信じられない光景でした。言葉もありません。これが現実の世界なのか。私は今、どこにいるのか、と思いました。
ビル、家屋が倒壊し、瓦礫の山です。それが、延々と続きます。車が、ビルや道路に突き刺さってます。家の屋根や道路に船が打ち上げられています。津波の恐ろしさを目の当たりにしました。
4月2日(土)、3日(日)に震災の被災地に行って来ました。宮城県の仙台、石巻、女川(おながわ)です。救援物資を運ぶボランティアの人々の車に乗せてもらったのです。
仙台は私の故郷です。だから、心配して、ずっと気になってました。私は、生まれたのは福島県郡山市ですが、父親が税務署に勤めていた関係で、2年か3年ごとに、東北地方を転々としました。
郡山は少ししかいなかったようで、その後、福島、会津若松、青森県の黒石にいたようです。幼稚園に入る前ですから記憶にありません。
幼稚園と小学1年は秋田県横手市。小学2、3年が秋田市です。ここで三島由紀夫原作の映画「夏子の冒険」を見ました。三島との初めての出会いです。勿論、三島のことは何も知りませんが、映画の内容はよく覚えてます。
小学4年〜6年、中学1年2年は湯沢市です。ここが一番長いのです。そして、中学3年に仙台市に転校(仙台2中)。そして、東北学院榴ヶ岡高校に入ります。この仙台での4年間が、「今の私」を作りました。
秋田の田舎から都会の仙台に移り、カルチャー・ショックを受けました。ミッションスクール(東北学院榴ヶ岡高校)に入り、教師に反撥し、卒業間際に先生を殴り、退学になりました。キリスト教への反撥、又、「生長の家」を知り、そこで、天皇や国家について教わりました。いろんなことがギュッと詰め込まれました。
高校2年の時に、山口二矢(17才)による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件が起こります。それにショックを受けました。同じ17才なのに、何でこんなことが出来るのか、と巨大な疑問符でした。それが後に「右翼」になる契機になります。
仙台での4年間は、私の「全て」を作った町です。国家に目覚めた街です。宗教を考え、悩んだ街です。勉強、勉強と強制された街です。右翼やテロを考えた街です。とにかく〈自由〉になりたいと思い、東京に憧れた街です。
その仙台が壊滅的な被害を受けている。私が少年時代を過ごした東北地方が大変なことになっている。私は〈東北〉で出来ている。私の「成分」の全ては東北です。思考も嗜好も信仰も…。私の全てが壊滅したようです。そんな喪失感を感じました。仙台には、父母はもういません。しかし、兄貴が住んでます。親類もおります。同級生や友人たちも沢山おります。行ってみなくては…と思ってましたが、行く手段がない。
そんな時、一水会の木村三浩代表から電話がありました。4月1日(金)の夜です。「明日から又、仙台、石巻に行って来ます」と言う。「ご苦労さん、大変だね」と言って電話を切りました。
切ってから、アッと思いました。これしかない。このボランティアで連れて行ってもらおうと思い、無理に頼み込みました。この機会を逃したら、行けないと思ったからです。
今回、参加して初めて知りましたが、木村氏たちのチームは、本格的なしっかりしたボランティア・チームです。震災があってすぐに立ち上げました。元自衛隊にいた人や、元警備会社にいた人や、民間企業、武道家、個人などが集まって、「絆(きずな)ネットワーク」を作ったのです。その世話人が木村三浩氏です。
自衛隊や、いろんな集団で訓練をしていた人が主ですから、その道のプロです。震災時の緊急車輌の申請をし、各自治体に密に連絡し、何が今、必要かを聞き、厖大な救援物資を短時間で集め、トラックで運びます。それを何度もやってます。その様子は、「レコンキスタ」(4月1日号)の1面に出ています。一水会のHPでも報告されています。
その流れの中で、4月2日(土)、3日(日)は、再び、仙台、石巻に行ったわけです。
2日(土)朝、5時半に渋谷を出発しました。救援物資を積んだトラックを含め3台で出発です。途中から、河口湖から来た部隊(トラック)も合流します。開通したばかりの東北自動車道をひた走ります。結構、混んでます。自衛隊の車が多いです。「災害派遣」と書かれています。「救援物資」と書かれたトラックも走ってます。心強いです。
パーキングはどこも満員です。ガソリン・スタンドは長蛇の列です。「先週来た時は、こんなもんじゃなかった」と木村氏は言っておりました。給油を待つ車が、高速道路にまで溢れて、並んでたそうです。
普通なら仙台までは、3時間位で行けるのですが、倍かかりました。仙台から石巻に入ると、もう、瓦礫の山です。崩壊したビル、家屋が続きます。初めに市役所に行きました。中に入ると、泥だらけです。被災時は2階まで浸水し、まるで「海」の中のような状況だったそうです。
オーバーを着て、職員の人が働いています。ボランティアの人たちも駆け付けています。
4階の会議室で石巻市の北村副市長さんが会ってくれました。木村氏たちは何度も会ってます。救援活動について説明し、これからの取り組みについて副市長さんから話を聞きました。
一緒に行った河口湖の課長さんが、「河口湖では町をあげて救援活動に取り組んでます」と説明します。トラック2台分の救援物資を持って駆け付けました。又、こちらの被災者を1千人、引き受けたいと申し入れて、副市長さんも感動しておりました。
山梨県の河口湖は富士山の見える、とてもきれいな所です。そこで落ち着いてもらいたいと言います。そのために町の旅館組合も全面協力し、町の予算もつけたといいます。こうした自治体が全国から出て、救援の申し出をしています。
河口湖は私も、何十回と行った所です。「生長の家」の錬成道場があり、高校生や大学生の時に、よく行きました。
その話を河口湖の人に言ったら、鹿沼景揚先生をはじめ、何人かの先生には町で講演してもらったことがあります、と言っていた。それはいいことだと思いました。
市役所の廊下には、震災時の写真が貼り出されてます。そして、新聞も。「今は水が引いたんですが、あの時は完全に町が海になってました」と言う。その通りだ。1週間前にも来た木村氏が言ってましたが、1週間で随分と、水が引いたと言ってました。市役所を出て、救援物資を届けるために市の総合運動公園に行きます。市役所の人が付いて行ってくれました。
市の球場があり、その横に広い広い総合運動公園があります。そこに、全国から送られてきた救援物資が集められ、そこから、運ばれます。沢山プレハブが建てられています。
そこに一旦、収納されますが、それでも足りなくて、地面に板を敷き、そこに山積みされ、ビニールシートがかけられています。厖大な量です。それを運ぶための自衛隊の車が100台以上並んでます。
又、消防、警察の車も沢山待機しています。
受け付けをして、それから、トラックから救援物資を下ろします。これも凄い量です。絆ネットワーク、河口湖の力を感じました。私も手伝って、降ろしました。それを自衛隊の人が、次々と区分けしていきます。
全国から来る救援物資を区分けするだけでも大変です。運んでくれた人は、航空自衛隊の人でした。後で聞いたのですが、日本の自衛隊は全部で23万人で、そのうち10万人以上が東北震災に派遣されています。自衛隊の半分です。凄いです。
街を歩いても、自衛隊の力を感じますし、自衛隊のありがたさを感じます。こういう時は、自衛隊が一番、力になります。それは全て、自給自足でやる自己完結の組織だからです。食べ物も、トイレも、寝る所も全て自前でやります。空地さえあれば、テントを張って寝ます。
よく、「ボランティアで来た」という人がいて、「だから寝る場所を世話してくれ。食べ物をくれ」という人もいるようですが、それでは足手まといだといいます。事態が落ち着いたあとならいいでしょうが、緊急事態では、自衛隊が最も力があります。そして、警察、消防です。
救援物資も、全て受け取るのではありません。賞味期限のついた食べ物や、肉、野菜などは受け付けません。それに事前に自治体に問い合わせをして、持って行った方がいいでしょう。カップラーメンなども必要だろうと思うかも知れませんが、お湯がありません。こちらの判断だけではダメです。
その点、「絆ネットワーク」は慣れてます。厖大な救援物資を自衛隊に渡し、水、防寒着、軍手、軍足、薬など、まず必要なものを持って来てました。さらに市内の知り合いの個人、企業などを回ります。
「レコンキスタ」の読者の家もありました。そこに、食糧などを届けます。そして、被害の実状、今後のことを聞きます。子供たちに希望を与えるために、東京の子供たちに絵を描いてもらい、届ける。といった話も出てました。
しかし、ここは寒かったですね。遮るものはないし、だだっ広い公園です。海からの風がまともに来ます。ちょうど1か月前は、北朝鮮にいたな、と思い出しました。
板門店、プエブロ号も寒かったけど、あそこは肉体的な寒さです。こっちは、心まで凍えます。心が痛みます。その中で、全国から集まって来た自衛隊の人々が黙々と働いておりました。頭が下がります。
それから、市内、海の方を見ました。目も当てられない惨状でした。ビル、家屋がペシャンコになり、あるいは津波でさらわれて、全く何もないところも多いのです。
日本製紙はビルの骨格だけが残り、大きな紙のロールが散乱しています。これが日本の雑誌や本を支えていたのです。東北が日本の文化を支えていたのです。
他にも、インクや、自動車部品を作る工場なども東北に沢山あり、それが壊滅的な被害です。
出版だけでなく、自動車、食料、…と、日本のあらゆる分野を支えていたのが東北だったのです。そのことを思い知らされました。
狭い路地に車が大量に重なってます。津波の恐ろしさを感じました。道の真ん中に船があったり、とても、信じられない光景です。
次の日は、朝早く起きて、再び石巻に行き、そして、女川に行きました。石巻の破壊は目を覆うものがありましたが、女川もそうです。女川は町そのものが流されていました。我が目を疑いました。
でもこれが現実なのです。恐ろしい光景です。海沿いの道を行くと、道に大きな亀裂が走っています。又、海に目をやると、遥か沖に、家がポツンとあります。一体、何だと思ったら、津波が来て、引く時に、海に流されたんです。
女川原発の入口まで行ってみました。勿論、中には入れません。仙台に戻り、若林地区に行こうとしたら、ここは警察官が立っていて、入れません。まだまだ、犠牲者の捜索が続いているのです。
2日(土)の夜は、仙台に泊まりました。こんな時だから、私は車の中で寝るのかと思ってたら、ビジネスホテルを用意してくれました。何回も「絆ネットワーク」は来てるし、仙台に救援の連絡事務所を作ったと言ってました。
ビジネスホテルは満員です。「お湯は午後8時から10時まで」と書かれています。「シャワーだけにして下さい」と。当然です。「先週来た時は、お湯も暖房もなかった」と木村氏は言います。
夜、遅く兄貴に電話して、木村氏と3人で会いました。近くの居酒屋に行きました。やってるんですね。兄貴から、仙台の状況を詳しく聞きました。聞けば聞くほど、大変な震災です。ともかく、出来ることからやって行かなくては、と思いました。
石巻、女川では自衛隊と共に、米軍の人たちも救援活動をしてました。町にも、米軍の車が出ています。電気が来なくて、信号が点かない所も多いのですが、警察官や警備会社の人が交通整理をしてました。
驚いたことに、その人たちもいない所もあります。それでも車同士が譲り合って進んでました。信じられない光景でした。大災害の中でも、日本人は冷静に、思い遣りの心を持って行動しています。外国から見て、驚くところです。
そんなところにも日本人の底力を感じました。一日も早い復興を祈りたいた思います。
⑭4月4日(月)午後7時半から、ネイキッドロフト。「元連合赤軍幹部・永田洋子とはなんだったのか?」。
左から、鈴木、植垣康博さん(元連合赤軍兵士)
山平重樹さん(作家)。司会の椎野礼仁さん。この写真はカメラマンの平早勉さんが撮ってくれました。やはり違いますね、ありがとうございました。