明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。このHPをまとめた本が年末には出ましたし、昨年はいい年だったと思います。この『愛国者の座標軸』(作品社・2600円)の他に、もう2冊、昨年は出しました。筆坂秀世さん(元日本共産党No.4)との対談『私たち、日本共産党の味方です』(情報センター出版局・1200円)が1冊です。もう1冊は、斎藤貴男さん、潮匡人さん、林信吾さんと私の4人の壮烈バトル本『超日本国憲法』(講談社・1500円)です。なかなか面白い本に仕上がっていると思います。3冊とも、後々まで残る「問題提起の本」だと思います。
そういう素晴らしい本を出せたのも全て出版社のおかげです。「この人を起用したら面白いんじゃないか」「この人にこんなテーマを書かせたら面白いぞ」と思ってくれた人がいたからです。これはありがたい話です。幸せだと思います。
「筆坂さんは共産党の運動を40年やった。これに、対極の鈴木を掛け合わせたら面白い化学反応が起きるかもしれない。鈴木は右翼運動40年だし。どんな話になるか。何が飛び出すか分からない。面白そうだ。やってみたい」
と情報センター出版局の編集者は思ったのでしょう。編集者自身がまず聞いてみたいと思った。彼らが第一番目の読者だ。
それに、対談する者同士だって、どんな話になるか分からない。自分の予断、思い込みが粉砕されることもある。自分の長年、持っていた考えがぐらつくこともある。自分が間違っていたと気付くこともある。「化学反応」だ。だから、対談にしろ、座談会にしろ、本当は怖いものだ。それに、書かれた「内容」が全てだ。読者は、活字になったものを読むからだ。そこが、テレビの対談、座談会と(決定的に)違う点だ。
テレビでは、「内容」よりも、その場の「態度」「形態」「雰囲気」が問題になる。大声で叫んだとか、相手を指さして難詰するとか、嘲笑する、とか。その時の「見た目の面白さ」が重要なファクターになる。パフォーマンスだ。見てる人は、「内容」ではなく、パネラーのパフォーマンスをを見ている。「おっ、こいつが勝ってるな」「圧倒しているな」「だめだな、こいつは。やり込められてるぞ」と思う。その場の声の大きさ、怒号の強さ…を見ている。
で、終わってから考えてみると、「何の話をしてたんだっけ?」と思ってしまう。「こいつは怒ってたな」「こいつは立ち上がって吼えてたな」と「動作」は覚えているが、話の「内容」は残ってない。だから、テレビの討論会は、(いくら面白くとも)、単行本にはならない。活字ではその場の「雰囲気」は伝わらないからだ。それと同時に、これも言える。活字にすると、残る話をしてないからなのだ。
例外としては「朝まで生テレビ」がある。いや、これだって9割以上は単行本にはなってない。でも、今まで何冊かは単行本になっている。「日本の右翼」や「天皇制」の時だ。パネラーは、かなり激高し、論議は乱れ、迷走したが、でも〈活字〉にしても読むべきものは沢山あった。それだけ重要な、スリリングなテーマだったし、話の展開だったからだ。
昔(15年ほど前かな)、デーブ・スペクターさんが「週刊文春」で「デーブ・スペクターの東京裁判」という対談を毎週やっていた。僕も出た。面白かった。このスペクターさんが興味深いことを言っていた。「その場では面白くとも活字にするとつまらないことが多い」と。だから、それに気を付け、「活字になった時に面白く読んでもらえるように考えている」と。これは、さすがだと思った。
「その為に、対談のリライトをする人はこの場にはいません」と言う。これにも驚いた。普通、テープ起こしをする人は、必ず対談の現場にいる。テープを録りながらメモを取る。あるいは速記で書く。でも、それをやると、「これは面白い」「これは盛り上がった」という〈現場の印象〉が強く残る。だから、どうしても、その印象を中心にリライトする。しかし、活字として読むとつまらないことが多い。だから、わざと〈現場〉を見せないで、テープだけを渡す。そして、「話の展開」や、「活字になった時の面白さ」を中心にテープ起こしをしてもらうという。
なるほどと思った。なぜテレビの「激論」が本にならなかったのか。その秘密が分かった。その点、『私達、日本共産党の味方です』にしろ、『超日本国憲法』にしろ、出来た時に、〈読者がどう読むか〉をキチンと計算してやっている。いや、出席した僕らはよく分からなかったが、編集した人が、そんなふうに、「未来からの眼」「神の眼」をもって企画した。編集した。そう思う。そんないい本を出せて、昨年はいい年だったと思う。実感!
又、『愛国者の座標軸』も、私は本になるなどと全く思ってなかったのに、「これは本になる」と目をつけてくれた。作品社の青木さんの「眼力」には恐れ入ります。又、ありがたいと思います。「いままでで一番いい本だね」とか、「鈴木君の集大成だね」とか、いろんな人に言われた。ありがたい。でも、500編の中から50編を厳選した青木さん、そして岩崎君の力です。
では、この辺で、又もや〈秘密〉をバラそう。いや、前言を訂正しよう。このHPは09年から始まった。8年間だ。その間に書いた500編の中から、50編だけを厳選した、と言った。古いものはマズイと岩崎君は判断したのだろう。だから、03年〜07年の「後半4年」に絞っている。もっと正確には、03年9月22日の「『日本の夜明け』は来るのか」から始まり、07年7月30日の「スパイは悲しいやね」で終わっている。8年といいながら、後半の4年だけに目を向けている。
ここで「何か変だな」と思いませんでしたか?いくら、「最近のものから主に選んだ」といっても、前半にだって、「これは!」と思うものがあったはずだ。でも岩崎君は無慈悲に切り捨てている。
ここで白状しましょう。このHPを99年から全て読んでる人は分かりましたね。謎が解けたでしょう。
そうです。実は、このHPの初期の分をまとめた本が既に出ていたからです。 『売国奴よ!』(廣済堂出版・1400円)だ。サブタイトルは「魂を売るべからず」だ。過激なタイトルだ。2001年11月19日に出版されている。ということは、HPが始まって2年間をまとめたんだ。じゃ、2001年11月〜2003年9月までの2年間は空白地帯だ。
まあ、いいや。『売国奴よ!』の話だ。いい本だし、そこそこ売れた。2刷にはなったんだろうが、今は多分、在庫はないだろう。ネットの古本屋で買ってもらうしかない。この時は、管理人の赤坂細子さんが全面的に編集をしてくれた。チョイスするのも、どう並べるのかも、全てだ。ありがたかった。僕は「前書きにかえて」と「あとがき」を書いただけだ。楽だった。赤坂さんには本当にお世話になった。
それに、本の帯も、世界的ミュージシャン・喜納昌吉さんに頼んでくれた。喜納さんは超多忙な人なのに、ゲラを読んでくれ、こんな文を書いてくれた。
「テロと報復、それは人類の無知によってもたらされた」
この本の目次を読むと、『愛国者の座標軸』よりも、グンと政治的だ。そしてストレートだ。直球勝負だ。ちょっと目次を紹介してみる。
ここでは、「護憲は今や反日なのだ」「我々は潜在的アイヒマン」「奄美に沈んだ戦艦大和の叫び」などが書かれている。
ここでは、凄いことを言っている。「憲法は英語で教えたらいい」「悲壮感あふれる政治はもうやめよう」「嫌煙権を憲法に認め、うるさい携帯電話を取り締まれ!」
(今は、もうこんな事言えないね。大昔の提言のようだ)。
(あらあら、自分が「売国的」なことを言ってるよ)。
「ロック版・君が代。その後」「君が代はガイジンの作った曲」「国歌は時代とともに変わるべし」「隣人のアジアを敬え」「北朝鮮はいい国?」
ここでは、「東条英機神社を造れ!」「若者たちよ!尽忠報国を」「国会議員よ、まず君たちが国を愛せ!」。(今よりもハードで、ストレートだ)
「日の丸のデザインを考えてみる」「少年時代の『君が代』秘話」「英語版『君が代』を作ろう」「国歌を合体したら、どうなる」「君が代を合体国歌に!」「タイの二種類の国歌」「学生時代の『日の丸秘話』」
(ゲッ!あの恥ずかしい話も出てるよ。学生時代、国旗掲揚の時、あんないやらしい事を考えていたなんて…。今じゃ、とても言えない。でも、書いちゃってるよ。
ある左翼の集会で、オバさんに最近もからかわれたよ。「あれ読みましたよ。国旗掲揚の時、あんなことがあったなんて…。オホホホ…」と。若い女性に読まれたら恥ずかしいけど、オバさんじゃいいや。だから、若い人は、昔のHPを探して読んじゃダメだよ。「18禁」だよ。「25禁」だよ)。
(今とは違うね。今ならこんなこと言わんぞ)。
「オーストラリアに学ぶ、新国歌誕生」(うん、これは面白い話だった)。
「ガイジンの右翼観は『Oh! Terrible!』」(あっ、櫻井よし子さんの話が出てるよ。彼女が今のようにハードな論客になる前だ。さらに、日本テレビのニュース・キャスターになる前だ。だから25年か30年ほど前じゃないのかな。その頃、櫻井さんは、「クリスチャン・サイエンス・モニター」の記者だった。その時、僕は取材された。櫻井さんは、普通の記者だった。「右翼って、こわいですね。なんて言いながら取材していた。でも今じゃ、櫻井さんの方が僕よりもずっと右翼だ。ともかく、昔の櫻井さんの話を書いている。貴重だ)。
「意外な日豪両国歌の共通点」(うん、これは面白い話だった。オーストラリアの記者に取材された。せっかくだからと思い、こっちからも逆取材した。とても面白い話を聞けた。それを書いた)。
「官僚どもに民間活力を!」がラストだ。
今、読んでみても、結構楽しい。「一つの物語」としてまとまっている。赤坂さんのおかげだ。「あとがき」を読んだら、この本のタイトルについて書いてあった。
出版社側から出された案は、『日の丸弁当・君が代行進曲』だったという。こんなふざけたタイトルじゃ、右翼に襲われるよ。もっと真面目に考えてよ、と僕が抗議し、じゃ、ハードに決めようと、『売国奴よ!』になったらしい。
でも、今考えると、『売国奴よ!』よりも、この『日の丸弁当・君が代行進曲』の方がずっといい。
じゃ、作品社で、このタイトルで出してくれないかな。そんなら、55編の全てに、「単行本収録にあたってのコメント」を書くよ。そして、青木さんに又、「脚注」を書いてもらったらいい。いや、99年から03年の4年間に書いたものを、もう一度、見直してもらって、50編を岩崎君に選び直してもらってもいい。大体、「日の丸・君が代」についてこんなに真面目に、そして、しつこく考えた本はない。その辺の事情は「あとがき」にもこう書いている。
〈本文でも重点的に論じている「日の丸・君が代」についての考え方は、僕の生涯のテーマだ。若い頃から掲揚し、歌った「日の丸・君が代」は僕そのものなのだ。愛しているし、ときには喧嘩もした。長年連れ添った女房みたいなものだ。
だからこそ、こんな風に軽く書けてしまうのかもしれない。本当に自分で経験し、理解したことだからこそ、このことで僕の右に出る人はいないね、と自負している。(右翼の右に出たい人はいないか)〉
「日の丸・君が代」は女房だといってるよ、この人は。凄いことを言う。じゃ、本はなんなんだ。「本は女房だ」と前に言ってたよ。「女房になりたいなら、本になれ!」と昔は女に言ったらしい。いや、この人じゃない。学生道場の川島先輩だ。でも、本を大事にすることにかけては同じだ。じゃ、どうする。どちらが本妻で、どちらが二号か。うーん、困ったな。決めかねている。今年一年、考えさせてよ。
今、パラパラと、『売国奴よ!』を見ていたら、「君が代を合体国歌に!」で目がとまった。奇妙なことを書いている。とんでもないことを言っている。早稲田大学では、校歌は「都の西北」だ。しかし、「第二校歌」といわれるものがある。「人生劇場」だ。早大生の宴会では、この「第二校歌」の方がよく歌われている。
又、「早稲田ナショナリズム」という言葉がある。右も左も、「早稲田」ということでまとまる。国家より強力なナショナリズムかもしれない。故小渕恵三さん(早大出身。私の合気道の先輩でもある)は、国旗国歌法案を成立させ、ゆくゆくは「都の西北」を日本の国歌にしようとした。と、この人は断言する。いや、推測する。でも、そうなったら、愛国心と愛校心の板挟みに僕は苦しんでしまう。じゃ、そんな人の為に、二つを合体させたらいい。こんな風に。
〈都の西北 君が代は 早稲田の杜に 千代に八千代に…〉
ヒェー、凄いことを書いている。さらに、こう書いている。
〈どうだろう。と冗談はさておき、国歌の「合体」は現実にあるのだ。南アフリカ共和国の国歌がそうだ。
公の場では二曲を組み合わせて演奏する。1994年の新政権発足後、白人政権時代の旧国歌「南アフリカの声」と黒人解放運動の歌「アフリカに神の加護あれ」を合体させて一曲に作り上げたものだ。年々この「合体版」が普及してるという。
普通、新政権になったら、前の旧い国歌は捨てて、新しい国歌を歌うと思うのだが、これは変わっている。「合体」した国歌が本当に存在していたのだ。
日本でも考えられるかも知れない。ロック版「君が代」なんていうレベルじゃなくて、「君が代」と「インターナショナル」を合体させてしまうとか。
でも、そうなったら「皆、戦おう!」という気分になるからまずいか。あくまで「君が代」は戦争否定の歌なのだから〉
へー、面白い提言をしている。それに、これは全く忘れていた。「君が代博士」といわれる位、世界の国歌に詳しい人なのに、だらしがない。又、キチンと勉強し直して、書いてみたい。今年のテーマだね。
…と、「新年の誓い」を立てたところで今週は終わりにすっか。アデュー(adiew)。「さよなら」というフランス語じゃよ。12月29日に、フランス「国民戦線」No.2のゴルニッシュさんに会った。その時、ちょっとフランス語を使ったもんで。その時の話は近いうちに書く。今週は写真だけを載せましょう。