2011/06/06 鈴木邦男

丸岡修さんの最後の闘い

①日本赤軍のおかげもあって…

東京新聞(5/30)
東京新聞(5/30)

丸岡修さん(元日本赤軍幹部)が八王子医療刑務所で亡くなった。5月29日(日)午前8時21分。60才だった。

翌日の新聞は、「丸岡修受刑者が死亡」「元日本赤軍、ダッカ事件実行犯」と書かれていた。どの新聞にも、「病死とみられる」と書かれている。

しかし、先週書いたように、重篤であるにもかかわらず放置され、そのせいで死亡したのだ。「週刊新潮」(6月9日号)で、支援者の1人、大谷恭子弁護士は言う。

〈丸岡さんは心臓が悪くて、04年には拡張型心筋症と診断されました。その後、病状は悪くなるばかりで刑の執行停止を求めたことは一度や二度ではありません。この4月22日にも6回目の執行停止を申し立てたのですが、刑務所には聞きいれてもらえませんでした〉

中では治療が出来ないし、専門の病院に移すように検察、法務省に要望していた。このまま釈放しろと言ってるのではない。死にそうだから外の専門病院に移し、治ったら刑務所に戻す。ごくごく当然のことを要望しただけだ。

「日刊ゲンダイ」(5/31)
「日刊ゲンダイ」(5/31)

外部の専門医も、このままでは危ないと受け入れを表明していた。一刻を争う事態だった。しかし、認められなかった。

「これは権力に見殺しにされたも同然です」と柳田健さん(拡張型心筋症の丸岡修さんに生きる途をの会)は言う。(「日刊ゲンダイ」5月31日付)。

〈柳田健氏が言う。「丸岡氏は日本赤軍の軍事部門の責任者として事件に関与しましたが、逮捕される前に考えを改め、武装闘争を否定していました。“人民のための闘争なのに、人民を人質という盾にするのは良くない”と考えるようになったのです。93年頃東京拘置所で肺炎にかかったのに、ただのカゼと誤診されて肺炎をこじらせ、そのせいで拡張型心筋症になりました。我々は何度も専門の病院に移すよう東京高検に申立書を提出し…〉

6度目の申し立ても認められず、死を迎えた。だから、「権力に見殺しにされた」と言います。

〈酸素吸入器がないと呼吸できない状態に追い詰められ、横になって眠ることもできなくなりながらも、丸岡は「米国中心の資本主義がパレスチナを抑圧している」という反権力の思想は変えなかったという〉
「週刊新潮」(6/9)
「週刊新潮」(6/9)

この柳田さんの発言のあと、私のコメントが載っている。「日刊ゲンダイ」は5月31日(火)付だが、発売は30日(月)の夕方だ。丸岡さんの亡くなった5月29日(日)の夜に取材されている。

〈丸岡と6回面会した「一水会」顧問の鈴木邦男氏はこう言う。
 「面会時はいつも車椅子に座りニトログリセリンを持っていました。激しくせき込むこともあり、“大丈夫?”と聞くと、“話をしてるほうが健康にいい”と強気な面を見せたりもしました。丸岡氏はハイジャック犯ではありますが、70年代に彼らがアラブのために戦ったおかげで、アラブ諸国が日本に尊敬の念を抱いてくれていることも事実。米国寄りの日本がテロを受けないのはそのおかげです。丸岡氏を外の病院に移し、70年代の語り部としてメッセージを残して欲しかった。まことに残念です」
 またひとつ「70年代」が終わった〉

②「右翼少年」だった丸岡さん

丸岡さんの著書『公安警察ナンボのもんじゃ』(神泉社)
丸岡さんの著書『公安警察ナンボのもんじゃ』(神泉社)

本当に悔しいし、残念だ。宮城刑務所、そして八王子医療刑務所にも面会に行った。

09年6月1日(月)、宮城刑務所で面会した時のことは特に印象に残っていた。丸岡さんたちがまだアラブで戦っていた頃の話だが。「実は、野村秋介さんと鈴木さんをアラブに招待しようと思ってたんですよ」と言う。

そうだったのか。実現していれば面白かった。この面会の翌週のHPに詳しく書いているので、関心のある人は読んでほしい。竹中労さんが橋渡しをしてくれたようだ。行ってみたかったのに。残念だ。

「元々、僕は右翼少年だったんですよ」と丸岡さんは話してくれた。そのことは、丸岡さんの『公安警察ナンボのもんじゃ』(新泉社・1990年10月発行)にも書かれている。

〈私自身の革命の参加の契機は自身の少年時代の貧しさと、友人、教師、映画などで知った貧富の差や不公平社会の存在に対する疑問からです。しかし中学生時代の私は社会主義のことを全く知らず、5.15や2.26の青年将校にあこがれる自衛官志望のただの(右翼的)政治少年でした。(中略)
 中学三年生になって社会主義の理念を少し知るようになっても卒業式には日の丸掲揚、君が代斉唱を主張するような政治的未熟さを持っていました〉
太田龍『世界革命。革命児ゲバラ』
太田龍『世界革命。革命児ゲバラ』

私よりもずっと、右翼少年だったんだ。私なんて、中学の時は、秋田県湯沢市という、人口3万の田舎にいて、政治のことなんか全く知らなかった。日本に天皇がおることも知らなかったし、日の丸、君が代も知らなかった。今思い出したが、小、中学校で、入学式、卒業式…と、「君が代」なんて歌ったことはない。時代が大らかだったからか。

だから、自分が日本人であることも知らなかった。それなのに丸岡さんは、5.15事件や2.26事件に興味を持ち、自衛官になろうとしていた。凄い。

丸岡さんは、そのまま、右翼学生になって、運動をやればよかったのに。そうしたら、一緒にやれたのに。ところが、高校で、新聞を読んでベトナム戦争のニュースを読み、又、近くにいた日共党員の薦めもあって、「赤旗」を読み、民青(日共)の集いによく行くようになり、67年の10.8羽田闘争での山崎さんの死とそれに対する日共の非難i疑問を持つ。

(左から)鈴木邦男、田原総一朗さん、堀江貴文さん、吉田豪さん(5/23)
(左から)鈴木邦男、田原総一朗さん、堀江貴文さん、吉田豪さん(5/23)

そして、べ平連や新左翼の集会に顔を出すようになる。デモやゲバに参加する高校3年生になっていた。

でも、佐藤首相の訪米阻止(69年11月)といっても結局、阻止できなかった。実際に阻止すべきと考え、赤軍派には色々疑問があるが、赤軍派の言うように「軍事」を考えなければいけない。それを、自身で実行しなければいけないと考えるようになった。

大学に行こうと思ったが、「大学粉砕」を言いながら大学に行くもの矛盾してると考え、2、3年は社会に出て、実際の労働現場の体験を積むべきだと思い、日雇い、鉄工所工員などをやる。そして気がついたら、栄えある赤軍派兵士になっていた。

③民青、べ平連。そして日本赤軍に昇華

西宮ゼミ(5/22)
西宮ゼミ(5/22)

そして、1972年4月、ベイルートへ旅立つ。さらに、日本赤軍のいろんな軍事作戦に参加。1987年11月、日本に帰国したところを逮捕され、以来24年。拘置所、刑務所で獄中闘争を続けていた。

丸岡さんが罪に問われていたのは、「ドバイ事件」(73年)と、「ダッカ事件」(77年)だ。

ドバイ事件は、73年7月、パレスチナ・ゲリラとともにパリ発東京行きの日航機をハイジャックし、アラブ首長国連邦・ドバイ空港に着陸させた。最後はリビアで乗客乗員を解放し、機体を爆破した。

「ダッカ事件」は77年9月だ。パリ発東京行きの日航機を日本赤軍の仲間4人と乗っ取り、バングラデシュ・ダッカ空港に強制着陸させた。その際、日本政府に「超法規的措置」を取らせて、拘置・服役中の日本赤軍メンバーら6人を釈放させた上、身代金600万ドル(当時約16億円相当)を奪った。

「その後」は。

野田正彰さんと
野田正彰さんと
〈中東などに潜伏していたとみられたが87年に偽造旅券で日本に帰国。警視庁に逮捕された。両事件などで93年に東京地裁で無期懲役判決を受け、2000年に最高裁が上告を棄却、確定した。重い心臓病を患い、刑の執行停止を求める訴訟を起こしていたが、却下されていた〉(「朝日新聞」5月30日付)

初めは、ドバイ事件、ダッカ事件への関与を否定していた。他のメンバーのこともあるし、全体の裁判闘争のかねあいもあったからだろう。しかし、最近になって、関与を認めた「遺言」を発表し、支援関係者に「おわび」していた。

〈関係者によると、丸岡受刑者は今年2月、両事件への関与を認める手書きの手紙を支援者に送っていたという。刑事裁判では関与を否定していたが、手紙では「墓場まで過ちを持ち込むわけにはいかない」などとして、後悔や謝罪の気持ちを示したという〉(「朝日新聞」5月30日付)
松岡利康さん、野田正彰さん、岩井正和さん
松岡利康さん、野田正彰さん、岩井正和さん

「毎日新聞」(5月30日付)によると、〈「無実を信じて応援してくださった人々を欺いてしまい深くおわびする」とつづっている〉。又、こう書かれている。

〈遺書では無罪主張の背景に、弁護団の判断と、日本赤軍指導部の指示があったとし、「無罪か無期懲役なら徹底してやろう」と考えたとした。
 しかし刑確定後は「(有罪を認めていれば)人々への公的な謝罪の場があり、(量刑も)有期となる可能性があった」として、後悔の念があったことを明かしている。遺書を書いた理由は、「墓場まで過ちを持ち込むわけにはいかない。死が現実になったところで決心した」としている〉

これは勇気ある決断だったと思う。しかし、日本赤軍の関係者の中には反撥するものもいたという(「週刊新潮」6月9日)。

〈だが、その丸岡受刑者。最後にこう締めくくって遺書を終えている。
 「私の独りよがりの論理ではありますが、だからこそ重ねてきた過ちを正したいのです。非難などは覚悟の上で。以上」〉

④丸岡さんの「遺書」が…

ゼミの後の二次会
ゼミの後の二次会

苦しかったのだろう。日本赤軍全体の戦い、裁判闘争もある。だから、自分だけ過ちを認め、謝罪するわけにもいかなかった。

でも、死を前にして、認める気になったのだろう。逮捕されて24年間も獄中にいる。「罪を認めてない」「反省がない」ということで無期にされ、危篤状態なのに病院にも移してもらえなかった。

検察、法務省が代表する「国家」の復讐なのかもしれない。超法規的措置で服役中の日本赤軍メンバーが奪還された。「国家のメンツ」が潰された。それに対する「復讐」なのだろうか。

しかし、丸岡さんは、70年代の世界を舞台にした戦いの生き証人だ。もっともっと語ってほしかった。死ぬまで刑務所に閉じ込めておくなんて、「国家の損失」だ。何とも残念だし、悔しい。丸岡さんの支援者からのメールにはこう書かれていた。

〈2011年5月29日8時21分、丸岡修君は八王子医療刑務所で死亡した。いや正確には法務省、検察権力により殺された。それも「拡張型心筋症」の末期症状で呼吸困難、激しい胸痛に苦しむのを、これを和らげる何の医療処置を施されることもなく、放置されるという拷問状態のなかで死亡した。
 この報に接し、私は1938年特高警察に捉えられ拷問で殺された小林多喜二の死を思い浮かべた。73年前、戦争への道を突き進んだ時代に起こったこの事件は、権力による革命家の虐殺と言う共通点をもっている。
 今日6月1日。丸岡修君の葬儀が大阪の妹さんのマンションで行われた。日蓮宗のお坊さんがお経をあげた。丸岡君の死顔は安らかとはいえなかった。たとへ1歩でも刑務所の外に出たかった兄の願いをかなえられなかったと妹さんは泣きくずれた〉
布川事件無罪判決記念集会
布川事件無罪判決記念集会

今月中旬には京都で、「丸岡さんを送る会」が執り行われるそうだ。行く予定だ。私も、何とか執行停止されるように努力したつもりだが、出来なかった。申し訳ない。

そして、5月12日、実は、私あてのぶ厚い「遺書」をもらっていた。最後の手紙だ。体が悪いのに、よく書けたと思う。4日もかけて書いたという。

「外に出て、一緒に運動をしたかった」と書いてあった。涙が出た。自分もそう思った。

何とも残念だ。力足りずに、本当に申し訳ないと思った。

【だいありー】
布川事件の桜井昌司さんと
布川事件の桜井昌司さんと
  1. 5月30日(月)丸岡修さんの件で、週刊誌などの取材を受ける。夕方発売の「日刊ゲンダイ」に私のコメントが載っていた。本当に残念だし悔しい。
     夜、柔道に行く。醍醐敏郎先生(10段)が、「三島由紀夫の『にっぽん製』を見て来たよ」と言ってた。三島が先生に取材して、柔道小説を書き、それが映画化されたのだ。昭和26年、世界柔道連盟をつくるために、ヨーロッパを回り、各国で、試合をした。でも、チャンピオンの醍醐先生とは、外国の選手はまだまだ実力が違う。それで、もっぱら「10人掛け」をやったという。10人を順々と投げ飛ばしてゆくのだ。オランダではヘーシンクもいたという。「まだ17才でしたよ」。じゃ、この話は、『月刊タイムス』に書こう。
布川事件の杉山卓男さんと
布川事件の杉山卓男さんと
  1. 5月31日(火)午前10時半。天王洲アイルにあるテレビ東京のスタジオへ。田原総一朗さんがテレ東で、昔、過激なドキュメンタリーを撮っていた。60本以上ある。その代表的なものを少しずつ公開している。実は、『学生右翼』というものあり、「日学同」を中心に取材していて、斎藤英俊氏、宮崎正弘氏などと共に、森田必勝氏も出ている。70年に三島と共に自決した青年だ。
     この時は、まだ「楯の会」が出来る前で、森田氏は「日学同」の会員として活躍していた。1967年放映のこのビデオを見ながら、私が当時の状況を「解説」する。そして、3人でトーク。貴重な映像を見せてもらい、ありがたかった。  帰り際、三上寛さん(歌手)に会う。やはり田原さんの番組だ。私の次の収録だという。この日は、続けざまに3本の収録だという。大変だ。
     終わって、両国に行く。江戸東京博物館で「幕末の絵師・狩野一信。五百羅漢展」を見る。なかなか迫力があった。
     夜は、柔道。
大浦信行さんと
大浦信行さんと
  1. 6月1日(水)午前中、打ち合わせ。午後3時から、文化放送。「教科書検定」の話をする。「週刊金曜日」の先週号を取り上げて、話をする。大藤原瑠璃子さんの「原発安全神話を強制する文科省の教科書検定」という記事だ。原発に問題がある。チェルノブイリ以降、危険が指摘されている。自然エネルギーも開発されている。…といった「申請本」の記述は、全て、検定にひっかかり、直させられた。その「検定後の記述」も書かれている。これは「思想統制」だし、国策で原発をやっているんだから、批判は許さない。といった姿勢が感じられる。これは大きな問題だ。
     5時からはWコロンと、謎かけ。又も、「右より謎かけ」。それと、「三島作品を紹介する」コーナーで、今日は、私が『仮面の告白』を紹介・解説した。
原武史さん、内海信彦さんと(5/21)
原武史さん、内海信彦さんと(5/21)
  1. 6月2日(木)午前11時から、高田馬場の喫茶店「ミヤマ」会議室。「公安について」、高木尋士氏と濃密な対談をする。高木氏は公安についての厖大な本、資料を読み、問題点を話す。左翼運動をやっていた椎野礼仁さんも加わり、「公安とは何か」「何をやってきたのか」について詳しく話す。近く、このHPで発表するつもりだ。
     午後3時、河合塾コスモ。「現代文要約」。午後5時、「基礎教養ゼミ」。今週は牧野剛先生が選んだ本を読み、話す。江川卓『謎とき「罪と罰」』(新潮社)。江川卓・亀山郁夫共編『ドストエフスキーの現在』(JCA出版)を読む。とても勉強になりました。ドストエフスキーは又、読み返してみたいと思いました。終わって、生徒たちと食事会。カレーを食べる。
打ち上げで
打ち上げで
  1. 6月3日(金)午前中、原稿書き。午後、取材。7時、代官山に行く。7時半から、イベント・カフェ「山羊に聞く?」でトークショー。テーマは「映画『マイ・バック・ページ』の周辺。新聞記者と映画評論家の道」。元毎日新聞記者の松島利行氏と作家の桃江メロンさんのトーク。椎野レーニンさんから誘われて聞きに行きました。川本三郎さんと私は朝日新書で対談してますし、シナリオもそこから取られたのではと言ってました。光栄な話です。私も、話させてもらいました。終電で帰りました。
  2. 6月4日(土)。朝の新幹線で名古屋に。午後2時、死刑問題の集会に行く。村上満宏弁護士の「裁判員裁判と死刑」の講演のあと、皆で話す。終わって、近くの居酒屋で二次会。夜、帰京。
久武まりさん
久武まりさん
  1. 6月5日(日)午後、雑誌の対談。午後6時半。JR総連第27回定期大会の懇親会に出る。ホテル・イースト21東京。3F、永代の間。田城郁さん、浅野貴博さん、国会議員や記者、ライターの人なども多くいました。布川事件の杉山卓男さんとも会いました。
【写真説明】
東京新聞(5/30)

①丸岡修さんの死亡を伝える「東京新聞」(5月30日)

「日刊ゲンダイ」(5/31)

②私もコメントしました。「日刊ゲンダイ」(5月31日)。「死亡した丸岡修が最後まで曲げなかった『反米』」

「週刊新潮」(6/9)

③「週刊新潮」(6月9日号)。特集「我が名の石碑」の中で。「獄死したダッカ事件、丸岡修が遺した懺悔の手紙」

丸岡さんの著書『公安警察ナンボのもんじゃ』(神泉社)

④丸岡修さんの著書『公安警察ナンボのもんじゃ』(新泉社)

太田龍『世界革命。革命児ゲバラ』

⑤太田龍さんの『世界革命。革命児ゲバラ』が復刊されました。面影橋出版。2200円。私が「解説」を書きました。

(左から)鈴木邦男、田原総一朗さん、堀江貴文さん、吉田豪さん(5/23)

⑥5月23日(月)、ロフトプラスワンです。「ホリエモン・トークライブSESSION最終回!?」。「棄却された…」。左から、鈴木、田原総一朗さん、堀江貴文さん、司会の吉田豪さん。(始まる前に、控え室で)

西宮ゼミ(5/22)

⑦5月22日(日)、「鈴木邦男ゼミin西宮」。野田正彰さん(関西学院大学教授)が講演。「今、大震災を語る」。そのあと、2人でトークしました。

野田正彰さんと

⑧打ち上げで。野田さんと。

松岡利康さん、野田正彰さん、岩井正和さん

⑨左から、松岡利康さん、野田正彰さん、岩井正和さん。

ゼミの後の二次会

⑩ゼミの後の二次会で。

布川事件無罪判決記念集会

⑪5月27日(金)午後6時半。明治大学リバティタワー。「布川事件」の無罪判決記念イベントがありました。「創」の篠田さんが司会。江川紹子さん、青木理さんらも出てました。

布川事件の桜井昌司さんと

⑫布川事件の桜井昌司さんと。

布川事件の杉山卓男さんと

⑬布川事件の杉山卓男さんと。

大浦信行さんと

⑭5月19日(木)。『紙の爆弾』で大浦信行さんと対談。見沢知廉の戦いを描いた映画「天皇ごっこ・たった一人の革命」が完成した。その話を聞きました。

原武史さん、内海信彦さんと(5/21)

⑮5月21日(土)、内海信彦さんの作品展を見に行きました。鼎談「3.11以降の日本と芸術」(原武史さん、神谷秀樹さんと)を聞きました。
 左から、原さん、内海さん、鈴木。後ろで生徒たちが、何やら、遊んでますね。

打ち上げで

⑯二次会で。右が三島由紀夫の「なりきり芸」をやる中島晴矢君。
 この日も、三島の「檄」をやってました。

久武まりさん

神戸の震災を記念するルミナリエというイベント(神戸を代表するイベント)のテーマ曲を歌っている久武まりさんが、ゼミの最後に飛び入りで歌ってくれたものです。

吉本千穂さん(左)岩井正和さん(右)と

帰りの新幹線の新大阪駅で、吉本千穂さんと撮ったもの。

西宮冷蔵の水谷社長

ゼミの最後で、西宮冷蔵の水谷社長からコメントをいただきました。

【お知らせ】
吉本千穂さん(左)岩井正和さん(右)と
吉本千穂さん(左)岩井正和さん(右)と
  1. 6月6日(月)阿佐ヶ谷ロフト。7時。〈やさしい左翼のための『ザ・コーヴ』の嘘、全部教えます〉。出演は、吉岡逸夫さん、しまだやすゆきさん、綿井健陽さん、松林要樹さん他。私も出ます。
  2. 6月15日(水)。私の『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)が増刷されます。何と、第6刷です。初版は5年前の2006年5月20日でした。
  3. 川本三郎さん原作の映画『マイ・バック・ページ』が絶賛上映中です。2008年に川本さんと私の対談した『本と映画と「70年」を語ろう』(朝日新書)でも、この本について詳しく話してます。「これから映画になる」と言ってました。大きな書店では、『マイ・バック・ページ』の横に、この対談本が置かれています。読んでみて下さい。あの激しい政治の季節の熱気が伝わってきます。
  4. 6月20日(月)一水会フォーラム。午後7時。ホテルサンルート高田馬場。講師、伴英幸先生(原子力資料情報室共同代表)。演題「原子力発電と新エネルギーを考える」。
西宮冷蔵の水谷社長
西宮冷蔵の水谷社長
  1. 6月24日(金)、夜、ジュンク堂新宿店で雨宮処凛さんのトーク&サイン会があります。『ドキュメント 雨宮革命』(創出版)の発売記念です。そこに私も附録で出ます。創出版から、『続・言論の覚悟』が出ますので…。
  2. 6月28日(火)、大阪市淀川区の「第七芸術劇場」。午後8時40分から、「ベオグラード1999」の上映。その後、10時から40分間、金子遊監督と私のトークがあります。なお、映画「ベオグラード1999」は、6月25日(土)から7月10日(金)まで上映です。
  3. 7月6日(水)午後7時半から、阿佐ヶ谷ロフト。「創」プレゼンツのトークイベントで、私も出ます。
  4. 7月10日(日)→※(日程変更)9月2日(金)7時、新宿ネイキッドロフト。大河漫画「柔侠伝」で有名なバロン吉元さん。元連合赤軍兵士の植垣康博さん。そして私で、〈連合赤軍を考える〉バトルトークです。
     「柔侠伝」は親子三代の柔道家の物語で、その中に戦争、砂川闘争、安保闘争などがからみ、政治、暴力、左翼、右翼が出てきます。70年代、左右を超え、多くの人々の圧倒的支持を得た映画です。植垣さんも、夢中になって読んだといいますし、静岡のスナック「バロン」の名前は、バロン吉元さんにちなんで付けてます。連合赤軍と漫画と革命について語ります。お楽しみに。
  5. 7月25日(月)「和歌山カレー事件」を考える人々の集い。エル大阪6階大会議室(地下鉄谷町線、京阪天満橋駅下車)。18時20分開場。神田香織さん(講談師)と私の対談。弁護団報告などがあります。神田さんの新作講談「和歌山カレー事件」もあります。参加費800円。
  6. 9月9日(金)〜11日(日)。劇団再生による、見沢知廉七回忌追悼公演があります。「天皇ごっこ『蒼白の馬上』」です。小田急線千歳船橋駅前の「APOCシアター」です。11日(日)の14時からは特別トークがあります。大浦信行(映画監督)、山平重樹(作家)、高木尋士(劇団再生代表)、鈴木邦男による、「作品としての見沢知廉」です。