こんなものが果たして「情報」なんだろうか、と思ってしまった。
「街を歩けば携帯に情報」と記事を読んだからだ。産経新聞(7月3日付)に出ていた。
NTTドコモは今秋発売する携帯電話「907iシリーズ」で、利用者の好みや居場所に合わせ、周辺の店舗やイベント、娯楽などの情報を自動的に配信する「生活支援型」情報サービスを開始するという。
しかし、こんなのは「情報」ではないし、「生活支援」でもない。国民は騙されている。目を覚ませ!と言いたい。斎藤貴男さんが前々から警告していたことが、(残念ながら)現実になっている。
〈この「生活支援型」情報サービスとは何か。例えば繁華街を歩くユーザの位置を携帯の電波やGPS(衛星利用測位システム)で確認し、ユーザーの事前登録情報やスケジュールなどから推測した好みに合わせ「○×でセールを実施中」「□△レストランではドリンクが無料」といった情報を携帯へ送り届ける〉
つまらん。これは「情報」ではない。単なる「宣伝」のたれ流しだ。企業の利益至上主義の「えじき」にされているだけだ。我々は今、駅の改札は携帯やSUIKAで通る。自販機も携帯で買える。コインロッカーもそうだ。ユーザは「事前登録」するまでもなく、全ては「つつ抜け」だ。プライバシーも何もない。
GPSで全ては分かる。今、この人は新宿東口の改札を出た。そこで「情報」が入る。「駅構内のドーナツ屋さんには、あなたの好きなオールドファッションドーナツが焼き上がりました。あなただけに一割引きです」「東口を出たらすぐに、サクラヤに行って下さい。そこでは、今、あなたの必要なデジカメが、二割引きです」…と、次々と出てくる。
女の子と歌舞伎町をデートしていれば、「今、さくら通りですね。“北の家族”ではあなたの好きな枝豆が食べ放題です。あなただけに向けたサービスです」「前からあなたが見たいといっていた『共産主義者はセックスが上手!?』が、もう30分後に始まります」と、「お得な情報」が次々と出てくる。枝豆の好きな君なら、ついフラフラと入ってしまう。
「今、食事が終わったところですね。じゃ次はカラオケに行きましょう。今なら、歌広場がすいてます。あなたの好きなサザンの歌が、ここは一番多いんですよ」…と。
うん、これは便利だ。俺の好みを知っていて、何でも「情報」を打ち出してくれる。オレの「可愛い奴隷」だ。そう思うのだろう。「まあ、あなたって素敵ね。こんなに多くの情報を持って、コントロールしてるのね」と、デート中の女も、キミを尊敬して見つめるのだろう。本なんか、今まで一冊も読んだことがないと豪語している彼女だ。「情報」というのは携帯のことだと信じて疑わない。
この馬鹿女のまわりにも、本を読む男はいる。しかし、皆、クライ。貧乏だ。本なんか読んでも何にもならない。そんなものは、「死んだ知識」よ。携帯にあるものこそが「生きた知識」「生きた情報」だと思う。大体、今どき、内村鑑三や倉田百三なんて読んでても全く意味ない。仕事に役立たない。お金も儲からない。暗くなる。ますます女にもてなくなる。世捨人だ。バッカみたい。そう言われちゃう。
産経新聞に戻る。ドコモのこの新サービスは、5000万人もの顧客へ個別に情報を届けられる強みを生かし、携帯電話にしかできないサービスとして展開するという。ドコモは5000万人もいるのか。国民の半分だ。携帯全体は1億以上だ。誰でもが持っている。赤ん坊から、寝た切りの老人まで持っている。持ってない人間は、よほどの偏屈な人間か。旧時代の人間だ。あるいは友達が誰もいない人間だ。いや、友達が誰もいなくても、「情報」を得るために携帯を持っている。つまり、携帯を持ってない人間なんていない。私らのまわりを見ても、一人もいない。
この「全員が持っている情報ツール」を利用して、「情報」を送る。受ける。いいことだ。でもね。いいことばかりではない。産経では、最後にこう言っている。ドコモへの注文だ。
〈ただ、膨大な顧客情報をドコモが独占的に利用するビジネスになれば、携帯向けサービス業界などから反発が起きる可能性もある。好みや行動範囲といった高度な個人情報を扱うため、プライバシー保護との両立も求められている〉
しかし、国民は本当に「プライバシー保護」なんて求めているんだろうか。携帯会社に対しては、「全て」を売り渡している。だってユーザは事前登録情報やスケジュールなどを打ち込み、そこから判断してもらい、「都合のいい情報」をもらおうとする。何のことはない。「あなたはこれが好きだといったじゃないか。じゃ、ここへ行きなさい」と携帯に命令されているのだ。まさに携帯は〈神〉なのだ。携帯を奴隷として使ってるつもりが、奴隷になってるのはあなた自身なんだよ。
個人情報だとか、プライバシーだとか言いながら、実際はそんなものは投げ捨てている。よく、首から写真入りの社員証(入館証)をぶら下げている人がいる。外に出て、又ビルに入る時に必要だから、下げたままだ。本当は恥ずかしいことだが皆、誇らしげに下げている。「私はこんな大企業に勤めているのだ!」と示したいのだ。でも、実際は「犬の首輪」と同じだ。私はこの企業の奴隷ですよ、飼い犬ですよ、と言ってるだけじゃないか。
携帯だけではない。パソコンを持っている我々だって皆、自分の情報は丸投げだ。ネットで本を買うと、「この本を買った人は、こんな本も買っていますよ」とお知らせがついてくる。「うん便利だな」と思っていた。又、面白そうなサイトを見ると、「こっちも見てごらんなさい」と他のサイトにリンクできる。「おっ!これも便利だ」と見てしまう。それで、ついつい、深夜までパソコンの前に釘付けだ。アッという間に、5時間もパソコンをやってたりする。私も眠くて仕方ない。
私はパソコンの下らないサイトは見ないようにしているし、エロサイトを見たい誘惑とも必死に闘っている。でも、この「関連書」と「関連サイト」へのリンクだけは絶対的に評価している。そして、ずっと使ってきた。ところが、ある日、思いがけないことに気がついた。私は、パソコンについてはかなり詳しいつもりだし、関連書はほとんど読んでいる。だが、萩上チキの『ウェブ炎上=ネット群衆の暴走と可能性=』(ちくま新書)を読んでアッと思った。こんな記述があったのだ。
〈興味深いソーシャル・ネットワーク分析の成果があります。バルディス・リレブス(IBM等のクライアントによって使用された組織されたネットワークの分析方法論の開発者)の調査「Political Books」によれば、米アマゾンにおける政治関連書のリコメンド(「この商品を買った人はこんな商品も買っています」)のリンク構造を分析すると、右派と左派の本が見事に分化しているというのです〉
驚いた。でも、冷静に考えたら、当たり前ですよね。保守派の人の本を買ったら、同じような保守派の本ばかりが紹介されている。左翼的な人の本を買ったら、左翼的な人の本ばかり紹介されている。ついつい買う。さらに「そうだ、そうだ」と思う。つまり、知らず知らずのうちに、「一つの立場」の本しか読まない自分になっている。別にアマゾンが思想を誘導しているわけじゃないが、結果的にはそうなっている。考えてみると恐ろしい。
僕らが学生の時は、右も左も、いろんな本があって読んだ。一つの全集を読むと右も左もある。いや、一冊の本の中でも、いろんな立場の人が書いていた。今は、それがない。本も雑誌も、「一つの立場」だけだ。それも圧倒的に「保守派」が多い。だから、若者はどんどん「保守的」になる。
戦前戦中、「思想善導」という言葉があった。国家が個人に対し、「いい考え」を持てと指導する。「いい考え」とは「愛国心を持ち、共産党を憎む思想」だ。でも、この時は、「国家が権力でやっている」とはっきり分かったから、その怖さも見えた。しかし、今の(保守的にだが)「思想善導」は、国家や権力は出ていない。私たちが自由に、自分の意志でやっている…ように見える。そして保守的な考えだけを持つようにされる。少しでも「異端」「左翼的」「過激」「反体制的」な考えは、「読む必要もない!」と初めから排除されている。考えてみたら、本当に恐ろしいことではないか。私のように、常に権力を疑っている猜疑心の強い人間でも、つい、コロリと騙されていた。『ウェブ炎上』ではさらにこう言っている。「右派と左派の本が見事に分化されている」の次だ。
〈 どういうことかと言うと、政治的にリベラルな思想の持ち主はリベラルな本ばかり読み、政治的に保守的な思想の持ち主は保守的な本ばかり読む。両者は互いに論難しあうことが多いにもかかわらず、論敵の本をきちんと読み比べている人はごくわずかで、自分の思想にあった本ばかり読むだけの人が、基本的には多いということだ。
このような傾向は、書籍の購買履歴だけでなく、ブログなどを用いたコミュニケーションにおいても観測されますし、右派と左派、あるいはフェミニストと反女性運動などの政治的な対立や趣味のトライブ(tribe=部族)においても観測されます〉
これは重要な指摘だ。ネットに詳しい私ですらも見落としていた視点だ。人間は本来、易(やす)きに流れ、低きに流れるものだ。〈ある考え〉を持つと、同じ考えの人々と仲良くなり、「うん、そうだ」「そうだ」と思い、同調し、気分が良くなる。そこで安心する。精神衛生上はいい。又、自分と同じ考えの人が他にもいる。こんなに多くいる。と「発見」すると、それだけ自分が認められたように思う。アイデンティティを発見する。ネットを旅して、「自分探し」が出来たと思う。
これは私らも陥りがちなことだ。まあ、「同じ考え」の人を発見し、喜んでいるだけならいい。そのうち、「違う考え」の人は許せなくなる。「なんでこんな馬鹿なことを考えてるんだろう」「なぜ、私のようにキチンと正しさを理解しないのだろう」と思う。それで、批判を書き込む。その人を「正しい道」に立ち戻らせようと思う。「思想善導」をしてやろうと思う。「親切心」からだ。自分の力じゃ足りなかったら、同好の士に呼びかける。「皆で注意してあげましょうよ」「こんなことに気がつかない人がいるのよ」と。それで書き込み、批判が集中する。これが「ウェブ炎上」だ。
こういう人たちは、きっと、「親切」なんだ。又、「きれい好き」なんだろう。ネットの世界も、きれいにしておきたい。ゴミのような〈考え〉は直して、掃除して、きれいにしてあげたい。そう思うのだろう。
つまり、知らず知らず、「同好の士」だけが集まり、自分たちの考えを確認し、強固にしていく。まるで右翼か左翼団体のようだ。「イギナーシ!」と言って清潔な「同一性の共同体」に酔っている。みんな一緒だ。同じことを考えている。同志だ。つながっている。だから心地よい。そして、少しでも違う考えの人は「ナンセンス!」となる。存在が許せない。「汚れ」は取り除かなくては、と思う。ああ、又もや、「いつか来た道」だ。愚かな過ちを何度も繰り返すのだよ、人々は。
大体、20才や30才で、「これこそが絶対の正義だ」「真理だ」と思い込むことがおかしい。(私自身の自己批判を兼ねている)。そして、読みもしないで、「それ以外」は全て間違っている。汚れていると断定する。何という傲岸、何という不遜。こんな排外的、偏狭な考えは、本当は「日本精神」からは最も遠いのに。日本人の考えは元々はもっともっと自由で、アナーキーなものだった。
例えば昔のことだが、討論会で左の人と闘う。「敵」の言うことは何でも否定し、論破しなくてはいけないと思う。うまくいっても「平行線」に持ち込もうと思う。絶対に負けてはならないと思う。相手の考えを聞かない。すぐに口をはさみ、否定しようとする。
でも、何年かして、その「敵」の本を一冊、まるまる読む機会があった。又、「敵」の講演を一時間、聞く機会があった。エッ?この人はこんなことを思ってたのか、と気付く。聞くべき点は一杯あったんだ。何て私はバカだったのかと思う。
多分、昔の私は、恐かったのだろう。敵の話を全部聞いたら、丸め込まれる。だからその途中で遮って、反論しなければならないと、潰さなくてはならないと思った。今、自分の好きなサイトばかりを見、同じような本ばかりを読んでる人にも言えるよ。
それで私は反省した。「敵」の話もキチンと全部聞こう。それで論破されるのなら、それでいい。自分が間違っていたんだ。自分が未熟だったのだ。謝ればいい。出直せばいい。そう思うと、フッと肩の力が抜け、楽になった。
大体、「同じ考えの人」ばかりいたら、窮屈だろう。淋しいだろう。同じ傾向の本ばかり読んでたらら、進歩も止まる。たとえ嫌いでも、「敵」だと思っても、意図的に、異質な人の話を聞き、異質な本を読むようにしなくちゃならん。
だから、ネットにも「注意書き」を入れたらいい。「脳の健康のために、同じ傾向の本ばかり読むのはやめましょう。読み過ぎに注意しましょう。でないと、バカになります」と。
思想的「偏食」をやめましょう。ということだ。その点、私らの学生時代には、いい「思想全集」が沢山出ていた。前に「劇団再生」の高木氏との対談でも言ったが、たとえば、筑摩の思想全集では、「国家主義」「ナショナリズム」と同じシリーズに「マルクス主義」や「アナーキズム」もある。いろんな立場の人の本を平等に読めた。そこで私らは迷い、考えた。又、一冊の本の中にも、いろんな立場の人が書いていた。
今は、その「迷い」「考える」ことがない。そんなことが嫌いなんだね。ネットに向かう若者は、手っ取り早く、同じ考えの人を発見し、「そうだ、そうだ!」と言って和んでいる。安心している。でも、それじゃ、人間じゃない。進歩がない。ネコだよ。低いレベルで固定化されている。だから、書籍の「購買履歴」も変えたらいい。「この本を買った人は、絶対にこういう本は買いません」とか。そして具体的に、「読みそうにない本」のリストをあげる。そしたら、「チクショー!読んでやるよ」と思って、読む人もいるだろう。
野球選手やプロゴルファーは、右半身だけを使ったら、必ず左半身も使うようにして、体をほぐす。頭脳の健康のためにも、これはやった方がいい。『諸君』『正論』『will』ばかり読んでる人は、無理に時間を使って、同時間、『週刊金曜日』『情況』などを読む。そして安易に結論を出しかけている自分に踏みとどまらせる。小さく固まるのを防ぐ。そうした工夫や努力が必要だと私は思いますね。
皆さんは誤解しているのです。何時間もパソコンに向かって、〈情報〉を見ているようで、実は〈情報〉なんか見てないのです。自分に都合のいい〈景色〉だけを探し、他は捨てているのです。「デイリー・ミー」という言葉があります。「The Daily Me」ですな。「私の時間」という意味です。パソコンの膨大な量の中で、私と同じ考えだけを見て、「デイリー・ミー」を作っているんです。無意識に嫌いなものをバサバサ捨てて、自分で編集し、「自分の時間」を作っているのです。『ウェブ炎上』でも、その辺のことをこう書いてます。
〈…このように多くの人が自分にとって心地のよい話しに耳を傾けていった場合、人やトライブによって見ている風景がまったく異なってくることでしょう。もちろん、もともと私たちは人によって見ている風景がまったく異なるものですが、ウェブでは、「見ている風景がまったく異なる存在が可視化される」ということが時に起こります。
見ている風景のまったく異なる存在が見えてしまった場合、ディスコミュニケーションが生じ、なんとかしなくてはという衝動に駆られることもあるでしょう。
そもそも必要な情報を選択するということは不必要な情報を排除するということと同じであり、似た者同士で集まりたいという欲望は、異質な者を排除したいという欲望と表裏一体です。「デイリー・ミー」を実現するためには自分(たち)にとって不都合な情報を切り離さなくてはなりません。いうならば「デイリー・ミー」は「デリート・ユー(delet you=あなたを削除する)」という要素を常に潜ませているのです〉
これは衝撃的な言葉ですね。我々ネット世代への重大な警告になってます。ありあまる情報があり、情報の洪水の中に我々はいる。その中で、我々はあらゆることを知り、人間の知識も、寛容度も、人間の幅も広かったはずだ。でも逆なんだ。人間がどんどん偏狭になり、頑固になり、視野は狭くなっている。さらに、「異質なもの」は見たくない。見たくないどころか、この世にその存在を許さない。抹殺してしまおうと思って、集中的に攻撃し、炎上させる。これは重大問題です。ネットの中で一番大きな問題でしょう。
ツール(道具)を使いこなせる技量や覚悟、心構えが出来る前に、ツールだけがどんどん進化したのです。ツールの進化に「人間の進化」がついて行けないのです。そうも言えます。
斎藤孝の『なぜ日本人は学ばなくなったのか』(講談社現代新書)でも、同じような〈危機〉が指摘されています。ツールは同じでも、そこに向かう人間の「覚悟」によって、大きな格差が開くといいます。
〈ネット自体は、良くも悪くもありません。ただ、人間の持っている一つの傾向を極端に見せる「増幅器」、あるいは「拡大鏡」であることは間違いありません。たとえばネガティブな思考を持つ人が集えば、一気に集団自殺にまで及んでしまう。あるいは向学心に溢れた人が集えば、架空の学校のようなものが出来て、有益な知識や情報の支援が行われることもあるでしょう〉
そうですね。探求心の強い人には、これほど強力な味方はありません。古本を探すのも、昔なら、何日も何日も神田の古本屋を歩いても見つからないということが多くありました。しかし、今は、どんな本でも一発で探せます。だから、ネットは「本探し」だけで十分だと言う人もいます。
逆に、エッチな人はさらにエッチになり、犯罪を企む人は、「悪の仲間」を見つけるのも簡単です。向上するのも、堕落するのも今までの何十倍の速度で、一気に出来ます。まさに「拡大器」です。さらに斎藤孝はこう言います。
〈その意味では、向上心の有無によって、インターネット社会では格差がより助長されるといえます。学びたい人は、とことん効率よく学べる一方、向上心のない人は互いに、傷をなめ合うように現状肯定的になるか、あるいは互いの存在を否定するような関係に落ち込んでしまう。その最たる例が、学校のいわゆる「裏サイト」です。先生への悪口や、特定の生徒をいじめるような書き込みが殺到するというネガティブな面が、日々極大化されてしまいます〉
ウーン、これは言える。気を付けましょう。心しましょう。オワリ。
7月5日(土)連塾に出た時の写真載せました。井上ひさしさん、松岡正剛さんです。それと、机を整理してたら、貴重な写真が出てきました。少し前の写真ですが、紹介しましょう。鳥越俊太郎さん、荒岱介さん、田中森一さん、筆坂秀世さんです。田中さん刑務所に入りました。