2011/03/07 鈴木邦男

北朝鮮に行き、「よど号」グループと会った!

①慌ただしく、訪朝。そして

金日成主席の銅像の前で(3/2)
金日成主席の銅像の前で(3/2)

急な話でした。2月28日(月)から3月5日(土)まで、北朝鮮に行って来ました。全く、突然です。全く衝撃的です。行けるとは全く思ってませんでした。だから、28日(月)からの1週間は全て予定が入ってました。出発ギリギリまで、予定変更の打ち合わせで、携帯をかけまくってました。成田で飛行機に乗る寸前までかけてました。

でも、成田には、デカデカと、「北朝鮮への渡航は自粛して下さい」という貼り紙。だから、携帯でも「北朝鮮に行く」と言えず、「中国に行くので、予定を変えて下さい」と電話しました。気の弱い私です。

「だいありー」にも書きましたが、2月26日(土)の夕方に、「訪朝できそうですよ。あさってから」という電話がありました。

実は、2月28日(月)から3月5日に「申し込み」はしていたのです。でも、1週間前になっても、4日前になっても連絡がない。「あっ、又、ダメだな」と思い、完全にあきらめていました。ここ3年の間に、15回ほど、訪朝のビザを申請したが、全て、ダメだった。だから、又、どうせダメだと思っていた。

2月25日(金)は広島に行って、拘置所に面会に行き、夜は原田正治さんとトーク。遅くなったのでホテルで泊まり、翌、26日(土)に帰京。帰ってから用事を済ませ、家に帰ると、何と、「行けそうです」という連絡。それから、あわてまくり、夜も寝ないで、準備した。

金日成主席の生家で
金日成主席の生家で

訪朝は、3月1日(火)から5日(土)だ。でも、2月28日(月)まで北京に入ってくれという。そこで、多分、ビザが取れるだろう。という。とにかく、北京に行こう。でも、又、北京でビザが取れず、空しく帰ることになるかもしれない。えーい、ままよ。と思って、飛行機に飛び乗った。

いろんなアクシデントはあった。しかし、何とか北朝鮮に入れた。2回目だ。1回目はたった3年前なのに、いやに懐かしい。1回は行ったが、もう2度とは行けないと思っていたからだ。嬉しい。そして今度こそ、「よど号」グループの人達と会えるはずだ。

大体、「よど号」事件がなければ、私も、彼らに関心を持つことはなかった。三島由紀夫だって、「よど号」ハイジャックに衝撃を受け、刺激を受けて、市ヶ谷での決起を考えたのだ。

②「よど号事件」で衝撃を受けて三島事件が

「よど号」の人達と。やっと会えました
「よど号」の人達と。やっと会えました

1970年3月31日、赤軍派の9人は、日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った。それをTVで見ていた三島由紀夫は、「楯の会」幹部の本多清氏に電話をよこした。「テレビを見たか。やられた!先を越された!」と言う。本多氏はよく覚えているという。

福岡で、「よど号」は、給油のために寄り、女性や子供は解放した。その時、タラップの上に日本刀をかざした男がいた。田中義三さんだ。つまり、三島は田中さんを見て、感動し、「やはり、日本刀による決起がいい!」と固く決めたのだ。

「よど号」ハイジャックは、左翼にショックを与えただけではない。又、三島だけでなく、右翼全般にも大きな衝撃を与えた。「よど号」の人達は、「我々はあしたのジョーである」と言って、飛び去った。

私は、その時、「右翼」だ。いや、右翼学生運動の内ゲバに巻き込まれ、〈運動〉が全く出来なかった。郷里の仙台に帰り、小さな本屋の配達のバイトをやっていた。一生、こんなことをして生きてゆくのか。もう2度と〈運動〉の世界に戻ることはないな、と思っていた。

そんな鬱屈した日々の中で、「よど号」は衝撃を感じた。凄い人間達だと思った。「敵ながら天晴れ」だと思った。つまり、まだ、〈敵〉と思っていた。

レストランで話し込みました
レストランで話し込みました

しかし、それから10年以上経った頃、「一水会の皆と連絡をとりたい」と、ある記者が、頼まれてきた。「共に民族主義、祖国愛について語り合いたい」と言う。驚いた。全く接点はないと思っていたのに、向こうの方から接触してきた。長い間、北朝鮮にいて、日本の運動のことが知りたいのだと思った。たとえ、「敵」であっても、日本ではどんな運動があるのか。それ知りたいのだと思った。

ところが違っていた。彼らは、北朝鮮に行って、初めて「祖国」について、「祖国愛」について考えたのだ。

日本で赤軍派として運動していた時は、「インターナショナル」だ。「ナショナリズム」や「愛国心」「祖国愛」などは否定していた。そんなものがあるから、自国のことしか考えず、戦争になる。そう考えた。ともかく、「祖国愛」は邪魔なものだった。

ところが、北朝鮮に来て驚いた。この革命の国では、「革命」「インターナショナル」の前に、「祖国愛」があった。男たちは徴兵検査で落ちると、泣き崩れる。国家に奉仕できない!と言って…。

老若男女、皆、この国を護るために命を懸けている。祖国愛、愛国心が基盤になって、その上での革命だ。そのことを知った。それで、自分たちも、「まず日本人だ」ということを再確認する。

そして、日本の民族主義を勉強しようとする。さらに、日本で民族主義運動をやってる人々とも話し合えるのではないか。あるいは、共に闘える部分があるのではないか。と思う。

③「よど号」と、〈民族主義〉について話し合う!

ホテルに戻ってからも、夜中まで話しました
ホテルに戻ってからも、夜中まで話しました

それで、訪朝した記者に頼んで、橋渡しをお願いした。私らも驚いたが、申し出を承諾した。お互いの機関紙や、書いた本などを交換し、手紙も交換した。電話でも話した。

そして、リーダーの田宮高麿さんから、「どうです。一水会訪朝団を作って、こちらに来ませんか。ぜひ、一緒に話し合いたい」と言う。面白いと思った。違いは違いとして、一致できる点を探す。「民族主義」について考える。大賛成だ。その時、私は一水会代表だ。だから、私が訪朝団団長になった。木村三浩氏、見沢知廉氏なども参加することになった。

1995年に、「一水会訪朝団」は訪朝した。今から16年前だ。ところが、団長である私にだけは、何故かビザが下りない。仕方がない。やめようかという声もあったが、木村氏、見沢氏他で行ってもらった。向こうでは大いに話し合い、飲み、歌った。友情が深まった。大きな成果があった。何故私だけが下りなかったのか、疑問だったが、ともかく、「よど号」との連帯は大きく前進した。

テンプル大学日本校で講演しました(2/23)
テンプル大学日本校で講演しました(2/23)

それ以来、16年間、ずーっとビザを申請し続け、ダメだった。あらゆる方法、あらゆるツテを探して申請した。いろんな請願書、書類も出した。北朝鮮に関して書いた文章も全て出した。

そして3年前、08年4月に、初めて訪朝が実現した。しかし、「よど号」グループには会えない。「よど号」グループに会わせていいのかどうかの予備調査だったのかもしれない。5日間、朝から晩

で、労働党の人と話し合った。かなり私の気持ちは分かってもらえたと思う。手応えを感じた。このことは08年のHPにも書いた。そして帰国した。

「よし、次は大丈夫だ」と思った。次に訪朝した時は、「よど号」に会えると思った。ところが、そうはいかない。何度ビザを申請してもダメだった。3年間で、10回以上申請した。一度など、「大丈夫ですよ」と言われ北京まで行ったが、そこで下りなかった。空しく帰国した。「08年には入れたんだから」と言っても、「一点突破・全面展開」にはならない。「08年の時は、何かの間違いだったようです」と言うともいる。「間違い」でたまたま入れたのか…。

授業が終わった後も質問攻めでした
授業が終わった後も質問攻めでした

あーあ、ダメだな。と思っていた。だから、3月1日から5日までの話も、「どうせダメだろう」と思い、全く期待していなかった。1週間前、4日前になっても連絡が入らない。やはりダメだったんだ。そう思い、全てのスケジュールを入れた。

ところが2日前に、「行けそうです。すぐ、北京に行って下さい」との連絡。ウーン、物事が実現する時は、こんなものなのか、と思った。いろんなトラブル、障害があったが、実現した。何とか3月1日(火)にピョンヤンに入った。やっと来れた。今度こそ、「よど号」の人達と会えるぞ。そう思うと胸が一杯になった。

④やっと会えた!「よど号」の皆に!

三島と日本文化についての質問が多かったです
三島と日本文化についての質問が多かったです

あとは、「だいありー」を見てほしい。北朝鮮も変わった。高層ビルが建ち並ぶ近代都市だった。あの三角の巨大なホテル、柳京ホテルも、出来上がる寸前だ。美しい。大きい。来年4月の金日成主席の生誕100年に合わせて出来るという。

高麗ホテルの45階から見る夜景もきれいだった。今回は、金日成主席の銅像にも献花した。生家も訪れた。緊迫の板門店も行った。

しかし、「よど号」の人達と会う日程が決まらない。毎日でも会いたい。話し合いたいことが沢山ある。でも、3月1日(火)、2(水)と過ぎてゆく。「帰るまでには会わせます」と言うが…。不安だ。彼らと会う為だけに来たのに…。

そして3月4日(金)の朝だ。「明日の夜、よど号グループと会えます」と伝えられた。

ヤッター!と思った。ホッとした。41年間、思い続けて来た恋人と会える。そんな気持ちだった。それを聞いたので、板門店に行った時も、気力が漲っていた。自分の頭の中で、必死に考えた。どうしたら「よど号」の皆の「理想的な帰国」が出来るのか。彼らは、たとえ15年以上、刑務所に入っても日本に帰りたいという。いや、そう言ってると、日本の支援者から聞いた。

原田正治さんと講演(2/25)
原田正治さんと講演(2/25)

でも、それでは、勿体ない。彼らは、思いつめて、ハイジャックをし、北朝鮮に渡った。その行為は、世界中をアッといわせた。三島由紀夫にも衝撃を与えた。今、そんなことをやる若者はいない。人質を取ったことは悪い。しかし、歴史を創ろうとした。世界の人民のために闘おうとした。その志は貴い。そして、「革命とは何か」「祖国愛とは何か」「ナショナリズムとインターナショナル」を考え続けて来た。

この人々は貴重だ。その思考も、行動も、多くの人々に知らしめる必要がある。その〈体験〉を国のために、人々の為に生かすべきだ。ただ、何十年も刑務所に入れるのでは、「国家の損失」だ。私はそう思う。その思いを伝えたい。そして、「帰国」について腹を割って話し合いたい。でも、明日か。最後の最後だ。でも、まだ不安だった。

そして、3月4日(金)の午後6時だ。会えた!本当に会えた。やっと会えた。小西隆裕さんと若林盛亮さんがホテルに来てくれた。「いやー、久しぶり!」なんて2人は言う。

打ち上げで。原田さん(右)と
打ち上げで。原田さん(右)と

エッ?「あっ、初めてでしたね」。そうですね。全く、初めての気がしませんね。あとは、すぐに話し込みました。よど号事件のこと。三島事件のこと。赤軍派のこと…。初めて聞く話も沢山ありました。私が思い違いをしていたこともありました。

「歴史的偉業」を成し遂げた人々と私は今、会っているのだ。夢じゃないのか。と思いました。頬っぺたをつねってみました。そして、夜中まで、8時間、ぶっ通しで話し合いました。やっと会えたのです。話は尽きません。でも、この続きは今度、訪朝した時に。と約束して別れました。

かつては左右と敵対していたはずなのに、全くそんな気はしませんでした。むしろ、同じ、激動の時代を生きた「同志」のように思えました。感動しました。

では、詳しくは、次回に。

旅行中、飛行機の中、空港の待ち合わせ時間、そして、ホテルで、興奮して眠れない夜。ひたすら本を読みました。異郷で読むと、感じるものが違う。こんな本を読んだのです。

喫茶店「小夜曲」で
喫茶店「小夜曲」で
  1. 椎野和『”オーラな人々” 三島由紀夫、美輪明宏、植草甚一、寺山修司、草森紳一…など』(河出書房新社)
  2. 井上隆史『三島由紀夫、幻の遺作を読む=もう一つの「豊饒の海」』(光文社新書)
  3. つかこうへい傑作選『広島に原爆を落とす日。愛人刑事』(メディアファクトリー)
  4. 筑紫哲也『若き友人たちへ=筑紫哲也ラストメッセージ』(集英社新書)
  5. 阿刀田高『夢の宴=私の蕗谷虹児伝』(中公文庫)
  6. 『李長吉歌詩集』㊤(岩波文庫)
【だいありー】
大和田啓子さんと(2/27)
大和田啓子さんと(2/27)
  1. 2月28日(月)午前中、あわてて北朝鮮行きの準備をした。なんせ、26日(土)の夕方ですよ。「ビザが下りるようです」と言われたのは。「だから、28日(月)中に北京へ行って下さい」」と。ゲッ、あさってかよ!ずっと連絡がないから、又、ダメかと思っていた。ところが、2日前に、「「行けそうです」。でも北京に行かないとビザが下りるのかどうか、最終的なことは分からない。ともかく、26日(土)に、北京までの切符を買い、ホテルを予約する。
     翌、27日(日)は一日中、西宮だ。そして28日(月)の午後、成田から北京へ。こんなにあわてたことはないですね。
     そんで、28日(月)だ。前の晩、徹夜で原稿やら、校正やらをやる。28日(月)は、ホカロンや長袖のシャツ、ズボン下などを買いに行く。焦るよ。それに、今週は、予定がギッシリ詰まっている。一つ一つ、電話をして、予定を延ばしてもらう。大変だ。
     それで、慌ただしく荷造りをして1時半に家を出る。
     14時40分、新宿発の成田エクスプレス35号で成田第2ターミナルへ。
     15時55分、成田着。
     18時15分成田発のJL869便で北京へ。ホッ、やっと間に合った。たった1人で行くので、不安だ。北京に行っても、ビザが下りるのか。ビザが下りなくて北京から寂しく帰るのか。不安だ。でも、飛行機に乗った。出発した。
     と、思ったら、飛び立つ寸前に、機長からアナウンス。「電気系統に不具合が見付かりましたので、修理の為にターミナルに戻ります」。
     ゲッ!と思った。「どの位の時間かかかるか分かりませんが、又、お知らせします」。まいったなー。又もやダメか。「今日はダメです。明日の朝にして下さい」なんて言われたら、北朝鮮には行けない。明日の一番で行っても、北京〜北朝鮮の便には乗れない。絶望的になった。
     アーア、又もやダメか。そして空しく1時間半が過ぎた。ところが、「やっと修理が終わりました。ただ今から飛び立ちます」。バンザーイ!と心の中で叫んだ。
     そして、それから4時間半後、北京空港に着いた。北京時間21時30分着のはずだが23時頃になった。迎えの人と、北朝鮮へ同行する人が、出迎えてくれた。そこから、市内のホテルに着く。ホテルで、ちょっと打ち合わせをして寝た。ビザは出ていた。ありがたい。明日は、北朝鮮だ。ホテルは、METRO PARK LIDO HOTEL(北京萌都維景酒店)
小和田さんご夫妻と我々
小和田さんご夫妻と我々
  1. 3月1日(火)、昨夜は、ぶっ倒れるようにして寝た。朝8時、朝食。10時半、チェックアウトして空港に向かう。12時55分発のJSO152便で北朝鮮に向かう。小さな飛行機だ。でも、乗ってホッとした。これでやっと行ける。午後3時着。出るまで、荷物検査が大変だった。「こんな小さなデジカメはないだろう。変だ」と言われて必死に説明する。ノートパソコンと携帯は持っては入れないので、預けた。ガイドさんが迎えに来てくれた。
     ホテルに行く。KORYO HOTEL(高麗ホテル)。45階のツインタワーホテルだ。眺めもいい。ホテルに着いてから、北朝鮮の受け入れ側の人と会って、話し合いをする。そのあと、食事。それから、35階の回る展望レストランに行く。夜景がきれいだ。キムイルソン広場、チュチェ(主体)思想塔などがライトアップされていた。
  2. 3月2日(水)朝7時半、朝食。9時に出発。金日成主席の銅像のある広場に行き、献花した。多くの人が来ていた。結婚を報告しているカップルもいる。その後、本屋に行き、地下鉄に乗る。地下100mにある。凄い。駅名は地域名ではなく、思想的な名が付いている。たとえば、勝利駅、統一駅、凱旋駅、戦友駅、建国駅、光復駅…。いいねー。それに、巨大な壁画もいい。黄金原駅というのもある。お米がよく実るようにという「豊作」を願った駅名だ。
     「反米駅とか、革命駅、反日駅はないんですか?」と聞いたら、「ありません」。一言で終わりだ。
     地下鉄に乗って「凱旋駅」で降りる。凱旋駅を出ると、巨大な凱旋門だ。このへんは凱旋通り、近くには凱旋映画館がある。
     それから、金日成主席の生家へ行く。小さな家だった。
     それから、レストランで食事。レーメンを食べる。そのあと、プエブロ号を見学。アメリカのスパイ船で北朝鮮で拿捕された船だ。岸に繋がれている。拿捕された初めは「民間の調査船」といっていた。だが、当時のジョンソン大統領は、最後、全面的に認め、謝罪した。アメリカが唯一謝った事件と言われている。
     ともかく寒かった。船の外では、当時、プエブロ号と戦い拿捕したという軍人が、学生に当時の体験を話していた。
     午後3時、ホテルに戻る。45階の「回る展望レストラン」でコーヒーを飲む。ピョンヤン市内が一望できる。素晴らしい景観だ。午後4時、日朝関係を考える機関の人が2人来る。2時間ほど話し込む。「鈴木先生の発言は、いろいろ読んでます。朝日間の問題をどう打開するか話したい」と言う。日朝関係、拉致、よど号の問題などを、お互い、腹を割って話す。
     夜7時半、食事。そのあと、話し合い。
「Paix2(ペペ)」のコンサート
「Paix2(ペペ)」のコンサート
  1. 3月3日(木)7時朝食。8時半、出発。「よど号の人には明日の夜、会えます」と連絡が入る。嬉しい。やっと会えるのか。今日は開城(ケソン)に行き、板門店に行く。開城まで160キロ、高速道路を飛ばして、2時間で着く。高速道路は、ずーっと真っ直ぐだ。視界のさらに先の先まで伸びている。あまりに真っ直ぐだと、怖い。運転手が眠くならないのか。日本なら、その予防の為に、わざとカーブを作るだろう。
     ケソンは人口が30万人。ソウルまでも近い。70キロだ。そのケソンで停戦談判が行われ、休戦ラインが設けられたのだ。厳重な警備だ。車には兵士たちが乗り込む。護衛のためだという。停戦会議が行われた会議場。停戦協定調印場などを見る。又、すぐ向かいには、韓国・アメリカ軍の監視所、監視塔があり、こっちを見ている。そのあと、軍事停戦委員会会議場にも入った。その部屋の中だけ、境界線を横切ることが出来て、不思議な感覚だった。
     そこは、まさしく〈戦争〉の場だ。一時的な、停戦の現場だった。緊張した。そのあと、ケソンで昼食。飯圧器と呼ばれる蓋付きの食器が11皿ほど並ぶ。豪華なものだった。おいしかった。食べ切れなかった。それから、高麗博物館を見て、再び、ピョンヤンに戻る。途中、5千年前に建てられたというお墓を見る。
     5時、ホテルで一旦休み、6時から街に夕食に出る。街のレストランに行く。おいしかったです。そのあと、羊角島ホテルに行く。ピョンヤンで一番高いホテルだ。上の展望レストランでコーヒーを飲む。キムイルソン広場やチュチェ(主体思想)塔などがライトアップされてきれいだ。そして、地下のカジノを見学して、我がホテルに戻る。
お二人と私のトークです
お二人と私のトークです
  1. 3月4日(金)朝の7時半、食事。9時半、出発。キムイルソン広場に行く。マイナス8度で、寒い。オーマー・ソッスミダ(今日は寒いです)。キムイルソン広場の正面の人民大学習堂に行く。図書館だ。蔵書は3千万冊だという。日本から献本されたものもある。学生が勉強している。講義している部屋もある。パソコンを使ってる部屋、質問室などもある。科学の本が多い。日本から献本されたものでは、芭蕉の本、近世名匠列伝、世渡り問題、日本まさか史…なんて本もあった。
     テレビで授業を受ける部屋もある。一人一人の机の上にパソコンがある。今までは先生が喋るだけだったが、今はこちらから質問もできるという。
     そのあと、ホテルに帰り、前に会った党関係の人と話し合い。2時間ほど、現状分析。これからの日朝関係について話し合う。かなり突っ込んだ話が出来たと思う。
     昼食をはさんで、午後2時半、出発。市内の中学校を見学する。初めて見るので驚く。皆、真剣に勉強している。又、我々のためだけに、かわいい女生徒たちが歌をうたい、踊りをしてくれる。感動的でした。
     そのあと、朝鮮戦争勝利記念館に行く。ここのパノラマ館が凄かった。度肝を抜かれた。360度の戦争の光景が広がる。実際の戦車、木、花があり、絵があるが、それが〈一体〉になって、迫ってくる。実に迫力満点だ。
     午後5時半、ホテルに戻る。6時。やっと会えた!「よど号」メンバーの小西さん、若林さんと会う。感極まって目頭が熱くなった。「初対面のような気がしませんね」と。昔からの友人のように、すぐに話し込んだ。ホテルの喫茶店で打ち合わせをし、近くのレストランの個室を予約する。小西隆裕さん、若林盛亮さん、そして、こちらから2人。ビールを飲み、ピザを食べ、話し合う。ハイジャックの話、日朝関係の話、…と、話は尽きない。
     そのあと、ホテルに帰り、私の部屋でビールを飲みながら語り合う。凄い体験をした人々だ。急いで日本に帰り、20年近くも刑務所に入ったのでは余りに勿体ない。日本のために働いてもらうべきだ。
     よし、朝まで語り明かそう、と思ったが、向こうもこちらも、お世話係の人がいるし、余り遅くなってはかわいそうだ。それで夜中の1時半に別れる。8時間もぶっ通しで、喋り続けた。その内容は、これから少しずつ紹介していこう。
     別れたあとも、興奮して寝付かれなかった。
  2. 3月5日(土)、朝6時。モーニングコール。ほんの少し眠ったらしい。7時出発。平壌発9時のJSO151便で北京へ。11時着。そこで、少し休憩して、午後3時発のJAL864便に乗る。成田着7時50分。それから成田エクスプレスで新宿へ。10時頃家に着く。留守の間、たまってた仕事を必死になってやる。とうとう、朝になってしまった。
  3. 3月6日(日)ほとんど寝てない。朝9時東京発の新幹線で京都へ。12時半、京都着。岩井氏、吉本氏らと合流して、「反弾圧集会」へ。大谷婦人会館で。弾圧を強める〈国家権力〉と闘おうという人民の集会だ。浜井浩一先生(龍谷大教授)の講演もありました。
     私も、挨拶させられた。「アンニョンハシムニカ。チョヌン、Suzuki Kunioイミダ」と、つい挨拶してしまった。いけない。昨日まで北朝鮮にいたもんで…と、話しました。「よど号」との会談、今後の日朝問題について考えていることを話しました。「よど号」関係者も来ていたので、終わってから、じっくりと話し込みました。最終の新幹線で帰国。じゃない、帰京しました。それから、このHPを今、パソコンで打ってます。朝までかかったスミダ。疲れ果てたスミダ。北朝鮮では携帯も、ノートパソコンも飛行機に預けにゃならん。だから、今、こうして徹夜で書いているのだスミダ。
【写真説明】
金日成主席の銅像の前で(3/2)

①金日成主席の銅像の前で(3月2日)。08年に来た時は4月でしたので、結婚の報告をする若者たちが沢山おりました。

金日成主席の生家で

②金日成主席の生家で(3月2日)。やはり、08年にも訪れたのですが、今回は、ゆっくりと見て回りました。

「よど号」の人達と。やっと会えました

③「よど号」の人達と、やっと会えました(3月5日)。「初めての気がしませんね」とお互いに言いました。すぐに打ち解けて、話しました。

レストランで話し込みました

④食事しながら、話し込みました。ホテルの近くのレストランで個室をとって、話しました。

ホテルに戻ってからも、夜中まで話しました

⑤その後、ホテルに戻って、夜中まで話しました。

テンプル大学日本校で講演しました(2/23)

⑥2月23日(水)、午前10時より、テンプル大学日本校で、三島由紀夫について、講演しました。渡辺真也氏のアートの授業で呼ばれたのです。終わって、記念撮影をしました。

授業が終わった後も質問攻めでした

⑦授業後、生徒に質問攻めに合いました。

三島と日本文化についての質問が多かったです

⑧アメリカ人の学生ばかりですが、皆、三島由紀夫には関心があり、本もよく読んでます。私も勉強になりました。

原田正治さんと講演(2/25)

⑨2月25日(金)、午後1時、広島駅で原田正治さんと会い、広島拘置所へ。光市事件の元少年に面会し、午後5時からは講演会です。アムネスティ広島の主催で。会場は、広島市まちづくり市民交流プラザです。
 原田さんは弟さんを殺され、その犯人を憎み、面会に行きます。犯人は死刑を執行されます。しかし、「死刑では何も変わらない」と思い、死刑制度に疑問を持つようになります。
 その経過が原田さんの『弟を殺した彼と、僕』(ポプラ社)に書かれています。その本を基にしながら、原田さんの心の葛藤や、事件、死刑などにつき、私が聞き、話し合いました。かなり突っ込んだ話が出来たと思います。

打ち上げで。原田さん(右)と

⑩講演会のあと、近くの居酒屋で打ち上げをしました。原田さんと久しぶりに会って、心ゆくまで話が出来ました。それで、お酒もすすみました。生ビールを3杯も飲んでしまいました。

喫茶店「小夜曲」で

⑪講演の始まる前に、原田さんの知り合いの喫茶店「小夜曲」で打ち合わせをしました。クラシック音楽専門の、おしゃれなお店です。いい店ですねと原田さんと話しながら、店に入ると、ママさんが、「あっ!鈴木さん。久しぶり。どうして?」と聞かれました。私は、10年以前にここに来たようです。どうも記憶にありません。もしかしたら、当時は右翼の人と来たのかもしれません。

大和田啓子さんと(2/27)

⑫2月27日(日)午前10時、芦屋の大和田啓子さんのお宅をお訪ねしました。大和田さんは、戦争中、愛犬「ムツ」をお国のためだと供出させられました。愛犬との悲しい別れを書いた絵本『ムツとわたし』は、NHKで紹介され、大反響を呼びました。
 たまたま、私もその放送を見て、本を買い、衝撃を受けました。それで、『創』や、『愛国の昭和』にそのことを書きました。この日は、直接お訪ねし、詳しいお話を聞きました。お昼ご飯までご馳走になりました。ご馳走さまでした。大和田啓子さんと写真を撮りました。

小和田さんご夫妻と我々

⑬小和田さんの旦那さま、それに我々、取材陣グループです。大和田さんのお話は、近いうちにこのHPで詳しく紹介しようと思います。

「Paix2(ペペ)」のコンサート

⑭このあと、西宮へ行きました。午後2時から、第4回「鈴木邦男ゼミin西宮」。今回は「受刑者のアイドル」と呼ばれ、刑務所でのPrisonコンサートの活動を繰り広げている女性デュオ「Paix2(ペペ)」のお二人です。ManamiさんとMegumiさんです。
 まず1時間20分、コンサート。素晴らしかったです。皆、感動してました。そのあと、休憩をはさんで「Paix2」のお二人と私のトーク。Prisonコンサートを始めた動機、そこでの面白い話、ご苦労、感動的な話などを披露してくれました。
 午前中に伺った大和田さんご夫妻も来てくれました。元兵庫県刑事の飛松五男さん、西宮冷蔵の水谷社長さんたちも…。東京や広島からもペペのファンが駆け付けてくれ、超満員でした。

お二人と私のトークです

⑮コンサートの後のトークです。とても楽しかったです。

【緊急お知らせ】

    訪朝報国と記者会見を行います。3月10日(木)午後3時〜4時。ホテルサンルート高田馬場3階会議室です。お問い合わせは一水会事務局へ。03(3364)2015です。

【お知らせ】
  1. 3月5日(土)、斉藤貴男・森達也・鈴木邦男の『言論死滅列島』(河出文庫)が発売されました。絶望的な言論の危機に対し、真っ向から立ち向かい、戦う本です。
  2. 3月14日(月)午後7時、サンルートホテル高田馬場一水会フォーラム。孫崎亨先生(元外務省国際情報局長)が講師で、今後の日米関係について語ってくれます。
  3. 4月4日(月)午後7時、ネイキッドロフト。「連合赤軍事件とは何だったのか」。
     永田洋子さんが亡くなりました。山平重樹氏の『連合赤軍物語』(徳間文庫)が出版されました。そんな中で、もう一度、連赤事件を考えようという集まりです。映画「実録連合赤軍」の若松孝二監督。『連合赤軍物語・紅炎』の山平重樹氏。そして、元連合赤軍の兵士、赤軍派の人たちも出席します。私も出ます。
  4. 月刊『創』、『紙の爆弾』が発売されました。私も書いてます。
  5. 9月9日(金)〜11日(日)。劇団再生による、見沢知廉七回忌追悼公演があります。「天皇ごっこ『蒼白の馬上』」です。小田急線千歳船橋駅前の「APOCシアター」です。11日(日)の14時からは特別トークがあります。大浦信行(映画監督)、山平重樹(作家)、高木尋士(劇団再生代表)、鈴木邦男による、「作品としての見沢知廉」です。