映画「靖国」の上映を新宿の映画館が中止した。「右翼の妨害が恐いから」という理由だ。「反日映画を潰した! 我々右翼の勝利だ」と言う人もいる。そんなことはない。日教組問題と同じで、右翼の敗北だ。「ほらみろ、右翼はだ騒いで妨害してるだけだ」と思われる。これでは誰も思想団体だとは思わない。
映画「靖国」は4月12日(土)から都内の4館で上映される。いや、その予定だった。新宿バルト9、銀座シネパトス、渋谷Q-AXシネマ、シネマート六本木だ。ところが、新宿バルト9は上映を中止した。新宿3町目にあり、映画館が一杯入っているし、他にファッション、食事の店が多数入っている。若いカップルに人気のスポットだ。そこに右翼の黒い街宣車が何十台も押しかけ、大音量で、「反日映画をやめろ!」「それでも日本人か!」「非国民め!」と怒鳴られたら大変だ。そう思った。このビルは「新宿バルト9」だけではない。この映画のためにビル全体の店が迷惑を受ける。多分、そこに入ってる店からも苦情が来たのだろう。不安になったのだろう。若者たちが寄りつかなくなったら、どれほどの損害になるか分からない。それで「上映中止」にしたようだ。
この〈勝利〉に気をよくしたのか、さらに他の映画館にも、「上映をやめろ!」「街宣攻撃をかけるぞ!」と連日電話が来ている。又、実際、街宣の車も来ている。抗議に屈して又、上映中止の映画館が出るかもしれない。いやな話だ。これでは日本に「言論・表現の自由」はない。
「バカヤロー! 街宣車も表現の自由だ!」と右翼の人に反駁されるだろう。確かにその通りだ。一般の「街宣」は大いにやるべきだ。むしろ駅のターミナルには「街宣車優先ゾーン」をつくって、街宣をやらせろ!と私は昔から提唱している。憲法、愛国心、日の丸、君が代などについて、堂々と演説したらいい。新宿、渋谷、新橋、池袋などでも駅のところで街宣車で演説をしている。うまい演説には歩く人も足をとめて聞いている。一般の人が聞いてるとなると、怒鳴ったりできない。音量もしぼって、分かりやすい言葉で話す。一水会の若者も土曜日の午後、新宿でやっている。偉いと思う。新宿では「青空議会」と銘打って、大々的にやっていた。各団体が競って街宣し、「うまい弁士」「努力してる弁士」には賞を出していた。いいことだ。
だから私は〈街宣〉そのものには大賛成だ。〈思想〉を訴える場としては大賛成だ。しかし、街宣車を〈武器〉として使うことには反対だ。
日教組の大会が潰された。映画上映が中止になった。これは右翼の〈思想〉が伝わり、〈思想〉に納得してやめたのではない。右翼はうるさい。何をやるか分からない。お客の迷惑になる…という理由でやめたのだ。
逆の面から言うと、それだけ街宣車は〈武器〉としては強力だし、効果が大きいのだ。〈思想〉を訴えても、なかなか伝わらないが、大音量で押しかけたら、皆、震え上がる。恐がる。〈武器〉としては強力だ。だから、皆、使いたがる。
街宣車を「発明」したのは愛国党の赤尾敏さんだと言われている。赤尾さんは、戦前は国会議員だった。人気があって、かなり上位で当選した。国会議員の政治活動の一環として、車を使った。「選挙カー」だ。ところが、これが効果がある。又、車社会になり、皆、車を買える時代になった。そうすると、右翼は「まず街宣車を持つ」ことが第1条件になる。これさえあれば立派な右翼だ。演説のできる人間がいなくても、軍歌をかけて都内をグルグル回っただけで、「運動」したような気になる。
右翼の集会で、「これは意味がない」と言ったら、皆に糾弾された。「黒い車で大音量で軍歌を流す。それによって政治家や経済人はビビッて、襟を正す。そういう効果があるんだ!」と言う。なるほど、と思ったが、でも、「一般の国民」もビビッてしまう。怖がってしまう。これではまずいだろう。
街宣車は武器として強力だ、という話だ。昔は街頭で人々に訴える時は、肉声で訴えていた。辻説法だ。日蓮だって、辻説法だ。明治、大正時代もそうだ。自由民権運動家たちも辻説法をやったし、あるいは屋内で集会をやった。昭和に入っても、60年代中頃まで、よくやっていた。ミカン箱の上に乗って、大きな声を張り上げて訴えていた。又、メガホンで訴えた。原理研究会(統一教会)も、街頭に黒板を出して説教していた。皆、堂々とやっていた。車も多くなかったから、肉声でも人々に伝わったのだ。いい時代だ。
ところが、60年代後半になると、車社会だ。肉声では聞こえない。又、車も手に入りやすくなる。右翼は皆、先を争って車を買い、街宣車をつくった。それに、〈街宣〉は演説だけでなく、運動の効率化にも役立つ。たとえば、10人の人が集まって、「デモをやろう!」と思い、実行しても、誰も見向きもしない。注目されない。オッサンが10人で散歩してるのか、と思われるだけだ。
ところが、一人が一台ずつ街宣車を運転する。10台の黒い車が連なって大音量で軍歌を鳴らしてパレードする。こうなると〈脅威〉だ。皆、注目する。恐れる。怖がる。同じ10人でも全く違うのだ。
だからこそ、〈武器〉としての街宣車の使用には、もっと慎重であってほしいと思う。
さて、映画「靖国」のことだ。3月24日(月)、ロフトに行ったら、平野店長が言っていた。試写会を見たそうだ。「反日映画だと言って、あんなに騒いでいるから、どんなにひどい映画かと思ったら、マトモな映画じゃないか。どこが反日なの?」。そうなんだ。「反日映画だ!」といわてるから、そう思って見ると、「期待」は裏切られる。「今、闘いのテーマがないからですよ」と言った。それと、「週刊新潮」などが「反日映画だ!」と書くと、右翼は過剰反応する。これは「天の声」だと思う。「週刊誌に大々的に出てるんだから、我々が行かざるをえない」と公言する人も多い。
月刊「創」編集長の篠田博之さんは、東京新聞(3月17日)のコラムでこう書いている。
〈私も昨年、映画の試写を見たが、はっきり言って「反日映画」と呼ぶのは無理がある。むしろ今の日本の空気に配慮し、バランスをとろうと気配りした節も随所に感じられる。難しいテーマを扱いながら、それをイデオロギーでなく、エンターテインメントに仕上げている点ではよくできた映画といってよいと思う〉
しかし、「週刊新潮」は「反日映画だ!」と決めつけ、二度にわたって大々的に報じた。これに右翼が呼応して、攻撃にいく。さらに、自民党の国会議員が、「上映の前に我々に見せろ」と要求した。見たいなら試写会で見ればいいのに、「国会議員だけに特別に見せろ」と言う。中には、「これは国政調査権だ」などと言う議員もいる。事前に自分たちが見て、一般国民に見せていいかどうか検閲してやるというわけだ。思い上がっている。制作者側は「事前検閲」だと反発したが、渋々同意して上映した。
これも変な話だ。4月12日(土)から上映だ。それを見た国民が怒り、その声を汲んで国会議員が騒ぐのは分かる。そうなったら、国会でも議論して、「反日映画」かどうか論議したらいい。何なら監督も参考人として呼び出したらいい。監督だって、信念を持った人だから、いつでも応じるだろう。たとえ、千万人といえども一人で出向くだろう。だって、三島由紀夫の熱烈な愛読者・信奉者なんだから。
えっ?と思うかもしれないが事実だ。李纓監督は中国人だ。「中国人だから反日だろう」と最初から偏見をもって抗議してる人もいるようだ。しかし、監督は、「知日」「親日」を越えて、日本が好きだし、愛している。「私は愛日です」と言っている。日本に来て、苦労して映画監督になる。日本語は流暢だ。私より上手い。でも学校で習ったのではない。独学だ。「三島由紀夫が好きで、三島の小説を読んで日本語を勉強しました」と言う。特に『音楽』『金閣寺』『奔馬』などが好きだという。私よりも勉強家だし、三島理解も深い。
3月11日(火)、一水会代表の木村三浩氏にも監督に会ってもらった。批判する点は批判し、その上で分かり合える点も多かった。「上映をつぶすのはよくない。映画を見た上で自由に討議できる場をつくりたい」と木村氏は言っていた。
李監督は孫文、魯迅が好きで尊敬している。「孫文が日本に亡命してきた時は右翼の頭山満さんたちに助けられたんです。感謝しています」と言う。日本の右翼についても詳しい。それなのに「反日」と攻撃されている。
驚いたことに木村氏は中国語が出来る。ペラペラだ。李監督とも途中から中国語で話し合っている。李監督もこれには大感激。二人でグイグイと酒を飲み、意気投合していた。中国語だから、我々には分からない。「ともかく見てほしい。その上でなら、いくらでも討議の場に出ます」と言う。三島由紀夫と同じ気持ちなのだろう。
三島は東大全共闘だろうが、どこだろうが、たった一人で乗り込んで行った。衆を頼んで攻撃するなんて男としてやることではないと思っていたのだ。
東大の他、早大、茨城大学、一橋大学にも行った。一橋大学には昭和43年(1968年)6月16日に行った。40年前だ。「国家革新の原理」というテーマで話している。『文化防衛論』(新潮社)の中に収められている。そこで三島は、こんなことを言っている。
〈何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。一人の人間を多勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という〉
これは凄い言葉だ。40年前の言葉とは思えない。今は、テレビ討論会でも、週刊誌、オピニオン雑誌でも、多勢が寄ってたかって一人をぶち壊している。本人たちは「言論の自由」だと思ってるが、こんなのは汚らしい〈暴力〉だと三島は言う。何千万人を相手にしても一人で行く。これこそが本当の〈言論〉だと言う。
その意味では、40年経って、〈言論〉はどんどん力を失った。下卑た。言論の覚悟を持った人間がいないのだ。
映画「靖国」は、この〈言論〉を考える上でも絶好の映画だ。だって、靖国問題をめぐり、左右の激論、バトルが繰り広げられ、そのシーンが何度も出てくるからだ。どれが〈暴力〉で、どれが〈言論〉か。それを考える上でもいい映画だ。
それなのに、国民が見る前に、国会議員や右翼の力で潰されてゆく。上映中止になってゆく。たまらない。「国民の見る権利」を奪ってはならないはずだ。
どんな映画でも、まずは、上映させたらいい。その上で、大いに議論したらいい。それだけの話しだ。
立花隆の『天皇と東大』(文芸春秋刊)の(上)に興味深い話が出ている。大正時代の〈左右激突〉の話だ。有名な話だが、引いてみる。
〈吉野作造が、大阪朝日の「白虹事件に敢然として立って、村山(社長)に暴行を加えた壮士の所属する右翼団体・浪人会に批判の矢を放った。『中央公論』大正7年11月号に、「言論自由の社会的圧迫を排す」を書き、そこで、言論の自由を圧迫するものには、国家権力の側からの圧迫と、社会的な圧迫の二つの圧迫があり、自分はこれまで主として前者と闘ってきたが、近時、日本の社会においては、後者のタイプの圧迫が大きくあらわれてきたことに危機感を抱くとして、次のように論じた。
「事は大阪朝日新聞に関係する。同新聞の最近の論調が国体を冒涜し、朝憲を紊乱するものとなし、浪人会と称する一団が起って盛んに攻撃の矢を放って居る。(略)東京市中に於ても浪人会の朝日新聞攻撃の演説会が開かれて居る。
試みに之を傍聴するに、言語甚だ不穏を極め、極端なる暴力的制裁の続行を暗示するにあらずやと思はるゝ節もあった。斯の如き極端なる形で自由なる言論の発表を圧迫するのは、兎に角、大正の今日の一大不祥事である」〉
凄いね。吉野はたった一人で、立ち上がった。そして、右翼を名指しで批判した。今だって、こんな勇気のある人はいない。今の「反日だ!」というよりももっと凄い脅し文句がある。「国体を冒涜(ぼうとく)している!」「朝憲を紊乱(びんらん)している!」と言われたら、誰も何も言えない。そんな時代に闘ったのだ。それに吉野は一人で立ち向かった。これからが凄い。
〈これを読んで怒った浪人会の代表者たちが吉野のもとを訪れ、いいかげんなことを書くなと抗議した。吉野は、自分の書いたことがちがうというなら、立会演説会を開いて、お互いのいいたいことを存分にぶつけあい、聞く人にどちらの主張が正しいか判定してもらおうではないかと提案した。浪人会側もそれを受けてたち、立会演説会が開かれることになった〉
これを新聞各紙が書き立て、大変な騒ぎになった。吉野も偉い。又、それを受けた浪人会も偉い。今なら、どちらも腰が引けてしまう。「あなたは日本男児でしょう。だったら堂々と皆の前で演説会をやりましょう」とでも言ったのだろう。それで逃げたら、右翼の恥になる。「うるせー!」と言って殴ったら、その時点で「負け」を認めることになる。
だから、日教組も、「靖国」映画側も、テレビで記者会見して言ったらいい。「日本男児なら、一対一で堂々と立会演説会をやろう!」「それをテレビで放映しろ!」と。「そのかわり、黒い街宣車で押しかけるのはやめろ!」と。
あるいは今、桜チャンネルの社長は「南京事件の真実」という映画をつくった。じゃ、二つを同時に上映し、そのあとで対談をしよう、と言ってもいい。
ちなみに吉野VS右翼・浪人会は、吉野側の圧勝だったという。でも、右翼が「言論の場」に上がった勇気は買っていいと思う。
又もや、映画「靖国」だ。実は、内容についての反対は余りない。8.15の左右の集会、靖国刀をつくる刀鍛冶の仕事が紹介されて、貴重なドキュメントだ。文句のつけようがない。ただ、ラストに、南京事件の「写真」が出る。数十秒か、数分か。「それがけしからん」と言う。それと日本芸術文化振興会から750万円が出てるという。「反日映画に金を出すとは何事か!」というのだ。
しかし、多くの映画に出している。こうした真面目なドキュメントに金を出すのはいいことだ。たとえ、日本に対し批判的だろうと、(そんなことはないのだが)、それに金を出すなんて、日本の寛容さを示すことだ。いいことだ。世界に誇るべきことだ。
又、最後に「ニセ写真」を流したというが、まだ論議されている写真があるのなら、その点をクレジットで付けたらどうですかと、監督に言った。しかし、「確信があります」と言う。それ以上は、こちらも言えない。あとは公開した後に皆で話し合ったらいい。又、そのための〈場〉を作ったらいい。何度も言うように国民に見せないで、「上映中止しろ!」はおかしい。
又、新聞、テレビもだらしがない。こんな大きな騒ぎがあるのだ。ちゃんと関係者に取材して報道すべきだ。街宣をかける右翼の言い分も聞けばいい。映画制作側の言い分も聞けばいい。右翼が恐くて上映をやめた映画館の言い分も聞けばいい。そして、堂々と、討論させたらいい。今は、吉野VS浪人会の大正時代よりも、ずーっと言論が不自由になっている。勇気がない。
いや、平成の時代になってからでも、少しは自由な報道があった。嘘だと思うなら、ネットの「You Tube」を見たらいい。かつてTVで放映された右翼の映像が随分と流されている。「曲がり角に立つ平成の右翼」とか、「密着・少年右翼」などだ。又、右翼が車に火をつけて首相官邸に突っ込む衝撃の映像も流されている。島田紳介にインタビューされて私が答えている。又、一水会の若き活動家・徳弘三十四が街宣をやって人々を引き付けている様子も映っている。これを見て、「おーっ、右翼は立派だ」と思う人もいるだろう。又、「右翼は横暴だ」と思う人がいてもいい。見る人の自由だ。そして、多くの人に考えさせたらいい。
映画「靖国」の中でも、右翼の活動はかなり紹介されている。これだけでも、多くの人に見てもらう価値はあるだろう。