こんな偶然があるんですね。いや、偶然ではなく、何か呼び合うものがあったのかもしれません。
2月5日(土)の朝、山平重樹氏の渾身の力作、『連合赤軍物語・紅炎』(徳間文庫)が出版され、全国の書店に並びました。連赤事件から39年目にして出た、連赤本の〈決定打〉です。実に多くの人々に取材し、厖大な資料を読み解き、連赤事件の〈全体像〉を初めて、書き切りました。これは画期的なことです。この本の出版そのものが〈事件〉です。
これで再び、連赤事件が語られ、検証されるでしょう。と思っていたら何と、この本が出た2月5日(土)の夜、連合赤軍事件のリーダー・永田洋子さんが亡くなりました。65才でした。新聞に報じられたのは2月7日(月)の朝刊でした。
でも私は、2月5日(土)の深夜に知りました。正確には2月6日(日)になりますが、深夜1時30分に、電話がありました。こんな夜中に誰だろう、と思って携帯に出たら、植垣康博さん(元連合赤軍兵士)でした。
いきなり、「永田さんが死んだよ!」と言う。ビックリしました。病気とは聞いてましたし、何度か「危篤だ」と言われたこともありました。でも、票院にも入院してないし、病状が安定してたのかと思ってました。
ところが、「3時間前に亡くなった」と植垣さんは言います。拘置所側は、病院に入れるなどの処置を全くしてなかったそうです。酷い話です。植垣さんは、弁護士から聞いたのか。死亡の3時間後には知り、私に教えてくれました。まだ、マスコミも知らず、ネットにも報じられる前でした。
産経新聞は6日(日)は夕刊がないので、7日(月)の朝刊に報じられてました。
〈連合赤軍事件で殺人罪
永田洋子死刑囚死亡。65歳〉
そして、こう書かれています。
〈一連の連合赤軍事件で殺人や死体遺棄罪などに問われ、死刑が確定していた元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚(65)が5日午後10時6分、多臓器不全のため東京拘置所で死亡した。
同拘置所などによると、永田死刑囚は昭和59年に脳腫瘍と診断され、手術など医療措置がとられていた。最近は脳萎縮や誤嚥(ごえん)性肺炎の治療中で、意識障害もあり、寝たきりだった〉
つまり、危篤状態で、意識もほとんど無かったという。それなのに拘置所に入れたままだ。八王子医療刑務所に移すとか、(こんな場合は)刑の執行を停止して民間の大病院に移すはずだ。
ところが、そんなことは一切、されてない。「あんな凶悪事件の犯人だから」という感情があったのかもしれない。
勿論、あの連赤事件は許されることではない。しかし、革命運動に身を投じ、連合赤軍をつくり、「革命戦士」を目指して、山に立て籠もり、そこで、総括、粛清を繰り返した。そして13人もの仲間を殺した。逮捕された時は27才。27才までで、「全て」のことをやり尽くしたのか。燃え尽きたのか。山平氏の本の題名のように、「紅炎(プロミネンス)」の一生だったのか。
いや、27才で終わったわけではない。革命闘争は終わったが、それから40年間、長い長い、獄中闘争があった。40年間も拘留されていたのか。凄まじい人生だ。40年間も、閉じ込められ、自己と向き合い、自分を「総括」し続けていたのか。
長い裁判が続き、永田さんは死刑が確定。確定してからも20年になる。2月7日付の産経新聞では、佐々淳行が「刑事政策おかしい」とコメントしていた。佐々は、警察官として、あさま山荘事件を現場指導した人間だ。その後、内閣安全保障室長も務めた。コメントの中味はこうだ。
〈判決が確定して20年近くたつのに刑が執行されない日本の刑事政策はおかしい。凶悪犯ほど早く執行すべきなのに、イデオロギー的な犯罪には手がつけられず、永田洋子死刑囚は手術も受け、税金で生きるようにさせてきた。事件で殉職した警察官のことは全く考えられていない〉
凶悪犯は早く死刑を執行すべきだ、と言う。手術を受けさせ、20年間も生きさせるのは税金の無駄遣いだという。
でも、永田さんは、革命闘争を闘い、極限状態を生きた人間だ。あの時代の〈生き証人〉だ。もっともっと語ってほしかった。あの事件は、日本国民にとって、いわば、「負の財産」だ。もっと公開してほしかった。「さっさと殺してしまえ」では済まない問題だと思う。
この2日後、2月9日(水)の産経新聞には、江田五月法相の談話が載っていた。佐々淳行の発言とは全く反対だった。
「一人の命。冥福祈る」と見出しで、以下のように言っている。
〈江田五月法相は8日の記者会見で、死亡した永田洋子死刑囚について、「死刑囚であれ一人の命。冥福を祈りたい」とした上で、「病気で亡くなる前になぜ早期に死刑執行しなかったのかとの声があるかもしれないが、そこまで世の中殺伐としてはいないのではないか」と語った〉
殺伐としていく世の中で、これはホッとするコメントだ。江田さんはいわば、政界の〈良心〉だね。私はそう思いますね。
さて、では山平重樹氏の本だ。本の帯には、「事件は最高の書き手を得た」という私の言葉が書かれている。実は、頼まれて、この本の「解説」を書いたのだ。「えっ、俺でいいのかよ」と思ったが、覚悟を決めて書いた。それは読んでもらいたいが、山平氏が「アサヒ芸能」に連載してた時から、「やられた!」と思っていた。私も、いつか連赤事件を書きたいと思っていたからだ。連赤関係の人には多く会ってるし、対談もしている。又、植垣康博さんの『兵士たちの連合赤軍』(彩流社)には、「解説」も書いている。
だから、連赤には、ずっと関心があった。三島由紀夫の死後2年後に起こった事件だ。三島が生きていたら、衝撃を受け、小説にしただろう。私だって、書いてみたいと思った。永田、坂口、植垣…さんと、当事者は何人も本を書いている。しかし、「反省」と「後悔」ばかりだ。植垣さんの本は、赤軍派事件はやたら明るくて、楽しい。しかし、連合赤軍になって山に登ってからは「暗い」。明るさなどは全くない。陰惨な事件の連続だ。
それに、当事者では書けないこともある。他人への遠慮もある。その人の運動の中の位置で、見てないこと、書けないことも多い。その点、山平重樹氏は、そんな遠慮はない。なんせ、山平氏は、元、日本学生同盟で運動をやっていた。つまり、元右翼学生だったのだ。
その元右翼学生が、連合赤軍を書く。「何でだ?」と思った人もいただろう。しかし、これが成功した。左翼だと、どっぷり、その中に入ってる人か、あるいは、反対の立場で党派闘争をした人しかいない。又、あの時代を全く知らずに、ただ批判するだけでも、連合赤軍は書けない。
その点、山平氏は、反対の運動をやっていたが、あの時代の空気は分かる。又、左翼と対立しながらも、運動をやる人間へのシンパシーはある。だから、その適度の「距離感」がよかった。私は、そう思う。
それに、「解説」は私だ。「書いたのも、解説も右翼かよ!」と驚いた人もいた。いいじゃないか。その方が、かえって距離感をもって、客観的に書けたのだし。
又、山平氏は、野村秋介さんのことを書いている。『ドキュメント・野村秋介』(二十一世紀書院)だ。それに、『見果てぬ夢・ドキュメント新右翼』も書いている。右翼の運動を書いているから、どうしても(右翼と闘った)左翼の運動には触れる。多くの人にも取材した。そして、そのネットワークを持って、今回、「連合赤軍」に立ち向かったのだ。
もちろん、全く新しく取材した人も多い。厖大な資料にも当たっている。『アサヒ芸能』の時も少し読んでいたが、徳間文庫でまとまった本を読むと、その凄さに驚いた。実にリアルだ。あっ、連合赤軍事件って、こんなことだったのか。と全体像が分かった。又、連合赤軍が暴走していく過程が、実に正確に、説得力をもって描かれている。多分、これは、山平氏が、アウトローの生き様、闘い、殺し合いを多く書いてきたからだろう。
本の裏のカバーには、こう書かれている。
〈「革命」という言葉が日本で現実感があった1960年代後半。全国各地で革命運動に燃えた多くの若者たちがいた。やがてキューバ革命にシンパシーを感じていた「赤軍派」と毛沢東に強く影響を受けた「革命左派」が接近、「連合赤軍」
まさに、「渾身の巨篇」だ。山平氏が今まで書いたものの中で、最高だと、私は思った。単に、あの事件を〈犯罪〉として切り捨てる人も多い。「これがあったので左翼の運動は全て死滅した」と悔しがる人々もいる。しかし、あそこまで突き詰めて革命を考え、革命戦士になろうとした人々はいない。
〈「革命」に捧げた青春!
「あさま山荘」にいたる道のりには、若者たちの壮大な夢があった〉
と本の帯には書かれている。〈革命に捧げた青春〉という立場から、書いている。これがいい。成功している。今までの〈連合赤軍〉ものの中で、一番いい出来だと思う。
今、これを書いてる時に、ちくま書店から、山平氏のもう1冊の新しい本が送られてきた。『実録ヤクザ映画で学ぶ抗争史』(ちくま文庫)だ。山平氏は随分と書いてるな、と思ったら、「解説」が二十一世紀書院の蜷川正大氏だった。文章もうまいし、ジンと胸を打つ。蜷川さんは野村秋介さんのお弟子さんだ。山平氏の文庫本の「解説」を2人が書いている。これも何かの縁かもしれない。2人共、読んでみて下さい。
そうだ。「先週のHPはよかった」「よく、やったね!」と沢山の人から言われました。「読書対談」だ。でも、私も何もしてません。高木氏が全てやってくれたのです。本当にお世話になりました。分量も多かったし、質的にも素晴らしいものになりました。又、ああした大型企画には挑戦してみたいと思います。
⑦Paix2(ペペ)の本、『SAYいっぱいをありがとう』(実業之日本社)です。実にいい本です。感動的な本です。本の帯から…。
「全国の刑務所でコンサートを開く女性デュオ二人が歩いてきた道」
「心に響く歌をあなたに届けたい」