2010/11/29 鈴木邦男

創造力の煮えたっている国を!
「理想はエリザベス朝時代」と三島は言った

①これは、「三島由紀夫ブーム」だ

自衛隊員に訴える三島由紀夫氏
自衛隊員に訴える三島由紀夫氏
 

これは驚異的な現象だ。三島由紀夫について書かれて本が、20冊以上出ている。復刊を合わせたら40冊以上だ。新潮文庫の三島本も売れている。「出版ラッシュ」だ。三島没後40年にして、「三島ブーム」だ。30年、20年の時よりも多い。新しい三島の姿を見、三島の予言を聞く思いだ。

 

11月24日(水)は野分祭があった。午後6時半から花園神社だった。多くの人が詰めかけ、会場は超満員だ。野分祭が始まって以来だろう。厳粛に行われた。40年前の衝撃が昨日のように思い出された。

式典の後は、荒谷卓先生の記念講演だった。荒谷先生は明治神宮至誠館館長。講演の前に、真剣による奉納演武が行われた。裂帛の気合いのこもった演武だった。講演は、「神道と武士道の現代的意義」。感動的な講演だった。「私は葦津珍彦先生の門下生です」という。又、自衛隊の特殊作戦隊の隊長だった。その先生から、現下の日本を踏まえ、三島の叫びについて話して頂いた。

 

とてもいい野分祭だった。最近は、サンルートホテルで野分祭をやっていたが、40年ということで多くの人が列席するだろう。手狭になるからと、新宿の花園神社に会場を移した。ホテルよりは何倍も広い。しかし、全国から多くの人たちが来て下さった。いくら椅子を増やしても足りない。立っている人も多かった。

森田必勝氏
森田必勝氏
 

地方から懐かしい人も来ていた。石川県七尾市からは布清信君が来てくれた。「生長の家学生道場」時代の後輩だ。学生時代の修行に明け暮れた日々を懐かしく思い出した。「鈴木さんには厳しく指導されました」と布君。そうだったかな。

秋田県からは元「楯の会」の伊藤邦典氏が来てくれた。僕とは子供時代からの知り合いだ。その後、学生道場に入り、生学連、「楯の会」に入る。全国学協の内ゲバの時は、私が麻布公会堂に殴り込んだそうだ。壇上で大立ち回りをやったらしい。止めに入った邦典を突き飛ばし、壇上から突き落としたそうだ。乱暴な男だ。私は記憶にない。「そんなことしたの?嘘だろう」と言っちゃった。

 

そうだ。映画監督の若松孝二さんも来てくれた。驚いた。来年、三島由紀夫の映画を撮る。そのこともあって来てくれたのだろう。脚本家も一緒だった。

 

野分祭のあとは、場所を移して、直会(なおらい)。全国から来てくれた人々の話を聞き、当時のことを思い出しました。

②三島特集だった。文化放送も朝日新聞も

「朝日新聞」11/25(木)夕刊
「朝日新聞」11/25(木)夕刊
 

この野分祭の前は、文化放送に出ました。「夕焼け寺ちゃん活動中」です。毎週水曜日にゲストで出ています。この日は、三島由紀夫特集でした。寺ちゃんは、私の『遺魂』を読んで、話してくれる。三島由紀夫、森田必勝について私は詳しく話しました。

 

この日は、朝から「三島」だったな。産経新聞を見たら、2、3面がぶち抜きで三島本の紹介。皆、いやでも意識する。三島本の出版ラッシュということが分かる。

 

文化放送では、初めに三島の「檄」を流す。自衛隊で演説した三島の声だ。実は、あの「声」は文化放送が録った。そして、文化放送だけが録れたのだ。今、文化放送は浜松町にあるが、当時は、市ヶ谷の自衛隊に近かった。すぐに飛んでいった。ただ、バルコニーの上から演説している。遠い。隊員は野次を飛ばしている。空にはヘリコプターだ。それで記者は、とっさに棒の先にマイクをつけて、高く上げ、それでやっと声を拾ったという。

 

「その記者は今は文化放送の社長ですよ」と寺ちゃんが打ち明けてくれた。そのことだけで社長になったわけではないが。ともかく、40年前の記者の機転で、歴史的な、貴重な音声が残ったのだ。

 

文化放送から急いで花園神社に行った。

 

朝から夜、遅くまで忙しい1日だった。

 

翌11月25日(木)。新聞のテレビ欄を見たら、夜9時のNHK「ニュースウォッチ」の予告に、「没後40年、三島由紀夫ブーム再来」と出ていた。実は、11月1日(月)に阿佐ヶ谷ロフトで、『遺魂』出版記念トークをやった時に、NHKは取材し、長くインタビューしていた。「11月25日までのニュースウォッチで流します」と言っていた。でも、北朝鮮の韓国砲撃事件など他のニュースが多かったせいか、阿佐ヶ谷ロフトは出なかった。もったいない。初めの方に、「これだけの本が出ています」と紹介した時は、私の『遺魂』も出ていた。(ただ、若松監督が出ていて、「来年は三島の映画を撮る」と宣言していた。これはよかった)

「楯の会」初代学生長・持丸博氏(11/16)
「楯の会」初代学生長・持丸博氏(11/16)
 

と言っても、この日のNHKは夜、家に帰ってから見たのだ。この日は、学校があったので、午後からずっといた。夜は雨だった。冷たい雨だった。新宿駅のスタンドで朝日新聞(夕刊)を買った。文化欄に出ていた。私の文章だ。文化欄の始めに出ている。目立つ。6段だ。かなり苦労した書いた。「自決して40年」の朝日新聞だ。私なんかでいいのか、と思った。必死に書いた。でも本当に載るのかな、と思っていた。

 

「何で、お前が!」と思った人も多かったようだ。それに、北朝鮮、中国の脅威の前に、ナショナリズムに燃え上がっているこの時期に。そして三島ブームで、国中が燃え上がっている時に、「何で水をかけるのだ」という人もいる。逆に、「そんな時だからこそ、意義がある」と言ってくれた人もいた。朝日新聞に書いた私の文のタイトルは、

〈三島に負け続ける我々。
 自決から40年「右傾化」の中身問う〉

だった。

 

三島は「愛国心」という言葉が嫌いだった。「大和魂」で十分だと言った。又、保守的な「愛国」よりも、「憂国」の人だった。核や徴兵制にも反対だった。強大な武器を持ち、それでよしとする考えが嫌だった。又、徴兵のように義務化することを嫌って、国防は国民の崇高な権利だ。それを義務化したら、崇高な権利が汚れると思った。

 

そうした三島の本意を理解しないで、「三島を思い出せ」「核を持て!」「徴兵制を!」と言われるのは、三島も嫌だろう。迷惑だろう。もう一度、三島の叫びを聞こう。三島を読み直そう。そう書いたつもりだ。ただ、文章が下手だから、私の真意が伝わったかどうか分からない。読んでほしい。

「楯の会」の制服と「血判状」
「楯の会」の制服と「血判状」
 

ネットのニュースを見たら、25日夜の「憂国忌」には例年の倍以上の1200人が集まったという。「憂国忌」の本も出ているし、やはり、「三島ブーム」だ。

 

三島は自決の2年前、「朝日新聞」(昭和43年1月8日付夕刊)に、「愛国心」について書いている。

「官製のいやなことば 日本は『大和魂』で十分」だ。

とても示唆的な文章だ。だって、この時は、「愛国心」が騒々しく言われてはいなかった。サッカーで、スポーツ・ナショナリズムが沸騰したのは、ずっとずっと後だ。政府が「愛国心」を言い出したのもずーっと後だ。

40年前は、「愛国心」なんて余り言ってた人はいない。盛り上がってもいない。近々、盛り上がり、危険な風潮になる。…といった予兆もない。そんな時に、かなり先んじて、「愛国心」の危険さを言ったのだ。もの凄い予言だ。だが、当時は、誰も「予言」として読まなかった。

一方、三島の自決直前には、いかにも予言的な言葉が産経新聞に載った。自決の4ヶ月前だ。「これこそが三島の予言だ」と、よく引用される文だ。「サンケイ新聞」(昭和45年7月7日付夕刊)の、「果たし得ていない約束」だ。余りに有名な言葉だ。だから、朝日に書いた時も、私も引用した。

〈私はこれからの日本に対して希望をつなぐことができない。こまま行ったら、「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない或る経済大国が極東の一角に残るのであろう…〉

④「ノーベル賞なんか拒否する」と三島

持丸博氏(右)と長男(中央)
持丸博氏(右)と長男(中央)
 

まさに40年後の、今日の日本だ。「無機質」「からっぽ」「ニュートラル」な日本だ。つまり、先が見えていたのだ。

元「楯の会」初代学生長の持丸博氏に聞いたが、三島は未来が見えていた。アメリカでは人を信頼できず、ペットに遺産を残す人間が出てきた。日本の会社でも、人間の会話がなくなり、ペーパーを介在してしか意志が伝わらない時代になる。今なら、ネットだろう。そんな人間疎外の社会において、政治家もマスコミも、人々も、「だから愛国心を」「だから核を」…と、〈形〉だけをつくって、押しつける。そんな時代が来ると分かっていた。それに耐えられなかったのだろう。

 

考えてもみたらいい。三島は世界的大作家だ。文字、言葉の大切さを人一倍知っていた。言論の自由、人間の自由の大切さを知っていた。だから、「押しつけがましい愛国心」を嫌った。核や徴兵にも反対した。形だけをつくり、押しつけたら、それで〈心〉が生まれるとは思わなかった。逆だろう。核など持ったら、それで〈安心〉し、「よりかかり」、一人一人が国を守る尊い気持ちがなくなり、日本人もなくなる、と思ったのだ。

松浦芳子さんと
 

自決の4ヶ月前の「サンケイ新聞」の「果たし得ていない約束」ばかりがよく紹介され、引用される。これこそが「三島の遺言だ!」と。だって、三島は、(後になって)そう思われるように書いたからだ。だから、僕らも、まさに「三島の言う通りになった」と思う。予言者だという。しかし、僕らが、そう言うことも予言していたのだ。未来に向けての、大いなる作品を書いていたのだ。

 

実は、この「遺言」「予言」のさらに2ヶ月後、つまり自決の2ヶ月前だ。本当のギリギリになって、朝日新聞の取材に応じている。多分、新聞社の取材に応じたのは、これが最後なのだろう。

朝日新聞(昭和45年9月22日)だ。「日本は悪くなる」というタイトルだ。これは、いろんな人々に聞いているシリーズ「世なおし。70年代の百人」の2回目だ。つまり、100人にインタビューしているのだ。果たして、単行本になったのかどうか。ここでは、「サンケイ」の遺言的コメントをさらに、進めている。何に絶望したのか。本当はどんな日本を夢みているのかが話されている。だから、私も、今年11月25日の文章にも引用した。

 

「70年代をどう考えます?」という記者の問いにそう答えている。

山際澄夫さんと
山際澄夫さんと
 
「日本、ますます悪くなる。よくなることはゼッタイない」
 どうして?
 「大ウソついてるからね。敗戦というものを脱却しなきゃあ国の文化というものは成りたたない。スウェーデンごらんなさい。150年前、ロシアに負けて、それを払拭しなかったから福祉国家になっちゃった。文化の創造力がない。それでノーベル賞出しても、それもいいだろうけど、ボクの考える国ってのは、そんなもんじゃない」
 じゃ、ノーベル賞をくれるといったら?
 「拒否しますね」。
 なぜ?
 「ボクにも思うことありますからね」
 あなたの考えている国って?
 「想像力の煮えたっている国ですよ。一方じゃ刀をふりまわす。一方じゃ文化創造力が煮えたっている。つまり、エリザベス朝時代ですよ」

⑤「竜馬なんかは嫌いだ!」と…

大道塾30周年大会で(11/19)
大道塾30周年大会で(11/19)
 

これは実に具体的だ。こういう文化の創造力の煮えたった国が理想だったんだ。人間を形にはめて、押しつける国なんて、嫌だったんだ。

 

それに続いて、大江健三郎については、「才能は非常に買う」という。これは今の保守派の人々は信じられないだろう。三島は、1960年の深沢七郎の『風流夢譚』も支持し、評価している。これは、「反天皇小説」だ。それなのに、そのユーモア性、芸術性を高く買った。左右なんか超えていた。でも、理解しきれない右翼の人達は、「三島は不敬小説を支持した」「許せん」と攻撃した。三島の家にまで押しかけた。それで、地元の警察のガードがついた。

 

又、東大全共闘に呼ばれると、たった一人で出かけて行き、闘った。勇気がある。なかなか出来ることではない。左右を超えていた。現状をよしとする「愛国」ではない。革命的な「憂国」なのだ。

 

右翼や保守派の嫌いな大江を三島は、評価した。と同時に、(意外にも)竜馬は嫌いだという。今年は「竜馬」のブームなのに。自決2ヶ月前の「朝日」で言う。司馬遼太郎について聞かれて…。

大竹まことさんと(文化放送で)
大竹まことさんと(文化放送で)
 
「人物描写はうまいと思うけれどあのヒトの史観が好きじゃない。ボク、坂本龍馬って好きじゃないですよ」
 なぜ?
 「未来を夢みる人間ってボク大きらい。じぶんが一番最後だと思ってる人間にしかボク興味感じない」
 未来を夢みないで?
 「拒否することですよ。オマエまちがっているといいつづけることです。その拒否の形式がぼくの場合変っている。ヘンなチンドン屋みたいな服を着たりしてね」
 誤解?
 「ぜーんぜんかまわない。誤解をおそれるのは女性的ですよ」
 

龍馬は嫌いだと言っている。そういえば、森田必勝も同じことを言っていた。その頃、司馬の『竜馬がゆく』が大ヒットした。我々、右翼学生は皆、読んでいた。右翼学生だけでない。左翼学生も読んでいた。そして、感情移入し、「今は幕末だ」と思った。「オレは竜馬だ!」と皆思った。

だから、竜馬が脱藩したようにポンと飛んだ。北朝鮮へもポンと行った。非合法闘争だって、ポンとやった。右翼学生もそうだ。水たまりを飛び越すように、「合法」の枠を超えた。つまり、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が当時の左右の学生運動をつくつた。とも言える。

高橋巖先生(中央)と。右は、小松正二郎さん(11/24)
高橋巖先生(中央)と。右は、小松正二郎さん(11/24)
 

これに対し、右翼学生運動の中で、一部の人間は、「何が竜馬だ」と思っていた。「新撰組」の土方の方がいいや。凛々しいや、と思う人間がいた。反主流派だ!それが森田必勝だった。司馬作品では、土方歳三を主人公とした『燃えよ剣』が好きだった。皆に薦めていた。ボクも森田に薦められて読んだ。しびれた。

 

それで当時は、「竜馬派」と「土方派」があったのだ。右翼は勤皇だ。だったら竜馬だ。新撰組は幕府だ。朝廷に逆らった。この幕府を守ったのが新撰組ではないか。「体制の犬」だ。そう思っていたのだ。森田は、「でも、最後まで男の生き方を貫くとこがいい」と言っていた。  

右翼学生には「竜馬派」と「土方派」があった。それに不思議なことに、圧倒的に多かった「竜馬派」は、皆、いなくなった。就職したり、家業を継いだり、自民党の政治家の秘書になったり…。「未来を夢みる人間」は、いつでも、どんな小さなものにも夢を見るのかもしれない。右翼学生なんかやめて、大学か、政界か、企業か…。それなりの社会に又、夢を持って生きている。

 

その反面、未来に夢を持たず、俺は「最後」の人間だ、と思っている人は、ずっと運動を続けた。そして運動に殉じた人もいた。それが森田必勝だ。

【だいありー】
朝日新聞阪神支局で(11/23)
朝日新聞阪神支局で(11/23)
  1. 11月22日(月)朝まで原稿を書いていた。それなのに、午前10時半に、「緊急召集」で集合。マスコミ人、教授、評論家などが集まっていた。日本を変えるプランになる。震えがきた。その後、取材。夕方、帰り、少し寝てから、又、原稿を書く。
  2. 11月23日(火)朝6時の新幹線で京都へ。9時半から、京都国立博物館に行く。「高僧と袈裟」の展示が今日までだ。「戦争柄」の研究をしている乾淑子さん(東海大学教授)に、「これはぜひ見なさい」と言われたからだ。『愛国者は信用できるか』で、歴代天皇肖像画を紹介した。神武天皇から始まり天皇の肖像が描かれている。でも、「想像」だ。でも、どこかにモデルがあったのか。いや明治天皇以前は、ほとんど、絵師の想像だろう。
     と書いたら、「神武天皇の時代はそうだが、鎌倉時代はかなり正確に描いた」という。「似絵(にせえ)といって、実際、近くの者が正確に描写したという。そういう絵があるから見たらいいでしょうという。それで行ったのだ。
     この日は西宮ゼミが2時からあり、その前に、京都に寄ったのだ。とても勉強になった。神戸から岩井、吉本コンビも駆け付けてくれて、案内してくれた。そのあと、時間があったので、近くの三十三間堂も見ました。一間は1メートル位だから、30メートル位か。でも、この三十三間堂はやたら長い。100メートル以上ある。と思ったら、この三十三間堂の「一間」は尺度の一間ではなく「部屋の一間(ひとま)」という単位らしい。だから、3メートルか4メートルあり、合計で100メートル以上だ。それを弓で射通するのだから大変だ。
     見終わって、大阪に出て、そこから乗り換えて西宮へ。すぐそばに朝日新聞阪神支局があったので寄る。ちょうど知り合いの記者がいたので案内してくれた。赤報隊に襲われたあの当時の椅子やノートなどが展示されている。当時の現場写真などもある。
     それから、会場の喫茶店「カフェインティ・ライミ」へ行く。NHKなどで何度も取り上げられたが、BSE牛肉偽装告発で有名な「西宮冷蔵」の水谷洋一社長と私が話をした。テレビで見てた時は、ポツポツと喋っていたが、実際は、雄弁だ。話がうまい。
     それにしても告発だなんて、よく、そこまで決断したものだと思う。別に学生運動をしてたとか、信仰があったわけではない。どうやって決断したのか。又、これにより、会社は倒産。その再建のために地獄の苦しみを味わう。それを支えたものは何なのか。聞いた見た。
     「それは真田幸村ですよ」と言う。ほう、歴史小説が好きで、読み耽り、「今は戦国時代だ」「俺は幸村だ」と思ったのか。
     ちょうど60年代後半の左右の学生たちが、「今は幕末だ」「俺は竜馬だ!」と思ったのと同じように。
     「それもありますが、私の場合はもっと現実的です」という。お母さんは真田幸村の子孫だ。だから、3才頃、お母さんが風呂で背中を流しながら、「お前には真田幸村の血が流れている。どんな時でも卑劣な真似をしてはだめだ。どんな巨大な敵でも闘え!」と言われてきたという。お父さんは水谷だ。「変だな。俺は水谷なのに」と思っても、お母さんは、「いや、お前は真田だ。真田幸村の血が流れている」と言う。2、3才の記憶・教訓がずっと生きていたのだという。凄い話だった。又、鹿砦社の松岡社長との「友情物語」も聞きました。
     この日は、前に「週刊金曜日」で対談した能川元一さん、前にブラジルにいた谷合さんも来てくれました。又、立花さんも来てくれました。この人は、日本拳法の達人で、実は、「新婚さん、いらっしゃい」に出たこともある。奥さんは巨乳だ。番組で言ってたから本当だ。素晴らしい。だから家庭も円満だ。
     終わって、近くの居酒屋で打ち上げ。水谷社長の息子さん、娘さんも全員集合してくれて、楽しく飲みました。そして、最終の新幹線で、立花さんと一緒に帰りました。
西宮冷蔵の水谷洋一社長と(11/23)
西宮冷蔵の水谷洋一社長と(11/23)
  1. 11月24日(水)前夜は2時間ほど寝て、ずっと原稿を書いていた。2時40分、文化放送に入る。明日の「朝日新聞」のゲラをメールで送ってもらい、チェック。3時半から5時。「夕焼け寺ちゃん活動中」。この日は、「三島由紀夫特集」でした。その後、来週の打ち合わせをして、花園神社に。野分祭は、超満員だった。荒谷先生の記念講演も素晴らしかった。終わって、直会。
  2. 11月25日(木)午前中、〆切のある原稿を必死に書いていた。午後3時、河合塾コスモ。現代文要約。5時、基礎教養ゼミ。今週は牧野剛先生の選んだ本を読む。松原一枝『文士の私生活』(新潮新書)と岩波明の『文豪はみんな、うつ』(幻冬舎新書)。面白い本だった。終わって、生徒と食事会。帰り、新宿駅で「朝日新聞」夕刊を買う。私の文章が出ていた。家に帰ってビデオを見る。NHK夜9時からの「ニュースウオッチ」。「三島ブーム」について触れていた。
西宮ゼミの後、水谷社長を囲んで
西宮ゼミの後、水谷社長を囲んで
  1. 11月26日(金)昼、打ち合わせ。2時に出る。JR戸塚駅に行き、そこからバス。明治学院大学の公開講座を聞きに行く。作家の奥泉光さんと原武史さんの対談を聞く。私は奥泉さんの本は好きで、随分と読んでいる。特に、『石の来歴』は好きで、前にこのHPにも紹介した。終わって話をしました。新刊の『シューマンの指』を買いました。
     そのあと、皆で飲み会に行きました。とても楽しかったです。とても勉強になりました。
  2. 11月27日(土)午前中、図書館。昼、取材。それから今日も横浜だ。元ザ・ニュース・ペーパーの代表をしていた杉浦正士さんが、今、横浜で、「青葉梁山泊」をやっている。その1周年記念講演に私を呼んでくれた。「三島由紀夫没後40年。我々は三島を超えられたか?」。頑張って話をした。そのあと交流飲食会。
水谷社長(中央)と鹿砦社の松岡利康社長(右)
水谷社長(中央)と鹿砦社の松岡利康社長(右)
  1. 11月28日(日)午前11時、高田馬場のサンルートホテル。「戦争柄」の研究をしている乾淑子さん(東海大学教授)が、上京したので、お会いする。私だけでは勿体ないので、「劇団再生」の高木尋士さんや、編集者の椎野礼仁さん、高橋あづささん、「週刊金曜日」の白井基夫さん、着物デザイナーの芝崎るみさんなども誘う。サンルートで食事し、そのあと、喫茶店「ミヤマ」の会議室を借りてお話を聞く。とても勉強になりました。今度は、ロフトでやりたいですね。
     夜は、渋谷のアップリンクに行く。映画「ベオグラード1999」の上映が6時50分から8時まで。それからすぐ、金子遊監督とトークしました。
【写真説明】
自衛隊員に訴える三島由紀夫氏‘

①昭和45年11月25日の三島由紀夫です。これは持丸博・佐藤松男『証言・三島由紀夫と福田恆存。たった一度の対決』(文芸春秋)の表紙からとりました。

‘森田必勝氏

②森田必勝氏です。これは森田必勝遺稿集『わが思想と行動』(日新報道)のグラビアに載っていた写真です。

「朝日新聞」11/25(木)夕刊‘

③「朝日新聞」11月25日(木)の夕刊です。

‘「楯の会」初代学生長・持丸博氏(11/16)

④11月16日(火)午後7時、中野サンプラザ。持丸博・松浦芳子両氏の出版記念会です。講演する持丸博氏。

‘「楯の会」の制服と「血判状」

⑤「楯の会」の制服や、「血判状」、それに三島がよく書いていた『論争ジャーナル』のバックナンバーも展示されていました。

‘持丸博氏(右)と長男(中央)

⑥持丸博氏と長男。そして私。

‘松浦芳子さんと

⑦持丸博氏の奥さん。松浦芳子さん。現杉並区議です。学生時代から活動家でした。

‘山際澄夫さんと

⑧ジャーナリストの山際澄夫さんも来てました。山際さんは産経出身です。「私も、昔、産経にいたんですよ」と挨拶しました。私がクビになったあとに入社したそうです。テレビで見てると、怖い人かなと思ったし、初対面かと思ったら、「東中野で台湾の映画を上映して、鈴木さんが話したでしょう。あれを聞きに行ったんですよ」。そうでしたか。ありがとうございました。

大道塾30周年大会で(11/19)‘

⑨11月19日(金)大道塾30周年記念大会。鳩山会館で。中央が東孝大道塾代表。右は衆議院議員の松浪ケンタ氏。そして東大教授の松原隆一郎氏、鈴木、麻生秀孝さん。

‘大竹まことさんと(文化放送で)

⑩文化放送で大竹まことさんと。

‘高橋巖先生(中央)と。右は、小松正二郎さん(11/24)

⑪新宿で、高橋巖先生(中央)と。シュタイナー研究の第一人者です。右は高橋先生を紹介してくれた小松正二郎さん。

‘朝日新聞阪神支局で(11/23)

⑫11月23日(火)、西宮ゼミの前に朝日新聞阪神支局を訪ねました。

‘西宮冷蔵の水谷洋一社長と(11/23)

⑬西宮ゼミで。西宮冷蔵の水谷洋一社長と対談しました。

‘西宮ゼミの後、水谷社長を囲んで

⑭水谷洋一社長を囲んで。右は、「週刊金曜日」で対談した能川元一さんです。鈴木の右は、元ブラジルの記者。谷合さん。その右は立松さん。

‘水谷社長(中央)と鹿砦社の松岡利康社長(右)

⑮水谷社長(中央)。右は鹿砦社社長の松岡利康さん。

【お知らせ】
  1. 12月4日(土)7時半。ネイキッドロフト。伊勢崎賢治さん、前北美弥子さんと一緒に出ます。テーマは、「ソフト・ボーダー」。やわらかい国境・やわらかい勇気について語ります。
  2. 12月7日(火)7時半よりロフトプラスワン月刊「創」トークイベント。森達也『極私的メディア論』出版記念。
    第1部 検察腐敗と死刑制度
    森達也、三井環、安田好弘、鈴木邦男他。
    第2部 イルカ漁騒動とドキュメンタリー。
    森達也、綿井健陽(ジャーナリスト)、吉岡逸夫(中日新聞新宮支局長)。鈴木邦男、他。
    (総合司会)篠田博之(「創」編集長)
  3. 12月11日(土)午後5時から。東京堂書店神田本店6階。中川右介さんと私のトーク&サイン会です。
     テーマは、「三島由紀夫という“謎”をさぐる。今、三島作品の何を読むべきか」。要予約。参加費500円。お店に直接申し込み。
    電話03(3291)5181です。
     当日の司会は「週刊金曜日」の白井基夫さんです。
  4. 12月15日(水)7時、サンルートホテル高田馬場。一水会フォーラムです。講師は石井一二先生(政治評論家・元参議院議員。元外務政務次官)。「ここが間違っている現下の日本。将来のために提起する」。