仙台市にはミッションスクールが多い。東北学院、宮城学院、尚絅、ウルスラ…と。だから仙台の人は皆、いい人だ。信仰的だ。ミッション・スクールが多いのは、何も戦後の欧米化のせいではない。もっと前からだ。慶長18年(1613年)9月、伊達政宗は家臣支倉常長(はせくら・つねなが)をメキシコ、イスパニア、ローマに派遣した。慶長遣欧使節だ。この頃にさかのぼる。
この時、支倉はローマ法皇への親書やイスパニア国王に提案した「申合(もうしあわせ)条々」を持って行った。その内容の第一は、「仙台藩内でのキリスト教の布教を全面的に保護する」というものだった。
ここまで伊達政宗が決断するということは、それまでにも、キリスト教との接触、理解があったからだ。支倉使節団は今から395年前。その前から、キリスト教への理解があった。400年以上前からの「仙台の意志」だったのだ。
だから私が仙台の東北学院高校に入ったのも、仙台人の「宿命」だったのだろう。伊達政宗の「意志」だったのだろう。
東北学院大学は有名だ。そして、中、高一貫の付属の学校がある。高校からは入れない。ただし、当時、つまり私が高校に入った年だから1959年(昭和34年)だ。ベビーブームへの対応として、東北学院では「高校からも入れる学校」をつくった。中・高一貫とは別に、「東北学院榴ヶ岡高校」が出来たのだ。その時、私も入った。
キリスト教に、どっぷり浸かった高校生活だった。苦しいこと、悲しいこと、惨めなこと、いろんなことがあったが、今では懐かしい。
卒業してからもう40年以上になる。ある夕方、ふと懐かしくなって、ネットで「東北学院榴ヶ岡高校」を見てみた。歴史や概要、学校への行き方などが書かれている。そして、「主な卒業生」が出ている。フーン、どんな人が出てるのかな?と思って見た。ゲッ!と叫んだ。驚いた。何と、私がトップで出ている。いいのかよ、高校の公式サイトに私なんかを出して。入学者が激減するぞ。と思った。でも、公式サイトではなかった。フリー百科事典「ウィキペディア」だった。でも、入学しようとする人は必ず見るだろう。キリスト教の学校で、東北大などへの大学進学率が高いから入ろうと思ったのに、「卒業生の代表が右翼かよ!」と驚くだろう。「そんな学校、受けるの止しなさい!」と親が言うかもしれない。申し訳ない。でも、私のせいじゃない。
「主な卒業生」には、12人の名前が出ている。有名な漫画家、作家、映画監督もいる。こっちの人たちの方が有名だ。そうか、分かった。卒業順だから第一期生の私がトップになってるだけだ。じゃ、12人を紹介しよう。
いやー、驚いた。歴史は浅いのに凄い人達が出てるんだ。サッカー選手、医者、県議、市議、作家、映画監督、漫画家、アナウンサー、フォトグラファー…と。それに、(恥ずかしいところでは)右翼。そうだ、同級生に機動隊に入った奴もいるぞ。昔、デモをしていて、衝突したことがある。激突してる時に、「クニオ!久しぶりだな」と声をかけられた。「終わったらコーシーでも飲まねが」と声をかけられた。出来るわけ、ねえだろう、バカ!権力の犬とお茶したら、「スパイだ」と査問され、埋められちゃうよ。
それにしても、46年の歴史の中で卒業生に左翼になった人はいないんだろうか。あるいはオウムとか。そうだ。沖縄サミットの時、喜名昌吉さんが「裏サミット」を主催し、私も呼ばれた。いろんな人がいたが、沖縄の牧師さんに会った。「東北学院榴ヶ岡出身です」という。嬉しかったね。牧師になってる人もいるんだと驚いた。「でも在校中に洗礼を受けた奴はいないよな」と私が聞いたら、「いえ、います」と言う。そして具体的な名前を5、6人あげる。エッ?知らなかったな。クラスメートにも気づかれずに、ひっそりと洗礼を受けてたんだ。まるで「隠れキリシタン」じゃないか。と思ったが違う。ミッション・スクールだ。別に御法度ではない。誇らしいことだ。名誉だ。でも、本人たちは照れ臭かったのだろう。 あの時、榴ヶ岡に来た人は皆、県立一校や二校を落ちて、学院に来た。キリスト教なんてどうでもいい。ともかく必死に勉強し、大学に入ることだ。皆、そう思っていた。いや、そう思ってたはずだ。だから、真面目にキリスト教を学ぼうとする人はいなかった。ましてや洗礼を受けるはずがない。と、固く信じていた。でも、いたのだ。偏見だった。
そうだ。「主な卒業生」の話だ。漫画家の荒木さんは有名だ。『AV女優』を書いた永沢さんのの本も読んだことがある。田代廣孝監督の映画『あふれる熱い涙』も見たような気がする。あれっ、ルビー・モレノが出た映画かな。そうか、私は映画評を頼まれて、書いた。それが映画のパンフに載った。その時、監督が、「学院榴ヶ岡の出身です」と言ってたような気がする。いかんなー、記憶力が悪くて。家の中を探してパンフを探してみよう。
それと、驚いたが、一水会の幹部にも「学院榴ヶ岡」の出身者がいた。最近知った。五十嵐隆君だ。一水会本部付きだという。「君は何期生なの?」と聞いたら、知らないという。「ダメじゃないか。愛校心がないよ。俺なんかちゃんと知ってるよ」と言った。「鈴木さんは一期生だから忘れようがないでしょう」と言う。まあ、それもそうだが。
一水会フォーラムの時、隣にいた佐藤信一郎君が、「私も宮城県です」と言う。よく、ロフトで見かけた青年だ。いつの間にか一水会に入り、幹部になっていた。一水会の政治局補佐だ。ここは出世が早い。「君も学院?そうしたら一水会は学院閥になるよ。学院の校歌を一水会の歌にしよう」と言ったら、「いえ、築館(つきだて)高校です」と言う。「じゃ、築館女子高の加藤さんは知らない?生高連(生長の家高校生部)の後輩なんだけど?」「知りませんよ。時代が違うんだから」と一蹴された。
ここで再び、ウィキペディアで「東北学院榴ヶ岡高等学校」を引いてみる。
〈東北学院榴(つつじ)ヶ岡高等学校は、宮城県仙台市泉区にある私立の高等学校。通称、榴(つつじ)。宮城県内では主に「学院榴ヶ岡」や「榴ヶ岡」と呼ばれる。キリスト教(プロテスタント、福音主義:日本基督教団)系の学校である。東北学院高校の兄弟校であるが同高校とは異なり、男女共学・私服制の高校である。 もともとは、東北学院高校の榴ヶ岡校舎という位置づけだったが、1972年に独立。今日に至る〉
これを読んで、アレッと思った。「榴ヶ岡高校」は「男女共学・私服制」になったとあるが、学院高もそうなったのだと思っていた。違うのだ。榴ヶ岡だけが急激に「自由化・民主化」したのだ。昔は、あんなに厳しく、まるで収容所のような学校だったのに。
仙台で共学校は珍しい。ほとんどが男女別だ。男は一高、二高、三高とある。女は一女、二女、三女となっている。
男は県立を一つしか受けられない。一高か二高を受けて落ちたら、グンと落ちて私立に行くしかない。それでは大学に入れない。それで高校に入るための浪人も出た。
これではマズイと、今から49年前の1959年に仙台の外れ、榴ヶ岡公園のそばに、「東北学院榴ヶ岡校舎」が出来た。米軍キャンプをそのまま使っていた。1学年は3クラス。1クラスは45人。それに教会と便所があるだけの平屋だ。その1組が私たちだ。全部で135人。全員、一高、二高を落ちた人間だ。「一高や二高に入った友達もいるだろう。君らは残念ながら落ちた。勝負は3年後だ。東北大に入って、彼らを見返してやれ!」と、モロに復讐心を煽りたてられた。
そして、猛勉強につぐ猛勉強だ。服装はうるさかった。ちょっとでも乱れている人間は、教師に殴られた。停学になった人間もいる。男女交際は厳禁。デパートで女子高生と知り合って話をした、というだけで退学になった。
私は教師を殴って退学になったが、「桃色遊戯」じゃなくてよかった。
そんな厳しい学校だったのに、今は、郊外の泉市に移り、広大なキャンパスになった。そして、何と男女共学になり、制服は自由になった。納得出来ない。許せんよね。
ウィキペディアにはこれに関し、面白い事が書かれている。
〈男子校時代には特に学習面においてスパルタ教育の方針が強かった。そのことが大学進学実績に貢献し仙台一高・仙台二高の滑り止めとしての地位を保っていたが、共学化された1995年以降は低迷している〉
ウーン、そうなのか。我々の頃は、スパルタ教育で、禁欲的に勉強していた。だから、一、二高についで、あるいは並んで、進学率もよかった。ところが共学になってからは進学率もガクっと落ちたのだ。女の子がいると、服装にも気を使うし、勉強以外に気を使うことが多い。楽しいだろうが、勉学への集中力は落ちる。
それに、どんどん女性の割合が多くなる。成績順にとってたら、そのうち女子だけになるかもしれない。そしたら、「東北学院榴ヶ岡女子高校」になってしまう。私の出身校は女子高になる。「ヘエー、鈴木は女子高出身か?」と変態扱いされちゃう。
そうそう、ネットには「東北学院校歌」が出ていた。これは「本校」の中・高一貫校も大学も、そして榴ヶ岡も全て同じだ。一水会フォーラムの時、榴ヶ岡高校の後輩、五十嵐君に、「榴ヶ岡の校歌、おぼえてるか?」と聞いたら、「忘れました」と言う。いかんな。卒業したのはつい最近じゃないか。私なんて半世紀前の卒業だよ。でも、キチンと歌える。そして、その場で歌ってやった。「凄いですね!」と五十嵐君は驚いていた。私は「愛校心」があるんじゃよ。愛校者は信用できるんだよ。では校歌を紹介しよう。ネットでも聴けるようだから、ダウンロードして皆も聴いてみんしゃい。いい歌だ。(あっ、あんなに苛められ、退学になったのに、なんといじらしい愛校心でありましょうか)
東北学院校歌
いいですね。特に3番なんて、「培いし大和心」だよ。でも、そんなことは教わんなかったな。「日の丸」「君が代」もなかったし。まァ、だから、よかったともいえるな。もっと大きな普遍的な愛を学んだんだよ。この校歌は大正10年6月にE・H・ゾーグと青木義夫氏の両人によって作られたものだという。古い歌だ。
そうそう、今の国歌「君が代」も、外国人が作曲したのだが、はじめは五つほどのバージョンがあった。その一つに「賛美歌風」のものがあった。荘厳で実にいい。ぜひ、これに戻してほしいね。昔は「神国・日本」といってたんだし。
榴ヶ岡高校での生々しい実態と私の凄まじい体験については、私の『失敗の愛国心』(理論社)を読んでほしい。そこに詳しく書かれている。
それと、以前、月刊「創」の私の連載で一回、取り上げたことがある。2004年5月号だ。「ミッション」と題して、榴ヶ岡の同窓会のことを書いた。私は同窓会など出席できる資格がないのだが、当時の教師、同窓生が哀れに思って呼んでくれたんだ。嬉しかったですね。半世紀ぶりに昔の同級生と会いましたね。そして、礼拝に出席し、賛美歌を歌い、聖書も読みました。心が洗われる一日でした。
よし、ついでだ。「創」に書いた原稿も載せよう。少し長くなるが、読んでくんなまし。
◎ミッション(『創』2004年5月号より)
3月1日(月)午後6時から仙台で東北学院榴ヶ岡高等学校の同窓会。その前に1時から、第43回卒業式があるので、そこにも参加してほしいという。僕らは栄えある「第1回卒業生」だし、今年は還暦だ。でも、よく僕なんかを呼んでくれたと感激した。問題児だったし、本当は第1回卒業生ではない。だって卒業直前に退学になったからだ。
でも、僕を呼んでくれた。嬉しい。43年ぶりの「和解」だ。仙台駅からタクシーに乗った。ところが渋滞に巻き込まれ、車は進まない。焦った。「ヤベー、遅刻したら又、ぶん殴られちゃうよ」と思い、怯えた。気分は高校生に戻っている。43年の歳月なんかどっかに吹っ飛んでいた。学校に着いてからも、後輩の卒業式なのに、自分が卒業生のような気分になっていた。「あっ、これから早稲田に入るのか。そして左翼学生と闘うんだろうな。その後は産経新聞に勤めるんだろうな」と。
東北学院はミッション・スクールだから卒業式だって日の丸も君が代もない。こんなもの、なくっていい。実にスッキリとしている。聖書を読み、祈祷し、賛美歌をうたい、牧師さんの話を聞く。清々しい。心が洗われるようだ。でも不思議だ。43年前は、こんな高校生活が嫌で嫌でたまらなかったのに。規律でがんじがらめに縛られ、教師には毎日殴られていたし、「何が神の愛だ。バカヤロー」と思い、イエス・キリストを怨んでいた。「右翼のくせに何でキリスト教の学校を出たんだ?」と今でも訊かれることがある。でも、好きで入ったわけじゃない。県立二高を落ちて、仕方なく入ったんだ。僕らのような落伍者を救済する為に作られたのが榴ヶ岡高校だった。東北学院大学は昔からある。その附属の東北学院中学・高校は「中高一貫」だ。だから高校からは入れない。仙台は男は県立一高、二高があり、女は一女高、二女高、三女高がある。あとは私立だが、グンとレベルが違う。その隙間を狙って、本校とは別に東北学院榴ヶ岡高校を作った。だから、そこには一高、二高を落ちた人間がドッと来た。
昭和34年(59年)に我々第一期生が入学した。45人のクラスが三つ。計135人だった。榴ヶ岡にある米軍宿舎跡をそのまま使った。平屋のバラックだった。月浦利雄校長の入学式での挨拶が忘れられない。「自分から進んでこの学校に来た人は誰もいないだろう。その悔しい思いをバネに3年間、死んだ気で勉強し、大学に合格してほしい」。まるで予備校の入学式のようだ。ただ、予備校は勉強だけしてればよいが、ここでは毎朝礼拝があり、聖書の授業があり、試験もある。キリストの愛について学び、三位一体、「山上の垂訓」を覚え、聖書の目次を暗記させられた。何の意味があるんだと思っても試験があるし、落とすと卒業できない。
先生たちも崇高なミッション(使命)を持っていた。精神の未開で荒れた高校生に規律を教え、その上で神の愛を説いた。又、第一期生がどけだけいい大学に入れるか、その実績を示さなくてはならない。いや、それ以前に、「榴ヶ岡高校の生徒は違う」と他の高校に、親たちに見せなくてはならない。だから、厳しかった。収容所のようだった。ちょっと遅刻したくらいで殴られる。毎日、服装検査があり、ズボンの幅がちょっと長いとか、学生服のカラーがちょっと高いとか、ハンカチを忘れたとか、そんなことで殴られた。長髪は禁止で、五分刈りと決まっていた。
体罰だけでなく、逸脱した生徒への処罰も峻厳を極めた。ちょっしたことで停学になった。又、タバコを持ってた生徒やカンニングが見つかった生徒は即、退学になった。中には、デパートで女子高生と話をしただけで退学になった生徒もいた。「桃色遊戯をした為」と廊下に貼り出されていた。女子と話をしたら桃色遊戯なのかと驚いた。
「ミッション・スクールの生徒としての自覚を持ち、男女関係において誤解を受けるようなことは一切してはいけない」と先生は言う。だから、「姉や妹とも一緒に街を歩いてはいけない」と言う。さらに、「年とったお母さんならいいが、若いきれいなお母さんなら一緒に歩いてはダメだ。とにかく誤解を受けるようなことはするな」と言うのだ。
59年に入学したのは135人。62年に卒業したのは123人。差し引き12人が退学になったのだ。1割だ。その後、43回、8389人の卒業生が出た。
第43回卒業式に参列した1回生は11人。そして午後6時からの同窓会には40人が参加した。僕らを殴ってくれた先生も参加している。お礼参りをしてやろうかとも思ったがやめた。あんなにいじめられたのに、「楽しい思い出ばかりです」と挨拶してる同級生もいる。馬鹿か、こいつは。昔の事を忘れたのか。アルツハイマーか。さらに、「マッサージやチョーク投げもされましたが…」と歴史を歪曲し、先生に媚びている奴もいる。ビンタがマッサージかよ。「言い換えを許すな!」と思った。
須田先生に会ったんで、「よくチョークをぶつけられたし、殴られましたね」と言ったら、「そうだっけ」ととぼけている。「でも(教師は)皆やってたし。私なんか、まだいい方じゃないの」と言っている。反省がまったくないよ。そうだ。チョークが飛んできた時、咄嗟に僕は避けた。後ろの奴に当たった。誤爆だ。先生は誤爆を謝りもせず、いきなり僕を殴った。「イエス・キリストは全人類の罪を背負って十字架にかかった。お前は卑劣にも自分の罪を逃れようとした」と言う。
まあ、昔の事を言っても仕方ない。卒業式に出て驚いたことがある。女性もいる。「あ、今は男女共学だよ」と言う。学生服を着てる生徒はいない。「今は服装も自由だよ」。ゲッと思った。じゃ、体罰だってないんだろう。茶髪の生徒も結構いる。俺達は何の為にあんなに苦しい思いをしたのか。「ちくしょう。青春を返せ!」と心の中で叫んだ。
「でも、お前が来てくれるとは思わなかった。嬉しいよ」と先生や同級生に言われた。僕は卒業間際に、職員室に乗り込んで先生を殴った。積年の怨みがあったが、私憤だ。その場で退学だ。ただし、他の高校には転校させない。いろんな事があって、半年間、教会に通って懺悔の生活。それで、翌年の9月、一人だけの卒業式。月浦校長が一言、「やけになるなよ」。実に印象的な卒業式だった。だから、第一回の卒業生ではなく、一・五期生だ。
でも、僕の退学について別の説もあった。医者になってる高橋君が言う。「あの時は悪かったね。僕らも“やれ、やれ!”って煽ったんだから。皆の代表で邦男がやってくれたんだよな」。エッ?そうなの。個人的な怨みでやったと思ってたのに、もう「義民伝説」が生まれている。佐倉惣五郎か大塩平八郎のようだ。
「あん時は悔しかったろうな。皆の代表で決起したのに、退学になって。早大模試では全国でトップだったのに、入試も受けさせてもらえないし」と佐藤君は言う。まさか、そんなに優秀じゃないよ。
「日本地図を出して、“日本は危ない。特に日本海沿岸だ。北朝鮮のスパイが来て、日本人が攫われたらどうする! 国防をちゃんとしろ”と言ってたよ。まるで林子平だ」と田中君は言う。「あの頃から拉致を予見してたんだよ」。それじゃ予言者じゃないか。そんな記憶はまったくない。生きてるうちから奇妙な「伝説」が生まれちゃったよ。
「邦男は凄いんだよ。早稲田では左翼の学生と一人で闘って、ストをやめさせたんだから」「去年も、北朝鮮に行って拉致された人々を全員連れ戻そうとしたんだ」と言う人もいる。話がオーバーに伝わっている。
「邦男の影響で俺も民族派になった。今、正論の会に入ってる」という奴もいる。影響なんかしてないよ。そいつが言う。「今日の卒業式はけしからん。国旗・国歌もない!」と。だから言ってやった。
「あんなものは必要ない。校歌・校旗があれば十分だ。それに宗教は国境を越えるんだ。もし昔、高校で国歌・国旗が強制されてたら、僕は国旗を破いてたね。それで退学になってたね。反抗期の子供に強制するもんじゃないよ」。
そしたら皆、「そうだ、そうだ」と言ってた。キリスト教だって高校で、強制されたから嫌でたまらなかった。今はキリスト教の素晴らしさも分かるが、分かるまでに30年以上もかかった。世界の文学、音楽、絵画を理解する為にはキリスト教を知る必要がある。いや、キリスト教を知ることなしに〈世界〉も理解できない。だから、いっそ日本の高校は全てミッション・スクールにしたらいい。ただし、体罰や強制なしにだ。「全てミッションに」が行き過ぎなら、中学、高校で、もっと宗教を教えたらいい。社会に出てからも「免疫」になる。国旗・国歌を強制したり、狭い「愛国心」教育をするよりはずっといい。