2010/12/27 鈴木邦男

全身ジャーナリスト・田原総一朗さんの激闘50年

①「朝生」の原点は「激論・全共闘」だった

田原総一朗さんと(12/17)
田原総一朗さんと(12/17)

今年最初の忘年会かな。いや、まてよ。12月15日(水)の一水会フォーラムの後の打ち上げが「忘年会」第1号だったかなと、悩み、考えながら出席したわけですよ。12月17日(金)の「田原総一朗さんを囲む忘年会」だ。午後7時、日本プレスセンターだ。その最上階の「アラスカ」だ。

でも一歩足を踏み入れて、アリャ、ちょっと雰囲気が違うな、と思った。新聞社、テレビ局の人が多いし、ジャーナリストが多い。大きなスクリーンも用意されている。正面を見ると、何と、「田原総一朗さんのジャーナリスト50周年を祝う会」と大きく書かれている。そして、「朝まで生テレビ」のあのテーマソングに乗って、田原さんが登場する。

田原さんは今年76才だ。ということは、26才からジャーナリストの世界に入ったのだ。常に〈現場〉にいて闘っているから若いのだ。

蓮舫さんと田原さん
蓮舫さんと田原さん

スクリーンでは、岩波映画時代、東京12チャンネル時代の田原さんの活躍が映し出される。常に、挑戦・実験・体当たりだ。よく、これだけのことをやってきたもんだと思う。いろんな人が祝辞を述べる。一水会の木村三浩氏は田原さんをイラクに連れて行った。フセインに会わせようとしたが、実現しなかった。「それだけは残念だったし、申し訳ない」と言っていた。

「それよりも、一緒に北朝鮮に行きましょう」と田原さん。日朝関係を打開し、拉致問題解決の展望を開くには、田原さんに行ってもらうのしかない。ぜひ、実現してほしい。続いて私も祝辞を。1984年にやった「激論・全共闘」の話をした。26年前だ。田原さんが司会で、池袋文芸座で、全共闘運動を総括する徹夜討論会をやった。これが盛り上がり、大評判を呼んだ。だから、これを基にして、2年後、「朝まで生テレビ」がスタートした。

「激論・全共闘」は、正確には、「君は今、燃えているか!? カゲキ世代が激突討論」だ。テレビ朝日が放映した。『朝日ジャーナル』が要旨を載せた。又、講談社から単行本になった。『激論・全共闘。俺たちの原点』だ。

『激論・全共闘。俺たちの原点』(講談社)
『激論・全共闘。俺たちの原点』(講談社)

「君たちは命を燃やしたことがあるか!?」

「カゲキ世代の論客たちが徹夜で語り合った熱きメッセージ」と本の帯には書かれている。全共闘運動を闘った4人と、対極で彼らと闘った私。5人がパネラーだ。一緒に殴り合いをしていたが、私も同時代を生き、闘った。広い意味では「全共闘世代」だ。全共闘の4人は、中上健次、立松和平、高橋伴明、前之園紀男の4人だ。

「あの時代が素晴らしかったと言うのなら、もう一度やってみろ! 革命を起こしてみろ!」と私は挑発した。1対4のバトルになった。この時、私は私は白いTシャツに、青いジャンパーだ。乱闘になっても十分対応できるように即戦スタイルだ。Tシャツには「フクちゃん」が柔道をしている漫画が描かれている。ヤル気満々だった。

②「情熱大陸」は凄かったね!と言いました

「激論」を終えてのコメント
「激論」を終えてのコメント

ともかく凄い討論会になった。「アワヤ?」というシーンが何度もあった。

26年前の「熱き闘い」を思い出しながら、私は田原さんの「50周年」の祝辞をやった。あれが「朝生」の原点です。と紹介した。そしたら、途中から田原さんがマイクを奪い、「あの時、中上に怒鳴られたんだよ」と言う。「田原、お前は司会失格だ。やめろ!」と言ったらしい。「オレと鈴木で、サシで闘わせろ!」と言ったそうだ。そうだっけ?田原さんは、よく覚えている。私より9才も年上なのに、私より何百倍も記憶力はいいし、頭は柔軟だ。

竹中英太郎記念館で(12/12)
竹中英太郎記念館で(12/12)

(家に帰って、『激論・全共闘』を読み返したら、確かにそんな殺気立ったシーンがあった。懐かしい。私ごときを「サシ」で名指してくれた。光栄です。その中上さんは今はいない。立松和平さんも亡くなった)

田原さんが東京12チャンネルにいた時だと思う。「学生右翼」という番組を撮った。日学同(日本学生同盟)に密着して撮った。まだ、「楯の会」に移る前の森田必勝氏も映っている。皆と、討論している。街頭でビラを撒いている。貴重な映像だ。動く映像として残っている森田必勝氏はこれだけだ。あとは、1970年11月25日、市ヶ谷の自衛隊で、三島の隣りに立っている森田氏の映像だけだ。

田原さんは本当に、いい仕事をしてくれたと思う。

いろんな人の祝辞があって、ちょっと休憩。その時、田原さんと話をした。この前の「情熱大陸」は凄かったですね。よかったですね、と私は言った。テレ朝ではい。それに、初めて田原さんが〈撮られる側〉だ。私生活と仕事の全てが撮られる。毎朝、全く同じものを、同じ手順で食べる。同じ所に片付ける。本が山と積まれた机の上で仕事をする。テレビ局に行く。現場に行く。超多忙な田原さんの生活に密着する。

館長の金子紫さんと
館長の金子紫さんと

「朝生」のスタッフに聞いたら、「傍にいる我々は、かえって出来なかった。あれは凄い」と言っていた。大阪のテレビ局の人たちが密着取材した。取材の女性記者を田原さんは挑発する。

「取材するというのは、話を聞くだけではない。相手の懐に飛び込むのだ。相手を好きにならなければならない。相手とSEXをするくらいの覚悟でないとダメだ!」。

凄いことを言う。ビックリした。「じゃ、と言って女性記者が服を脱いで抱きついてきたら、どうするんですか」と私は田原さんに質問した。「勿論、受け止めますよ。闘いますよ!」。ゲッ、と思った。76才。出来るのかな。

その時、スクリーンに田原さんの、生い立ちや、監督時代の武勇伝が紹介された。田原さんは滋賀県彦根市出身。近江商人の末裔。戦時中は人並みに軍国少年で、海軍兵学校進学を夢見ていたが、敗戦で前途を断たれた。18才の時、高校で、戦時下とは180度異なった「正義」を語る教師たちに不信感を抱く。「何事も自分の目で見て、自分の耳で聞いて納得しなければいけない」と思う。ジャーナリスト・田原総一朗が生まれた瞬間だ。

高校を出て、上京。日本交通公社(現JTB)に入社。Wikipediaにも載ってるが、東京駅丸の内で乗客案内をしていた。この時に、当時はまだ日蓮正宗の門徒団体だった創価学会の学会員が大挙して東京駅から、日蓮正宗総本山のある大石寺に向かうのを見て、創価学会や池田大作に興味を持った。これも、ジャーナリストの目覚めだ。

それで、仕事をやめて、早大文学部に入る。初めは作家を目指したが、石原慎太郎、大江健三郎の出現にショックを受けて断念。

③田原監督の凄すぎる作品群!

鳥越俊太郎さんと(12/19)
鳥越俊太郎さんと(12/19)

そして田原さんは1960年に岩波映画製作所に入社。カメラマン助手を務め、1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局と共に入社。数々のドキュメンタリーを撮る。「祝う会」のスクリーンでも紹介されていたが、wikipediaには詳細に紹介されている。たとえば、こんな番組を撮った。

〈全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。余興として花嫁が列席者全員とセックスをする。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原はみずから彼女とセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」はゴールデンタイムで放映された〉
〈ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。〉
鳥越さん、高須さん、長野さんと
鳥越さん、高須さん、長野さんと
〈役者・高橋英二のガン治療手術から死去にいたるまでの撮影では、病室である国立がんセンターに取材拒否されたため、内緒で撮影。さらに右腕の切断手術が必要になり、手術の場面を撮影。手術直後、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んだが、女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンも、そのまま撮影。また、本人の望むまま、国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影。高橋はスターになるが、死去。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるまで撮影した。〉
私も黒木昭雄さんの思い出を語りました
私も黒木昭雄さんの思い出を語りました

これは驚きだ。こんなことをやったのか。今だったら、絶対に出来ない。犯罪だよ。今やったら、全員、逮捕だ。凄い。凄すぎる。「情熱大陸」を見て、「76才、出来るの?」と思った私が愚かでした。田原さんなら出来る。何だって出来る。脱帽です。

このパーティでは初対面の人も多かった。でも、テレビでよく見てる顔だから、初めての気がしない。黒岩祐治さん、渡部恒雄さん、加藤千洋さん、田中均さん、内田誠さん、相川俊英さんらに会う。高世仁さんには、「『創』の連載読んでますよ」と言われた。「よく、毎月、写真を撮って載せてますね」と言われた。だから、ポケットにあった最新鋭のハイテクカメラを見せてあげた。「ほう、これが秘密兵器ですか」と見入ってました。

④「猛獣使い」ではなく、本人が「猛獣」だ!

弁護士の清水勉さんと
弁護士の清水勉さんと

渡部恒雄さんは、福島の会津出身だそうだ。じゃ、いい人だ。「東北出身の人に悪い人はいない」と言われてるし。そしたら、周りにいたジャーナリストが、やっかんで、「だったら東北には警察はいらないでしょう」。私は言った。「そうです。いらないんです。なくしたらいいですね」。渡部さんは、「いくら何でも、それは言い過ぎです。東北には東北らしい素朴な犯罪はあるんですよ」と妥協案を出してました。

この人たちも皆、壇上で祝辞を述べる。民主党の蓮舫さんも駆け付けた。「20年ほど前、東海テレビで、“田原総一朗の世界が見たい”も司会をさせてもらい、とても勉強になりました。それが私の原点です」と言っていた。クラリオンガールだった蓮舫さんが、東海テレビで高野孟さんと一緒に司会をした。面白い番組で、アットホームな温かさがあった。「マンガ興国論」とか、「和才洋魂のすすめ」などと、面白い斬り口で、日本と世界を語る。私も何度か呼ばれた。

あそこで、蓮舫さんは政治の勉強をした。それが国会に出るキッカケになった。蓮舫さんと話をした。久しぶりだ。「あの番組は楽しかったですね」と当時の思い出話をした。「じゃ記念撮影を」と思ったが、国会内で撮影したくらいで問題になった。「右翼の前科者と写真を撮って、ブログに載った」なんて非難されてはかわいそうだ、と思って断念した。

免田榮さん(右)と(12/19)
免田榮さん(右)と(12/19)

東海テレビで、蓮舫さんと一緒に司会をやっていた高野孟さんも来ていた。「そうなんだよ。あの頃は番組作りも、精神の余裕があったね。今は、ギスギスして、皆、尖っている」と言っていた。そうだよな。「北朝鮮が攻めてきたらどうする!」「中国船なんか撃沈しろ!」「日本も核を持て!」と、皆、いきり立っている。精神の余裕がない。テレビがそれを煽るだけじゃ、いけんだろうよ。

帰りのエレベーターで、話してる人がいた。「過激だよなー田原さんは。もう、あの人を継ぐ人はいないよなー」「継ぐ必要もないよ。田原さんは1人だよ」。うん、そうだよな、と私も思いました。「朝生」の司会を評して、よく田原さんは「猛獣使い」だといわれるが、本当は、田原さんその人が、最も過激だし、猛獣なんだ。

テレビの中では超過激だが、テレビが終わり、普段の時は、とても優しくて、気配りの利いた人だ。帰ろうとしたら、田原さんにわざわざ、呼び止められて、「鈴木さん、『創』の連載、いいねー。毎月、読んでるよ」と言う。優しいし、心配りのある人だ。そのかわり、テレビになると思い切り暴れる。もしかしたら、本当はテレビに住み込んでいるのかもしれない。テレビの中のキャラクターが本人なのかもしれない。そんなことを思いながら、帰りました。

【だいありー】
赤堀政夫さんと
赤堀政夫さんと
  1. 12月20日(月)朝、出かけようと思ったら、カバン(ショルダー・バッグ)のベルトがプッツリと切れた。「あっ、私の身代りになって死んだんだ!」と思った。前の夜、深夜電話があった。必死で原稿を書いてるが、遅れてる。催促の電話かと思って取ったら、いきなり怒鳴られた。「バカやろう!お前なんか死んでしまえ!」。それから、散々怒鳴られた。震え上がった。朝まで眠れなかった。だから1時間ほどしか眠れない。起きたら、頭はガンガンするし、体が震える。完全に、死んでいたよ、私は。
     でも今日は学校だ。無理しても行かなくちゃと、カバンを肩にかついで出ようとした時に、ショルダーのベルトが切れた。「私の身代りに死んだのだ!」と思った。かわいそうなベルトちゃん。肩にかつげないので、ずっと手で持って行った。重い。大変だ。嫌がらせ電話のせいで、大変だ。きっと、狂暴な右翼の人だろう。怖い。
     午後から河合塾コスモに行く。現代文の合同授業に出る。牧野先生を初め、永田先生、大岡先生という現代文のカリスマ講師3人による授業だ。私は生徒と一緒に受講する。さすが、カリスマ講師は教えるのがうまい。どんな難解な文章でも、読解し、分かりやすく説明する。又、現代文の問題はどうやって作るのか。といった話しもする。凄い才能だ。私など、とても足元にも及ばない。
     終わって、「とても勉強になりました」と永田先生に挨拶したら、「鈴木さん、文化放送に出てるでしょう。聴いてますよ」と言われた。恥ずかしい。いい加減な日本語を使ってるし…。
     終わって、池袋で、仕事の打ち合わせ。一つ、忘年会があったが、体調が悪いので、パスして帰る。3時間ほど寝て、夜中に起き、原稿を書く。何も食べてないのに、ゲーゲー、吐く。脅迫電話のせいだ。
原田正治さん(中央)、浅野健一さん(右)と
原田正治さん(中央)、浅野健一さん(右)と
  1. 12月21日(火)朝10時から午後5時半まで、河合塾コスモ。「基礎教養ゼミ」で、ひたすら生徒と本を読む。頭はガンガンする。仮死状態だ。寒けがする。ホカロンを一杯貼って行った。私の選んだ本は、井上薫の『「捏造」する検察』(宝島社新書)。牧野先生の選んだ本は、三浦佑之『古事記を読みなおす』(ちくま新書)、内山節『共同体の基礎理論』(農文協)。フェローの中村さんが選んだ本は、『デフレの正体=経済は「人口の波」で動く』(角川oneテーマ21)。
     皆、面白かったし、考えさせられた。
     終わって、生徒たちと食事会。それから、出版社の忘年会に行ったが、頭が痛くて、すぐに失礼する。家にタクシーで帰った。薬を飲み、3時間寝て、又、原稿を書く。仕事が多い。落としたら、もう依頼は来ないだろうし、必死で書く。
  2. 12月22日(水)午前中、原稿を書いてた。午後3時半から5時。文化放送。今日は北方領土問題の特集。「編集長は見た」は「サイゾー」の編集長。「別冊サイゾー」の『タブー破りの本、300冊』で私の本も入ってるらしい。ツイッターで聞いた。でも現物は入手してない。「じゃ、夜、鹿砦社の忘年会の時に持って行きますよ」。
     「サイゾー」の今月号は、尖閣問題、箱根駅伝などの特集。面白い。特に尖閣は、日本青年社の滑川顧問をインタビューしている。滑川さんは30年前、命がけで尖閣に上陸し、実効支配し、灯台を作った。日本政府も出来ないことを、体を張ってやった。文句なしに偉いと思う。その話を中心に、領土問題を話し合った。
     今日の「電話ショッピング」は「フグ」。実際に、私も食べた。うまい! 番組中、ずっと食べてた。「今年始めてです。そして最後でしょう」。先週は、カズノコ、カニ、ホタテ入りの豪華な「松前漬け」だったし、嬉しい。毎週、ご馳走を食べに文化放送に来ているようで、申し訳ない。
     終わって打ち合わせ。それから、渋谷のアップリンクへ。6時から「ベオグラード1999」の上映。8時から金子遊監督とトーク。私が昔、出した『天皇制の論じ方』(IPC出版)を監督は持ってきていた。「では、天皇制なきあとの日本について論じましょう。鈴木さんもその論じ方を書いてるんですから」と言う。へー、そんな危ないことを書いてたのか。覚悟を決めて話しましたよ。
     及川健二氏も聞きに来ていた。フランスに留学していたし、ルペン党首にもインタビューして本を作っている。いい本だ。勉強家だ。ゆっくり話そうと思ったが、鹿砦社の忘年会に行かなくちゃ。その時、「『週刊親孝行』の白井です!」と声がした。あっ、「週刊金曜日」の白井さんじゃないか。いつ、本の題名が変わったんだろう。
     タクシーで新橋へ。9時半に着く。鹿砦社の忘年会は7時から始まってるから、もう終わってるかと思ったが、まだやってた。「サイゾー」の編集長もいて、『タブー破りの本、300冊』をもらった。そのあと、二次会。ライターや、編集者や、沢山の人に会った。鹿砦社で、又、対談を頼まれた。「今年中にやりましょう」「もう、無理だよ」「じゃ、1月1日から3日に」。そんで3日に決まった。「鈴木さんは昔、『天皇制の論じ方』を出したから、これについても話してもらいましょう」と松岡氏。あれ、同じことを前にも言われたな。それにしても原稿が多い。
     12 月は30日〆切とか、31日〆切。1月4日〆切なんてのもある。「どうせ、正月は行くとこもないんだろう」と見透かされてるようだ。
     12時まで、忘年会にいて、最終で帰る。体がフラフラする。
菊田幸一先生と
菊田幸一先生と
  1. 12月23日(木)体がキツクて起き上がれない。必死で学校に行く。河合塾コスモでクリスマス会。少し出て、自習室で勉強した。でも、体がキツクて、つい寝ちゃった。いかんな。脅迫電話の後遺症だ。深刻だ。
     「今日は祭日だ」と、初めて気付いた。何の日なんだろう。アッ、と気付いた。熱で頭がグラグラして、全く思考能力がないんだ。日本人として最も大事な日を忘れてた。病気のせいだ。脅迫電話のせいだ。
     夜7時、ホテル・ニューオータニ。恵観塾。村上正邦先生も話す。私も、話をさせられた。ロシア人で、山梨学院大学名誉教授のサルキコフ・コンスタンチンさんと、かなり話し込んだ。この先生は、知日派だし、ロシアでは「日本北東アジアセンター」という外交アカデミーを作っている。ロシアと日本と、半々ずつ住んでいる。「じゃ、北方領土問題について、モスクワで、討論会をやりましょう」。私も行きます」と言ったら、「それはいい。ぜひ、やりましょう」と言っていた。この先生の主催なら、実りあるシンポジウムが出来るだろう。
  2. 12月24日(金)取材があったが、体がフラフラするので、近くのデニーズに来てもらって話す。
     夜6時半、銀座で、週刊「アエラ」の忘年会。体がキツイので、酒は全く飲めない。藤原帰一さんはじめ、多くの執筆陣に会った。でも、もしかして、今日はクリスマス・イブじゃないの。我々には、どうせ恋人も友人もいないと思われたのかな。
別冊サイゾーの『タブー破りの本 300冊』
別冊サイゾーの『タブー破りの本 300冊』
  1. 12月25日(土)午前中、原稿。午後2時、上野の「宝ホテル」あとに行く。以前、このHPで、かつて私が「宝ホテル」でガードマンのバイトをしたことがある、と書いた(去年の6月だ)。
     それを見た、あるライターが、「その時の話を聞かせて下さい」と。今は、宝ホテルはないが、「宝ホテル物語」を取材して、書いてるという。その「関係者」ということで、ホテル跡に行き、その時の思い出を語る。
     夜、6時から、ライターの忘年会。途中で抜け、8時から新宿で「マガジン9」の忘年会。いろんなライター、編集者と会った。「週刊親孝行」の白井さんも来ていた。「戦争柄」の研究をしている乾淑子さん(東海大学教授)も来ていた。遅くまで、皆と話をした。仕事の打ち合わせも出来たし、よかった。
  2. 12月26日(日)午前中、図書館。
     午後、仕事の必要があって、ロシアの映画を観る。
     6時半からは岸田秀先生(和光大学名誉教授)の忘年会に行く。昔の教え子たちが、毎年、大勢集まる。人気のある先生だ。こんなに慕われる先生は、ちょっといない。
【写真説明】
‘田原総一朗さんと(12/17)

①「田原総一朗さんのジャーナリスト50周年を祝う会」で。田原さんと。12月17日(金)午後7時より。日本プレスセンター内「アラスカ」で。

‘蓮舫さんと田原さん

②蓮舫さんが祝辞を述べました。

『激論・全共闘。俺たちの原点』(講談社)

③これが、「朝まで生テレビ」の原点になった討論です。1984年12月発行の『激論・全共闘。俺たちの原点』(講談社)です。ネットの古本屋ではあるでしょう。読んでみて下さい。

「激論」を終えてのコメント‘

④激論の全体と、さらに「激闘を終えて」を各人が書いてます。私は、「全共闘は私にとって反面教師だった」と書きました。

‘竹中英太郎記念館で(12/12)

⑤竹中労さんのお父さんは有名な画家です。江戸川乱歩などの本の表紙、挿し絵を描いていました。甲府に、「竹中英太郎記念館」があります。竹中労さんの資料もあります。私は編集者と共に取材に訪れました。館長は金子紫さんです。竹中労さんの妹さんです。とてもお洒落な記念館でした。12月12日(日)です。

‘館長の金子紫さんと

⑥竹中英太郎記念館で。金子紫さんと。労さんの話をたっぷりと聞かせてもらいました。労さんの本の他、私の本もありました。ありがたいです。すっかりご馳走になってしまいました。おいしかったです。来年は竹中労さんの没後20年です。私も、思い出を書きたいと思います。

鳥越俊太郎さんと(12/19)‘

⑦鳥越俊太郎さんと。12月19日(日)、銀座東武ホテルです。元刑事でライターだった黒木昭雄さんを偲ぶ会です。50になったばかりでした。とてもお世話になりました。あれっ?鳥越さんは、面白いバッチをつけてますね。よく見ると、「無敵」と書かれています。

‘鳥越さん、高須さん、長野さんと

⑧高須基仁さん(中央)は、普段は優しいのですが、イザとなると怖い人です。元全共闘で、丸太を抱えて防衛庁に突っ込んだ人です。ロフトでは、よく乱闘してます。マイクを客席に投げつけて客に怪我をさせたこともあります。鹿砦社の暑気払いでは、大暴れし、警察が来ました。
 その高須さんも、「黒木さんを偲ぶ会」に来てました。「鳥越さんと喧嘩してるんだけど、仲直りしたい。鈴木さん、取り持ってくれよ」。それで、鳥越さんに会わせました。「やあやあ」と握手してました。でも、私はビクビクしてました。「人間凶器」の高須さんです。油断はなりません。握手して、相手の利き手を掴んだ瞬間、関節をとって、投げる。そして、倒れた相手を蹴りまくる。うん、私だったら、そうしますね。
 だから私は、いつでも2人の間に割って入れるよう、身構えておりました。でも、幸か不幸か、そんな大惨事にはならず、皆、ニコニコ。そして長野智子アナも一緒に入って「ピース!」をしました。戦争よりは平和の方がいいですね。
 鳥越さんは「別にケンカした覚えはないけど」と言ってました。全く無警戒でした。大人物です。きっと胸のバッチ「無敵」のおかげでしょう。

‘私も黒木昭雄さんの思い出を語りました

⑨私も、黒木さんの思い出を語りました。

‘宮崎学さんと

⑩宮崎学さん(作家)です。「この後、死刑廃止の集会行くの?」と聞いたら、「やたらと忙しくて。3つ位、かけもちの集まりがあるから、行けないよ。よろしく言ってよ」。そして、ソッと耳打ちしてました。「それによー、人のこと『殺せ!』なんて言ってきた俺が死刑廃止じゃ、恥ずかしいだろう」。うん、その気持ちも分かりますよ。でも、時効になったのをいいことに、「死刑廃止」を声高に言ってる活動家もいますよ。

‘弁護士の清水勉さんと

⑪弁護士の清水勉さんと。小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言』によく出ていた。似ている。すぐに分かりました。「鈴木さんも似てますよ」と清水さん。マンガのキャラクター同士で話がはずみました。清水さんは、「明るい警察を実現する全国ネットワーク」事務局長。黒木さんとは最も親しかったようです。いろいろと話を聞きました。

‘免田榮さん(右)と(12/19)

⑫冤罪で死刑囚とされ、34年間を獄中で過ごした免田榮さん(右)と。その隣りは支援者の佃杝彦さんです。12月19日(日)午後2時半から日比谷公会堂で死刑廃止の集会がありました。「死刑のない社会へ。地球が決めた20年。日比谷公会堂集会」。2000人が集まりました。免田さんも発言してました。
 そのあと、赤坂の居酒屋で行われた打ち上げ会の席です。免田さんは酒はグイグイ飲むし、「カラオケに行きたい!」と言ってました。マイクはないのに、立ち上がって、歌をうたってました。バイタリティのある人です。刑務所の話、天皇制の話などを聞きました。「今度、一緒に徹底的に飲もう」と言われました。
 あれっ、私の胸にバッチが。よく見ると「無敵」と書かれている。鳥越さんのバッチが瞬間移動したんでしょう。いや、私が「それいいですね」と言ったら、「じゃ、あげる。そのかわり、外しちゃダメだよ」と鳥越さんが付けてくれたのです。
 よく分からんけど、JAYWALK中村耕一さんの奥さんの書道家の矢野きよ実さんが書いたものだそうです。私も勇気が湧き、「無敵」になりました。

‘赤堀政夫さんと

⑬赤堀政夫さんと。冤罪「島田事件」で死刑囚になり、36年間獄中にいました。何とも残酷な話です。免田さんも赤堀さんも。名前は知ってましたが、お会いしたのは初めてです。一貫して闘ってます。本当に尊敬します。よく、耐え、闘ったと思います。

‘原田正治さん(中央)、浅野健一さん(右)と

⑭前にこのHPで紹介しましたが、原田正治さん(中央)。そして浅野健一さんです。原田さんのことは、『創』(10年12月号)にも書きました。原田さんの『弟を殺した彼と、僕』(ポプラ社)は実に感動的な本です。(死刑)を考えさせられました。『創』を送ったら、「日比谷に行くので、ゆっくり会おう」とお手紙を頂きました。会場は、人が多くて探せません。お互い、携帯で連絡を取り合い、休憩時間に会いました。又、終わってから、打ち上げで、ゆっくり話し合いました。
 浅野健一さんとは1月9日(日)の西宮ゼミで話します。

‘菊田幸一先生と

⑮死刑廃止運動をしている菊田幸一先生です。息子さんは格闘家の菊田早苗さんです。私の家の近くに、ジムがあり、よく会います。

別冊サイゾーの『タブー破りの本 300冊』‘

⑯これが、別冊サイゾーの『タブー破りの本、300冊』です。私の『失敗の愛国心』(理論社)も取り上げられておりました。ありがたいです

【お知らせ】
  1. 「別冊サイゾー」で、『タブー破りの本、300冊』(980円)が出ております。凄い売れ行きです。政治、宗教、スポーツetと「タブー破りの本」が紹介されています。何と、私の『失敗の愛国心』も入ってました。ありがたいです。
  2. 1月9日(日)午後2時。「鈴木邦男ゼミin西宮」です。浅野健一さん(元共同通信。同志社大学教授)と対談します。西宮駅前の喫茶店「カフェインティ・ライミ」です。主催は鹿砦社・松岡利康。参加希望者は岩井まで。080(5702)8405。参加費は2千円です。
  3. 1月12日(水)午後7時、サンルートホテル高田馬場一水会フォーラムです。講師は久間章生先生(元防衛相)です。防衛、沖縄問題など、日本が直面する緊急課題についてのお話が聞けます。ご期待下さい。
  4. 高校生からメールをもらいました。ありがとうございます。「憲法改正」については、今出ている月刊『創』(2011年1月号)に書きました。「三島事件から40年」で、三島の「改憲案」を紹介しました。私もこれに賛成です。それと、このHPの2007年5月7日から3回、「ニューヨーク・レポート」(pdf)を書いてます。ニューヨークで憲法改正のシンポジウムに参加しました。それを読んでみて下さい。