「国民の皆さん!」という言い方は気になる、と近藤日佐子さん(ソプラノ歌手)が言った。政治家はいつもこう言う。「国民の皆さんの為に…」「「国民の皆さんと共に…」と。まるで自分は国民でないかのようだ。
確かに、そう言われればそうだ。常石敬一さん(神奈川大学教授)は、「そういえば、アメリカではオバマもヒラリーも、“皆さん!”と言っている。“国民の皆さん”なんて言い方はしない」と言う。「皆さん」だけでいいのに、日本の政治家は、わざわざ「国民」と付ける。それによって自分は「お前たち国民」とは違う。エリートだ。選良だ。そんな意識があるのかもしれない。こんなふうに、「国民」とわざわざ言うのは日本だけだろうか。
「多分、そうでしょうね」と伊藤成彦さん(中央大学名誉教授)は言う。日本には、「Ladys and Gentlemen!」という言葉がないからでしょう、と言う。でも、「皆さん」でいい。「People」でいい。しかし、「国民」というと、「national people」のように思える。しかし、そんな言葉はない。
「いや、ナショナル・ピープルじゃない。これからはパナソニック・ピープルになるんですよ」と常石さん。皆、ドッと笑った。松下電器、ナショナルが、その呼称を捨てて、「パナソニック」に統一した。それにからめて言ったのだ。
「松下、ナショナル、パナソニック」と三つも呼称があっては外国に売る時に紛らわしい。「ソニー」に負けてしまう。それで一本にした。元々はナショナルは洗濯機などの家電に使い、パナソニックは音響関係で使い分けていた(パナは「普遍的」で、ソニックは音だ)。その全体の会社が松下だ。松下幸之助が作ったし、「松下政経塾」もあった。
パナソニックは元々、音響だけなのに、(音に関係のない)蛍光灯、洗濯機、冷蔵庫も「パナソニック」になる。だったら、音響を含め、全製品を「ナショナル」にした方が分かりやすい。事実、そういう案もあった。しかし、製品は全世界で作っている。又、世界中に売っていかなくてはならない。その時、小さな「民族・国家」を意味する「ナショナル」よりは、「普遍性」を意味する「パナソニック」の方がいい。そう判断したのだろう。グローバリズムの前にナショナリズムは負けたのだ。これからの日本の、いや世界のグローバルな〈資本主義〉を象徴する出来事だと思う。
さて、オバマとヒラリーだ。2人とも、「皆さん!」と呼びかけている。「国民の皆さん」とは言わない。「国民」はない。でも、呼びかけられた人は、抽象的な「人」ではない。アメリカ人のはずだ。「アメリカの人」「アメリカの皆」を意識する時は、どう言うのだろうか。「その時は“American”と言いますね」と伊藤成彦さん。そうなのか。
我々だって、「私たち日本人は」と言うことはあるが、何か特別の時だ。外国人とテレビ討論をしてる時くらいだ。同じように、「日本人の皆さん!」と呼びかけることはない。しかし、政治家は、「日本人の皆さん!」と同じ意味のことを言っている。「国民の皆さん!」と言ってるからだ。奇妙な話だ。私は国民の皆さんから選ばれて政治家になった。選ばれたのだから、もう、あんたら一般国民とは違う。選良だ。そういうエリート意識だろう。だから、「国民の皆さん!」と呼んでるが、本当は「選挙民の皆さん!」と(心の中では)言っているのだ。投票するだけの人なんだよ、お前らは…と。そう思っているのだ。
「皆さん!」でいいんだ。「国民の皆さん」はやめてほしいね。いくら慣用句になってるとはいえ。アメリカにならって、「皆さん!」でいい。いいことはアメリカの真似をしてもいい。どうしても「国民(ナショナル)の皆さん!」と言いたいのなら、これからは、「パナソニックの皆さん!」と言ったらいい。
「国民の皆さん!」と言った時、自分は国民ではない。「下々の国民」からポンと飛び出して、「国民」を見ている。そんな思い上がりがある。これは、「愛国心」と似ている。三島由紀夫は、「愛国心」という言葉が嫌いだと言った。皆が住んでいる共同体の「国」から自分一人がポンと飛び出して、この「国」を可愛がる。いわば、ペットや玩具のように可愛がる。そんな思い上がった響きがある。そんな意味のことを言っていた。詳しくは私の『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)を見てほしい。
実は、この思いは単に三島の文学者としての特異な思いではない。河合塾の漢文の先生に聞いたら、昔は、「愛国心」という言葉はなかったという。近代国家が出来て、「我々は国民だ。国家の一員だ」と思い、「いや、我々こそが主権者だ」という意識が生まれてから出て来た言葉だという。せいぜい、100年か150年前に生まれた「新しい言葉」だ。
じゃ、「国を愛する」という言葉が全くないかというと違う。王様、君主や独裁者は、「国を愛した」という。つまりこれは「自分の国」なのだ。「自分個人の国」だ。ちょうどペットや玩具が「自分個人の物」のように。人民も、国も「君主の所有物」だった。だから、大切に思うし、愛するし、頬ずりもする。もうすぐ節分だから接吻もする。恵方巻も食べる。だから、愛国心とは「君主の特権」なのだ!
人民は「君主の所有物」だから、「その国の一員」という意識はない。勿論、「この国を愛する」なんて意識を持ちようがない。「この国」は君主のものだし、人民のものではない。そんな時代が何千年と続いたのだ。だから、「国を愛する」には、(君主の時代の)どこか「特権的」で、「思い上がった」臭いがついて回る。これは、愛国心のDNAだ。
「人民の国家」になったのは、つい100年か150年前だ。戦争や内乱、革命を経て、「君主」はいなくなり、国は「人民」のものになった。この国は我々、一人一人のものだ。大切にしよう、と国民は思った。そして、「愛国心」が言われた。
でも、それも、慣れてくると、「下々の者たち」と一緒に愛するということに嫌気がさしてくる。特に政治家は、自分だけは「気高い愛国心」を持ってると思いたくなる。愛国心のDNAが目覚めたのだ。だって、愛国心は君主だけのものだったのだし、「俺は愛国者だがあいつは違う」とか、「あいつは愛し方が足りない」「売国的だ」「非国民だ」と言って、「愛国心」を独占しようとする。かつてのエリート意識が目覚めるのだ。
だから、「国民の皆さん!」と政治家は呼びかけるのだろう。「国や全体」を下に見て、自分は(君主)のように思って、「国民」を愛し、「国民」の為に、いい政治をやってやろう。そう思うのだ。はっきりと思わなくても、内心にはある。内心にはなくても、(君主のものだった)「愛国心」のDNAが政治家を内側から突き上げて、言わせているのだ。
だから、「自分は愛国者だ」と公言する人間や、「国民の皆さん!」と呼びかける政治家は、意識は同じなのだ。日本がいわゆる近代国家になったのは明治維新以降だ。政府は「国民の皆さん」の為に、いい国を作り、いい政治をしなくては、と思った。一方、これに対立する自由民権運動は、「愛国社」「愛国公党」を作った。又、右翼のルーツ・玄洋社も、自由民権運動として始まった。
「国民の皆さん!」から始まって、遠大な話になった。近藤日佐子さん、伊藤成彦さん、常石敬一さんたちと話し合ったのは、何もテレビか雑誌の討論会ではない。目黒でお茶を飲みながら、ごくごく軽い「茶飲み話」の中で出た話だ。
今年の1月11日(金)だ。午後3時から5時まで目黒雅叙園で、「JR総連 2008年新春賀詞交歓会」があった。終わって帰ろうとしたら、「鈴木さん、お茶しない?」と近藤さんに誘われたのだ。雅叙園はともかく豪華な所だ。元々結婚式場だが、中を見るだけでも楽しい。巨大な建物の中に、茶室の茅葺屋根の家が建っている。巨大な滝がある。まるで、万博のパビリオンのようだ。そんな中の茶室で、お話をした。私は、「抹茶セット」を頂きました。「右翼のくせに可愛い!」と言われた。「右翼のくせに」だけは余計だ。
「憲法24条のCDを有難うございました」と近藤さんに言われた。「あれはよかったですね。感動しました。何度も聞いてます」と言う。
このHPや「創」にも書いたが、去年の4月に私はニューヨークに呼ばれ、憲法のシンポジウムに出た。その時、「憲法24条」を書いたベアテ・シロタ・ゴードンさんも一緒だった。終わってから、「日本には憲法24条の歌があるって聞いたけど知らない?」と聞かれた。知らない。でも、必死で探した。きっと反戦フォーク歌手が歌ったのだろうと思って探したが分からない。いろんな人に聞いたが分からない。そして空しく半年が過ぎた。
去年の9月に、九条連主催の「9条フェスタ」があり、私も出た。その時、常石さんが、「知ってるよ」と言って一節を歌ってくれた。「守屋浩が歌ってたと思うよ」と言う。それで必死に探して見つけた。1960年に出ていた。かなりコミカルな歌で、「24条知ってるかい」という歌だ。
10月にベアテさんが来日した時、渡したら、喜んでいた。9条フェスタで憲法の歌を歌った近藤さんにもCDを焼いてあげた。常石さんは、だから、恩人だ。
このお茶の時、意外な話を聞いた。常石さんは、元学生運動をやっていたという。白髪の紳士だから、私より上と思っていた。「名探偵コナン」に出てくる博士に似ている。「ダーウィンが来た!」のヒゲ爺にも似ている。だから、60年安保かな、と思ったら、「何を言ってるんですか。昭和18年うまれですよ」と言う。私と同じ年か。白ヘルで、中核派でしたよ、と言う。「でも今じゃ、革マルだと思われてる。まいるよ」と言う。JR総連やJR東労組の集会に出てる人は、「革マルだ!」と言われる。伊藤成彦さんもそう言われる。じゃ、私だって、JR東労組には毎回のように出てる。でも「革マルだ!」とは言われない。淋しい。皆、言ってくれよ!
「何で中核派に入ったんですか?」と常石さんに聞いたら、「実は、奥浩平と中学で同級生だったんです」と言う。「エッ?あの『青春の墓標』の?」と驚いた。あの本は、当時、ベストセラーになった。当時の若者は全員読んだ。革共同に入った男女が、その後、組織の分裂のために、別れ別れになる。奥浩平は中核派に、彼女は革マル派に。そして、思想と愛を巡って、2人は愛し合いながらも、喧嘩し、論争する。そして、とうとう、奥浩平は自殺する。その愛と思想闘争の記録が『青春の墓標』だ。この本は、何と、文芸春秋から出ている。そして、何と、中核派大幹部の北小路敏が「解説」を書いている。今ならとてもありえない話だ。学生運動版『ロミオとジュリエット』だ。
その奥浩平と常石さんは同級生だった。お互いに話し合い、影響し、され合った。目黒区立6中だった。「じゃ、奥浩平も昭和18年生まれなんですか?」「そうです」と常石さん。
知らなかった。一方、左翼とは対極にいた愛国党の山口二矢も小森一孝も、昭和18年生まれだ。山口は浅沼稲次郎・社会党委員長を刺殺し、その後、自決した人だ。小森は『風流夢譚』事件で中央公論の社長宅を襲い、お手伝いさんを殺し、奥さんに重傷を負わせた人だ。
これらの人々が皆、昭和18年生まれだ。「そうです。だから昭和18年生まれの人は、皆、凄い奴ばっかりですよ」と常石さんが言う。ウーン、そうなのか。
目黒区立6中の2年、3年、奥浩平と常石敬一さんは同級だった。真面目だし、頭はいいし、いい男だったという。「彼には恋愛についてのトラウマがあるんですよ」と常石さん。奥は、勉強が出来たし、いい男だから女子にもモテた。そして、熱烈な片思いの少女が自殺した。それが、奥浩平にはトラウマになってたという。知らなかった。同級生でなくては分からない。
常石さんは大学は都立大だ。奥浩平は横浜市立大学だ。期せずして、同じ中核派で運動をすることになる。横浜にはもう一つ、大きな大学がある。横浜国大だ。国大に対し、市大の奥はコンプレックスを持っていた。国大には、後に、全学連委員長になった秋山勝行(中核派)がいた。彼にも奥はコンプレックスを持った。秋山は小柄だが、情熱的な男だった。学生時代、私はクラスの友人(中核派だったらしい)に誘われて、全学連大会に行き、秋山の演説を聞いた。火を吐くような激しい演説だった。ただ、彼が演説中に、「中核派魂を発揮して…」と言った時、会場の所々から、「ナンセンス!」という声が上がった。他党派がヤジを飛ばしたのかもしれない。あるいは、中核派の人間が、「魂」という「精神的、ブルジョワ的」言葉を使ったことを批判したのかもしれない。よく分からない。
この『青春の墓標』の少し後に、やはり学生運動の中で自殺した高野悦子の『二十歳(はたち)の原点』が出て、これもベストセラーになった。『がんばれ!新左翼』(エスエル出版会)の中で、その話は書いた。高野は『青春の墓標』を愛読し、奥浩平を尊敬していた。いや、愛していた。だったら2人は結婚したらよかったのに。情のない「革マルの女」なんか諦めて、高野と一緒になったら奥浩平は幸せだったろう。高野も喜んで、「キャー!私、奥さんの奥さんよ!」と叫んだことだろうに。
ところがそれは不可能だ。奥の死んだ後に本は出て、それを読んで高野は知るのだし。悲しいが、清らかな、ひたむきな青春だった。高野の本は文庫本で今でも手に入る。奥のはない。ネットの古書店ではあるだろう。この頃は、素晴らしい「革命文学」「青春文学」があったのだ。その後はない。
いや、最近になって、少し出てきた。早見慶子さんの『I LOVE 過激派』(彩流社)、木村三浩氏の『「男気」とは何か』(宝島社新書)、和光晴生氏の『赤い春』(集英社インターナショナル)だ。それに最近、ブント代表だった荒岱介さんが『新左翼とは何だったのか』(幻冬社新書)を出した。いいことだ。ブントは以前、「戦旗派」といった。過激派だ。早見慶子さんも、見沢知廉氏もここに所属していた。荒さんはこの2人を育てたのだ。いや、2人が活動していた時は、「雲の上の存在」だった。
又、荒さんは、よど号グループの田中義三さん(昨年1月死去した)を社学同に入れた時の「保証人」だった。田中さんが熊本刑務所に移管される時、「荒さんと会いたい」と言うので、私が連絡をして、連れて行った。「もう生きて会えるか分からない」と田中さんが弱気になって言うと、「何を言ってるんだ。12年なんてアッという間だよ」と荒さんが軽く言っていた。「他人のことだと思って…」と田中さんも笑っていた。
荒さんが前に『破天荒伝』を出した時は、私は「週刊文春」に書評を書いた。とてもいい本だった。自分たちのことを客観的に見ようとする〈眼〉がある。この本もいい。荒さんとはぜひどこかで話し合ってみたい。ロフトでもいいが、ちょっと無理だろう。前に、ロフトで2人で話したら、〈反対派〉の人が乱入し、大騒ぎになった。だから、どこか別の所でやってみたい。
さて、伊藤成彦さんだ。目黒雅叙園でお茶を飲んだ人だ。「今年は金嬉老事件からちょうど40年で、いろいろ取材が来てるよ」と言う。あの事件の時、金嬉老の立て籠もる寸又峡に駆けつけて、説得したのが伊藤さんだ。他にも、山根二郎弁護士などがいた。保守派の新聞からは、「何を馬鹿なことを」「殺人犯に賛同した進歩的文化人め!」と罵倒された。ところが、そんな簡単なことではない。前に話を聞いて、「月刊TIMES」の連載に書いたことがある。
「金嬉老には是非、会ってみたいですね。行きましょうよ」と言った。人を2人殺して、立て籠もり、「朝鮮人差別」を糾弾した。それまでも立て籠もりはあるが、〈思想〉を訴えた立て籠もりは初めてだ。1968年のことだ。この2年後の「よど号」ハイジャックや、三島事件にも影響を与えている(と私は思う)。
この時、逮捕され、無期懲役が確定し、熊本刑務所に行く(田中義三さんもここだ)。しかし、平成11年に異例の措置で韓国に帰国。韓国では「英雄の凱旋」扱いだった。しかし、その後、12年に交際相手の夫を殺害しようとした殺人未遂の疑いで逮捕され、又、刑務所に入った。今は出たという話だが、詳しいことは分からない。
「会えるのなら韓国まで行きたい」と伊藤さんは言う。「僕も連れて行って下さい」と頼んだ。