11月6日(土)、新潟県新発田市で、「三島由紀夫と蕗谷虹児」について講演した。蕗谷虹児(ふきや・こうじ)は新発田が生んだ偉大な抒情画家だ。その蕗谷と三島の接点。そして、三島の思い、さらに遺魂について話した。蕗谷については、まず記す。
〈大正から昭和の前半にかけて、夢見がちな「少女」のハートをつかんだ抒情画家たちがいた。その系譜は竹久夢二のエキゾチシズムから、高畠華宵、蕗谷虹児のモダン、そして中原淳一のスタイリッシュなイメージへとつながる。その始まりは、たおやかな江戸の浮世絵美人画であろうか、そしてその現代の末裔がつぶなら瞳にキラリと星が輝く少女マンガのヒロインたちである〉
現代の少女マンガのルーツになったのが蕗谷虹児だ。これは、神林恒道の『にいがた文化の記憶』(新潟日報事業社)に書かれていた。神林は、會津八一記念館館長だ。実は、「蕗谷虹児と三島由紀夫」の講演の翌日、新潟市のジュンク堂で講演とサイン会を行い、その後に、會津八一記念館を訪れ、そこで買った本だ。この本には、こんな記述もある。
〈「抒情画」の命名者は、蕗谷虹児だといわれる。抒情画家は、同時に詩人でなければならない。竹久夢二には「宵待草」があり、蕗谷虹児には「花嫁人形」の歌がある。華宵も淳一もまた然りである〉
ああ、あの歌かと思い出す人も多いだろう。「金襴緞子の帯しめながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」の歌だ。
抒情画家の中では文学への関心が最も強かったのは虹児で、自伝小説『乙女妻』などがある。
〈また「抒情」画家らしい純な魂を持ち続けたのも虹児だろう。夢二は派手な女性遍歴で知られ、華宵には少年愛への傾向があった〉
芸術家なんだから何をやっても許される。「芸術無罪」だ。しかし虹児は、純な魂を持ち続け、「虹児の生涯は、さながら一編の純愛物語である」と神林恒道は言う。写真を見ると、好男子だ。イケメンだ。女が放っておかなかったろう。しかし、夢二のようにはならなかった。意志の力なのか。
虹児は新発田の生まれだ。母は湯屋の看板娘で京風の美人だったという。新聞記者の父と駆け落ちして虹児を産むが、貧困の果てに27才で病没している。虹児は「花嫁」や「花嫁人形」を何枚も描いているが、それは若くして死んだ美しい母を偲んで描いたという。
母の死後、一家は離散。虹児は印刷会社にでっち奉公。夜学に通いながら絵を勉強。日本画家尾竹竹城の弟子になる。父の仕事の関係で樺太(サハリン)に渡り、旅絵師として漂泊の生活を送る。その後、上京、日米図案社に入社し、グラフィック・デザインの仕事に携わる。流麗で緻密な線画は、この時期学んで得たという。やがて竹久夢二に見いだされ、『少女画報』誌でデビュー。一躍時代の寵児となる。
しかし、そこで満足しない。安住しない。こんなものは身過ぎ世過ぎの仕事でしかない。本物のアーティストとして世に立つべく、家族と渡仏する。自己否定だ。そして、あくなき向上心だ。フランスでサロン入選を果たし、一流画廊で個展を開催。藤田嗣治の知遇も得る。日本に帰国後の虹児について、神林は書く。
〈帰国後は再び挿絵に専念。パリ仕込みのモダンな画風で人気は頂点に達する。そのファンの一人に中国の文学者魯迅がおり、上海から自らの訳語も添えた『蕗谷虹児畫選』を出版している。抒情画と魯迅の革命思想とがどこで共鳴し合ったのか、不思議な気がする〉
もっと不思議なのは、三島由紀夫との出会いであり、「共演」だ。11月6日(土)の「三島由紀夫と蕗谷虹児」のパンフレットには、こう書かれている。
〈昨年、初めて蕗谷虹児記念館を訪れた鈴木邦男は、2階の展示コーナーにあった一冊の装丁本を見て、驚愕した。その本は、蕗谷虹児が装丁し、自らの挿絵を入れた、三島由紀夫の『岬にての物語』だった。作られたのは1968年一あの衝撃的な死の2年前だ。前日、「大杉栄メモリアル2009」で講演したテーマは、「大杉栄と三島由紀夫」だった。新発田と無縁だと思っていた三島が、蕗谷虹児によって繋がれていた。それから、その真相を探る旅が始まった…〉
その「旅」について、11月6日は話をしたのだ。『岬にての物語』は決して三島の代表作ではない。20才の時に書いた、いわば若書きの作品だ。それなのに、死の2年前、豪華本として、特別な思いを込めて作った。限定300部。定価1万5千円だ。40年前の1万5千円だ。今なら、15万円か20万円だ。その豪華限定本の口絵と挿絵を蕗谷虹児に頼んだのだ。
その「謎」を解こうと思い、「蕗谷虹児記念館」の人や、新発田のいろんな人に聞いたが分からない。本をいろいろ読んでみたが分からない。「だったら、蕗谷さんの息子さんに聞いてみれば」と、記念館の人が紹介してくれた。そして話を聞き、「そうだったのか」と分かった。謎が解けた。11月6日は、そんな話をした。
当日は、私の話の前に、柳本幸子さんの歌があった。むしろ、こっちの方がメインだ。蕗谷と三島がらみの歌を歌ってくれた。「朝日新聞」(10月31日付・新潟県版)には、こうでている。私の講演のことを書き、その次に…。
〈もうひとり、登壇するのが新潟市出身のソプラノ歌手・柳本幸子さん。三島文学に詳しい柳本さんは、19世紀末から欧州に広がったデカダンス(虚無的な風潮)の影響を2人の共通点と指摘。
「2人が日本古来の文化や古典を志向したのも、その影響があるのでは」と話す。当日は「花嫁人形」や「平城山(ならやま)」などを歌う予定だ〉
「ソプラノ柳本幸子。三島由紀夫と蕗谷虹児の世界を歌う」と書かれている。当日は、「花嫁人形」「平城山」の他、8曲を歌ってくれた。素晴らしかった。それも、チェンバロ(笠原恒則さん)、リュート・ガンバ(白澤亨さん)も共演。「カッチーニAve Maria」。デュフリ作曲「三美神」。パッヘルベル作曲「アポロンの六弦琴」。ヘンデル作曲「オンブラ・マイ・フ」…などだ。
何故、この曲を選んだのか。又、三島と蕗谷に対する思いも語ってくれる。2人の惹かれた古代ギリシャの世界を再現してくれる。柳本さんは新潟市出身。東京音大卒業後、パリ、イタリア、スペインを中心に7年間を欧州で活動。イタリアで三島の小説に出会い、イタリア語で読み始め、さらに日本に帰国後、読み続けているという。三島が20才の時に書いた『岬にての物語』には特に感動し、この日、朗読してくれる。「言葉から音楽が聞こえてきます」。なるほど、と思った。三島の文章は音楽なんだ。
素晴らしい演奏会で感動した。とても贅沢な時間を持てたと思う。音楽で三島と蕗谷の世界を表現するなんて、他の人ではとても出来ない。客席の皆も、そう感じ、堪能した。もうこれで十分だ。私の講演は必要ないよ。と思ったけど、やりました。
「新潟日報」(11月5日)には、私についてはこう予告されていた。
〈…講師は右派の論客で作家の鈴木邦男さん(一水会顧問)。1970年に自決した三島は、その2年前に自作「岬にての物語」の装丁や挿絵を抒情画家、蕗谷虹児に依頼している。虹児の絵が好きだった母親にささげたといわれ、その絵は新発田市の蕗谷虹児記念館に展示されている。講演では、当時のエピソードや背景を語る〉
そうなのです。「謎」はこれだったんです。これは、蕗谷虹児の息子さん(蕗谷龍生さん)に私が電話をして、聞いたことなのだ。それを、去年、「月刊タイムス」の私の連載で書いた。「月刊タイムス」の連載をまとめて、『遺魂』(無双舎)を出版したが、この「蕗谷の回」は入っていない。第2巻が(出来たら)入れたいと思っている。
三島は死の2年前に、300部限定の豪華本を作った。1冊が15,000円。初めは、「楯の会」の資金集めかと思ったが、違う。豪華本を集める熱狂的なファンもいるが、むしろ、お世話になった人々に三島がサインして贈ったものが多い。三島の記念碑的な、思い入れのある豪華本だ。それも20才の時の『岬にての物語』だ。決して代表作ではない。それに、何故、蕗谷虹児に頼んだのか。
蕗谷の息子さんの話によると、三島と蕗谷はその前に何度も会っている。三島も好きだが、三島の母が特に好きだった。大正・昭和とかけて、蕗谷の絵は一世を風靡した。女性たちの心を捉えた。三島の母も大ファンだった。その母に捧げたのだろう。と言う。
なるほど、そうだったのか。と思った。三島は早熟の天才だった。早くから小説を書いていた。しかし父も祖母も、それを好まない。父は、三島の原稿を破り捨てたりもした。理解してくれたのは母親だけだった。母だけが、三島の原稿を全て読んでくれ、励ましてくれた。その母を残して、自分は自決する。親より先に死ぬことは最大の親不孝だ。その母に対し、敬意と愛情を込めて、この豪華本を残したのだろう。
この『岬にての物語』には、少年時代の〈三島〉本人が出てくる。文学に対し、唯一理解のある母親も出てくる。しかし、岬での避暑の体験は「小説」だ。
オルガンの音に惹かれてさまよい、そこで出会った兄妹がいる。どうも愛し合っているようだ。「禁断の愛」だ。主人公の少年と3人で「隠れんぼ」をやる。少年が鬼になっている間に、2人は消える。この世から消える。海に投身し、心中したのか。幻想的な小説だ。
柳本さんが言うように、文章が音楽になっている。「母への思い」と共に、三島と蕗谷の、共通するデカダンスがあると柳本さんは言う。そう言われてみると、又、違って読める。読み直すたびに、考えさせられる小説だ。20才の「若書き」と言ったが、どうも違うようだ。三島文学の〈原点〉がここにあるようだ。
この日の講演では、2人の出会いについて。さらに、私が新発田に来るようになったキッカケの大杉栄について。又、大杉を書いた竹中労について話した。最近出版された、大杉のことを書いた中森明夫の『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社)などについても話をした。
終わって打ち上げ。大杉栄研究家の飛矢崎雅也さん(ライター)も来ていたので、大杉の話を聞いた。
翌日は、6代、140年続いた吉原写真館を訪ね、その歴史を聞く。ここでは少年時代の大杉栄も写真を撮っている。
その後、市島春陽記念館に行く。又、蕗谷虹児記念館を再訪し、さらに、今、新発田市長選に出ているる、きじま正之氏を訪ねる。月刊『現代の眼』オーナーの木島力也氏の甥なのだ。
「木島力也氏にはとてもお世話になりました」と挨拶した。木島力也氏と野村秋介さんは前からの知り合いで、それが縁で、昭和51年(1976年)2月号の『現代の眼』で野村さんと私の対談「反共右翼からの脱却」が載った。これが「新右翼」を作った対談といわれた。
「現代の眼」は左翼的な雑誌で、売れていた。学生は皆、読んでいた。それでいて右翼の野村さん、私なども載せてくれた。幅広い雑誌だった。木島力也さんがスケールの大きな人だったのだ。
それから、急いで新潟市に。駅前のジュンク堂でトーク。飛矢崎雅也さん、斎藤徹夫さんと3人で話す。斉藤さんは前日の集会の主宰者だ。三島由紀夫、大杉栄、そして蕗谷虹児の話をする。さらに野村秋介さんのことも。東京から、「週刊金曜日」の白井基夫さんが、わざわざ聞きに来てくれた。ありがたいです。又、阿佐ヶ谷ロフトによく来てる2人も来てくれた。(それも前日から)。ありがたいです。
終了後、白井さんが、「會津八一記念館に行く」と言うので、一緒に行きました。會津八一と交流のあった今成隼一郎の写真があった。驚いた。この曾孫が白井さんの知り合いだ。會津八一記念館の事務局長は、昔、左翼運動をやっていた。それで私のことも知っていた。
「じゃ、お孫さんに電話しましょう」。白井さんの知り合いの曾孫さんのお母さん(つまり、今成隼一郎の孫)に電話してくれた。新潟で大きな漬物屋をやっている。私も電話で話をした。なんか、急に、會津八一が身近になった。
それにしても會津八一だ。名前に数字が付いてる人は気になる。山本五十六は、お父さんが56才の時の子供だからだ。じゃ、會津八一はお父さんが81才の時の子供か。と思ったら違う。8月1日に生まれたからだという。私は8月2日生まれだから、「鈴木八二」だ。鈴木ヤジ。野次になっちゃうな。まずいな。それで親は「八二」をやめて「邦男」にしたんだろう。
そのあと、三浦重周氏が自決した新潟の埠頭に行き、黙祷。(三浦重周さんのことは『遺魂』に書いてある)。さらに、坂口安吾の記念館を訪ねて、やっと昼食。5時頃です。そして、帰京しました。実に文学的な、アートな2日間でした。先週の奈良の旅もそうでしたが、今回の旅もとても勉強になりましたし、精神的、文学的、哲学的に得るところの多い旅でした。
そうだ。11月6日の私の講演の時に配られた「ゲスト紹介」に、新発田のことがこう記されていた。
〈(鈴木は新発田出身の)大杉栄には、学生時代からシンパシーを感じていた。今回は3度目の新発田訪問。来るたびに魅力を感じる街、と語る。堀部安兵衛(赤穂浪士)、大倉喜八郎(大倉財閥)、今村均(陸軍大将)、吉屋信子(作家)、加藤楸邨(歌人)、木島力也(『現代の眼』オーナー)、寺田ヒロオ(漫画家)、青山杉作(築地小劇場)、原久一郎(トルストイ全集翻訳)、市島春城(早稲田大学初代図書館長)、田宮高麿(よど号ハイジャック事件のリーダー)を生んだ地。また、かつて三大サーカスだった「シバタサーカス」の本拠地でもある。変わり種としては、新発田市の北部を通る北緯38度線を記念した碑もある。新発田はおもしろい街だと思っておられる〉
こんなに多くの人達を生んでいるんだ。新発田は。自由人の街だ。そのルーツに、アナキスト大杉栄がいる。新発田は「大杉栄記念館」をつくるべきだ。そして、駅前には、「アナキスト宣言都市」と大々的に宣言塔を建てたらいい。
そして小林多喜二の小樽市。幸徳秋水の四万十市と「姉妹都市」になったらいい。さらには、世界中から自由人、アナキストを呼んで、「アナキスト・サミット」を新発田市で開催したらいい。
②これが三島由紀夫の豪華限定本『岬にての物語』の表紙です。昭和43年(1968年)に出版されました。自決の2年前です。300部限定で、定価は15,000円です。今ですと15万円か20万円でしょう。今、ネットオークションでは70万円ほどです。
この写真は蕗谷虹児さんの息子さんの蕗谷龍生さんから頂きました。「本当は、会場に聞きに行きたいのですが」と言って、蕗谷虹児記念館の人に預けてくれました。ありがとうございました。ご丁寧な手紙も頂き、三島との関係について、いろいろ詳しく教えてもらいました。
③『岬にての物語』の口絵です。蕗谷虹児の作品です。又、三島は、「あとがき」で書いている。「(蕗谷)氏の畫風ほど、この小説にふさはしいものはないと思はれたので、お願ひをして快諾を得た。殊に口繪の百合の花束の少女像は、今や老境にをられるこの畫家が、心の中深く秘めた美の幻を具現してあますところがない」
④11月6日(土)午後6時半より、新発田市生涯学習センターで、「三島由紀夫と蕗谷虹児=うたと講演のゆうべ」が開かれました。第1部はソプラノ歌手・柳本幸子さんの歌で、「花嫁人形」などが熱唱されました。実に感動的な歌でした。伴奏は、白澤亨さん(リュート)、笠原恒則さん(チェンバロ)。
⑬阿佐ヶ谷ロフトの常連客です。わざわざ東京から聞きに来てくれました。それも、6日、7日と。顔が似てるので兄妹かと思いました。さては『岬にての物語』と同じ、「禁断の愛」なのでしょうか。
と思ったら違いました。男性はIT関係の仕事をしている。女性は?「病院です」。「じゃ、患者さん?」「失礼な。医者です」。凄いですね。内科医です。女医さんです。Joyfullな人でした。「騒乱ロフトで、いろんな変な人を観察してるから、香山リカさんのような作家になれるでしょう」と私は断言しました。「でも、本人が酔っ払って、騒乱を起こしてます」。それもいいでしょう。
⑯きじま正之さん(中央)を囲んで。(左より)飛矢崎雅也さん、きじまさんの息子さん、きじま正之さん、鈴木、斎藤徹夫さん。きじま正之さんは、一世を風靡した理論誌『現代の眼』のオーナー・木島力也さんの甥です。