始まりは佐高信さんだった。そして最後の締め括りも佐高信さんだった。
去年、「週刊金曜日」で私は佐高さんと対談した。佐高さんとは何度も会ってるが、キチンと対談したのは初めてだ。それも、西郷隆盛についてだ。楽しい対談だったし、なかなか刺激的だった。佐高さんは『西郷隆盛伝説』(角川書店)という力作を書き上げ、その直後の対談だった。
私は、「西郷は右翼のルーツ」だと思っていた。西郷を尊敬する人々、たとえば頭山満などによって〈右翼〉は生まれた。だから西郷・頭山の系譜を継承するのが〈右翼〉だと思ってきた。いろんな所で、私は、そう書いてきた。だから当然、右翼は皆、西郷を尊敬している。出来うれば西郷のようになりたいと思う。「小西郷」になる。それが右翼人の理想だ。
つまり、西郷は「右翼のもの」であり、右翼が独占していた。だから、佐高さんのような左翼的な人が「西郷が好きだ」と言うと、エッ?と思ってしまう。驚く。どうして?と思った。そこから対談は始まった。左翼的な人にも「西郷好きはいますよ」と佐高さんは言う。土井たか子さん(元社会党委員長)もそうだという。
去年、ある会合で土井さんに会った時に聞いた。本当だった。「好きですよ。あのどっしりとして、心が広いところが。そして、やる時はやる。決断力もある」と言う。そうか。ダメなものはダメ。やるっきゃない。その決断があるから、山が動いた。西郷が乗り移ったのかもしれない。
西郷は明治維新の時、庄内藩(山形県)を攻めた。その責任者だ。だが、賊軍である庄内藩に対して、決して、驕りたかぶった振る舞いはなかった。幼い藩主に礼を尽くし、藩に対しても寛大な処置をした。これには庄内藩の人々も感動した。そして、西南戦争の時は、庄内藩からも若者が駆けつけ、参戦している。又、庄内には西郷を讚え、偲ぶ「南洲神社」がある。
佐高さんは庄内の出身だ。子供の頃から「西郷びいき」の風土の中で育ち、それが後に『西郷隆盛伝説』を書かせることになったのだろう。
頭山満は荻の乱に参加しようとして捕われ、このため西南の役には参加出来なかった。その「やましさ」もあって、向陽社をつくり、これを後に玄洋社と改めた。1881年だ。これが日本の右翼運動のルーツとなった。なぜ、西郷がそれほどまでに日本人に慕われ、理想化されたのか。『民間学事典・人名編』(三省堂)を見てみよう。かなり長く、詳しく書かれている。後半のところだけ紹介しよう。西郷は西南戦争で敗れ、自刃した。そのため逆賊とされたが、1889年、罪を許され正三位を追贈された。この後だ。
〈西郷の死としもに、西郷伝説、西郷神話が生まれ急激に理想化された。とくに明治維新以降の西欧化、近代化についていけず反対する人々は、西郷を反政府活動の原点と考えるようになる。明治維新は完全ではなかった。西郷は第二、第三の維新をめざしたのだ。それにつづけ!というのが国家改造運動、右翼のスタートとなる。
頭山満の玄洋社は西郷の見はてぬ夢を実現するという形で生まれ、右翼の源流になった。西郷こそは永遠の維新者だと理想化され偶像化された。ロシア革命でいえばレーニンの精神がスターリンによって歪められたのであり、もしトロッキーが生きていればこんなことにはならなかったのに…と永続革命が正当化されたようにだ。右翼に利用されたきらいはあるが、それでも西郷は日本でもっとも愛され親しまれた政治家であることは間違いない〉
なるほど、そういうことなのかと分かった。この『民間学事典・人名編』はいろんな人が分担して書いている。詳しいし、面白い。西郷については好意的に書いてるから右派的な人が書いてるのだろう。でも、「右翼に利用されたきらいはあるが」と書いてるから右翼の人じゃない。右翼嫌いの人が書いたんだ。そう思って最後の所を見たら、「鈴木ナントカ」と書かれていた。ゲッ、知ってる人だ。
「週刊金曜日」の佐高さんとの対談は好評だったようだ。「新左翼の雑誌で何故、西郷を取り上げるのだ」という批判もあったようだが。佐高さんは「週刊金曜日」の社長だ。だから佐高さんが西郷論を書くのはいい。でも、「悪名高い右翼」の鈴木ナントカを登場させるのは許せん」と怒った人もいたらしい。
今年の2月1日(金)、在日の人の権利を考える集会があって、聞きに行った。そこで元日本共産党の革命家・樋口篤三さん(79才)に初めて会った。「『週刊金曜日』の対談よかったね。でも、ちょっと短いよ。僕も西郷は大好きなんだ。左翼の革命運動にもその精神が必要だと思っているんだ」と言う。
驚いた。元日共の人でもそんなことを考えているんだ。樋口さんは言う。
〈日本の社会主義者は元々は、西郷好きが多いし、中国の古典も学び、「仁義」「道徳」を考えていた。堺利彦、幸徳秋水などが代表的だ。(社会主義者とは言えないが)「東洋のルソー」といわれ、幸徳の師匠だった中江兆民もそうだ。
ところが大正時代にロシア革命があり、その影響で日本共産党が出来た頃からおかしくなった。ロシアのものが素晴らしい。日本のものは全てダメだ。となった。そして、日本の古い体制、それを支えた道徳・仁義などを打倒するのが革命だと誤解されたのだ〉
エッ?そうなんですか!全く知らなかった視点だ。「実は、そうしたことを近々、本にするんですよ」と言う。同時代社から出すという。その出版社の社長・川上徹さんも来ていた。この人も元日本共産党で除名になった人だ。その凄まじい体験を書いている。本の題名も凄い。『査問』、『アカ』というのだ。その川上さんが言う。「もうすぐ本が出来ます。そうだ。その中で鈴木さんと対談してもらおう」。
ところが樋口さんは、その直後、病に倒れられた。入院した。本は早く出したいという。革命家としての記念になるし、80才の誕生日までに出したいという。誕生日は5月だ。それまでに出したい。退院まで待っていられない。
「じゃ、誕生日をズラせばいいでしょう。調べてみたら、本当は12月だと分かった。とか言って」と私は革命的提案をした。共産党なら党史を変えたりするのはお手のものだ。誕生日くらい移動させたらいい。しかし、二人とも、もう共産党ではない。そういう日共的な「悪しき慣習」からは脱却している。私の提案は否決された。
「よし、病院で対談をやりましょう」と川上さんは言う。革命家の考えることは違うもんだ、と私は感動した。でも、ヤダな。何かあったら、私のせいにされる。「大丈夫です。点滴をやりながら対談をします。それに家の人もついていて、何かあったらすぐに対談をやめます」と言う。何かあったら、すぐに医者も呼べる。その意味ては一番安全な場所なのかもしれない。
反対する家人を川上さんは説得した。そして前代未聞の「点滴対談」は強行された。初対面から8日目に「嵐の対談」は決行された。08年2月9日(土)の午後1時15分から始まった。歴史的な対談だった。西武池袋線ひばりケ丘の病院だった。
緊張しましたね。私は。樋口さんを興奮させてはマズイ。でも樋口さんは気持ちよさそうに喋る。3時間近く対談した。とても教えられることの多い対談だった。
樋口さんは19才の時に革命運動に参加する。運動歴60年だ。8人兄弟姉妹がいたが、お兄さん3人は戦死している。19才、20才、21才の時だ。合計すると60才になる。「私は一人で三人よりもはるかに長く生きた。こんなに長く生きていいのかと思う」と言う。凄い話だ。だから、思い切って、この本も書いた。左翼なら誰も考えない「仁義」や「道徳」について敢えて書いてみた。そう言う。
主に労働運動の現場で闘ってきた。しかし、党からは二回除名、資本から四回首切りされた。
長い運動の中で樋口さんは考えた。左翼運動には真の戦略がない。又、内部で喧嘩ばかりしている。本当は「敵の中にも味方を探す」べきなのに、やってることは「味方の中に敵を探す」ことばかりだ。これはおかしい。又、運動の中で貫かれるべき「心のあり方」「精神のあり方」を全く考えない。人間としての「道徳」がないし、「仁義」もない。そんなことを言うと、「何を古くさいことを言ってるんだ」「反動だ」と言われる。なるほどと思って聞いた。
日本のマルクス主義の初期の指導者だった堺利彦は、「孟子を読む」という大論文を書き、日露戦争を糾弾した。
「彼ら(日本の帝国主義者)はいわく、日本は東洋の盟主たるべき天職ありと、しこうしてその心に思えらく、日本はついに東洋の大部分を占領して大帝国を建つべしと」
「人の国を取ることは決して文明の扶植に必要なるものにあらず、人の国の自治を妨ぐることは決して文明の扶植に必要なるものにあらず。文明の扶植はすなわち孟子のいわゆる仁政を施すにあり」
堺の論調は西郷隆盛、勝海舟の文明観を継承している。初期の社会主義者はそうしたものを持っていた。ところが日本共産党がモスクワの第三インターナショナル日本支部となった時(1922年)から、孔子や孟子の教えは封建的な古い道徳として捨て去られた。モスクワだけが唯一、正しいものとなった。では世界の革命党が皆、そうだったのか。違う。中国の毛沢東、ベトナムのホー・チ・ミン、キューバのカストロ、ゲバラなどには「仁義」があり、「道徳」がある、と樋口さんは言う。
ホー・チ・ミンは、1947年、『仕事の仕方の改革』という本を書く。彼の革命道徳は、儒教の東洋道徳−「仁義道徳」のベトナム版だった。党建設の12ヶ条と革命道徳の五項目として仁、義、志、勇、鷹をあげ、次のように述べた。
〈川には源がある。源がなければ、川は枯れる。木には根がある。根がないと、木は枯れてしまう。革命家には道徳がいる。道徳がなければどんな才能があっても人民を指導することはできない〉
これは、日本の軍隊にはなかった。と樋口さんは言う。本来なら、「天皇の軍隊」として、最も仁義、道徳を守らねばならないのに…。その点に、アメリカを破ったベトナムの人民の強さがあるという。又、中国人民解放軍の質や強さもそこにあるという。
中国人民解放軍の「三大規律」はこうだ。
この2番目は、僕らも(右翼学生でありながら)、感動して読んだことがある。「これだけは俺たちも守ろう」と思った。それが後に右翼運動に入った時、「運動の為なら企業を恐喝してもいい」という人たちへの反撥となる。「企業回りをして資金を得る」ことへの違和感となる。だから、毛沢東が日本の新右翼をつくったようなものだ。中国人民解放軍の「八項注意」も感動的だ。幼稚園児にかんで含めるように言う。
きわめて当然のことだ。でも日本軍では守られない。いや、(日本の)左右の運動家だって守ってない。「何を古くさいことを」とか、「こんなのはブルジョアの論理だ」と言う。デモでも集会でも、「敵」を攻撃する時でも、左右は皆、乱暴な言葉を使っているし、借りても返さないし、「実力行使だ」といって暴力を認める。
又、そんな「古い道徳」を無視し、超越することが「革命家」「維新者」の条件だと錯覚する。樋口さんは、それは間違っているという。
驚いた。こんなことを言う人は樋口さんくらいだ。又、樋口さんは西郷の次の言葉こそが「革命家の魂」
だという。
〈 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり〉
なるほど、そうだね。命も金も官位もいらぬ者こそが革命家になれる。堺利彦は「孟子に学ぶ」を書き、石堂清倫によれば、当時の社会主義者は「志士仁人的社会主義」だという。凄い言葉だ。いいねー。
又、神山茂夫、高野実なども中国の古典を読みよく引用したという。
樋口さんは、思想的に一番影響を受けたのは、この神山茂夫と春日庄次郎だったという。二人とも包容力があり、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらない」という精神と生き方があったという。西郷的な人間が、かつては共産党にもいたという。
しかし、全体的に言えば日共は、西郷にも中国の古典にも関心を持ってなかった。そんなものは「旧道徳」だと軽蔑していた。ソ連だけが唯一素晴らしいものだと思った。
だが、捕まると、よく「転向」した。天皇主義者になった。なぜなのか。樋口さんに聞いたら、こう言っていた。
〈弾圧が厳しかったという面はあったと思う。そのうえ共産主義者たちはあまりに日本のことを知らなかった。勉強不足だった。そこを突かれた。モスクワからの指令、特にスターリンに自分が理論を教わったから、それが唯一の真実だと思って育った人は、それが崩れると崩壊するんです〉
なるほどと思った。これは確かに言えるだろう。又、井上清の『西郷隆盛』(中公新書。上・下)を読んで感動したという。(私も、この対談のあと、読んでみたが、実によかった。あっそうだ。4月末、北朝鮮に行った時、ピョンヤンのホテルで読破したんだ。それだけに感動が大きかった)
樋口さんは対談の最後に、凄いことを言っていた。「ゲバラと西郷こそが道徳の巨人だ」と言う。さらに、カストロの偉大さを称える。
〈それと関連してキューバ革命がある。革命後数年経ったころ、革命記念日の式典に遺族を招待する。そのとき、当然革命軍の遺族は呼ばれるけど、同時に反革命軍の兵士の遺族も招待する。バチスタ政府軍の個々の兵士は「祖国のために」戦った点は同じだと。日本の新旧左翼、内ゲバ思想ではありえない。この辺のところは堀田善衛の『キューバ紀行』(岩波新書)に詳しい。カストロ、ゲバラはぬきんでた道徳革命家、道徳思想家なんだ〉
エッ?本当ですか、と思わず叫んでしまった。〈敵〉の遺族すらも招待するなんて…。日本では絶対にありえない、こんな大きな愛の思想は持ちえない。対談が終わって、さっそくこの本を探した。岩波新書はもう絶版で手に入らない。その後に出た集英社文庫のがあった。1995年3月初版だ。それをネットで買って貪り読んだ。樋口さんが言ってた部分はあった。こう書かれていた。
〈…彼によって、「御両親」と呼びかけられている、名誉ある遺族席のなかには、フィデル(カストロ)たちの襲撃によって落命した兵営内のバチスタ軍兵士の「御両親」たちもまた、倒れた若い革命家たちの遺族と同様に、一緒に招かれていたのであった。
軍隊に殺された若い革命家たちの両親と、その革命家たちに殺された兵士たちの遺族とが、同席しているということが、それが何を意味しているか。一考に価することであろう。世界のいままでの革命の歴史に、そういうことは絶えてなかったと思われる〉
うーん、これは世界の歴史でもないことだ。1959年のキューバ革命の直後だ。さらに、フィデロ・カストロは言う。「襲撃したわれわれに抗して戦い死んだ勇敢な兵士たちの妻や子供たちも、(襲撃の側で死んだ人々のそれと)平等に尊敬され、保護され、援助をうけなければならない。彼ら(死んだ兵士たち)はキューバの不幸について責めがあるわけではない)
堀田善衛は又、感動的な話を紹介している。「アサヌマ・イネヒロ紡績工場」のことだ。この工場を建設中に、浅沼稲次郎氏の暗殺があり、それを悼んでこの名をつけたという。事件は1960年だから、48年前のことだ。日本ではこんなことはない。異国の社会主義者の死を悲しみ、悼んで、紡績工場の名前をつけたという。優しい人々だ。日本人の一人として感謝したい。いつか、キューバに行くことがあったら訪ねてみたい。
この『キューバ紀行』はいい本だ。一気に読んだ。「解説」には、面白い話が紹介されている。堀田はキューバで、ある「気持ちのいい話」を聞いた。黒澤明の『用心棒』はカストロをモデルにしたのではないかという。
〈一つの村で二組のギャングが張り合っていて村人たちが困りはてている。そこへ『用心棒』の三船敏郎が入って行き、一度は失敗して、村はずれの御堂にとじこもり、そこで策を練り直し、村人と力を合わせて、ついに二組のギャングを退治する。
カストロも一度失敗し、シエテマエストラの山にこもっているし、二組のギャングとはパチスタ独裁政権とアメリカの植民地資本ということになる〉
なるほど、楽しい連想だ。「用心棒」も実は革命家なんだよ。そして、小さな力で大きな敵を倒すときは、同じようなことを考えるものだ。
〈この紀行は古典的価値を持っている。『インドで考えたこと』『上海にて』と並んで、これは堀田紀行文学の三名作の一つといえるだろう〉
じゃ、私も他の二作品も読んでみなくっちゃ。ところで、この「解説」を書いた人は誰だ。と思って見たら、何と、佐高信さんだった。これには驚いた。運命を感じた。佐高信に始まり、佐高信に終わった。だって、佐高さんの『西郷隆盛伝説』を基に、私は対談をした。それを読んで樋口さんが「対談をやろう」と誘ってくれた。そして、対談の中で堀田の『キューバ紀行』の話になり、それを読んだら、佐高さんが「解説」を書いていた。ウーン、不思議なことだ。
この集英社文庫は1995年に出ているが、巻末にこう書かれている。「この作品は1966年1月、岩波書店より刊行されました」。
浅沼さんが暗殺された6年後だ。樋口さんは、この岩波新書を読んだんだ。私も、それを読もうと思っていたが、絶版だった。そして、集英社文庫を読んだ。でも、これも運命だ。この集英社文庫を読まなかったら、「佐高信に始まり佐高信で終わる」ことにはならなかった。とすれば、初めから神によって方向づけられていたのかもしれない。「道徳の巨人たち」に出会うように運命づけられていたのだ。
樋口篤三さんの本『社会運動の仁義・道徳』(同時代社)には、こんなサブタイトルが付いている。
「人間いかに生きるべきか」
そして、本の帯には、こう書かれている。
〈「道徳の崩壊」の中に現代の危機を見る。自分の「正義」ばかりをかざす狭量な左翼・社会運動に、同じ病根がありはしないか。生き方としての仁義・道徳を論ず。鈴木邦男対談「甦れ!西郷精神」収録〉
著者の樋口さん自身も「道徳の巨人」だ。少なくとも、左翼の中で、仁義・道徳を正面切って言い出した人は他にはいない。その点でも、勇気のある人だと思う。
樋口さんと対談したのが今年の2月9日(土)だ。その10日後、カストロ議長が引退を発表した。不思議な縁だ。カストロは81才。樋口さんの1才上だ。「これは別れではない。私の唯一の望みは、思想の闘いで一兵卒として闘うことだ」とカストロは声明を出している。
カストロは1959年のキューバ革命で実権を握り、76年に国家評議会議長に就任した。半世紀近くトップに君臨してきた。
キューバ革命、そしてカストロ、ゲバラ…は日本人にとっても憧れだった。今でも、ゲバラの顔をプリントしたTシャツを着ている若者は多い。ゲバラの本や映画は今でも書かれ、作られている。1970年に「よど号」をハイジャックした赤軍派の9人も、初めはキューバに行く予定だった。それが成功していたら、彼らの〈その後〉も随分と違ったものになったろうに。