北京は暑かったです。でも、さすがは中国ですね。北京オリンピックの開会式はオリンピック史上最高のものでしたね。中国五千年の歴史の重みを見せつけてくれました。豪華絢爛な大歴史絵巻でした。私も目の当たりに見て、圧倒されました。現場で、リアルタイムで見て、感動しました。興奮しました。
その前に、開会式が行なわれた国家スタジアム(通称・鳥の巣)の前で写真を撮りました。この何時間か後には、北京市内全部が「光の祭典」の会場に変わるのです。凄いです。
中国は頑張ってます。よくやってます。地震やテロや外国のバッシングにも関わらず、よくここまで来たと思います。開会式には世界中の首脳が揃いました。
それにしても、日本のマスコミは心が狭い。卑劣ですね。もっとも一部の月刊誌、週刊誌ですが。まるでダダッ子です。お隣りの国の成功がねたましいのでしょうか。「北京オリンピックをボイコットせよ!」とか、「こんな国にオリンピックを開催する資格はない!」とか。さらには、「五輪テロが起きる!」と予告し煽っています。いいのかな、こんなことで。一部の雑誌が、「売れさえすればいい」という姿勢で、書く。ネットの個人攻撃、中傷よりもひどい。これじゃ国家の品格、雑誌の品格がないだろう。
オリンピックは政治とは別だ。分けて考えるべきだ。「いや、人権抑圧国家だからダメだ」というのなら、開催地に決まった時点で反対したらいい。今頃になって…と思う。それに、「こんな国に開催の資格がない」と言うのなら、じゃ、どこなら資格があるんだ。日本は又、オリンピックの開催地に立候補している。しかし、これだけ厳しい格差社会だ。国会議員の半分ほどが二世議員で、本当の民主主義はない。官僚の腐敗が極まっている。これだけ「通り魔」が多い国もない。危ない。死刑だって存置している。こんな野蛮で、非民主的な国にオリンピック開催の資格はない!と言われるだろう。そう言われても文句は言えない。つまり、北京オリンピック批判は天に唾する行為なんだ。
中国には、温かく協力してやればいい。日本も大人の余裕を見せてやればいい。「テロが起きている。ざまー見ろ。こんな国じゃ不安だ」と批判するだけじゃなく、「少なくともオリンピックの間は争いはやめろ。テロはやめろ!」と日本も声明を出したらいい。そして、中国の治安を守るために、日本の機動隊を貸してあげてもいい。
まあ、中国は断わるだろうが、何か協力できることはありませんか、と言う位は言ったらいい。洞爺湖サミットだって、莫大な警備費をかけて、大量の機動隊を送りこんだ。しかし、日本じゃ過激な左翼はいないし、もう政治テロなんてないよ。デモがあったって、小さなものだ。勝手にやらしておけばいい。まさか、沿道の市民を襲ったり、商店街に放火したりしない(もし、そんなことになったら、いくらでも取り締まったらいい)。今や、左翼は、ただのパフォーマンスだ。好きにやらせてやればいい。
それなのに機動隊が出るから、彼らもハシャイで、もめたりする。機動隊は、「なくてもいい騒ぎ」を、わざわざ作っているのだ。それで、「ほら、危ないデモがあるから、機動隊が出る必要があるんだ」と言う。原因と結果が逆だよ。
又、政治運動、反対運動する人は、デモをやったり、車で抗議をしたり、すぐに分かる。遠くからでも、はっきり分かる。さらに、警察は彼らの情報は全て握っている。だから、警備なんて簡単だ。
それに比べたら、アキバのような「通り魔」は誰が、いつ、急に「犯人」になるか分からない。こっちこそ警備してほしい。又、警察の半分以上は中国に貸してあげて、オリンピックの「治安」を守ってあげたらいい。日本の機動隊は世界一優秀だ。デモ隊を痛めつけず、殺さず逮捕する技術も世界最高だ。報道陣を誤爆することもない。その〈技術〉を中国に輸出したらいい。何なら、世界中の警察が協力して、中国に行ったらいい。それで、治安・逮捕の技術をめぐる「オリンピック」をやったらいい。
というわけで、話の枕は終わりだ。なお、一言、付け加えておきます。「鳥の巣」の前で写真を撮ったのは、去年の8月です。北京に行ってきたのは事実です。この何百時間か後には、ここで開会式が始まったのも事実です。開会式をテレビで、リアルタイムで目の当たりにしたのも事実です。私は何ら嘘はついちょりません。
北京オリンピックの開会式は8月8日の夜8時8分に始まりました。日本では1時間の時差ですから、9時からテレビ中継が始まり、何と、延々4時間です。凄いですね。再び中国が世界の中心になります。長安に都があって、世界中の人々が、長安を訪れた。そんな時代を思い出します。
さて、翌8月9日(土)の昼は、「アートで表現するYASUKUNI」に出席し、針生一郎さんたちとトークをしました。又、この8月9日(土)の夜と、10日(日)は、阿佐ケ谷ロフトに行きました。高木尋士さん率いる劇団「再生」の芝居を見る為にです。そして、芝居が始まる前のトークに出演する為です。この日阿佐ケ谷は「七夕祭り」でした。商店街は人、人、人で混雑。全然進まない。駅からロフトまで普通なら、3分位で着くのに、この日は20分もかかってしまった。だから2日間とも、大変だった。やっとのことで間に合いました。
劇団再生の芝居は、ドストエフスキー原作の『罪と罰』です。ただ、原作を忠実に劇化したものではない。原作を基礎にしながらも、高木流の解釈が入り、現代的視点や、夢や希望が入ります。題して、『Symphony #09・罪と罰、マジで大迷惑!』。
高木氏の意欲と野望がよく表れています。思想劇です。難解なところもあるが、あえて易しくしない。観客に媚びない。その孤高の精神はいいですね。
ラスコーリニコフという青年が質屋の老婆を殺す。その話です。自分のような優秀で、勤勉な学生には金がない。一方、老婆には金があり余るほどある。そして、ただ貯めているだけだ。その金は、ただ老婆の元で眠らせるのは勿体ない。自分のような優秀な青年にこそ使われるべきだ。お金だって、そう思っている。「私を助けて。こんな暗い所で一生閉じ込められるのは嫌!あなたの為にこそ尽くしたいの。救い出して!」と、お金は訴えます。そう聞こえます。
だから、ラスコーリニコフは決意します。行動に移すんです。しかし、普通の人は、ぼんやりとそんなことを考えてはいても、「実行」はしない。「思い」は正しくても、でも殺人はいけないと思う。「知行合一」ではないのです。その点、ラスコーリニコフは偉い。動機が正しいのなら、どんなことでも実行すべきだ。そう思う。これは政治的テロリストも同じだ。カミュは『正義の人々』の中で、そうしたテロリストの悲しき知行合一を書いている。
お金や女性を救い出したい。あるいは悪政に抑圧された人々を救い出したい。そういう〈愛〉の行為なんですね。全てのテロは。ラスコーリニコフも一人のテロリストだ。
ならば。愛から発し、それを行為に移したことを、後悔してはならない。昂然と胸を張っているべきだ。しかし、ソーニャにふれてラスコーリニコフは反省する。地面に接吻して許しを乞う。なぜなのか。動機は正しいが行為だけが間違っていたのか。単に、人間の決め事(法律)に違反するからか。あるいは、間違った行為を生じる動機は全て、正しくないのか。そんな深いところを考えさせます。そんな芝居です。
さらに、自らが信じ、その元に行動する〈思想〉、〈正義感〉、あるいは〈宗教〉。その存在理由をも問うのです。深い芝居です。「思想劇」だと言う理由です。
人間は考える葦です。考えるから人間です。考えなければ猫以下だ。本を読まない人間も猫以下だ。では、考えるとは何か。真理を発見する。思想を発見する。その過程に「考える」ことがある。だから、「考える」ことは価値がある。そうなります。西田幾多郎は1日を三分割し、「読書」「執筆」「思索」の時間にした。いくら読書し、執筆しても、それだけでは空回りだ。他人の考えを受けとり、それを書くだけだ。単なる「受け売り」だ。書を移す機械だ。思索がなければ、自分のオリジナルな思想は生まれない。人間にはなれない。
そして、思想は生まれます。正義も生まれ、宗教も生まれます。だから、それらは全て、人間が作ったものです。「産みの苦しみ」を伴って作ったのです。
しかし、不思議なことに、一旦、それらが生まれると、今度は、人間に命令します。人間が奴隷になります。自分が作ったロボットに命令される人間。そんな感じです。
だって、いろんな思想や宗教、そしてナショナリズムは人をエモーショナルに駆り立てます。行動させ、時には、人殺しをさせます。「戦争」はその極端な、あるいは典型的なものです。そして、思想、宗教、ナショナリズムに「命をかける」のが人間として最も貴いことだ。と思い込んでしまいます。日本の場合なら、「玉砕」や「特攻」はその崇高な典型になります。
そしてそのことに「呪縛」されます。私も、40年間、この「命をかけること」「死の文化」に呪縛され続けてきました。そして、2年間かけて、考え抜き、書きました。それが、『愛国の昭和』(講談社)です。高木氏も「同じテーマ」を別の方向から考えていたと思います。だから、何とか『罪と罰』の芝居に間に合うようにと思いました。又、出来て送ったら、芝居の稽古で忙しくとも、必ず読んでくれると思いました。実際、その通りになりました。
だから、9、10日のトークは、かなり、内容の濃いものになったと思います。まあ、私の力不足のせいで、その点をキチンと解明できなかったかもしれませんが。
いろんな思想や宗教、ナショナリズムに呪縛されてきた、ということは、我々は、マリオネットだ、ということです。芝居は、そのことを如実に表現しておりました。変ですよね。真理を探究し、人間を解放する為に思想、宗教、ナショナリズムがあるはずなのに、逆に人間を縛りつけている。そして、主人公である我々をあやつり、動かしている。
「立て、万国の労働者!」と高木氏は叫ぶんですよ。「鉄鎖以外、失うものは何もない!」という〈解放の真理〉を思い出せ!と叫ぶんですよ。
昔、私も、ヤマトタケルさんに言われたことがあります。「クニオ君、キミだってマリオネットなんだよ」と。それは、『ヤマトタケル』(現代書館)のイラストに出ています。清重伸之さんが書いたイラストですが、私には、本当にヤマトタケルさんに言われたと思いました。
その、「マリオネットの私」が、苦しみ、あがき、その操りの糸を断ち切ろうとしたのが『愛国の昭和』です。
この本を書き終わり、「あとがき」で私は叫びました。「40年の呪縛は解けた!」と。「古い自分は玉砕した!」と。
「だから、あの本は、鈴木さんの“遺書”であり、“再生の物語”なんですよ」と高木氏は言う。ウッ、鋭い!そこまで喝破した人はいない。一人の真の読者を得ただけでも私は満足だ。そうか。『罪と罰』も〈再生の物語〉だ。同じことなのか。
「確かに、あれは私の再生物語だ。だから私も“劇団再生”のメンバーだ。新入り劇団員なんですよ。ヨロシク」と言っちゃいました。
そうそう、青木雄二さんの話もしたな。『ナニワ金融道』の原作者だ。もう亡くなったけど、あの人は「私の原点はマルクスとドストエフスキーだ」と言っていた。私が連載している「マガジン9条」にも少し書いたけど、その続きだ。青木さんは、ドストエフスキーの中でも、『罪と罰』が最高だと言っていた。そして、最初の部分を暗誦してみせた。「七月はじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の間をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろと、K橋のほうへ歩きだした」…と。
それを何分間も、延々と暗誦する。私の書いた『夕刻のコペルニクス』(全3巻)を読んでくれたという。「鈴木さんもラスコーリニコフですよ」と言う。ギクリとした。いろんな危ない目に会い、ヤバイ事をしてきましたね、という意味で言っただけかもしれない。あるいは、「罪」を犯したが、まだ「罰」を受けてない。懺悔、再生はこれからだ。「ラスコーリニコフになりなさい」と言ったのかもしれない。
今、思い出すと、ちょっと怖い。青木さんの出版記念会の時、そんな話をしていた。そばで聞いていたある大手の出版社の人が、「それは面白い。ぜひ、二人で対談して下さい。うちから本を出しましょう」と言った。ぜひお願いします。と私は言った。しかし、青木さんは超多忙な人だし、今は無理だろうと思っていた。ところが、亡くなってしまった。悔しい。あの時、無理にでも頼んで、早く対談しておけばよかった。
「でも」と、今、考える。あの時、対談をやっていたら、青木さんに尋問されて、ついつい、「全て」を自白してしまったかもしれない。あの事件も、この事件も。まだ時効になってなかった時だ。秘密を抱えて呻吟する苦悩より逃れたくて、ついつい「自白」したかもしれない。個人的には気分は楽になるかもしれないが、私は、一生、刑務所の中だ。外にいて、こんなHPも書けやしない。
いや、私がラスコーリニコフなのではない。「赤報隊」こそがラスコーリニコフなのだ。自らの信ずる正義の為に人を殺した。そして何ら反省はない。今だって反省も懺悔もしてない。ソーニャがいないからだ。さらに、もう一つの事件の犯人もそうだ。モンスターだ。それらの事件について、詳細に書くことは出来ないが、彼らの〈心理〉や、その『罪と罰』は書けるかもしれない。「遺書というなら、それこそ遺書にすべきです」と高木氏は言う。うーん、迷う。じゃ、小説か脚本にするか。でも、私じゃ力不足だ。
「手記を出してもいい」と彼らは言った。あっ、いかんな。ヤバイ話を私は暴露しようとしている。やめよう。それに、その「ルート」を守り切れる自信がなかった。だから、それは出来なかった。「幻の本」になった。
「死ぬ前に遺書として書いて下さいよ」と高木氏は言うが、私の知ってることはタカが知れている。「関与」だって、タカが知れている。当人達に書いてもらうしかない。あるいは当人達に会って私が書くか。まあ、これは生涯の課題だ。「より道パンセ」の理論社にも、「死ぬ前に一冊」書くと約束したし…。又、他からは、チョー危ないテーマで本を書かないかと打診されてるし。私にはとてもとてもそんな勇気はありませんよ、と躊躇している。そして、躊躇している間に、時間だけがどんどん過ぎるのだろう。迷う。考える。私は弱々しい「一本の葦」だ。すぐに折れてしまう。