先週の月曜日(3月31日)に、「靖国が危ない!」と書いた。ところが、その日に全館が中止になった。こんな事があっていいのか。こんなことが許されていいのかと思った。悔しかった。私も上映については、相談に乗っていただけに無念だ。何の力にもなれなかった。申し訳ない。涙が出てきた。
電話で報告してくれた配給会社、アルゴ・ピクチャーズの人も泣いていた。国民が映画を見る前に、「反日映画だ!」という圧力で潰された。ひどい話だ。これでは文化国家ではない。嘆かわしい。
嘘であってほしいと思った。あるいは、翌日には、「やることになりました」と事態が好転してほしいと思った。しかし、その願いは空しかった。翌、4月1日(火)は、エイプリルフールにはならず、「全館上映中止」の事実が重くのしかかった。この日の新聞はどこも大きく取り上げていた。
朝日、毎日、読売は一面で取り上げ、東京は社会面で取り上げていた。読売はさらに、社会面でも取り上げていた。朝日、毎日は「左翼的」で、読売、産経は「右翼的」と思ってる人がいるかもしれないが、大違いだ。読売が一番大きく取り上げ、映画の写真まで載せている。
映画「靖国」は4月12日(土)から、全国5館で上映の予定だった。それだけ期待も大きかったのだ。東京では新宿のバルト9、銀座シネパトス、渋谷Q-AXシネマ、シネマート六本木の4館。それに大阪のシネマート心斎橋が上映する予定だった。ところが、「週刊新潮」が、「反日映画だ」と書き、それを見て、右翼が抗議電話をした。
それで、おそれをなして、3月18日に新宿のバルト9が上映中止を決めた。そこのビルは他にも映画館がいくつも入っているし、食事、ファッションの店も入っている。黒い街宣車で取り巻かれ、大音響で騒がれてはたまらない。他の店にも迷惑がかかると、中止を決定した。
この「効果」に気をよくしたのか、次は銀座シネパトスが狙われた。街宣車が抗議に行き、抗議の電話もかかってくる。この映画館は前に、ソクーロフ監督の「太陽」を上映したところだ。昭和天皇を描いた映画で、右翼からは「不敬だ」「許せない」と批判されたが、銀座シネパトスは断固として上映した。そして騒ぎもなく上映を終えた。
だから配給会社としても大丈夫だと思っていた。「あそこはしっかりしている」と。ところが3月27日に、配給会社のアルゴ・ピクチャーズに「降りたい」と伝えてきた。「お客さんへの迷惑もあり、自主的に判断した」という。(朝日新聞・4月1日)
ここには右翼が集中的に来た。電話を受ける人は、「普通の人」だ。皆、震え上がった。黒い街宣車は恐怖だ。上映前なのにこうだから、いざ上映になったら、一体どうなることかと思ったのだろう。警察に頼んで、右翼が集団で押しかけた時、入場を阻止してもらうことは出来る。でも、私服で一人で来られたら阻止できない。又、今は「右傾化の時代」で、右翼ではない右派的な青年も一杯いる。一般の人が、中で騒ぐかもしれない。スクリーンを切ったり、ペンキを投げたり…と。それを阻止できない。又、入場者に荷物検査も出来ない。一番弱い〈場所〉だ。
オウム事件以降、大きなイベントはどこでも荷物検査をしている。アイドルのイベント、ロックコンサート、格闘技大会でもそうだ。「電流爆破デスマッチ」なんて銘打ちながら、入口では、怖くて荷物検査をしている。飲物も、カンやペットボトルは持ち込めない。備え付けの紙コップに移される。
まあ、最近は、それも仕方ないなと客も思っている。でも、映画館だけは出来ない。不安なら、やったらいい。しかし、そんなことをしたら客は誰も来ないと思うからやらない。又、そんな危険な映画なら上映しないと配給会社に言うのだ。
ちょっと前ならば、「そんな妨害に負けるな!」と応援する人もいる。「警察は何をしてるんだ!」という声もあった。「じゃ、我々がボランティアで守る」という人も出た。しかし、今はいない。冷たい。それに、右翼との対応を知らない。「よし、俺が話し合う」という人もいない。ただただ、恐い。怖ろしい。又、他の店や、近隣に迷惑をかける。それでは申し訳ないと思う。
3月27日に、銀座シネパトスが「降りたい」と言った時、私にも配給会社から連絡があった。「僕が映画館と話し合ってもいいですよ」と言ったが、ともかく大事になるのを映画館は怖れた。「記者会見をやったらどうですか」とも私は言った。だって、抗議する右翼の人たちだって、映画を見てない。「週刊新潮」が「反日映画だ」というので抗議しているのだ。その「週刊新潮」だって、「中止しろ」とは一切言ってない。
だから、まず一般の人々に見てもらおう。4月12日(土)から、上映させてほしい。そのあとで、見た人々が(右翼も含め)、「反日だ」「けしからん」と言ったら、監督も含めて、公に討論会をしたらいい。「だから事前に、街宣車で抗議するのはやめてほしい」と言ったらいい。そう私は言ったが、その時はもう、「降りる」意志は固かったようだ。
3月27日に、銀座シネパトスが降りたのが大きかった。あの「太陽」をやったシネパトスが降りたのだ。右翼は次は我々の所に集中して攻撃してくると思った。だから、他の3館はすぐに中止した。「他が中止すると、こちらに嫌がらせが来るのではないか」(朝日、4.1)と思ったと言っている。別に街宣も電話もないのに、「右翼の影」に脅えて中止したのだ。
実は、国会議員の「圧力」も大きかった。「週刊新潮」が「反日映画」と書き立てると、自民党の議員が中心になって、「じゃ、事前に我々に見せろ」と言った。だったら、試写会で見ればいい。「いや、忙しいから我々のためにやれ」「それではまるで、事前検閲じゃないか」と押し問答になった。しかし、結局、3月12日に国会議員向けに特別試写会をやった。「これは国会議員の国政調査権だ」という議員もいた。
しかし、おかしい。まだ、国民は見てないのだ。それなのに、まず議員が見て、「国民に見せていいかどうかを我々が判断してやる」と言ってるようではないか。思い上がっている。
もし、事前に見たいなら、(よく洋画でやってるが)、公開前にどっかの劇場を使って、深夜に「先行ロードショー」をやればよかった。オールナイトで。勿論、国会議員だけでなく、国民は誰でも見れるようにして。そうしたら、「どこが反日だ」「いい映画じゃないか」と分かってもらえる。まあ、中には「反日だ」という人もいるだろう。それらを含めて、冷静に討論をしたらいい。それで、マズイと思ったら、議員が国会で問題にしたらいい。そして、参考人でも証人でもいいから、映画の監督を呼んだらいい。(先週書いたが)三島由紀夫が好きで尊敬している監督だ。どこにでも出て、話し合いに応じる。
議員の試写会を実行させたのは自民党の稲田朋美さんたちだ。稲田さんとは私は何回か会っている。『わしズム』の座談会にも出ている。又、「百人斬り競争」は嘘だと主張し、その裁判にかかわり、それを証明する本も出している。それはどんどんやってほしいし私も応援する。何なら映画も作ってほしい。その時、中国政府や日本の左翼が「上映反対!」をしたら、私も闘う。内容がどうかということかよりも、まず上映して国民に見せたらいい。それに賛成か反対かは、その後の問題だ。それなのに、国民の「見る権利」を奪うのはいけないだろう。
「靖国」が今回5館で「上映中止」になったのには、国会議員の「圧力」もあったと思う。しかし、稲田さんは「そんなことはない」と、こう言っている。
〈最初に助成を問題視し、試写会に参加した自民党の稲田朋美・衆院議員は「我々が問題にしたのは助成の妥当性であり、映画の上映の是非を問題にしたことは一度もない。いかなる内容の映画であれ、それを政治家が批判し、上映をやめさせるようなことが許されてはならない」などとする談話を出した〉(読売新聞。4月1日)
たしかに、「上映を中止しろ」とは言ってない。文化庁が管轄する「日本芸術文化振興会」から750万円の助成金を受けている。それを問題にしている。しかし、助成を受けてる映画はいくらでもある。娯楽作品が多い。むしろ、こうしたドキュメンタリーは少ないのだ。国民に考えさせる契機になる映画だ。どんどん助成したらいい。しかし、「週刊誌によると反日映画らしい。反日映画に文化庁の金を出していいのか」と疑問を呈し、「まず見たい」と言ったのだろう。750万という文化庁の金が適正に使われているかどうか、だけを調べようとした。けっして「検閲」ではない。
たしかにそうだろう。しかし、国会議員が、「試写を要求」という記事が出ると、「あっ、反日かどうかを調べているんだ」と思う。それで、又、右翼は勢いづく。さらに映画館は、脅える。孤立感を強める。そういう〈効果〉はあったのだ。この映画を見た議員も、「別に反日映画ではないだろう」と言ってる人が多かったようだ。しかし、そうした「後々」のことは伝わらない。「週刊誌が反日と攻撃した」「国会議員が試写会を要求した」「右翼がわっと攻撃にきた」と。この三つがワンセットになって襲ってきたように思うのだ。
映画館にしてみたら、ともかく恐いのだ。「生(ナマ)」の右翼を初めて見た人ばかりだ。それが映画館を名指しで攻撃する。生きた心地がしないのだろう。しかし、かつての攻撃に比べたら、それほど激しいものではない。たとえば、日教組大会などは全国から何百台という街宣車が来る。又、昨年、「週刊金曜日」の集会で「不敬な芝居」があったと「週刊新潮」が書いた時は、これを見て、右翼が何十台と抗議に行った。
それに比べたら、今回は少ない。電話だって少ない。街宣車も2回か3回行っただけだ。いや、1回だけでも「生きた心地がしない」というのだろうが…。
それだけで、過剰に反応して中止した。配給会社は、警察にも頼んだし、映画が始まったら会社の人間も何人か詰めて、「安全面には万全を尽くします」と何度も何度も映画会社に説得した。でもそれが裏目に出た。「じゃ、そんなに危険性のある映画なのか」と。「恐い映画か」と。それじゃ、やってられない…と。
さらに、このあと中止した三つの映画館(六本木、渋谷と心斎橋)は、実は抗議の電話も来てないし、街宣車も来てないのだ。
〈渋谷Q-AXシネマの営業責任者は「具体的な抗議や嫌がらせはないが、不特定多数の人が集まる施設なので、万が一のことがあってはならない」と、上映見送りの理由を語った〉(毎日新聞。4月1日)
これもひどい話だ。右翼は来てないが、「万が一」を考えて中止した。右翼の影に脅えて中止したのだ。
読売新聞(4月1日)には、田原総一朗さんと山根貞男さん(映画評論家)のコメントが出ていた。田原さんのコメントを紹介しよう。
「上映中止になったのは、(映画館が)そこまで追い込まれたからで、言論の自由が保障されている憲法の下ではとんでもない話だ。この映画は客観的ではないと思うし、見たくない人もいるだろう。しかし映画とは本来、監督が主体的に撮るもので、この映画が上映できないのは日本の恥だと思う」
私も田原さんに全面的に賛成だ。「日本の恥」だ。だから、「朝生」や「サンプロ」で、ぜひ大きく取り上げてほしい。街宣車で抗議している右翼の人たち。試写会を要求した自民党の国会議員の人たちも呼んで。そして、これからどうしたらいいかを論じてほしい。
私は、「反日」「売国奴」「非国民」という言葉はもう「禁句」にしたらいいと思う。だって、本や映画だって、「ここはいい」「でも、ここは悪い。自分と考えが違う」と思うだろう。多面的に見ている。だから、そういうふうに考えればいい。それなのに、「反日だ!」といって、その〈全て〉を否定しようとする。人間だって、「反日だ!」といったら、「全て」が否定される。「生きてる資格がない」と言われるようなものだ。じゃ「死」しかないのか。こんな威圧的な言葉は使わないようにしたい。
それに、先週も書いたけど、この映画を「反日的だ」といって批判する人は映画の全体が悪いとは言ってない。だって右派の人たちも出ているし、軍服の元兵士たちも出ている。だから、そのことを否定しない。又、靖国刀を作って奉納している刀鍛冶についても「否定」はできない。つまり、映画のほとんどの部分は「いい」と認めている。ただ、ラストに南京事件の写真に「ニセ写真」が混ざっている、と批判している。
又、文化庁から750万の金が出ている。それを批判している。じゃ、全体の「99%」は「いい映画」で、ラストの写真だけ(1%にも満たない)が「反日」だという。1%しか「反日」でないのに、100%「反日」だと言いくるめる。これも変だ。
この写真は確かに、日本人として見ていて愉快ではない。ニセ写真があるのかもしれない。少なくとも係争中のものがあるだろう。だったら、その旨をクレジットを入れたらいい。と私は監督に言った。しかし、「いや、全て確信があります」と言っていた。そう言われたら、「外せ」とは言えない。一般公開した上で、さらに国民的論議を起こしてオープンに議論したらいい。
又、750万だって、「大ヒットして収益があったら返します」と、その位言ったらいいだろうと監督には言った。それに、田原さんが言うように、国民の見る前に中止するなんて、「国の恥」だ。
又、問題のある映画でも、それに文化庁が金を出すなんていいことだ、と私は思う。日本の寛容さと、懐の深さを世界に示すことにもなる。誇るべきことではないか。
と、ここまでが4月1日(火)に書いた。翌朝、産経新聞を見て驚いた。「社説」で大々的に出ている。「靖国」上映中止について、「論議があるからこそ見たい」と見出し。中止を残念と言っている。いろいろ論議はあった。助成金の問題もある。それについて、
〈助成に必要な政治的中立性などをめぐって疑問点が指摘され、今月の封切り前から話題を呼んでいた。映画を見て、評価する人もいれば、批判する人もいるだろう。上映中止により、その機会が失われたことになる〉
まさに、その通りだ!と思った。まず国民に見せるべきだ。それから議論すべきだ。週刊誌や国会議員や右翼が、「いや、反日映画だから、国民に見せられない」というのはおかしい。国民も怒ったらいい。「我々に映画を見る自由はないのか!」「考える自由はないのか!」と。なんで、週刊誌や国会議員、右翼が「国民を代表」しているのか。そして、これは「国民に見せていい映画だ」「これは見せてはマズイ映画だ」と勝手に決めるのか。「ふざけるな。我々が主権者なんだ!」と怒ったらいい。産経の「主張」では、さらにこう言う。
〈実際に、公的機関などから上映中止の圧力がかかったり、目に見える形での妨害行為があったわけではない。映画館側にも事情があろうが、抗議電話くらいで上映を中止にするというのは、あまりにも情けないではないか〉
ウーン、難しいな。内心、そう思う点もあるが、でも、映画館で電話をとる人は普通の人だ。思想運動をしてる人でもない。マスコミ人でもない。言論に命をかけてる人でもない。「右翼から電話が来た!」というだけで震え上がるだろう。それに、「抗議電話」だけでなく、実際に街宣車も行った。きっと恐怖に震え、パニックになったのだろう。配給会社では、上映が始まったら警察に守ってもらいます。我々も、ガードに入りますと言った。僕も映画館の人と話してもいいと言った。記者会見をやったらどうかとも提案した。でも、そういう話をすればするほど、「やっぱり、そんな怖い話になってるんだ」「大変な事態になっている」と脅える。それを「情けない」「だらしがない」とは言えない。僕も、自分の力が足りずに守れなかった。本当に申し訳なかったと思っている。40年も右翼運動をやってきたことが恥ずかしい。「右翼の原罪」を痛感している。
しかし、4月2日(火)の産経新聞の「社説」で映画「靖国」の上映中止を取り上げ、「こんなことで中止するな」と言ってくれたのには感動した。そして、近くのコンビニに行ったら、全ての新聞が「社説」で取り上げていた。これは驚いた。
「朝日」は 「靖国」上映中止。表現の自由が危ない
「読売」は 「靖国」上映中止。「表現の自由」を守らねば
「毎日」は 「靖国」中止。断じて看過してはならない
「東京」は 「靖国」上映中止。自主規制の過ぎる怖さ
さらに、『朝日』は「天声人語」、読売は「編集手帳」、毎日は「余録」という一面のコラムでも取り上げている。又、毎日、読売、東京では社会面でも大々的に取り上げていた。これは異例だ。それだけ、「表現の自由」の危機を感じているのだ。又、「弱い映画館」だけを孤立させ、助けてやれなかった「やましさ」もあるのだろう。それは私にもある。
だったら、これだけ新聞が「許すな!」と言うのなら、新聞社のホールで上映したらいい。もし妨害が来たら、その全てを記事として載せる。言い分も載せる。そして紙面で闘わせたらいい。どちらも公平に載せて、どちらが正しいかは、読者に任せたらいい。これはテレビ、週刊誌でもぜひ、やってほしい。