「きのう、田原さんと会ったんですね」と言われた。「水道橋博士も一緒だったんですね」とも。情報が早い。
6月1日(水)文化放送に行った時に、言われた。「どうして知ってるんですか。僕は誰にも言ってないのに」と言ったら、ツイッターだという。田原さん、水道橋さん、2人ともツイッターで呟いたんだ。そんな呟きを皆が聞いたんだ。
これじゃ、全ての情報は筒抜けだ。もう悪い事は出来ない。まぁ、やる気もないけど。かえって、いい事かもしれない。昔のように非公然・非合法活動はやれない。携帯、写メ、ツイッター、防犯カメラ…と、いわば、新たな「世間の眼」がある。だから、ヤバイことはやれない。又、やらなくてもいい。ヤバイ「誘い」を断る理由にもなる。
あの頃は、「根性があればやれる」「革命的警戒心があれば、大丈夫だ」と思っていた。「捕まったら嫌だ」なんて言えない。言ったら、「卑怯者め!」「それでも活動家か!」と言われた。それで、ムキになって、飛んだ。一線を越えた。左右の活動家は皆、そうした。それが〈勇気〉だと思った。
でも今は、もう、そんな事は出来ない。しなくてもいい。新しい戦い方を考えたらいいんだ。そう思った。田原さん、水道橋さんともそんな話をしたようだ。
5月31日(火)の午前10時半に、2人に会ったのだ。テレビ東京のスタジオで。早めに家を出て、JRに乗り、浜松町で降りる。ボーッとしてたので、そのまま、文化放送に向かう。途中で、ハッと気が付いた。いけない。今日は文化放送じゃないんだ。テレ東に行くんだ。それで、モノレールに乗る。天皇制アイランドに行く。天皇制の島か。日本の縮図だ。変な名前だな、と思ったら、天王洲アイルだった。
これでも、よく、分からん。浜松町から1つ目だ。そこにテレ東のスタジオがある。巨大なビルだ。
モノレールって、飛行機に乗るためだけにあると思っていた。羽田に行く以外の目的でモノレールに乗ったのは今回が初めてだ。
天王洲アイルは、アムステルダムのような街だった。海があり、ビルがあり、巨大な倉庫があり、スタジオがある。「天皇制」なのに異国情緒に溢れた街だ。
アムステルダムは、海じゃなくて運河かな。水と、きれいなビルの街だ。2003年、開戦直前のイラクに行き、その帰りに、寄った。トランジットで5時間くらいあったので、皆が、街に繰り出した。
マリファナが合法で、マリファナ喫茶がある。そこに行く人もいる。又、「飾り窓の女」がいる店もある。飾ってある美女を見に行く人もいる。
私は、歌手であり、ミュージシャンの(同じか!)、PANTAさんと一緒に、(少女趣味と言われようが)、「アンネの家」に行った。アンネが隠れていた家だ。それから、ゴッホ美術館に行った。他の人達と違って、私達だけが、スピリチュアルで、アートなビヘイビアーだった。
あっ、いけないな。思い出にふけっていては。5月31日(火)、テレ東で、トークをしたんだ。1960年代後半から70年代にかけての話だ。
その頃、田原さんは、テレ東で、過激なドキュメンタリーを作っていた。この事は以前、紹介した。学生運動に関したものも多いが、ベトナム戦争の脱走米兵、永田洋子…などもやった。
死期を悟った俳優の破天荒な決起を描いたり。結婚式で、花嫁がお礼に、参列者全員とセックスをする。…といったものもあった。俳優は自分の女子マネージャーを、部屋に引き連れて行為に及ぼうとする。それもカメラは追う。今なら、絶対に撮れない。「犯罪」になっちゃう。撮る方も共犯だ。
でも、ドキドキして、そして、ハラハラし、充実した毎日だったろう。その頃のドキュメンタリーが60本ほどある。前に、少し再放送したら大反響だった。それで、残りの作品も少しずつ紹介しよう、ということになった。
1967年に、田原さんは「学生右翼」という作品を撮った。日学同(日本学生同盟)の活動家達の闘いを追った作品だ。5月31日は、それを流し、その「解説」を私がやる。斎藤英俊、宮崎正弘、持丸博…などに混じって、伊藤好雄、森田必勝なども出てくる。
森田氏は、その後、日学同を辞めて、「楯の会」に移り、1970年に三島と共に自決する。伊藤好雄氏も、「楯の会」に移り、1977年に、経団連事件に参加する。宮崎正弘氏は、今、中国問題などで活躍し、本を沢山出している評論家だ。持丸博氏は「楯の会」初代学生長だ。昨年、本を出した。奥さんの松浦芳子さんも、本を出した。この2人を引き合わせたのは私だ。
貴重な映像だ。活動している森田必勝氏は、ここにしかいない。もっと厖大なフィルムを撮っているはずだ。それを見たいと言ったが、多分、ないようだ。1967年当時の「右翼学生」の置かれた立場。何をしたか。左翼とどう闘ったか。などを「解説」した。
なかなか、凝った番組だった。スタジオも60年後半の学生運動をイメージした作りだ。楽しかった。この頃、私も「学生右翼」だ。「今だって、学生右翼のようなもんですよ」と言った。あの頃は、毎日のように左翼学生と殴り合っていた。でも、次の日会うと、ケロリとしていた。牧歌的な時代だった。楽しい収録だった。
そうなんだ。生放送ではない。収録なんだ。「いつ放送するんですか」と聞いたら、「今年の10月頃でしょう」「えっ、随分先ですね。今は5月でしょう」と聞いちゃった。何でも、この日の収録を、DVDにして売り出し、それと同時に放送するという。
私の収録が終わったら、三上寬さんに会った。これから収録だという。そのあと吉岡忍さんも来るらしい。1日で3本も収録するという。打ち合わせも含め、1本、3時間やって、9時間もぶっ続けで収録する。過酷な労働だ。博士は若いからいいが、田原さんは大丈夫なんだろうか。
私の収録が終わって、控え室に戻ってきたら博士が来た。「本にサインして下さいよ」と言う。『夕刻のコペルニクス』だった。「SPA!の連載中は毎週、ハラハラして読んでましたよ」と言う。
ありがたい。「水道橋博士へ」と書こうと思ったら、「息子に書いて下さい」と言う。息子さんも読むのか。「何て名前なの」「武です」。ほう、お師匠さんの名前をそのまま付けてるんだ。凄いですね。
北野武さんに弟子入りする前は、竹中労の大ファンだったという。竹中さんが亡くなる前(25年ほど前)TBSラジオで一緒に出たそうだ。思想的な話はなくて、芸能の話だ。
「ダウンタウンの2人は、ブレイクするよ」と言ってたそうだ。凄い予言ですよ、と。でも、「たま」も大絶讃してたんだ。「これは、日本のビートルズになるよ」。こっちの方は、ちょっと外れた。
「ところで、“あの事件”って何ですか?まだ言えないんですか」と博士に聞かれた。何だっけ?「とぼけないで下さいよ。SPA!に書いてたでしょう。書こうとして、急にやめちゃった事件ですよ」
そんなことがあったな。思い切って書いてしまおうと思ったけど、予告を書いた時点で、急に怖くなって、夢にまでうなされて、やめちゃったんだ。だらしがない。捕まって一生、刑務所にぶち込まれたらたまらない。外にいてこそ、こうして自由に書けるんだ。そう思って、やめたんだ。卑怯な奴だよ、こいつは、と、自分を罵りましたね。
じゃ、今なら書けるか。それも難しい。丸岡修さんのような心境だ。先週、書いたけど、丸岡さんは、ドバイ事件(1973年)、ダッカ事件(1977年)には、「関係ない」と言ってきた。法廷闘争としては当然だ。証拠のない事件については、否認する。
でも、死期を覚った時、「墓場まで秘密を持って行きたくない」と、公表した。両方の事件とも、自分が参加したと。「無関係」を信じて支援して下さった皆様には申し訳ない、と謝罪した。勿論、ハイジャックで迷惑をかけた乗客の皆様にもお詫びした。
だったら、もっと早く言ってもらい、その上で、両事件について、もっともっと聞きたかった。世界をまたにかけた大作戦だ。それを語ってほしかった。又、獄中の日本人を奪還した話も聞きたかった。
丸岡さんは、具体的に「関係した」ことを死の直前に認め、その印刷物を私ももらった。「遺書」のつもりだ。新聞、週刊誌は、実際、「遺書」として紹介していた。じゃ、私も「遺書」として書こうか。あの事件も、赤報隊事件も…。
そうだ。この日の収録は、「田原総一朗の遺書」という番組なのだ。「田原さんの葬式の時は、弔辞で何と言いますか」とも聞かれた。でも、まだまだ元気だ。
田原さんは、前にも「遺書」と名付けた番組をやっていた。その第2弾だ。「遺書は何度書いてもいいからね」と田原さん。じゃ、昔、撮った60本を全部放送してほしい。「解説」が間に合わなかったら、そのまま、60本をセットにして売ったらいい。どんなに高くても私は買いたい。売れますよ、と提言した。
『学生右翼』をめぐる話については、余り書いちゃダメだろうが、予告編的に少し紹介すると、森田必勝氏のことを中心に話した。
又、当時の学生右翼のひたむきさについて話をした。毎日、ビラを撒き、立て看を出し、学生に訴え、全共闘と闘った。その中でも、息抜きもあったし、女子学生に恋することもあった。
松浦芳子さんは、森田必勝氏の失恋について書いていた。そんなこともあった。それに、私は森田氏と一緒に、ダンパンに行った。ダンスパーティだ。
当時は、各サークルが資金稼ぎのために、よくダンスパーティをやっていた。ともかく、人が集まれば出来る。バンドなんて、学生がやってたし、「女の子と手をつなげる」と、それだけで、男はいくらでも集まる。その時の話を松浦さんも書いていた。今の右翼青年には信じられないだろう。「森田烈士」がダンスパーティに行ったなんて…。
大学の学園祭でもダンパンはよくやった。又、プリンスホテルを借りてやったこともある。森田氏は、黒のダブルのスーツを着て現れ、「決めてみました」と言う。でも、テレて、なかなか踊らない。終わっちゃうじゃないかと皆に引っ張り出され、隅の方で踊っていたという。
〈終わると、頭をかきかき、またまた照れなが私達の方に歩いてくる。その仕草が、なんともかわいい。あの必勝が、自衛隊で先生と一緒に切腹したなど、とても信じられない〉
又、森田氏の「失恋」についても書いている。東京家政学院のある女子大生に恋をした。でもある時、市ヶ谷で、目撃してしまった。その女性が他の早大生と一緒に歩いていたのを。
目撃といっても、その程度のことだ。「ああ、俺の恋は終わった」と森田氏は思った。それを聞いた仲間達が、励ました。いや、からかった。
〈後日、それを知った友人達は、替え歌を作って必勝をからかった。ひどい友人達だ。必勝が歩いてくると、皆で合唱する。
『森田、T子に、ほかされてー、とぼとぼ歩く、市ヶ谷の土手、ブルーブルーブルーシャトー』
当時流行っていた、“ブルーシャトー”の替え歌である。必勝は、口をとがらせて、ふくれていた〉
私も歌ったかもしれない。すみませんでした。「ほかされて」は、「すてられて」と歌われたこともある。二説ある。でも、付き合ってたのに捨てられたのではない。ただの淡い初恋だ。そんなこと、T子は、知らなかったろう。
でも、同級生の芳子さんは言ったはずだ。その後、T子さんはどうなったか。市ヶ谷の土手を歩いていた学生と結婚したわけではない。セレブなお医者さまと結婚し、今も幸せに生活しているという話だ。いつか、取材してみたい。
私も、森田必勝伝を書いてみたいな。断片的には書いているが、まとめて、書いたのはない。あの時代を語ることは、今を考え、〈これからの日本〉を語ることでもある。そんな気がする。
①「田原総一朗の遺言」(テレビ東京)の収録で、田原さんと。5月31日(火)。「学生右翼=11.12羽田にいた=」(1967年)を見ながら、私が「解説」をし、そのあと田原さん、水道橋博士と3人で。学生運動の話をしました。
⑦松岡正剛さんと。「連塾」の打ち上げパーティで。5月28日(土)。青山のスパイラルホールで。「鈴木さんの読書論はよかったね。もっともっと売れるべきですよ」と言ってました。「ぜひ、対談して、本の読み方を教えて下さい」とお願いしました。
⑩6月3日(金)午後7時から、代官山のイベント・カフェ「山羊に聞く?」。「映画『マイ・バック・ページ』の周辺。新聞記者と映画評論家の道」。元毎日新聞記者の松島利行さん(右)と、作家の桃江メロンさんのトーク。後半、私も加わって、話をしました。
とても楽しかったです。