生まれて初めて「鏡開き」をやりました。感激しました。ああいうのは、功成り、名を遂げた人がやるものでしょう。私のように功もなく、名もない人間がやるなんて、ないでしょう。でも、東京から駆けつけた、という事だけで、この〈栄誉〉を担わせてもらいました。ありがたいです。
それに、市長さん、県会議員さんと偉い人ばかりが祝辞をする中で、私もさせてもらいました。私自身が「功労者」として表彰されたような気分でした。嬉しかったです。
2月2日(土)の午後6時半です。山形県米沢市で行われました。「鳥海茂太氏 米沢市功労者表彰記念祝賀会」です。それに出席してきました。さらに祝辞をやり、鏡開きまでやってきました。「鈴木史」の中でも晴れがましい1ページです。場所は「東京第一ホテル米沢」でした。「東京」と「米沢」が同居してますが、地方には、よく「第一ホテル」というのがあり、紛らわしいので、わざわざ「東京第一ホテル」にしたのでしょう。その米沢分室です。
鳥海さんは、米沢市の「功労者」だけでなく、民族主義運動の「功労者」であり、日本の「功労者」です。私は祝辞の中で、そんな話をしました。
一水会が出来たのは1972年ですが、初めは、学生運動家の「OB会」でした。それが〈行動的〉になったのは、野村秋介さん、鳥海茂太さんと知り合い、「新しい日本を創る青年集会」運動を始めてからです。そのスタートが1976年です。
このお二人は5.15事件の三上卓さんの門下生です。「若い人に訴え、新しい運動をやろう!」と始めたのです。「東北の青年は純朴だから、まず東北から始めよう」と二人の考えは一致しました。勿論、「純朴な東北人」の私も喜んで参加しました。
ですから、スタートは米沢市でした。それから仙台、会津若松、福島…と、東北地方を回って集会をやりました。又、合宿をやりました。
この集会、合宿が基になって、いわゆる「新右翼」運動は軌道に乗ります。だから、鳥海さんは、民族派運動の「功労者」でもあります。
なぜスタートが米沢かというと、鳥海さんの地元だからです。それに、鳥海さんが、そこで市会議員をやっていたからです。議員なら、地元に信用があるし、集会をやったり研修会をやったり、そういうノウハウもある。慣れている。そう思って頼んだのでしょう。1976年6月米沢で第一回目の「集会」をやりました。何と32年前です。
この1976年というのは大事な年です。記念すべき年です。私たちも、いや日本そのものも、どうしていいか分からない年だったのです。その時、山形から新しい運動を始めたのです。1970年前に左右の学生運動は終わっていました。そして、皆、〈戦場〉を引き揚げていました。就職したり、家業を継いだり、大学院に進んだり…と。私も、産経新聞に就職しました。でも、着実に運動を続けていた人々はいたんですね。1970年3月に「よど号」ハイジャック事件があり、11月に三島事件がありました。
この三島事件のあと、以前に右派学生運動をしていた人々が再び集まります。「東京マスコミ研究会」を経て、1972年に一水会を作ります。でも、まだ、私は産経の社員でしたし、一水会は「サラリーマンのサークル活動」でした。略して、「SS」と言われました。(本当は言ってないけど、今からそう呼ぼう)。SSの鈴木だから、「SSS」(スリーエス)と呼ばれていました。
この1972年にはあの血腥い連合赤軍事件があります。1974年には「東アジア反日武装戦線〈狼〉」の連続企業爆破事件がありました。そして私は、この74年に産経をクビになり、この〈狼〉のことを取材して本にしました。『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)です。私の処女作です。男なのに処女作です。
でも、この本は、右翼には総スカンでした。唯一、評価してくれたのは野村秋介さんでした。この年、千葉刑務所を出たばかりてした。そして、「新しい日本を創る青年集会運動」をやろう、となったのです。でも、この翌年(1977年)は、あの経団連事件が起こります。野村さん、伊藤、西尾、森田の4人が参加します。これに刺激され、「新しい日本」の運動も、より活発になります。右翼の先生だけでなく、新左翼の太田竜さんなども講師にして、福島や山形の温泉で合宿をやりました。(太田さんは79年8月福島合宿に来てくれました)
その後、ずっと、この「新しい日本」運動は続き、その中から、地方議員になったり、教師になったり、ライターになったりした人が出ます。鳥海さんはだから、そうした人材を輩出した大本の人でしたし、新しい青年運動を作った「功労者」だったのです。
鳥海さんの家は親子三代にわたる「勤皇の志士」です。おじいさんは自由民権運動をやり、お父さんは5.15事件の三上卓さんと同志でした。そして戸川幸夫の直木賞受賞作「高安犬(こうやすいぬ)」の主人公です。最後の日本犬である高安犬を戸川さんと共に探し、見つけ、何とか子孫を残そうとします。鳥海茂太さんが子供の頃、(昭和11年の2.26事件の頃)、その高安犬にまたがってる写真も前に見せてもらいました。
又、2.26事件の時に、この決起部隊は「天皇の軍か否か」「決起は正しいか否か」をめぐって戸川さんは鳥海さんのお父さんに詰め寄り、質問します。『ひかり北地に』(郁朋社)にはその時の緊迫した情況が書かれています。戸川は「動物作家」といわれ、動物について書いた小説が圧倒的に多いのですが、この本だけは異色です。かなり政治的なことが書かれています。
『高安犬』も、動物物語で、ここに出てくる「木村屋のパン」の主人が鳥海さんのお父さんです。実際、パン屋でした。でも思想家です。そのことも、きちんと描いてます。1976年の米沢集会の時も、このお父さんは来てくれました。もっともっとお話を聞いておくべきだったと思います。
そんな家庭環境もあったのでしょう。鳥海茂太さんは拓大に入ります。そこで多くの憂国の士と出会います。三上卓さんは子供の時から指導を受けてました。血盟団事件に参加した四元義隆さんにも知り合い、四元さんが経営する建設会社に鳥海さんは勤めます。そして、地元・米沢に帰ります。
1970年に三島事件があります。何とかしなくては、と思ったのです。そんな時、地元の仲間たちに推されて市議会議員選挙に出ます。そして見事に当選します。1971年の事です。それから、7期28年にわたって市会議員をやってきました。その間、一度は落選したこともありましたが、見事に返り咲き、長きにわたって市政に尽力しました。案内状にはこう書かれています。
〈鳥海茂太氏には米沢市議会議員として七期二十八年の永きにわたり 地方自治の運営に携わり 米沢市都市計画議会会長として都市基盤整備・ 重要事業の推進に尽力され 二〇〇四年五月 全国市議会議長表彰など受賞し市政の進展に寄与された功績により この度 米沢市功労者表彰を受けられました ご本人はもとより私どもにとりましても ご同慶の至りでございます〉
(米沢市民ではない)私にとっても勿論、ご同慶の至りでございます。そうだ。この祝賀会には、鳥海さんの小学校の先生も出席された。何と100才だ。鳥海さんが今、74才だから、26才上だ。小学3、4年の担任だった。凄い。私もご挨拶させてもらったが元気だ。なんせ今でも自分で車の運転をしている。「そろそろ免許証を返してくれねえべが…」と警察は言うんだが、「やんだ(=No!」と言って、毎日、運転している。偉い人だ。
「私が初当選した日、先生はお祝いの色紙を届けてくれました」と鳥海さんは「受賞者挨拶」の時、言ってました。「現代の西郷になれ!」と。うーん、いい話だ。鳥海さんは、恰幅もいいし、悠然としている。これは西郷だったのか。
東北人だから、純朴だ。駆け引きがない。小さなことにこだわらない。でも東京や関西の人には、「動きが鈍い」と見えることもある。「新しい日本」の合宿の時も、鳥海茂太(とりうみ・しげた)さんに対し、「トド海さん」とか、「モタ、モタさん」なんて言う人もいた。「大西郷に対して、失礼なことを言うな!」と私は叱りつけておりました。
『大西郷遺訓』にこんな言葉があります。
〈生命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は、御し難きものなり。然れども此御し難き人に非ざれば、艱難を共にして国家の大業を計る可からず〉
この一節を引いて、「このような人になりたいと思い、努力してきました」と鳥海さんは言ってました。いい話だ。
この後、「米沢市長は鈴木さんの後輩ですよ」と紹介してくれた。安部三十郎さんで、早大法学部卒だ。私よりも10才若い。名前がいい。椿三十郎みたいだ。まさかあの映画を見て付けたんじゃないだろう。じゃ、「30番目の子供ですか」と聞いたら、「違います。そんなに兄弟はいません」と言う。そうだよね。何でも、由緒ある名前で、代々、三十郎を名乗っているという。そういう慣習が米沢にはある。だから、子供の時は違ったのだが、大人になって、正式に改名届を出して三十郎にしたという。じゃ、元々のルーツの三十郎さんはどんな理由で付けたのだろう。三十番目の子供か。あるいは父親が30才の時の子供か。ちなみに軍人の山本五十六は、父が56才の時の子供だ。
「市長さんの頃は早大はもう静かになり平和だったんでしょうが、私が入った時は学生運動が荒れ狂ってた時でして…」と私は話しました。祝辞の時です。市や県の偉い人ばかりがいる。だから、「右翼」とか、「立て籠り」とか「自決」「テロ」「リンチ」などという危ない言葉は使わないようにして、言葉を慎重に選びながら鳥海さんとの付き合いを話したわけですよ。
「1960年代後半の嵐の時代が過ぎ、70年代前半は、三島事件や左翼のゲリラ事件がありました。そのあと、1976年に米沢で集会、合宿をやり、この国のことを考える人が集まった」と話をした。その時、まず第一に行ったのは、米沢の勤皇の志士・雲井龍雄の墓参りでした。又、山形には、石原莞爾、大川周明などの偉大な思想家も生まれている。『大西郷遺訓』も庄内藩の藩士が西郷のところに行って語ってもらったものだ。
「山形出身の偉大な志士、思想家に学んで、この日本の行方を考えようとしたのです。それが『新しい日本』の運動でした」と私は言いました。
そして去年は、直江兼続(なおえ・かねつぐ)の取材で、米沢に来た。その話もした。直江は、上杉藩の智将です。兜の「前立て」に、何と「愛」と書かれている。世にも珍しい武将です。『街道をゆく』で司馬遼太郎はこのことに触れています。それ以来、ぜひこの兜を見てみたいと思い、去年、来たのです。
司馬が米沢に来た時、司馬を案内したのは尾崎周道さんという人でした。でも鳥海さんに聞いたら、この尾崎さんは三上卓さんの同志で、
野村秋介さんとも会ってるといいます。鳥海さんの先輩です。三上さんが戦後、選挙に出た時は、尾崎さんも選挙応援について回りました。
そうした貴重な話は『月刊TIMES」の私の連載に詳しく書きました。
去年米沢に来た時は知らなかったのですが、来年のNHK大河ドラマは、実はこの直江兼続が主人公です。もうすぐロケも始まるそうです。
だから、街中どこでも、大河ドラマ『天地人』と、直江の旗が立てられています。市会議員さんも会社の人も「愛」と書かれたバッチをしています。
「直江兼続」一色です。
兜に「愛」と書いた、というのが受けてるようです。「愛の精神で藩政をやった」というわけです。でも、ちょっと違います。上杉藩は、藩祖・上杉謙信以来、信心のあついところです。神仏をあつく信じていました。上杉謙信は生涯、女を近づけず、結婚もしませんでした。私と同じです。闘いの前には必ず神仏に祈り、「義のある闘い」だと認められて初めて出陣しました。だから、認められれば、思い切ったこともやったのです。民への「愛」だけではありません。
又、この「愛」は、「人民への愛」ではなく、どうも「軍神・愛染明王」のことだといいます。あるいは「軍神・愛宕権現」だといいます。去年も行きましたが、今回も、パーティの翌日、鳥海さんと又、「米沢市上杉博物館」に行ってきました。直江さんに会って来ました。
「記念祝賀会」では、市長さんはじめ、偉い人ばかりが祝辞をし、その中に、私も祝辞しました。皆、「おばんです」と言って話し始めます。「オラがしゅぐじ(祝辞)だなんて、おしょしい(=恥ずかしい)ごと」と言ってる人もいました。純朴でいいですね。私も、おしょしげんど、「おばんです」と言って挨拶しようと思ったのですが、口がいうことをききません。東京生活が長いので、すっかりシティ・ボーイになってしまったんですね。東北弁なんか一言も喋れない体になってました。
祝辞のあとは、地元のバンドのライブがあり、又、いろんな人に紹介され、話をしました。東北学院出身の人もいました。拓大の卒業生も多く、皆で「蒙古放浪歌」を歌ってました。「拓大の同志を紹介すっから」と言われ、皆と名刺を交換しました。その中に、亀井商店の人がいました。志村真満さんです。「エッ、うちの兄貴も亀井にいました」と言ったら、「あっ、アメリカ支店長の鈴木和男さんですか。お世話になりました」と言ってました。
この日は、このホテルで泊まり、次の日、鳥海さんが街を案内してくれ、上杉記念館にも行きました。という話を書いたね。街には直江と「愛」ののぼりが、いたる所に立ってます。そして、米沢牛ののぼりも。米沢牛の産地なんです。
ここがその米沢牛の発祥の店ですよと、言って「登起波」の店に寄り、米沢牛のおみやげをもらいました。何でも明治27年に作られたそうです。当時、日本では西欧の文明を取り入れようと、「お雇い外人」を沢山、引き受けました。東大のベルツなどは有名で、彼らへの給料だけで東大の経費の半分以上だったといいます。
「米沢でもお雇い外人が来たんです」と鳥海さん。「えっ!こんな田舎にも?」と驚きました。だって、メッチャ高い金を出したわけでしょう。それも高校の英語の先生として呼んだんです。ダラス・ヘンリーという人でした。この人が「牛肉を食べたい」というので、米沢の牛を料理したら、「オー!ベリーグッド!」となったんです。それ以来、米沢牛は「日本一うまい」ということになりました。ヘンリーさんのおかげです。
米沢では、倹約で藩を立て直した9代藩主・上杉鷹山(ようざん)も有名です。又、近年では学者の我妻栄、建築家の伊東忠太(築地本願寺を造った人)、童話作家の浜田広介などが有名です。それと鳥海茂太さんです。
米沢は雪、雪、雪の銀世界でした。昼食は蕎麦屋さんで「十割蕎麦」を頂きました。鳥海さんの息子さんの隆太氏も一緒でした。茂太さんの後を継いで市会議員をやってます。若いのに人望もあり、市議会の最大会派の代表です。
「この辺は米沢市のはずれで、山が近いので雪が多いのです」と隆太氏が説明してくれました。「雪はいいねー」と私。子供の頃、秋田県にいたので雪というと、子供時代を思い出し、懐かしくなり、ロマンチックな気分になります。小学生の頃、雪の中を学校に行ったなーとか。夜、雪明かりの中で、ひとりで習字を習いに行ったなーとか。「かまくら」で甘酒を飲んだなーとか。いろいろ思い出します。
それに雪は暖かいのです。変な話ですが、そうです。勿論、吹雪は別です。でも、深々と雪が降り、見渡す限りの銀世界。厚く雪に囲まれ、その中に、ポツンポツンと家がある。墨絵です。綿にくるまって家があるような感じです。なんか、暖かいのです。汚れたものも全て、覆い尽くしてくれます。そんな白い、清浄な世界で1年の半分も暮らすのだから、雪国の人は皆、純朴です。素直です。悪い人はいません。
じゃ東京も雪国にしたらいいのに、と私は思いました。そうしたら東京人も皆、素直で、純朴な人になるでしょう。大雪が降った日は、2.26事件のように、ワクワクする事件も起きますし。
でも、一瞬思っただけなのに、その一瞬がいけなかったのですね。東京に着いたら大雪でした。交通網が乱れ、車がスリップしたり、転倒して骨折した人も出たようです。「雪よ降れ」と私が思ったばかりに、本当に降ってしまいました。私の念が大雪を呼びました。全ては私のせいです。ゴメンなさい。骨折をした人は私に言って下さい。治療費を出します。ではお大事に。