め、大学で森田必勝を民族運動に引き入れ、結果、森田が三島由紀夫と自決してしまうという結果をもたらし、その悔恨から一水会を立ち上げたという経緯は誰でも知るところだ。私の目の前にいる鈴木さんは穏やかな好好爺に見えたが、時折、目が怖かった。瞬時に敵か味方を判断しているような鋭いナイフのような目線で、人を見た。そんな目を見た時、私は過激派であった頃に鈴木さんの片鱗に触れることができた。

私は鈴木邦男さんを撮るかたわら、福島の全町避難になった町に動物たちと一人で住む松村直登さんのドキュメンタリー映画「劇場版 ナオト、いまもひとりっきり」を撮っていた。鈴木さんと松村さんには共通する部分が多くあった。二人とも福島出身で、「たとえ世間や政府が否定しても、自分がおかしいという思うことは違うと言える」というところだった。松村さんは「オラなんにも悪いことしてねえべ。悪いことしたのは国だべ」と言って、原発事故直後もずっと動物たちと自宅に残り続けた。鈴木邦男さんは「日本人だから国を愛すのは当たり前だろう、そうでない人は非国民だと、政府が国民にイデオロギーを押しつけるのは反対だ」と言っていた。テレビのニュースの世界にいて、自分がおかしいと思うことが言えなくなっている自分に気づいて、鈴木さんや松村さんのようになりたいと思い、私は彼らのドキュメンタリーを撮った。

鈴木さんのドキュメンタリーを公開したら、ネトウヨに攻撃されるのではと身構えていたが、公開してみると全くそういうことはなく、むしろ応援してくれる人が多かったのに驚いた。それは鈴木さんが信念を貫いた人であり、多くの人たちが彼をリスペクトしていたからだと思う。「出過ぎる杭は打たれない」、昨年、亡くなった映画プロデューサーの河村光庸さんが言っていた言葉が思い出される。「中途半端にはみ出ると周りから叩かれるが、信念を貫き通すと誰も叩けなくなる」、そんな反骨精神に溢れた生き方が、鈴木さんの生き方であったように思う。

鈴木さんは、どんな政治や宗教思想の人たちに対しても、偏見なく対話するという姿勢を貫いていた。その姿勢は多くの人たちから尊敬され、愛された。私は鈴木さんを通して、今まで出会えなかった世界の人たちに出会い、彼の人脈からたくさんの恩恵を受けた。内田樹さん、金平茂紀さん、武田砂鉄さん、松本麗香さん、上祐史浩さん、平野悠さんなど、様々な背景の人たちが協力し、応援してくれた。今でも私は鈴木さんの人脈に助けられている。

鈴木邦男さんには政治思想だけでなく、人としてのあり方を学ばせてもらったように思う。
そしてその生き様を「最後に撮らせてくれて、本当にありがとう」、と鈴木さんに伝えたい。

「創」4月号より