2008/05/05 鈴木邦男

北朝鮮に行ってきました!

①やっと行けたんだ。ズケズケと文句を言い、提言しました

金日成主席の銅像の前で 木村三浩氏と(4/28)

 アンニョンハシムニカ(今日は)。北朝鮮に行ってきましたスミダ。朝鮮民主主義人民共和国です。ホントです。「えっ、中国に行ったんだろう」と言われるでしょう。そうです。先週書いたように中国に行きました。そこから北朝鮮に行ったのです。木村三浩氏(一水会代表)と私の二人です。ピョンヤン(PYONGYANG。平壌)を中心にかなり広範囲に北朝鮮を見てきました。でも目的は観光ではありません。拉致、国交回復、歴史認識を含めて、党幹部と話し合う為です。北朝鮮に対する日本人の怒りを率直にぶつけて、激しくやり合いました。又、その中で北朝鮮の本意というかホンネも少し分かりました。「私たちはこれだけ誠意をもってやってるのに日本の人々や、政治家、マスコミは初めから叩くことばかりを考えている」と彼らは言います。でも、その〈誠意〉が日本には伝わらない。
 「めぐみさんの遺骨も渡した。入院していた病院も見せた。夫にも子供にも証言させた。それでも何もしてないというのか!」と言います。「日本で行方不明になった人は皆、共和国(北朝鮮)のせいだという。でも、日本国内で殺されて発見され、全く関係のない事件だということもあったじゃないか」と言います。「日本政府の言い分はおかしい。それに約束は勝手に破る。その上で、“死んだ人間を生かして返せ!”と言ってる。こんなことでは話し合いに応じられない」とも言ってました。

 全世界の人々の前で国家のトップが拉致を認め、謝罪した。「何もそこまでしなくとも」と周りに反対だってあっただろう。でも、その〈決断〉をした。これは重く受けとめる必要がある。
 「ここまで全てを認めて謝罪したのだ。でも日本人は、共和国は嘘をついてるという。では、生きてる人を死んだと発表して何の得がありますか。あとで分かったらもっと大変なことになります」と言う。しかし、そんなことでは我々日本人は納得しない。日本人は、「生きているに違いない」「生きていてほしい」と思う。これは日本人として当然の気持ちではないか。と私は言った。その感情を逆なでするような北朝鮮のやり方はおかしい、と。

 「では、どうすればいいのか?」
 「合同捜査を徹底的にやったらいい。日本の検察庁、マスコミ、NGO、市民団体…全てを受け入れるのです。そして北朝鮮当局も全面的に協力し、徹底的に捜査する。日本人全てが納得ゆくまで何年でもやる。それしかありません。そうでないと、せっかくの総書記の決断を無にしてしまいます。又、多くの日本人が来て、話し合い、北朝鮮を見ることで、北朝鮮を〈見る眼〉が変わります。日本人が忘れてきた自主自立の気概にも気づきます。経済成長だけでいいのかと日本人が反省する材料にもなります」と私は言いました。
 最終的には日朝国交です。大使館を置き、マスコミ各社も支局を置き、自由に往来することです。何かあっても大使館に逃げ込めます。こうした事件を二度と引き起こさない為にも、大使館があり、国交があった方が日本人にとってもプラスです。私はそう思います。

新婚さんが多い 左は木村三浩氏(4/28)

 北朝鮮は外交は天才的だと思います。世界最大の強国・アメリカを相手に翻弄し、キリキリ舞いさせている。こんな国は北朝鮮だけだ。アメリカと戦い、敗けた日本としては、うらやましい限りです。この点は、尊敬さえします。でも、「対日本」の外交はヘタクソだ。日本人の感情を全く分かってない。まるで〈子供〉だ。
 だって、「我々はこれだけやっている。これでも分からないのか!」と言って北朝鮮は強い言葉で日本を糾弾する。テレビに出ている女性アナウンサーの声も甲高く、恐い。又、「これだけ言ってもダメなら、もうやめた!」と言う。「日朝交渉では日本はいつも約束を破っている。そのくせ、悪いのは100%共和国だと言って責任を転嫁する。これでは話し合いにならない。じゃ、放っておいて、10年か20年後に、冷静に考えられるまで待つしかない」とも言う。

 「でも、その態度は間違っている。日本人への理解が全くない」と私は言いました。多分、いいアドバイザーがいなかったからでしょう。「共和国は地上の楽園だ」「労働者の天国だ」と大いに持ち上げ、北朝鮮にすり寄るダメ〈左翼〉だけを信用してきた。北朝鮮を利用してモノを書き、商売をしてきた連中だけを信用してきた。それは愚かです。実際、拉致問題が起こった時、そんな連中は皆、逃げ出したじゃないか。本当の支持者なら、相手が困っている時こそ支えるべきなのだ。しかし、そんな人間はいなかった。
 又、拉致前だって、そんな北朝鮮よりのダメ左翼を日本人はだれも信用していなかった。むしろ、「そんな連中が支持する国だから、おかしい」と思っていた。だから、北朝鮮は見る目がなかったんだ。
 その反対に、「北朝鮮は許せない」と批判しながらも、その内部事情を理解し、シンパシーを持つ人もいる。そういう人は、ブレない。「北朝鮮は許せない。危険な国家だ。だからこそ孤立させてはならない」「国交も回復した方がいい」という人もいる。さらに、「白紙の状態で見てみたい」という人もいる。しかし、それらの人々は全て、シャットアウトしてきた。「過去に反共和国的な言動をした」という人もシャットアウトしたきた。そんな心の狭いことではダメだ。と私は強く言った。

②1970年3月の「よど号」事件から全ては始まった

金日成主席の生家で。木村三浩氏(左)、ガイドさん(中)(4/26)

 ここで私の話になる。私は、北朝鮮に対し、批判もしてきたが、シンパシーもあるし、「不思議な国」「未知の国」だとずっと関心を持ってきた。だから、実際に見てみたい。人々と話してみたいと思ってきた。しかし、ずっと、拒絶されてきた。ビザを10回以上も申請した。17回位申請しただろう。でも、ずっとダメだった。
 おかしい。初めから北朝鮮をバカにし、暴露本を書いてやろうという人はいくらでも入国させている。そして、暴露本も出ている。又、状況に応じてフラフラと自分の考えを変える人間。裏切る人間も入れている。反対に、僕のように、「白紙の状態で見たい」と思い、シンパシーを持ってる人間は拒絶している。愚かだ。人を見る眼がない。北朝鮮は、これだけ優秀な人がいるはずなのに調査能力がないのか。
 そして、日本向けにはいつも喧嘩を売ってるようにしか見えない。やり方が下手だ。(逆に言えば)正直過ぎるのかもしれない。子供のように自分の感情だけをモロにぶつける。「今は戦時体制下だ。だから団結して闘わなくてはならない!」という国内向けのスローガンを外国に対しても言う。これは恐い。特に平和ボケした日本人民には恐くみえる。
 又、「これだけ我々は誠意をもってやっているんだ!何故分かってくれないのか!」と言い、その焦りや怒りをそのまま相手にぶつける。情念だけを叩きつける。これも恐い。正直過ぎるから、かえって恐い。つまり「表現の仕方」が下手くそなのだ。まるで日本の右翼じゃないか。

 1970年の3月31日に「よど号」ハイジャック事件があった。この8ヶ月後の11月25日に三島事件があった。三島は「よど号」事件に衝撃を受けた。「立てこもり」という戦法だって、「よど号」に学んだ。それに、何しろ、「あの日本刀による決起がいい」と絶讃していた。福岡で、女性や子供を解放した時の映像を三島は見てたのだ。女性や子供が解放され、走って逃げてくる。タラップの上では赤軍派のハイジャッカーが日本刀を持って仁王立ちしている。田中義三さんだ。
 田中義三さんの姿が三島には強烈に焼きつき、三島決起へと続く。この三島事件が、野村秋介さんらの「経団連事件」を誘発し、その後の右翼の頻発する決起になる。つまり、全ての始まりは、「よど号」なのだ。そして田中義三さんだ。
 又、「よど号」をハイジャックした9人の赤軍派は、「我々は“あしたのジョー”である」という言葉を残して飛び立ち、亡命した。日本では運動が出来ない。運動が出来る国、労働者の国、共和国に行こう!と思ったのだ。そう、「亡命」と言っていた。「亡命」というのは「自由のない国」から「自由のある国」に逃げることだ。今ならちょっと信じられないが、当時は、本当にそう思っていたのだ。

信川(シンチョン)博物館前で(4/25)

 この事件の時、私は実家の仙台にいた。そこでこの〈快挙〉を知った。凄い奴らだと思った。何故、私は仙台にいたかというと、右派学生運動を除名され、追放されたからだ。運動をやりたくて仕方なかったのに、「活動家として無能だ!」「リーダーとしてふさわしくない!」と除名されたのだ。自分としては真面目に努力したつもりだったのに、「無能、無気力」と断罪された。それだけ優秀な活動家が多くて、私のようなグズでアホな人間は邪魔だったのだ。こんな奴を置いておくと、組織が腐ると思われたのだ。だから、摘まんで捨てられた。
 活動する場がない。行き場がなくて仙台の実家に帰っていた。そして、小さな書店でバイトしていた。書店の店番をしたり、本を届けたりしたいた。「ああ、一生俺はこんなことをして終わるのか」と思っていた。イジイジとして生きていた。そんな時に出会った「よど号」事件だった。誰をも殺さず、誰をも傷つけず、亡命した。格好よかった。
 その頃から、よど号や赤軍派に関心を持った。北朝鮮にも関心を持った。この二ヶ月後(1970年5月)、縁があって、産経新聞に入社する。そして、この年の11月に三島事件がある。その頃から、昔の学生運動仲間が集まってきた。そして一水会を作る。

 つまり、三島事件の前に、「よど号」なのだ。この事件で、「こうしてはいられない」「又、世の中が変わるぞ」「俺たちの出番が又、来る」と思ったのだ。それまでは、〈組織〉がなければ何も出来ないと思っていた。だから、組織を除名・追放されたら終わりだ。何も出来ないと思って、イジイジとしていたのだ。「よど号」は、たった9人だ。それでも世界を変えられる。じゃ、俺たちだって「あしたのジョー」になれるかもしれない。そう思ったのだ。これは大きな励みだった。
 又、三島事件以降、昔の活動家仲間が集まってきた、と言った。それだけ、組織を追い出された一匹狼の活動家が多かったのだ。考えてみたら勿体ない話だ。何も、喧嘩して組織を飛び出した訳ではない。スパイだったわけでもない。「こいつはリーダーとして器量がない」「情熱が不足している」「闘う姿勢が足りない」といって、クビにし、除名にし、追放したのだ。勿体ない話だ。本人たちは運動をやりたかったのに。ある意味では、(殺しはしないが)、連合赤軍事件と同じだ。「お前は運動家として不適格だ」と言って、「活動家生命」を抹殺したんだから。

③17回も断わられ、やっと実現した訪朝だ

マスゲームの練習をしている子供たち(左は木村三浩氏)(4/28)

 この頃のことを考えると、今でも悔しい。涙が滲んでくる。まあ、実際、私は「無能なリーダー」だったから仕方はないだろうが。でも、「切り捨てられる」というのは本当に嫌なものだ。今でもチクチクと心が痛む。
 ともかく、1970年頃から北朝鮮には関心を持っていた。その前には、「帰還運動」があって、日本にいた朝鮮の人たちが帰って行った。夢や希望を持って共和国へ帰る人々だ。吉永小百合主演の「キューポラのある街」でも、そんな人々が出ていた。(しかし、それは大半、絶望に変わったと知ったのは後々のことだ)。

 70年、よど号の時、ショックを受け、又、三島事件を通じ、私たちは運動を再開した。新しい運動を模索した。苦悩し、試行錯誤して、「新右翼」と呼ばれるようになった。
 北朝鮮に渡った赤軍派の人々も悩み、苦しみ、試行錯誤した。初めは「金日成をオルグして世界革命をやらせる!」「ここで軍事訓練を受けて、半年後には日本に凱旋帰国する!」などと言っていた。武装して日本に攻め上り、キューバ革命のようなことをやろうと考えていたのかもしれない。ところが、そんなことは甘いと分かった。現実を知らされた。
 それと同時に、共和国の人々の「民族主義」を知った。身をもって知った。「民族を基盤にしなければ、その国の革命は出来ない」と知った。単なる抽象的な「国際主義」「国際連帯」ではダメだと知った。そして、訪朝した新聞記者と会う中で、彼らは日本の民族主義運動のことを知る。一水会の存在を知る。機関紙や書いた本を読み、「彼らとは話し合える」と思った。そして、その記者の紹介によって、「よど号」グループと一水会の間で交流が始まる。両者で機関紙の交換、意見の交換が始まる。

 そして13年前だ。「よど号」の田宮高麿さんが、一水会に「招待状」をくれた。「一度、共和国を訪ねて下さい。この国を見て下さい。そして民族主義について大いに論議しましょう!」と。すぐに「一水会訪朝団」を組織した。当時、僕は一水会代表だったから、僕が団長だ。そして、木村三浩、見沢知廉氏らが行くことになった。ところが、何故か、直前になって私だけビザが下りない。どうする、と迷ったが、他のメンバーだけで行くことになった。そして、大いに語り合った。
 私も、「よど号」の人たちと話し合いたい、北朝鮮を見てみたい。そう思い、いろんなツテを頼ってビザを申請したが、ことごとくダメだった。ピースボートに紛れ込んで行こうとしたこともあったが、何故か、私だけが摘まみ上げられて排除された。北朝鮮に詳しい人、親しい人、総連の人…多くの人に会って頼んだが、それでもビザが下りない。

ピョンヤン市郊外で(4/26)

 「鈴木さんが昔、共和国を痛烈に批判した“あの文章”がダメなんですよ」と左翼の人に言われ、「自己批判書」も書いた。共和国の実際の姿を見たこともないのに予断をもって批判したのは悪うございました。白紙の状態で見、その上で書きたい。だから、行かせて下さい。それでもダメだった。
 あの手、この手、あらゆる手を使ってやったのにダメだった。じゃ、生きてる間はダメだなと思った。そんな時だった。どのルートが功を奏したのか分からないが、突如、訪朝が実現した。北京から行くのだ。でも、北京まで行っても又、私一人にビザが下りなくて、帰ってくるかもしれない。と、最後の最後まで心配だった。不安だった。だから、ピョンヤン空港に着いた時は、信じられない思いだった。ホントに来たのかよ、と思った。

 ピョンヤンでは、金日成主席の生家を訪ねた。主席の銅像を見た。主体思想塔を見た。「おっ、俺は今、本当にピョンヤンにいるよ」と思った。信じられない思いだった。
 いろんな面を見た。いろんな共和国の姿を見た。元気のいい面も、打ちひしがれた面も。明るい面も暗い面も。美しい面も、そうでない面も。これは大きな成果だと思った。

④「やっぱり」と「意外」。その落差

「週刊新潮」(5/1・8号)

 北は貧しい。脱北者が沢山出ていると、日本のマスコミは報じる。その通りだろう。貧しい国だろう。そして、ピョンヤンから車に乗り、かなり遠くまで走った。田舎を見ると、「あっ昔の日本だ」と思う。「50年前の日本だ」と思う。そう思ってから、ハッとした。そう考えることが傲慢だ。間違っている。豊かになった日本の方が、「足りないもの」があるのかもしれない。「三丁目の夕日」ブームはまさにそれだ。豊かになったが、人の優しさや、心の面ではずっと荒廃し、後退したと後悔している。それが「三丁目の夕日」ブームだ。
 我々の方が豊かだ。我々の国は50年先を行っている…と思うのは、やはり傲慢だ。人間としての気概、優しさ、プライド…などの面では我々の方がずっと「後進国」かもしれない。(僕の見た限りでは)小さな子供から、大人、老人まで、皆、背筋がピンと伸びている。貧しくても気概を持っている。又、子供の物乞いがいない。「独裁国家だから強権でおさえているのだ」と言うだろう。それはあると思う。でも、そのような強権でおさえている他の国々でも、裏に回れば子供の物乞いはある。しかし、この国にはない。  敗戦直後の日本だって、米兵に群がって物乞いした。「ギブミー・チョコレート!」と叫んだ。私だって、叫んだ。(いや、それはないか。私は東北の田舎で生活してたから米兵なんて見たこともなかった)。  「天皇の国・日本の子供たち」「陛下の赤子」たちまでが、戦に敗れて、敵兵に物乞いをしたのだ。気概のない国民だ。情けない。でも、北朝鮮はしない。カーター元大統領などは北朝鮮に来て、そこの所を見て、「この国と戦争してはいけない」と思ったのだろう。

 実は、私だって、偏見を持っていた。今だって偏見がある。誤解もある。他の人よりは北朝鮮にシンパシーを持ち、その置かれた状況を理解しているつもりだ。でも、国民のほとんどは、食うものもなく、子供は痩せ衰えている。マスゲームも強制的にやらされ、「児童虐待」だと思っていた。又、どっかの雑誌に書いてあったが、「ピョンヤンはショーウインドーだ」という。国全体は貧しいのに、世界の人々に見せるために、首都・ピョンヤンだけは整然とした街並みを作り、美しくビルが建ち並び、映画のセットのようにしている。街を歩く人も着飾り、映画の出演者のようにして歩いている、と。だから普段は、街に人っ子一人いないと。
 それを信じていた。でも、実際に行ってみると、ショーウインドーではなかった。映画のセットではなかった。人々が沢山生活し、歩いていた。「映画の出演者、エキストラ」のように着飾っていない。貧しい人々だ。

 又、マスゲームの練習をやってる子供たちを見た。日本と同じように、キャーキャー、ワーワーいいながら騒いでいる。そして楽しげだ。「えっ!児童虐待じゃないじゃないか」と思った。勿論、厳しい練習もあるのだろう。ただ、私が見たのは、楽しそうに騒ぎ、歓声を上げる子供たちだった。全体ではないが、現実の一面は見た。
 「マスゲームが終わると急に背が伸びる子供もいるんですよ」と言う。ここで伸び伸びと練習し、体を動かすことで発散するのだろう。背が伸びる理由も分かる。じゃ、私もやってみたい。急に背が伸びるだろう。
 又、金日成主席の生家、銅像、主体思想塔などは、人民が統制され、強制されて嫌々ながら行ってるのだと思った。しかし違った。花嫁衣装のお嫁さんが沢山来ていた。勿論、旦那さんや、親類の人々と共に。主席さまに報告に来るのだ。ヘエー、と思った。又、外国の観光客が多かった。特にヨーロッパの人が多い。だからなのか、商店ではユーロしか使えない。日本円や米ドルはダメなのだ。
 アムステルダムから来た観光客と話をした。私もイラクに行く時、アムステルダムに寄った。「アンネ・フランクの家と、ゴッホ美術館に行きましたよ」と言ったら喜んでいた。

⑤どうやったら日朝新時代を築けるか

『論座』(6月号)

 ともかく、意外なことが多かった。それに携帯電話がないのがいい。入国する人は皆、飛行場で預ける。だから、党幹部だって、誰も持ってない。静かだ。いい。日本では、携帯が氾濫し、携帯が「日本」と「日本らしさ」を破壊した。携帯を持つことで、「俺はこれだけ仕事してるんだ」「俺は世の中で必要とされてる人間だ」と見せつけるために、携帯をかけまくる。子供だって、友達に見放されたら終わりだと思って、恐怖感から一日中、メールをやり続ける。携帯代を払うためだけにバイトする。だから、本は読まない。バカになる。
 でも、もう「後戻り」は出来ない。愚かな日本だ。その点、北朝鮮は凄い。携帯はない。ある事件があって、それに携帯が使われ、それ以来、治安上の理由で禁止されたのだという。よくは分からない。しかし、どんな理由でも、携帯を禁止出来るのは、この国だけだ。将来、韓国と統一したとしても、「旧北朝鮮エリア」だけは「非携帯」にしてもらいたい。

 訪朝はたった5日間だった。それで何が分かったのか、と言われるかもしれない。しかし、意外なことが分かった。思ってもないことを考えた。「やはり」と思ったこともある。それと、5日間びっちり話し合い、それでかなり突っ込んだ話が出来た。「なぜ僕が13年間も拒否されたのか」の理由も教えてくれた。又、拉致問題の解決に向けての糸口が見出せた気がした。さらに、民間の「日朝交流」への展望も話し合った。日朝国交、よど号問題などについて私も、かなり思い切った提言をした。隣りにいた木村三浩氏が、「そこまで言いますか?」とあきれていた。「いや、それには私は反対です」とあわてて付け加えることもあった。
 「北朝鮮ベッタリのアホ左翼ばかりを受け入れてきたのが悪い。いくら北朝鮮について批判的でも、ブレない人間、信用できる人間を受け入れたらいい」と私は提言した。何なら、「北朝鮮を糾弾する会」を作り、文句を言い、批判する人だけに限って訪朝団を作る。それを受け入れ、ともかく、「ひたすら聞く」。それだけをやってもいい。そして、あとは自由に北朝鮮を見てもらう。そうしたら、北朝鮮のイメージも変わる。「あっ、我々の忘れてきたものがある」と思うかもしれない。あるいは、「やっぱりダメな国だ」と思う人もいるだろう。それでもいいではないか。そして、日朝のホンネの交流が始まる。新しい時代が始まる。そう思う。
 では、第一回目のレポートはこの位にしよう。

【だいありー】
『映画芸術』(4/23号)
  1. 4月23日(水)成田発18時10分の飛行機で北京へ。21時05分着く。もの凄く立派な空港だ。出来たばかりだ。新しい。世界一だそうだ。北朝鮮大使館から北朝鮮行きのビザをもらう。本当に行けるんだ、と実感する。北京のホテルに泊まる。
  2. 4月24日(木)午後2時、北京空港発。1時間半でピョンヤン空港に着く。TVなどの映像で見た通りの簡素でシンプルな空港だ。金日成さんの肖像が掲げられている。やっと来れた。本当に来たんだと、緊張した。党の幹部の人が中まで出迎えに来ていた。驚いた。VIP入口から入る。車でホテルへ。「ここがピョンヤンか」と車の窓から風景、街並みを見続ける。食事のあと、夜遅くまで会議、討論。
  3. 4月25日(金)車で南の方の信川(シンチョン)博物館に行く。朝鮮戦争の時に米軍に多くの人が殺された。その時の写真、記録がある。絵画もある。それが又、実にリアルというか、身の毛がよだつほどだ。米兵一人一人の表情が恐ろしい。憎々しげだ。このことは又、次回にでも紹介しよう。
     そのあと、山に登り、ここで弁当を食べる。広々とした美しい公園だ。帰って、この日もピョンヤンのホテルに泊まる。夜遅くまで会議。
  4. 4月26日(土)金日成主席の生家を訪問する。凄い人だ。毎日2万〜5万人が訪れるという。午後、南の方に行く。政府の招待所なのかもしれない。ここに26日(土)、27日(日)と2日間泊まる。2日間、びっしり会議・討論だ。夜、空を見上げて驚いた。星が大きい。多い。きれいだ。こんなに星が大きいとは思わなかった。空に近いからなのか。空気がきれいだからか。「アラブに行った時も、星がこんなに大きくてきれいでしたよ」と木村氏が言う。
  5. 4月27日(日)一日中会議。でも、その合間に、木村氏は党の幹部たちと卓球やビリヤードをやる。日朝スポーツ交流だ。木村氏は互角の腕前だ。たいしたものだ。私は、いづれも無能なので、ただ見ていた。
  6. 4月28日(月)午前中、会議。午後、ピョンヤンに移動する。金日成主席の銅像、主体思想塔などを見る。マスゲームの練習をしている子供たちがいる。さらに、街を見て回る。デパートなどを見たり、本屋に寄ったり。いろいろ興味深い本を買った。それから、ホテルに帰って会議。夜は、歓送会を開いてくれた。焼肉店で。もう、帰るのかと、淋しい気もする。でも、言うことは言ったし、大いに議論した。今後の方向も確認し合った。自分としては大いに成果のあった訪朝だと思う。オリンピックの聖火がこの日、ピョンヤンに来た。夕食の時、テレビで見た。整然と大歓迎している。これはいいと思った。
  7. 4月29日(火)朝9時の飛行機でピョンヤン空港から北京空港へ。北京に着き、ホテルに荷物を置いてから天安門広場へ。凄く広い。20年以上昔に来たことがあったが、その時よりも明るくて、騒々しい。夜、木村氏の知り合いと会う。どこにでも友人がいるんだ。「世界の木村」だ。携帯は鳴りっ放し。「あっ、インドの政治家からですよ」とか。日本との打ち合わせとか。
  8. 4月30日(水)15時20分、北京空港発。3時間半で成田へ。ホッとする。空港に新聞社の人が迎えに来ていて、取材される。
  9. 5月1日(木)3時から河合塾コスモ。「現代文要約」と「基礎教養ゼミ」。ゼミの時、生徒と食べようと前日、北京空港でチョコレートを買ってきた。学校に行く前に何気なく見たら、「賞味期限」が08年3月15日。ヤベー。生徒が食当たりしたら大変だ。大事な生徒に食べさせてはいけんと思い、急いで日本のお菓子を買っていった。しかし、ひどいよね。あんな大きな空港の大きな店だから、信用しちゃうよ。チョコレートは勿体ないから、フェロー、職員さんに。「覚悟のある人だけ食べて下さい。責任は一切とれません」と言った。でも、皆、パクパク食べていた。
     夜、木村氏らと打ち合わせ。
  10. 5月2日(金)一日中、家で、たまった仕事をしていた。午後7時、阿佐ケ谷ロフト。いろんなデモの映像が流される。それをめぐって話す。勿論、北朝鮮の話もした。「議論はしたが、いい国ですね」と言ったら、塩見孝也さん(元赤軍派議長)に、「お前は洗脳されたんだ!」と罵倒された。よりによって塩見さんに言われるとは。有難いお言葉です。
  11. 5月3日(土)図書館に行ったり、ビデオ屋に行ったり、取材を受けたりと忙しかった。日本は携帯があるから、うるさい。これだけは「北朝鮮化」してもらいたい。この日から映画「靖国」が上映。どこも満員だそうだ。私は4回も見たから、「名探偵コナン」を見に行った。「コナン下敷き」を買った。これで勉強もはかどるだろう。背も伸びるだろう。
  12. 5月4日(日)取材が何件かあって、忙しい。ボーッとしてしまった。何を言ったかも覚えてない。きっと、マズイ事、危ない事も言ってるんだろうな、この人は。香港のテレビ局の取材は面白かった。いろいろ考えさせられた。
【お知らせ】
  1. 5月7日(水)一水会訪朝団の緊急記者会見をやります。午後5時半から6時半まで。高田馬場のサンルートホテルです。そのあと、7時から一水会フォーラムです。篠原常一郎氏(元日本共産党国会議員秘書)の「元・日本共産党職員が見た中国共産党」です。同ホテルで。
  2. 5月10日(土)午後2時から4時30分。「マスコミ市民」主催で、筆坂秀世さん(元日本共産党No.4)と私の対談をやります。テーマは大闘論「憂国主義と社会主義。一致点はあるのか?」。場所は渋谷区立千駄ケ谷区民会館です。(JR原宿駅7分です)。
  3. 『映画芸術』(4月23日号)が発売中。映画「靖国」の李纓監督と私の対談が載っている。

    〈国会議員による検閲試写、公開直前の上映中止、出演者の使用拒否など不穏な話題の渦中にある映画「靖国」、そこに描かれた事態の本質を語る〉

     随分長いタイトルだ。7ページ。かりな突っ込んだ話をした。
  4. 月刊『論座』(6月号。5月1日発売。朝日新聞社)も、特集が〈映画「靖国」騒動への疑問〉。私も原稿を書いている。「映画を論じている僕らも実は、出演者の一人なのです」。20枚書きました。森達也さんと斎藤貴男さんの対談もあります。
  5. 月刊『創』(6月号。5月6日発売)も、〈映画「靖国」上映中止騒動〉の特集です。ロフトでやった右翼の上映会のことも詳しく報じられています。私の連載では、〈元凶は「反日」という言葉〉を書いてます。又、宮台真司さんと私の対談も載ってます。〈映画「靖国」上映中止騒動が市民社会に示したもの〉。11ページの長時間対談です。
  6. 『週刊新潮』(5月1・8日ゴールデンウィーク特大号)の特集「ゴールデン・スクランバー」では塩見さんのことが出ていました。

    〈「塩見孝也」元赤軍派議長は「駐車場の警備員」になっていた〉

     偉いですね。70才近くになって、初めて労働意欲に目覚め、働いています。人民と同じ生活をしないと人民の気持ちが分からないからでしょう。なかなか、出来ることではありません。清瀬市のシルバー人材センターに相談に行って、職を得たそうです。時給1000円。働き始めて4ヶ月、まじめに働いたので副々班長に昇格し、時給も50円アップした。月に9日間勤務し、月給は約5万円だそうです。ワーキングプアーだ。
     記事の最後に友人が語っている。
     「彼は元々、純粋な人。自分がよしと思ったら、何も躊躇わず駐車場の管理人になったのだと思います」  この「友人」は誰かって。私しかいないでしょうが。他にも、「友人」としていろいろ話をしたのにな、記者に。カットされちゃった。
     最近の映画で「母(かあ)べえ」というのがあった。山田洋次監督、吉永小百合主演だ。夫は治安維持法で逮捕され、獄中に。奥さんが小学校の先生をやりながら、必死に支える。「塩見さんがモデルじゃないの」と私は思った。美人の奥さんが小学校の先生で、夫を支え、子供を育てるというのも一緒。

    「えっ、吉永小百合のような美人なんですか、奥さんは?」と記者。
    「……」
    「どうしたんですか。黙っちゃって」
    というようなやり取りもあったんですよ。
  7. 5月20日(火)かつて宝島のムック本で好評を博したものが、続々と宝島社文庫になる。この日、『日本の右翼と左翼』、『巨大組織の裏側』と『ニッポンの黒幕』が出る。三冊とも私も書いてます。
  8. 5月中旬に新しい本が出ます。文学・映画評論家の川本三郎さんと私の対談です。『本と映画と「70年」を語ろう』(朝日新書・740円)です。
     本の帯には、こう書かれています。

    〈天皇制、テロ、三島由紀夫、暴力革命、三丁目の夕日。
     「70年」への後ろめたさとシンパシー。なぜ、いま書くのか!〉

    詳しくは来週紹介しましょう。あっ、来週の月曜日(5月12日)に全国の書店で発売ですね。
  9. 6月16日(月)午後7時、阿佐ケ谷ロフトです。ガンダーラ上映会。私も出ます。