今年最初の忘年会かな。いや、まてよ。12月15日(水)の一水会フォーラムの後の打ち上げが「忘年会」第1号だったかなと、悩み、考えながら出席したわけですよ。12月17日(金)の「田原総一朗さんを囲む忘年会」だ。午後7時、日本プレスセンターだ。その最上階の「アラスカ」だ。
でも一歩足を踏み入れて、アリャ、ちょっと雰囲気が違うな、と思った。新聞社、テレビ局の人が多いし、ジャーナリストが多い。大きなスクリーンも用意されている。正面を見ると、何と、「田原総一朗さんのジャーナリスト50周年を祝う会」と大きく書かれている。そして、「朝まで生テレビ」のあのテーマソングに乗って、田原さんが登場する。
田原さんは今年76才だ。ということは、26才からジャーナリストの世界に入ったのだ。常に〈現場〉にいて闘っているから若いのだ。
スクリーンでは、岩波映画時代、東京12チャンネル時代の田原さんの活躍が映し出される。常に、挑戦・実験・体当たりだ。よく、これだけのことをやってきたもんだと思う。いろんな人が祝辞を述べる。一水会の木村三浩氏は田原さんをイラクに連れて行った。フセインに会わせようとしたが、実現しなかった。「それだけは残念だったし、申し訳ない」と言っていた。
「それよりも、一緒に北朝鮮に行きましょう」と田原さん。日朝関係を打開し、拉致問題解決の展望を開くには、田原さんに行ってもらうのしかない。ぜひ、実現してほしい。続いて私も祝辞を。1984年にやった「激論・全共闘」の話をした。26年前だ。田原さんが司会で、池袋文芸座で、全共闘運動を総括する徹夜討論会をやった。これが盛り上がり、大評判を呼んだ。だから、これを基にして、2年後、「朝まで生テレビ」がスタートした。
「激論・全共闘」は、正確には、「君は今、燃えているか!? カゲキ世代が激突討論」だ。テレビ朝日が放映した。『朝日ジャーナル』が要旨を載せた。又、講談社から単行本になった。『激論・全共闘。俺たちの原点』だ。
「君たちは命を燃やしたことがあるか!?」
「カゲキ世代の論客たちが徹夜で語り合った熱きメッセージ」と本の帯には書かれている。全共闘運動を闘った4人と、対極で彼らと闘った私。5人がパネラーだ。一緒に殴り合いをしていたが、私も同時代を生き、闘った。広い意味では「全共闘世代」だ。全共闘の4人は、中上健次、立松和平、高橋伴明、前之園紀男の4人だ。
「あの時代が素晴らしかったと言うのなら、もう一度やってみろ! 革命を起こしてみろ!」と私は挑発した。1対4のバトルになった。この時、私は私は白いTシャツに、青いジャンパーだ。乱闘になっても十分対応できるように即戦スタイルだ。Tシャツには「フクちゃん」が柔道をしている漫画が描かれている。ヤル気満々だった。
ともかく凄い討論会になった。「アワヤ?」というシーンが何度もあった。
26年前の「熱き闘い」を思い出しながら、私は田原さんの「50周年」の祝辞をやった。あれが「朝生」の原点です。と紹介した。そしたら、途中から田原さんがマイクを奪い、「あの時、中上に怒鳴られたんだよ」と言う。「田原、お前は司会失格だ。やめろ!」と言ったらしい。「オレと鈴木で、サシで闘わせろ!」と言ったそうだ。そうだっけ?田原さんは、よく覚えている。私より9才も年上なのに、私より何百倍も記憶力はいいし、頭は柔軟だ。
(家に帰って、『激論・全共闘』を読み返したら、確かにそんな殺気立ったシーンがあった。懐かしい。私ごときを「サシ」で名指してくれた。光栄です。その中上さんは今はいない。立松和平さんも亡くなった)
田原さんが東京12チャンネルにいた時だと思う。「学生右翼」という番組を撮った。日学同(日本学生同盟)に密着して撮った。まだ、「楯の会」に移る前の森田必勝氏も映っている。皆と、討論している。街頭でビラを撒いている。貴重な映像だ。動く映像として残っている森田必勝氏はこれだけだ。あとは、1970年11月25日、市ヶ谷の自衛隊で、三島の隣りに立っている森田氏の映像だけだ。
田原さんは本当に、いい仕事をしてくれたと思う。
いろんな人の祝辞があって、ちょっと休憩。その時、田原さんと話をした。この前の「情熱大陸」は凄かったですね。よかったですね、と私は言った。テレ朝ではい。それに、初めて田原さんが〈撮られる側〉だ。私生活と仕事の全てが撮られる。毎朝、全く同じものを、同じ手順で食べる。同じ所に片付ける。本が山と積まれた机の上で仕事をする。テレビ局に行く。現場に行く。超多忙な田原さんの生活に密着する。
「朝生」のスタッフに聞いたら、「傍にいる我々は、かえって出来なかった。あれは凄い」と言っていた。大阪のテレビ局の人たちが密着取材した。取材の女性記者を田原さんは挑発する。
「取材するというのは、話を聞くだけではない。相手の懐に飛び込むのだ。相手を好きにならなければならない。相手とSEXをするくらいの覚悟でないとダメだ!」。
凄いことを言う。ビックリした。「じゃ、と言って女性記者が服を脱いで抱きついてきたら、どうするんですか」と私は田原さんに質問した。「勿論、受け止めますよ。闘いますよ!」。ゲッ、と思った。76才。出来るのかな。
その時、スクリーンに田原さんの、生い立ちや、監督時代の武勇伝が紹介された。田原さんは滋賀県彦根市出身。近江商人の末裔。戦時中は人並みに軍国少年で、海軍兵学校進学を夢見ていたが、敗戦で前途を断たれた。18才の時、高校で、戦時下とは180度異なった「正義」を語る教師たちに不信感を抱く。「何事も自分の目で見て、自分の耳で聞いて納得しなければいけない」と思う。ジャーナリスト・田原総一朗が生まれた瞬間だ。
高校を出て、上京。日本交通公社(現JTB)に入社。Wikipediaにも載ってるが、東京駅丸の内で乗客案内をしていた。この時に、当時はまだ日蓮正宗の門徒団体だった創価学会の学会員が大挙して東京駅から、日蓮正宗総本山のある大石寺に向かうのを見て、創価学会や池田大作に興味を持った。これも、ジャーナリストの目覚めだ。
それで、仕事をやめて、早大文学部に入る。初めは作家を目指したが、石原慎太郎、大江健三郎の出現にショックを受けて断念。
そして田原さんは1960年に岩波映画製作所に入社。カメラマン助手を務め、1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局と共に入社。数々のドキュメンタリーを撮る。「祝う会」のスクリーンでも紹介されていたが、wikipediaには詳細に紹介されている。たとえば、こんな番組を撮った。
〈全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。余興として花嫁が列席者全員とセックスをする。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原はみずから彼女とセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」はゴールデンタイムで放映された〉
〈ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。〉
〈役者・高橋英二のガン治療手術から死去にいたるまでの撮影では、病室である国立がんセンターに取材拒否されたため、内緒で撮影。さらに右腕の切断手術が必要になり、手術の場面を撮影。手術直後、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んだが、女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンも、そのまま撮影。また、本人の望むまま、国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影。高橋はスターになるが、死去。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるまで撮影した。〉
これは驚きだ。こんなことをやったのか。今だったら、絶対に出来ない。犯罪だよ。今やったら、全員、逮捕だ。凄い。凄すぎる。「情熱大陸」を見て、「76才、出来るの?」と思った私が愚かでした。田原さんなら出来る。何だって出来る。脱帽です。
このパーティでは初対面の人も多かった。でも、テレビでよく見てる顔だから、初めての気がしない。黒岩祐治さん、渡部恒雄さん、加藤千洋さん、田中均さん、内田誠さん、相川俊英さんらに会う。高世仁さんには、「『創』の連載読んでますよ」と言われた。「よく、毎月、写真を撮って載せてますね」と言われた。だから、ポケットにあった最新鋭のハイテクカメラを見せてあげた。「ほう、これが秘密兵器ですか」と見入ってました。
渡部恒雄さんは、福島の会津出身だそうだ。じゃ、いい人だ。「東北出身の人に悪い人はいない」と言われてるし。そしたら、周りにいたジャーナリストが、やっかんで、「だったら東北には警察はいらないでしょう」。私は言った。「そうです。いらないんです。なくしたらいいですね」。渡部さんは、「いくら何でも、それは言い過ぎです。東北には東北らしい素朴な犯罪はあるんですよ」と妥協案を出してました。
この人たちも皆、壇上で祝辞を述べる。民主党の蓮舫さんも駆け付けた。「20年ほど前、東海テレビで、“田原総一朗の世界が見たい”も司会をさせてもらい、とても勉強になりました。それが私の原点です」と言っていた。クラリオンガールだった蓮舫さんが、東海テレビで高野孟さんと一緒に司会をした。面白い番組で、アットホームな温かさがあった。「マンガ興国論」とか、「和才洋魂のすすめ」などと、面白い斬り口で、日本と世界を語る。私も何度か呼ばれた。
あそこで、蓮舫さんは政治の勉強をした。それが国会に出るキッカケになった。蓮舫さんと話をした。久しぶりだ。「あの番組は楽しかったですね」と当時の思い出話をした。「じゃ記念撮影を」と思ったが、国会内で撮影したくらいで問題になった。「右翼の前科者と写真を撮って、ブログに載った」なんて非難されてはかわいそうだ、と思って断念した。
東海テレビで、蓮舫さんと一緒に司会をやっていた高野孟さんも来ていた。「そうなんだよ。あの頃は番組作りも、精神の余裕があったね。今は、ギスギスして、皆、尖っている」と言っていた。そうだよな。「北朝鮮が攻めてきたらどうする!」「中国船なんか撃沈しろ!」「日本も核を持て!」と、皆、いきり立っている。精神の余裕がない。テレビがそれを煽るだけじゃ、いけんだろうよ。
帰りのエレベーターで、話してる人がいた。「過激だよなー田原さんは。もう、あの人を継ぐ人はいないよなー」「継ぐ必要もないよ。田原さんは1人だよ」。うん、そうだよな、と私も思いました。「朝生」の司会を評して、よく田原さんは「猛獣使い」だといわれるが、本当は、田原さんその人が、最も過激だし、猛獣なんだ。
テレビの中では超過激だが、テレビが終わり、普段の時は、とても優しくて、気配りの利いた人だ。帰ろうとしたら、田原さんにわざわざ、呼び止められて、「鈴木さん、『創』の連載、いいねー。毎月、読んでるよ」と言う。優しいし、心配りのある人だ。そのかわり、テレビになると思い切り暴れる。もしかしたら、本当はテレビに住み込んでいるのかもしれない。テレビの中のキャラクターが本人なのかもしれない。そんなことを思いながら、帰りました。
⑤竹中労さんのお父さんは有名な画家です。江戸川乱歩などの本の表紙、挿し絵を描いていました。甲府に、「竹中英太郎記念館」があります。竹中労さんの資料もあります。私は編集者と共に取材に訪れました。館長は金子紫さんです。竹中労さんの妹さんです。とてもお洒落な記念館でした。12月12日(日)です。
⑥竹中英太郎記念館で。金子紫さんと。労さんの話をたっぷりと聞かせてもらいました。労さんの本の他、私の本もありました。ありがたいです。すっかりご馳走になってしまいました。おいしかったです。来年は竹中労さんの没後20年です。私も、思い出を書きたいと思います。
⑦鳥越俊太郎さんと。12月19日(日)、銀座東武ホテルです。元刑事でライターだった黒木昭雄さんを偲ぶ会です。50になったばかりでした。とてもお世話になりました。あれっ?鳥越さんは、面白いバッチをつけてますね。よく見ると、「無敵」と書かれています。
⑧高須基仁さん(中央)は、普段は優しいのですが、イザとなると怖い人です。元全共闘で、丸太を抱えて防衛庁に突っ込んだ人です。ロフトでは、よく乱闘してます。マイクを客席に投げつけて客に怪我をさせたこともあります。鹿砦社の暑気払いでは、大暴れし、警察が来ました。
その高須さんも、「黒木さんを偲ぶ会」に来てました。「鳥越さんと喧嘩してるんだけど、仲直りしたい。鈴木さん、取り持ってくれよ」。それで、鳥越さんに会わせました。「やあやあ」と握手してました。でも、私はビクビクしてました。「人間凶器」の高須さんです。油断はなりません。握手して、相手の利き手を掴んだ瞬間、関節をとって、投げる。そして、倒れた相手を蹴りまくる。うん、私だったら、そうしますね。
だから私は、いつでも2人の間に割って入れるよう、身構えておりました。でも、幸か不幸か、そんな大惨事にはならず、皆、ニコニコ。そして長野智子アナも一緒に入って「ピース!」をしました。戦争よりは平和の方がいいですね。
鳥越さんは「別にケンカした覚えはないけど」と言ってました。全く無警戒でした。大人物です。きっと胸のバッチ「無敵」のおかげでしょう。
⑩宮崎学さん(作家)です。「この後、死刑廃止の集会行くの?」と聞いたら、「やたらと忙しくて。3つ位、かけもちの集まりがあるから、行けないよ。よろしく言ってよ」。そして、ソッと耳打ちしてました。「それによー、人のこと『殺せ!』なんて言ってきた俺が死刑廃止じゃ、恥ずかしいだろう」。うん、その気持ちも分かりますよ。でも、時効になったのをいいことに、「死刑廃止」を声高に言ってる活動家もいますよ。
⑪弁護士の清水勉さんと。小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言』によく出ていた。似ている。すぐに分かりました。「鈴木さんも似てますよ」と清水さん。マンガのキャラクター同士で話がはずみました。清水さんは、「明るい警察を実現する全国ネットワーク」事務局長。黒木さんとは最も親しかったようです。いろいろと話を聞きました。
⑫冤罪で死刑囚とされ、34年間を獄中で過ごした免田榮さん(右)と。その隣りは支援者の佃杝彦さんです。12月19日(日)午後2時半から日比谷公会堂で死刑廃止の集会がありました。「死刑のない社会へ。地球が決めた20年。日比谷公会堂集会」。2000人が集まりました。免田さんも発言してました。
そのあと、赤坂の居酒屋で行われた打ち上げ会の席です。免田さんは酒はグイグイ飲むし、「カラオケに行きたい!」と言ってました。マイクはないのに、立ち上がって、歌をうたってました。バイタリティのある人です。刑務所の話、天皇制の話などを聞きました。「今度、一緒に徹底的に飲もう」と言われました。
あれっ、私の胸にバッチが。よく見ると「無敵」と書かれている。鳥越さんのバッチが瞬間移動したんでしょう。いや、私が「それいいですね」と言ったら、「じゃ、あげる。そのかわり、外しちゃダメだよ」と鳥越さんが付けてくれたのです。
よく分からんけど、JAYWALK中村耕一さんの奥さんの書道家の矢野きよ実さんが書いたものだそうです。私も勇気が湧き、「無敵」になりました。
⑬赤堀政夫さんと。冤罪「島田事件」で死刑囚になり、36年間獄中にいました。何とも残酷な話です。免田さんも赤堀さんも。名前は知ってましたが、お会いしたのは初めてです。一貫して闘ってます。本当に尊敬します。よく、耐え、闘ったと思います。
⑭前にこのHPで紹介しましたが、原田正治さん(中央)。そして浅野健一さんです。原田さんのことは、『創』(10年12月号)にも書きました。原田さんの『弟を殺した彼と、僕』(ポプラ社)は実に感動的な本です。(死刑)を考えさせられました。『創』を送ったら、「日比谷に行くので、ゆっくり会おう」とお手紙を頂きました。会場は、人が多くて探せません。お互い、携帯で連絡を取り合い、休憩時間に会いました。又、終わってから、打ち上げで、ゆっくり話し合いました。
浅野健一さんとは1月9日(日)の西宮ゼミで話します。