2011/04/11 鈴木邦男

仙台、石巻、女川に行って来ました!

①東北は私の〈全て〉なのに…

宮城県女川で(4/3)
宮城県女川で(4/3)

信じられない光景でした。言葉もありません。これが現実の世界なのか。私は今、どこにいるのか、と思いました。

石巻で
石巻で

ビル、家屋が倒壊し、瓦礫の山です。それが、延々と続きます。車が、ビルや道路に突き刺さってます。家の屋根や道路に船が打ち上げられています。津波の恐ろしさを目の当たりにしました。

4月2日(土)、3日(日)に震災の被災地に行って来ました。宮城県の仙台、石巻、女川(おながわ)です。救援物資を運ぶボランティアの人々の車に乗せてもらったのです。

仙台は私の故郷です。だから、心配して、ずっと気になってました。私は、生まれたのは福島県郡山市ですが、父親が税務署に勤めていた関係で、2年か3年ごとに、東北地方を転々としました。

郡山は少ししかいなかったようで、その後、福島、会津若松、青森県の黒石にいたようです。幼稚園に入る前ですから記憶にありません。

幼稚園と小学1年は秋田県横手市。小学2、3年が秋田市です。ここで三島由紀夫原作の映画「夏子の冒険」を見ました。三島との初めての出会いです。勿論、三島のことは何も知りませんが、映画の内容はよく覚えてます。

石巻で(4/2)
石巻で(4/2)

小学4年〜6年、中学1年2年は湯沢市です。ここが一番長いのです。そして、中学3年に仙台市に転校(仙台2中)。そして、東北学院榴ヶ岡高校に入ります。この仙台での4年間が、「今の私」を作りました。

秋田の田舎から都会の仙台に移り、カルチャー・ショックを受けました。ミッションスクール(東北学院榴ヶ岡高校)に入り、教師に反撥し、卒業間際に先生を殴り、退学になりました。キリスト教への反撥、又、「生長の家」を知り、そこで、天皇や国家について教わりました。いろんなことがギュッと詰め込まれました。

石巻で
石巻で

高校2年の時に、山口二矢(17才)による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件が起こります。それにショックを受けました。同じ17才なのに、何でこんなことが出来るのか、と巨大な疑問符でした。それが後に「右翼」になる契機になります。

仙台での4年間は、私の「全て」を作った町です。国家に目覚めた街です。宗教を考え、悩んだ街です。勉強、勉強と強制された街です。右翼やテロを考えた街です。とにかく〈自由〉になりたいと思い、東京に憧れた街です。

②石巻の副市長さんと会いました

石ノ森章太郎記念館
石ノ森章太郎記念館

その仙台が壊滅的な被害を受けている。私が少年時代を過ごした東北地方が大変なことになっている。私は〈東北〉で出来ている。私の「成分」の全ては東北です。思考も嗜好も信仰も…。私の全てが壊滅したようです。そんな喪失感を感じました。仙台には、父母はもういません。しかし、兄貴が住んでます。親類もおります。同級生や友人たちも沢山おります。行ってみなくては…と思ってましたが、行く手段がない。

石巻市役所で(4/2)
石巻市役所で(4/2)

そんな時、一水会の木村三浩代表から電話がありました。4月1日(金)の夜です。「明日から又、仙台、石巻に行って来ます」と言う。「ご苦労さん、大変だね」と言って電話を切りました。

切ってから、アッと思いました。これしかない。このボランティアで連れて行ってもらおうと思い、無理に頼み込みました。この機会を逃したら、行けないと思ったからです。

今回、参加して初めて知りましたが、木村氏たちのチームは、本格的なしっかりしたボランティア・チームです。震災があってすぐに立ち上げました。元自衛隊にいた人や、元警備会社にいた人や、民間企業、武道家、個人などが集まって、「絆(きずな)ネットワーク」を作ったのです。その世話人が木村三浩氏です。

女川で
女川で

自衛隊や、いろんな集団で訓練をしていた人が主ですから、その道のプロです。震災時の緊急車輌の申請をし、各自治体に密に連絡し、何が今、必要かを聞き、厖大な救援物資を短時間で集め、トラックで運びます。それを何度もやってます。その様子は、「レコンキスタ」(4月1日号)の1面に出ています。一水会のHPでも報告されています。

その流れの中で、4月2日(土)、3日(日)は、再び、仙台、石巻に行ったわけです。

石巻の副市長さん(右から2人目)と
石巻の副市長さん(右から2人目)と

2日(土)朝、5時半に渋谷を出発しました。救援物資を積んだトラックを含め3台で出発です。途中から、河口湖から来た部隊(トラック)も合流します。開通したばかりの東北自動車道をひた走ります。結構、混んでます。自衛隊の車が多いです。「災害派遣」と書かれています。「救援物資」と書かれたトラックも走ってます。心強いです。

パーキングはどこも満員です。ガソリン・スタンドは長蛇の列です。「先週来た時は、こんなもんじゃなかった」と木村氏は言っておりました。給油を待つ車が、高速道路にまで溢れて、並んでたそうです。

普通なら仙台までは、3時間位で行けるのですが、倍かかりました。仙台から石巻に入ると、もう、瓦礫の山です。崩壊したビル、家屋が続きます。初めに市役所に行きました。中に入ると、泥だらけです。被災時は2階まで浸水し、まるで「海」の中のような状況だったそうです。

オーバーを着て、職員の人が働いています。ボランティアの人たちも駆け付けています。

石巻市役所で
石巻市役所で

4階の会議室で石巻市の北村副市長さんが会ってくれました。木村氏たちは何度も会ってます。救援活動について説明し、これからの取り組みについて副市長さんから話を聞きました。

一緒に行った河口湖の課長さんが、「河口湖では町をあげて救援活動に取り組んでます」と説明します。トラック2台分の救援物資を持って駆け付けました。又、こちらの被災者を1千人、引き受けたいと申し入れて、副市長さんも感動しておりました。

山梨県の河口湖は富士山の見える、とてもきれいな所です。そこで落ち着いてもらいたいと言います。そのために町の旅館組合も全面協力し、町の予算もつけたといいます。こうした自治体が全国から出て、救援の申し出をしています。

河口湖は私も、何十回と行った所です。「生長の家」の錬成道場があり、高校生や大学生の時に、よく行きました。

その話を河口湖の人に言ったら、鹿沼景揚先生をはじめ、何人かの先生には町で講演してもらったことがあります、と言っていた。それはいいことだと思いました。

③自衛隊の人々に感謝します

救援物資を届けました
救援物資を届けました

市役所の廊下には、震災時の写真が貼り出されてます。そして、新聞も。「今は水が引いたんですが、あの時は完全に町が海になってました」と言う。その通りだ。1週間前にも来た木村氏が言ってましたが、1週間で随分と、水が引いたと言ってました。市役所を出て、救援物資を届けるために市の総合運動公園に行きます。市役所の人が付いて行ってくれました。

市の球場があり、その横に広い広い総合運動公園があります。そこに、全国から送られてきた救援物資が集められ、そこから、運ばれます。沢山プレハブが建てられています。

そこに一旦、収納されますが、それでも足りなくて、地面に板を敷き、そこに山積みされ、ビニールシートがかけられています。厖大な量です。それを運ぶための自衛隊の車が100台以上並んでます。

又、消防、警察の車も沢山待機しています。

受け付けをして、それから、トラックから救援物資を下ろします。これも凄い量です。絆ネットワーク、河口湖の力を感じました。私も手伝って、降ろしました。それを自衛隊の人が、次々と区分けしていきます。

石巻の日本製紙
石巻の日本製紙

全国から来る救援物資を区分けするだけでも大変です。運んでくれた人は、航空自衛隊の人でした。後で聞いたのですが、日本の自衛隊は全部で23万人で、そのうち10万人以上が東北震災に派遣されています。自衛隊の半分です。凄いです。

街を歩いても、自衛隊の力を感じますし、自衛隊のありがたさを感じます。こういう時は、自衛隊が一番、力になります。それは全て、自給自足でやる自己完結の組織だからです。食べ物も、トイレも、寝る所も全て自前でやります。空地さえあれば、テントを張って寝ます。

よく、「ボランティアで来た」という人がいて、「だから寝る場所を世話してくれ。食べ物をくれ」という人もいるようですが、それでは足手まといだといいます。事態が落ち着いたあとならいいでしょうが、緊急事態では、自衛隊が最も力があります。そして、警察、消防です。

④東北が〈日本〉を支えていたんですね

女川原発の入口で
女川原発の入口で

救援物資も、全て受け取るのではありません。賞味期限のついた食べ物や、肉、野菜などは受け付けません。それに事前に自治体に問い合わせをして、持って行った方がいいでしょう。カップラーメンなども必要だろうと思うかも知れませんが、お湯がありません。こちらの判断だけではダメです。

その点、「絆ネットワーク」は慣れてます。厖大な救援物資を自衛隊に渡し、水、防寒着、軍手、軍足、薬など、まず必要なものを持って来てました。さらに市内の知り合いの個人、企業などを回ります。

「レコンキスタ」の読者の家もありました。そこに、食糧などを届けます。そして、被害の実状、今後のことを聞きます。子供たちに希望を与えるために、東京の子供たちに絵を描いてもらい、届ける。といった話も出てました。

しかし、ここは寒かったですね。遮るものはないし、だだっ広い公園です。海からの風がまともに来ます。ちょうど1か月前は、北朝鮮にいたな、と思い出しました。

板門店、プエブロ号も寒かったけど、あそこは肉体的な寒さです。こっちは、心まで凍えます。心が痛みます。その中で、全国から集まって来た自衛隊の人々が黙々と働いておりました。頭が下がります。

亀井静香さんと(4/4)
亀井静香さんと(4/4)

それから、市内、海の方を見ました。目も当てられない惨状でした。ビル、家屋がペシャンコになり、あるいは津波でさらわれて、全く何もないところも多いのです。

日本製紙はビルの骨格だけが残り、大きな紙のロールが散乱しています。これが日本の雑誌や本を支えていたのです。東北が日本の文化を支えていたのです。

他にも、インクや、自動車部品を作る工場なども東北に沢山あり、それが壊滅的な被害です。

出版だけでなく、自動車、食料、…と、日本のあらゆる分野を支えていたのが東北だったのです。そのことを思い知らされました。

狭い路地に車が大量に重なってます。津波の恐ろしさを感じました。道の真ん中に船があったり、とても、信じられない光景です。

次の日は、朝早く起きて、再び石巻に行き、そして、女川に行きました。石巻の破壊は目を覆うものがありましたが、女川もそうです。女川は町そのものが流されていました。我が目を疑いました。

でもこれが現実なのです。恐ろしい光景です。海沿いの道を行くと、道に大きな亀裂が走っています。又、海に目をやると、遥か沖に、家がポツンとあります。一体、何だと思ったら、津波が来て、引く時に、海に流されたんです。

女川原発の入口まで行ってみました。勿論、中には入れません。仙台に戻り、若林地区に行こうとしたら、ここは警察官が立っていて、入れません。まだまだ、犠牲者の捜索が続いているのです。

2日(土)の夜は、仙台に泊まりました。こんな時だから、私は車の中で寝るのかと思ってたら、ビジネスホテルを用意してくれました。何回も「絆ネットワーク」は来てるし、仙台に救援の連絡事務所を作ったと言ってました。

ビジネスホテルは満員です。「お湯は午後8時から10時まで」と書かれています。「シャワーだけにして下さい」と。当然です。「先週来た時は、お湯も暖房もなかった」と木村氏は言います。

連合赤軍についてのトーク(4/4 撮影・平早勉氏)
連合赤軍についてのトーク(4/4 撮影・平早勉氏)

夜、遅く兄貴に電話して、木村氏と3人で会いました。近くの居酒屋に行きました。やってるんですね。兄貴から、仙台の状況を詳しく聞きました。聞けば聞くほど、大変な震災です。ともかく、出来ることからやって行かなくては、と思いました。

石巻、女川では自衛隊と共に、米軍の人たちも救援活動をしてました。町にも、米軍の車が出ています。電気が来なくて、信号が点かない所も多いのですが、警察官や警備会社の人が交通整理をしてました。

驚いたことに、その人たちもいない所もあります。それでも車同士が譲り合って進んでました。信じられない光景でした。大災害の中でも、日本人は冷静に、思い遣りの心を持って行動しています。外国から見て、驚くところです。

そんなところにも日本人の底力を感じました。一日も早い復興を祈りたいた思います。

【だいありー】
満員のネイキッドロフト
満員のネイキッドロフト
  1. 4月4日(月)午前11時半、木村三浩氏と一緒に亀井静香さんに会う。一水会フォーラムに来て頂いたお礼を言い、震災や今後の政局について話を聞きました。午後3時、取材。午後6時半、ネイキッドロフトに行く。7時半開始。「元連合赤軍幹部・永田洋子とはなんだったのか?」。
     パネラーは3人。最近、『連合赤軍物語・紅炎』(徳間文庫)を書いた山平重樹氏。元連合赤軍兵士の植垣康博さん。そして私だ。司会は、連合赤軍の問題には詳しい椎野礼仁さん。なお、映画「実録連合赤軍事件」の若松孝二監督は、現在、映画「ミシマ(仮題)」の撮影に入ったので、来れなかった。
     連合赤軍、永田さんについて、3人で、じっくり語り合った。私は昨夜遅く、石巻、女川から帰ってきて、ほんど寝てない。ボーッとしていたが、連赤の話はあまりに刺激的な話で、完全に目が覚めた。連赤事件は、40年近くも経ってるのに、今でも〈新たな発見〉がある。又、あの事件に参加した人々の革命への夢や志は、今、語られず、〈失敗〉だけが語られ、さらに、それが今の人々に受け継がれている。「今の日本は連赤化している」「今の国会は、あさま山荘化している」などと週刊誌に出ることも多い。揚げ足の取り合い、潰し合いばかりしている。ということだ。
     又、少年が集団で暴走し、4人を殺した「木曽川・長良川殺人事件」(主犯の元少年3人に、4月、最高裁で死刑が確定した)でも、連合赤軍と非常に似ている。止めるべき強力なリーダーがいない。下の人間は一緒になって、「やっちまえ!」と煽る。女の子もいたので、「弱味を見せられない」と思い、暴力がエスカレートする。全く、連赤と同じだ。
     民族派でも、見沢知廉氏の「査問事件」は、「右翼の連赤事件だ!」と言われた。極端に言えば、集団のリンチ事件、暴行事件は全て、連赤事件に似ている。
     こうした事件を起こさせないためにも、連赤事件のさらなる解明が必要だ。「みんなは、自分が理解できる低さにまで事件を落とし、そして理解している」と植垣さんは言う。革命の理想や理念は分からない。夢や希望も理解できない。「きっとリーダーの狂気で起こったんだろう」「いや、永田の女ゆえの嫉妬から起こったことだ」「下の者は殺される不安で、他にターゲットを見つけ、殺人に積極的に加担した」…と。自分が「理解できる物語」を作って、分かった気になっている。
     裁判だってそうだ。検察は、事件関係者を取り調べながら、その〈対話〉の中で、自分が理解できる〈物語〉にしていっている。「これは共産主義化の不幸だ」「森、永田の恐怖政治だった」と。でも、あの事件に参加した人々の生の気持ちは違う、そこのところを詳しく聞いた。
  2. 4月5日(火)午前10時。東中野の骨法道場へ。格闘技の稽古ではなく、整体だ。膝が痛いし、最近又、痛めた。すぐに治療してくれた。治った。凄いです。腰の骨の歪みも治してもらった。足も上がるようになったし、軽くなった。歩く時も悪いクセを指摘された。「歩き方」なんて普段、意識してなかった。それが悪かったんだ。とても勉強になりました。
     午後は、打ち合わせ。夜は柔道。足も軽く、上がるようになった。技も切れるようになった。全て骨法整体のおかげです。感謝、感謝です。
  3. 4月6日(水)午前中、図書館。午後3時から文化放送。普段は5時までだが、今日はそのあと6時まで出る。ダブルコロンさんと一緒。
     今日の特集は、「鈴木邦男の見た東北大震災」。現場の話、向こうの人との話、感想などを詳しく話しました。「編集長は見た」のコーナーは、「クーリエ・ジャポン」編集長の富倉由樹央さんです。特集は〈世界が見た「東北大震災」〉です。「崩れるたびに日本は立ち直ってきた」(イギリス)。「日本人の気高さと勇気を感じた」(フランス)。「日本には共に泣く隣人がいる」(韓国)。「地震・雷・火事・親父の教訓」(ロシア)。…など。
     フランスでは、「日本人は子供の頃から仏教の教えがしみついている。〈諸行無常〉の考えは子供の頃から知っている」
     でもなー。諸行無常の小学生なんていないよ。これは、「買い被り」なのか。日本人の気高さ、勇気に驚き、何とか「理由」「解答」を見つけようと必死なんでしょう。そのことも感じましたね。
     5時からは、「ダブルコロン」のお二人と。桜についての謎かけ。いやー、頭のいい人たちですね。感心しました。反射神経もいいし。今まで会った日本人で一番、頭のいい人でしょう。これも感動です。
  4. 4月7日(木)午前11時、河合塾コスモ。全体会議。午後1時から3時まで入塾式。こんな時だから、新入生は余りいないのかと思ったら、会場が満員でした。牧野、前川先生の講義もよかったです。終わってから、自習室で勉強してました。
  5. 4月8日(金)午前中、原稿書き。午後から、雑誌の打ち合わせで新宿に。夜は講演。
  6. 4月9日(土)昼、取材。
     午後3時、新宿のフォトギャラリー「シリウス」へ。「宮本成美・水俣写真展」を見る。感銘を受けました。最首悟さんと星埜守之さんのトークも聞きました。福田文昭さんは相馬に取材に行ったそうで、会えませんでした。
  7. 4月10日(日)午後2時、デモに行く。「原発やめろ!」という集会とデモが高円寺である。ぜひ出てくれとロフトの人に言われて、行く。
     ちょうど宮城から帰ってきたばかりだし。女川原発ののとこも入口まで行って来た。福島原発は本当に恐い。もう廃炉にしたらいい。原発はいらないよ。電気の大切さを思い知った。夜は全ての電気を消して、休みましょう。
     ロフトのトークも、早朝、公園でやろう。夜やる時は、ローソクだよね。と、私も挨拶した。デモは2時間半。疲れました。
【写真説明】
宮城県女川で(4/3)

①宮城県女川(おながわ)は、町が津波に流され、消失してました。あまりの惨状に、言葉を失いました。4月3日(日)。

石巻で(4/2)

②宮城県石巻市です。大きなビルが転倒し、木造家屋は跡形もなく潰され、流されていました。

石巻で

③瓦礫の山です。車も流されていました。地面に突き刺さった車もありました。津波で、家の屋根に乗り上げた車もありました。

石ノ森章太郎記念館

④石ノ森章太郎記念館です。土台部分はかなり破壊され、資料もかなり流されましたが、でも、再建すると言ってました。

石巻で

⑤工場には大きな穴が開き、中は大破していました。

女川で

⑥ビルの残骸です。こうした惨状が、延々と続きます。

石巻市役所で(4/2)

⑦4月2日(土)午後2時、石巻市役所で北村悦朗副市長(中央)が会ってくれました。援助物資を届け、被害の状況、今後のことなどを聞きました。

石巻の副市長さん(右から2人目)と

⑧北村副市長(右から2人目)と。

石巻市役所で

⑨石巻市役所には、大津波が来た当時の写真が貼ってありました。まるで「海」です。海の中に市役所がありました。2階まで浸水して、今も泥だらけで、被害のすさまじさを伝えています。

救援物資を届けました

⑩石巻市総合運動公園に、全国から集まった救援物資が運ばれてます。「絆ネットワーク」のトラックから下ろしてます。自衛隊の人々が、次々と積んで行きます。大変です。

石巻の日本製紙

⑪石巻の日本製紙です。大きな紙のロールが散乱しています。ここが破壊的被害を受けたので、東京にも直に響き、雑誌が遅れたり、休刊になったりしています。

女川原発の入口で

⑫女川原発の入口です。

亀井静香さんと(4/4)

⑬亀井静香さんの事務所で。4月4日(月)。

連合赤軍についてのトーク(4/4 撮影・平早勉氏)

⑭4月4日(月)午後7時半から、ネイキッドロフト。「元連合赤軍幹部・永田洋子とはなんだったのか?」。
 左から、鈴木、植垣康博さん(元連合赤軍兵士)
山平重樹さん(作家)。司会の椎野礼仁さん。この写真はカメラマンの平早勉さんが撮ってくれました。やはり違いますね、ありがとうございました。

満員のネイキッドロフト

⑮ネイキッドロフトは満員でした。活発な質問も出て、12時頃まで、やりました。

【お知らせ】
  1. 4月13日(水)午後7時。サンルートホテル高田馬場一水会フォーラム。講師は、和田春樹先生(東大名誉教授)です。「昨今の日朝関係を考える=日朝関係の打開策はあるか=」です。刺激的なお話が聞けると思います。
  2. 一水会の機関紙「レコンキスタ」は今までのタブロイド版から大型のブランケット版(8ページ)になり、内容も充実し、情報紙としても注目を集めています。4月1日号は、被災地への援助活動をレポートしています。世界や日本の民族派情報も詳しいです。松本健一、孫崎享さんの講演録も載ってます。私も「平成文化大革命」を連載しています。「レコンキスタ」は1部500円で、年間購読料6千円です。これだけ情報があって、この値段は安いです。無料で見本紙を送ってくれるので、一度見てみたらどうでしょう。電話は03(3364)2015。FAXは03(3365)7130です。
  3. 『アエラ』(緊急増刊・4月10日号)は、〈東日本大震災100人の証言。3.11ひとびとは何を見たのか〉です。「2時46分その時」「見えない脅威」「首都も震えた」「この国を想う」「私たちにできること」…と、「100人の証言」が載っています。私もその1人として証言しています。
  4. 『紙の爆弾』(鹿砦社・5月号)が発売中です。私の連載「ニッポン越境問答」では中川右介さんと対談しました。中川さんは、歌舞伎、クラシック、三島に関する著書が多い作家で、その全てが売れてます。
     今回は、「菅直人論」をテーマに語ってもらいました。実は、中川さんは菅さんとは30年来の親友で、いわば、「政権の黒衣」です。奥さんの本も、実は中川さんが書いてます。
     又、「週刊朝日」で大胆な「菅直人擁護論」を展開しました。その辺の評論家とは違った菅直人論です。見出しを見ても、その視点、切り口の斬新さが分かるでしょう。「王殺しを趣味にした国民」「連合赤軍という不幸を見ている」「革命に成功した政治家」…。刺激的で面白い話が聞けました。
  5. 月刊『創』5月号が発売中です。私の連載「言論の覚悟」では、北朝鮮訪問そして「よど号」グループとやっと会えた話。それまでの知られざる交流。又、民族主義に目覚めた動機。かつて目指した「日本革命」の全貌などについて書きました。
  6. 『実話時代』(3月14日発売号)で、私のインタビュー「現在(いま)を語る」が載ってます。第2回目です。過激な民族主義運動をやっていた時代から今までの回想、反省、教訓を語っています。次の『実話時代』(4月14日発売号)では、第3回(最終回)です。
  7. 9月9日(金)〜11日(日)。劇団再生による、見沢知廉七回忌追悼公演があります。「天皇ごっこ『蒼白の馬上』」です。小田急線千歳船橋駅前の「APOCシアター」です。11日(日)の14時からは特別トークがあります。大浦信行(映画監督)、山平重樹(作家)、高木尋士(劇団再生代表)、鈴木邦男による、「作品としての見沢知廉」です。