【追悼】鈴木邦男

鈴木邦男さんが亡くなった。

1月27日昼、知人からの連絡で最初に知った。慌ててネットで検索する。引っ掛かるものは何もない。私は胸をなで下ろした。鈴木さんが数年前から闘病していたことは知っている。でも死なない。死ぬはずがない。無根拠にそう思っていた。表舞台から遠ざかり、これまで何度か「鈴木邦男が亡くなった」という噂を聞いた。今回も誤りだろう。時間をおいてもう一度、検索してみる。一水会のTwitterが訃報を告げていた。やがて、ニュースサイトが次々と逝去を報じ始める。声も出ない。ただ茫然と、鈴木さんの顔写真が添えられたニュースサイトを見つめていた。

鈴木さんと初めて会ったのは、もう30年近く前のことだ。大学を卒業し、新卒で扶桑社に入社した。2年半後の1994年秋、私は女性月刊誌から週刊誌に異動になった。最初の仕事の一つとして、編集長に命じられたのが鈴木さんの連載立ち上げだった。

名前だけは知っていた。恐らく、前年に朝日新聞社で自決した民族派の大物・野村秋介さんに絡んだ記事を読んだからだと思う。野村さんは鈴木さんの師匠にあたる。

率直に、怖い、と感じた。何より民族派や右翼についての知識がまるでない。顔合わせまでに鈴木さんの代表作を慌てて読んだ。右翼辞典を書店で見つけ、不明な箇所はいちいち調べた。線を引き、暗記するように必死の思いで通読した。

編集長と副編集長に伴われ、鈴木さんの自宅近くの喫茶店で対面した。武闘派から降りたあとの鈴木さんについて、「優しい」「柔和」と評する人は少なくない。あまり視線を合わせずに、微笑みながら訥々と話す鈴木さんに、初対面で同じ印象を抱いた。と同時に、別の意味で、この人はすごく怖い人かもしれない、とも感じていた。それは事前に想像した威圧的・暴力的なものではなく、まるで腹が読めないことに由来する「怖さ」だった。

連載「夕刻のコペルニクス」は「週刊SPA!」1994年10月12日号から始まり、7年間続く。私が病気で休職した1年弱を除き、開始から終了まで、ずっと鈴木さんの担当だった。

フィルムの一眼レフを片手に、どこにでもついていった。何時間でもつきあった。あの頃は、家族よりも交際相手よりも鈴木さんと一緒にいた。いや、正確に言えば、鈴木さんに「ついていかせてもらえた」のであり、「つきあってもらえた」のだ。

政治思想はもちろん、格闘技や宗教、サブカルチャーにまで造詣が深い。鈴木さんは自身に「月間30冊」の読書ノルマを課していた。博覧強記はその努力の賜物だろう。

惜しげもなく、様々な知り合いを紹介してくれた。だから、私も必死で本を読んだ。怠ると、担当編集者の役割を果たせないのだ。

26歳も年の離れた若造が、毎週、鈴木さんの原稿に朱を入れた。連載をまとめた単行本も3冊つくった。この時には加筆、修正、順番の入れ替え、収録見送りと、大幅に編集した。連載、単行本のいずれでも、鈴木さんに物言いをつけられたことは一度もない。それがかえってプレッシャーになり、さらに読書し、多くの人に話を聞いた。当時はまだ、インターネットも携帯電話もあまり普及していなかったのだ。

鈴木さんは連載で、たびたび筆禍を起こした。編集部には何度も抗議文が送られてきた。「編集者のお前もパチる」と電話で恫喝されたこともある。右翼の集まりや左翼の集会、強制捜査前のオウム真理教南青山総本部、「よど号」ハイジャック犯が収監されていたタイの施設……。正直、取材のたびに足がすくんだ。

「大丈夫ですよ。大抵は命までとられませんから。怒られたら謝ればいいんです」

鈴木さんは毎回、飄々と笑っていた。連載を丸々潰して抗議文を全文掲載したことも、武闘派右翼に直接謝罪に行ったこともある。実際、言葉の通り、殺されなかった。言葉を尽くして詫びた後、逆に力になってくれた人もいる。編集者として鍛えられたし、敵を味方にする術も学習できた。

鈴木さんがいなければ、私は30年も活字業界で生きてこれなかっただろう。学ぶように強いられたことは一度もないが、自分にとって、鈴木さんは間違いなく、職業的な「育ての親」だ。

連載は2001年初夏に打ち切られた。休職を終えて担当に復帰し、ほどなくのことだった。編集長から告げられた言葉は覚えていない。曖昧な理由だった記憶がある。抵抗したが覆らなかった。私を伴い、編集長が直接会って伝えると、鈴木さんは「そうですか」と短く応じた。申し訳なさでいっぱいだったから、拍子抜けした。連載が始まった頃と比べると、鈴木さんはさらに活躍の場を広げていた。そのためだろうか。やっぱり強い人なのだな、とぼんやり思った。私の方が、よっぽど打ちひしがれている。

それは、もうあと残り1回か2回かという時だった。取材先からの帰り道、鈴木さんが問わず語りにつぶやいた。

「鴻上さんの連載は続いているのになあ」

「夕刻のコペルニクス」が始まったのと同時に、SPA!では劇作家・鴻上尚史さんのエッセー「ドン・キホーテのピアス」もスタートした。「夕刻のコペルニクス」終了後も続き、結局、27年間にわたる長期に及んだ。連載を収録した単行本も何冊も出版された。鈴木さんの連載をまとめた本は3巻までだ。最後の1年余りの雑誌掲載分は、私が病気で倒れて企画を出せず、単行本には収められていない。

あからさまに口にしたことはなかったが、鈴木さんは「連載同期」の鴻上さんを強く意識していた。不意打ちのようなつぶやきで、私は初めてそのことに気づかされる。見えにくい鈴木さんの腹の底。それが垣間見えた気がしたのは、その時と、一水会の集会の打ち上げで、酔った参加者から独身でいる理由を訊かれ、「相手を喰わせていける自信がなかったから」と口にした2回だけだった。

連載終了から間もなく、私は扶桑社を辞めた。理由はいろいろある。鈴木さんを担当できなくなり、SPA!への未練はなくなっていた(雑誌自体には今でも愛着がある)。

転職先は野村秋介さんが自決した朝日新聞社だった。どこで知ったのか、ネットの匿名掲示板には「鈴木邦男の担当編集者、扶桑社から朝日新聞だってさ。右も左もないねえ」と書き込まれた。自分ごときが話題になるのか、ありがたいことだ、と笑ってしまった。そういうふうに感じられたのも、鈴木さんのおかげだと思っている。

中途入社でも新聞記者は新卒同様、まず地方に配属される。いつか東京に戻り、今度は記者として、鈴木さんを担当したい、と考えた。結局、20年間朝日新聞社にいて、何度か鈴木さんに絡んだ記事を書けたが、願いは叶わなかった。力不足を棚に上げると、出版ほど新聞の文化になじめず、私はずっと傍流だった。

在職中の最後の数年、東京で仕事をした。前後して、鈴木さんは体調を崩し、入退院を繰り返すようになっていた。長年住み続けてきた中野のアパート「みやま荘」も引き払った。世界中でコロナウイルスが猛威を振るい始めていた。

鈴木さんに最後に会ったのは、2020年冬のことだ。中村真夕監督のドキュメンタリー映画「愛国者に気をつけろ! 鈴木邦男」が映画館「ポレポレ東中野」で公開され、上映後のトークに鈴木さんが登壇すると耳にした。

その夜、久しぶりに対面した鈴木さんはげっそりと痩せていた。合気道の有段者で、柔道でも鍛えていたから、もともと体はがっしりしていた。

「大変ご無沙汰しています」と頭を下げる。鈴木さんは一瞬きょとんとした表情を見せ、「ああ、河井さんか。久しぶり」と薄く笑った。

登壇後、数人の関係者を交え、テーブルを囲んでお茶をした。椅子に浅く腰掛けて、鈴木さんはずっと黙ったまま、みんなの会話を聞いている。あの頃も、よくこんなふうに誰かの話に耳を傾けていた。口数は多くない。訥弁なのだ。変わったものと変わらないものとのコントラストに、胸が締めつけられるような思いがした。

支援者に支えられ、鈴木さんがタクシーの後部席に体を収める。「回復をお祈りしています。またお目にかかりたいです」と呼びかけた。車窓越しの鈴木さんはぼんやりと前を向いたままだった。声が届かなかったのか、それとも連載を守れなかった無能な元担当とはもう会いたくないのか。やっぱり鈴木さんの腹は読めない。

暗闇に遠ざかるテールランプが見えなくなるまで、タクシーを見送った。それが、鈴木さんと関わった、最後のひとときになってしまった。翌年、家庭の事情で私は朝日新聞社を退職した。

鈴木さんの思想的な功績は、ほかの誰かが書くだろう。だから、この追悼文は極私的な内容だ。稚拙でセンチメンタルな回顧録だと、自覚している。

鈴木さんは連載初回の自己紹介で、「僕は昭和18年生まれの51歳」と書いた。「昔は『人生五十年』と言われた時代もあったが、今は50歳から世の中が見えてくると思う」とも綴っている。

今の私より二つ下だ。私にはまだ何も見えてこない。

30年間追いかけて、手が届くどころか背中すらも霞んだまま、解けない謎をたくさん抱えて、鈴木さんは逝ってしまった。

連載で鈴木さんが「会った」と書いた、朝日新聞襲撃犯の「赤報隊」について。

ゲラまで出たところで差し替えた、未解決の「あの事件」について。

何よりも、右からも左からも批判され、称揚され、そんな毀誉褒貶を受け流し続けていた鈴木さんが、本当は何を考え、何を信じていたかについて――。

ずっと、鈴木さんを知りたいと思っていた。

今もまだ同じように感じている。

(河井健)