「こんな父親のために涙なんか流すものか、と思ってました。でも…」と言って、大粒の涙を流す。とまらない。涙で声が続かない。柴田泰弘さん(58才)の告別式だ。6月26日(日)だ。
喪主の娘さんが親族を代表して挨拶したが、涙で言葉にならない。そうだろうな、と同情した。身につまされた。お父さんを恨んでいたんだろう。お通夜、告別式だって、「行かない」と言ってた。それを周りの人達が説得して来てもらった。そう聞いた。
柴田泰弘さんは58才だった。余りにも若い。1970年3月に、「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った9人の赤軍派の1人だ。他の人達は学生だが、柴田さんは高校生。何と16才だった。
「えっ、お前、高校生だったのか!」と北朝鮮に行ってから知り、驚いたメンバーもいた。16才でも、闘う活動家だ。「よど号」の前の年、1969年に「大菩薩峠事件」でも逮捕されている。大菩薩峠の「福ちゃん荘」という民宿で合宿し、軍事訓練をしていたのだ。赤軍派が、首相官邸への襲撃を計画して、謀議、訓練をした。まるで、戦前の5.15事件のようだ。首相官邸を襲うなんて。
15才の柴田さんも参加した。でも未成年だからなのか、逮捕されても長期にならず釈放された。
普通なら、それでやめるか、しばらくは、おとなしくする。でも柴田さんは、翌年3月の「よど号」ハイジャックに参加する。若い。若すぎる。でも、それだけ優秀な活動家として期待されていたのだろう。そこから激動の人生が始まる。波乱の革命家生活がスタートする。
ハイジャックされた「よど号」は一度、韓国に降り立つ。「ここがピョンヤンだ」と騙されて。「万歳!」と赤軍派の同志達は沸き立つ。「さあ、降りよう」とした時に、外を見ていた柴田さんは気付く。「おかしい」と。外をよく見ると、シェル石油がある。アメリカの車がある。「ここはピョンヤンではない!」と気付いた。
そこから韓国との長い闘いが始まり、最終的には、ピョンヤンへ行く。柴田さんはハイジャック成功の功労者だ。もし、韓国に降りてたら、ハイジャックは失敗。逮捕され、日本に送還された。でも、多分、4、5年ほどで外に出ただろう。16才の柴田さんはもっと早く外に出ただろう。でも、又、決起しただろう。そんな人だ。
柴田さんの機転で、危機を脱し、ピョンヤンに着く。そこで半年間軍事訓練を受けて、日本に再上陸し、革命を起こす。そういう計画だった。ところが、北朝鮮当局は、軍事訓練をしてくれない。それからピョンヤンでの長い生活が始まる。
ところが、「よど号」グループは、秘かに、ヨーロッパ、アジアに行っていたのだ。同志を増やし、日本の革命をやろうとしたのだろう。その中で、柴田さんは日本に潜入した。
よど号事件から18年後、1988年(昭和63年)、日本で逮捕された。その数年前から潜入していたようだ。逮捕された時、柴田さんは34才。そして裁判があり、服役し、1994年(平成6年)、出所した。この時、40才だ。若い。凄い体験をしたんだ。
それを基に、これからさらに大きな革命家になれる。本だって、どんどん書ける。その頃、私は知り合ったので、そう勧めた。「高校もほとんど行ってないし」と言うので、「じゃ、大検を受けて、高卒資格を取り、大学に入ったらいいだろう」と言った。今から学生運動をやってもいい。あるいは、昼は働いて、夜、大学に行ってもいい。大検の予備校は知ってるから紹介するよ、と言ったんだが…。
連合赤軍の植垣康博さんのような立場になったらいいだろう、と言った。植垣さんは、連赤事件で27年間獄中にいた。でも、出てきてからは何冊も本を出し、「朝まで生テレビ」を初め、テレビ、週刊誌に出ている。一般の人に分かる「ことば」を持っている。それによって、連赤事件の真実を語り、失敗に終わったが、参加した人々の〈志〉を語っている。実に貴重だ。
柴田さんも、そんな立場に立ち、「よど号」事件のことをもっともっと人々に伝えるべきだ。と私は言った。
しかし、ダメだった。連赤は、全て失敗だった。全員捕まった。もう隠すこともない。だから、何でも言える。その中から、植垣さんは、大胆に話し、当時の若者たちの夢や希望も語る。
しかし、「よど号」は仲間がまだピョンヤンにいる。闘っている。だから話せないことも多い。又、柴田さんは、外に出たといっても、公安の監視はついている。北朝鮮と連絡を取り、不穏な事を計画してるのではないか。そう思われている。だから、「全て」を語るわけにはいかない。
「どうやって日本に密入国したの?」と聞いても、教えてくれなかった。それは当然だろう。聞いた私が馬鹿だった。他人名義のパスポートで飛行機に乗って来たのか。北朝鮮の「漁船」で来たのか。泳いで来たのか。分からない。それに、日本に来た時は、すでに北朝鮮で結婚し、2人も子供がいたのだ。本人は言ってないが、後に、帰国した奥さんが告白した。八尾めぐみさんだ。
この女性も波乱の人生だ。北朝鮮に渡り、柴田さんと結婚し、その間、何度も日本とのの間を行き来した。しかし、後に、『謝罪します』という本を書き、「よど号」グループと訣別し、「英国留学中の有本さんを拉致した」と告白した。有本さんのご両親に会って土下座して謝っていた。それを私もテレビで見た。
北朝鮮にいた娘2人は、そんな母親を批判し、告発した。「お父さん、告訴しなさいよ」と言った。しかし、柴田さんは別れても、愛情がある。そこまでは踏み切れない。そんな父親に娘も絶望。バラバラの一家だ。「革命」が一家を引き裂いたのだ。
そして最近は、柴田さんはずっと一人暮らしだった。6月24日(金)に、「死亡」と報じられたが、実は、22日(水)に死亡してたようだ。発見された時は、死後3日経っていたのだ。何ともかわいそうだ。
私は、柴田さんが元気一杯だった時に、よく会っていた。よく電話でも話をした。「ぜひ、北朝鮮に行くべきですよ」と一番勧めてくれたのは彼だった。木村、見沢氏は一度、訪朝したが、私だけはダメだった。
「鈴木さんの書いた本に原因があるんです。ここがマズかった。だから、それを謝罪し、入国許可をもらいましょう」と言われて、謝罪文を書いたこともある。関係者にも会わせてくれた。「自分の勝手な推測や妄想で書いて申し訳ありません。白紙の状態で見て、書きたいので、ぜひ行かせて下さい」とお願いした。でも、ダメだった。
「よど号」の田中義三さんが、カンボジアで捕まり、タイで裁判が始まった時に、「ぜひ、タイに行って下さい」と熱心に勧めてくれたのも彼だった。「田中さんは鈴木さんに一番会いたがってたんですよ」と言う。それで、タイに行った。田中さんは会うなり、意気投合した。
田中さんが日本に送還され、裁判が始まると、毎回、柴田さんは大阪から駆け付けていた。パソコンのソフトを作る仕事をしてると言っていた。うまくいってるようだった。若い女性を2、3人、連れて来たこともある。仕事で知り合ったという。「ネットの出会い系だろう」と言ったら、「そんなことはないです」と言っていた。
ともかく、仕事はうまくいってたし、ぜひ、「よど号」事件のことも書いたらいい。「よど号の“植垣”になれ」と会うたびに言っていた。
この後、仕事はうまく行かなかったようだ。大手のコンピュータ会社に仕事を奪われ、又、奥さんの八尾さんの「告発・反乱」もあり、心を悩ませていた。娘2人のことも心配だ。娘2人は、後に、日本に帰るが、「親子4人」の幸せな暮らしはない。柴田さんが〈孤独死〉しても、奥さんは来ない。娘2人も、「出ない」と言ってたが、「よど号」の仲間達が必死に説得して、出席してもらった。
通夜は6月25日(土)。26日(日)は告別式だ。6月25日(土)は東京で、「丸岡修さんを追悼する会」が行われ、そこで山中幸男さん(救援連絡センター)や、植垣さんから、「明日、柴田の告別式だよ。鈴木さんも世話になったんだから出なよ」と言われた。それで行ったのだ。
告別式は、6月26日(日)12時から大阪市生野区の「生野大阪祭典」で行われた。かなり、迷いながら行った。初め、親族は出ないと言ってたが、出てくれた。娘さん2人。それに柴田さんの弟さん2人が出席した。
祭壇に置かれた遺影を見て、アレッと思った。柴田さんが黒い服を着ている。黒いネクタイをしている。何だろう。この日のために撮ったわけじゃないだろう。娘さんに聞いたら、「おじいちゃんのお葬式の時、撮った写真です」と言う。つまり、柴田さんの父親だ。10年ほど前に亡くなった。その時の写真らしい。娘さん2人は、まだ日本に帰ってきてなかったという。
柴田さんの弟さん2人とも話しをした。すぐ下の弟は、「よど号」事件の時、中学生。その下の弟は小学生だったという。ショックも大きかっただろう。「鈴木さんとは前に電話で話をしました」と、弟さんが言う。そんなこともあったな。又、ゆっくり話を聞きたい。
告別式が終わって、解散。親族とごくごく近しい人だけが火葬場に行く。残った人は、近くの喫茶店に行く。柴田さんのことを皆で話し合った。そのあと、東京に帰ろうとしたら、植垣さんが、「これから兄貴のとこに行くんだけど、鈴木さんも行く?」「うん、行く」。全く関係がないのに、付いて行った。革命家の家族関係を覗いてみたかったのだ。鶴橋に行って、そこから私鉄に乗り換えて、何とかという駅で降りる。
植垣さんは、息子さん(5才)を連れていた。龍一君だ。日曜日は保育園が休みだから、という。駅で降りて、お兄さんの家に行くが見つからない。携帯をしても出ない。その辺の家で聞く。「すみません。この辺で、植垣という家、知りませんか?」「知りませんね」「あのー、連合赤軍の家族ですけど」と私は言おうとして、やめた。「植田」という家がある。「ここでいいんじゃないの?」「そうはいきませんよ」。
連赤事件の時、道のない雪中を歩き慣れてるから、町中ならばすぐに分かると思っているんだ。かなり歩いた。でも、やっと見つかった。ホッとした。
お兄さんは、家に携帯を置いて、外に出ていたのだ。弟を探しに…。でもなかった。実は、救急車を呼ぶかどうかで、大慌てだった。この日、鳥取からお父さん(98才)が出てきた。そして、何と、ジュースと思って、洗剤をゴクゴク飲んで、倒れてしまった。別室に寝ていた。大丈夫ですか。救急車を呼んだ方がいいでしょう。と言ったが、「まあ、大丈夫でしょう」。
お兄さんの家でしばらく話した。お兄さんは私と同じ年だった。あんな事件を犯した弟だが、実に優しい。ヒョイと横を見たら、「連赤」のジャーがある。よく見ると、「遠赤」だ。遠赤外線なんだ。「僕も、連赤かと思いました」と植垣さん。
せっかくだから、どっかメシを食いに行きましょう。とお兄さんはタクシーを呼んでくれて、八尾に行く。「えっ、倒れたお父さんはいいんですか」「寝かせておけば大丈夫でしょう」。革命家の弟を持ったせいで、一家は、少し位のことで動じない。
八尾で中華をごちそうになった。おいしかったです。関係ないのに、私までごちそうになり、おみやげまでもらいました。申し訳ありませんでした。
八尾で思い出した。確か、映画「悪名」の舞台ですよね。「そうです」とお兄さん。勝新太郎、田宮二郎が主演したシリーズだ。好きでよく見ていたんだ。連赤事件も「悪名」だよね。
それにしても6月は大変な月だった。丸岡修さんを送る会に出た。京都と東京と2回だ。それに柴田さんの告別式に行った。今年は多い。亡くなった人が多すぎる。松崎明さん(JR東労組)、千代丸健二さん(人権110番)、荒岱介さん(元戦旗派)、丸岡修さん(日本赤軍)、柴田泰弘さん(よど号)だ。
そして革命家の人生も大変だ。その家族も大変だ。柴田さん、植垣さんの家族を見て、そう思った。人のことは言えない。私もそうだ。皆に迷惑を掛けっぱなしだ。「こんな親のために涙なんか流すもんか」と私も娘に言われるでしょう。
③重信メイさんも来て挨拶してました。アラブでは、子供だったメイさんは、丸岡さんにとてもお世話になったと言ってました。日本に帰ってきて初めて「丸岡修」という名前を知ったそうです。皆、本名は明かさなかったんですね。戦士達ですね。
⑩6月24日(金)、新宿ジュンク堂で、雨宮さんと合同出版記念トークです。トークの前に各々の本のポスターを持って記念撮影しました。雨宮さんの『ドキュメント雨宮★革命』は、カラーで、とても大きいポスターです。私の『新・言論の覚悟』は白黒で、とても小さいポスターです。これを見た人が、「格差社会だ!」と叫んでました。私もそう思いました。
⑪「この指は何ですか!」と植垣さんが言ってました。階段から落ちて骨折したんですね。地獄の連合赤軍事件を生き抜き、獄中生活27年を耐えて、やっと外に出たら階段から落ちて死んじゃった。じゃ、困るでしょう。気を付けて下さい、と言いました。家の中だと「天敵」がいないから、つい油断するんですな。「天敵」「連赤」「闘い」「生きざま」などについて対談して本をつくりましょう、と言いました。椎野レーニン、高橋さんに頼もう。これを見てたら、考えて下さいよ。
⑫植垣さんの息子さんです。5才です。イケメンです。保育園でも女の子に愛を告白されてるそうです。「赤軍派って何?」とお父さんに聞いて困らせてます。「そんなこと、まだ知らないでいいの」と言ってます。とても力が強いのです。ファイティングポーズをしてくれました。最近よく会うので、私にもなついてくれました。ノドをなでると、喜びます。
⑬戦闘ロボットをアッという間に組み立てました。凄いですね。そして次々と、部品を交換するんです。「お父さんは暗闇の中で銃の分解、組み立てが出来るんだよ」と言ったら、「変なこと教えないで下さい」と父親に叱られました。
⑭八尾の中華料理店で。植垣さんと息子さん(5才)、お兄さんと。植垣兄弟に似てますね。穏やかな人で、沢山、お話を聞きました。過激派の弟を持って大変だったと思いますが、そんなことは言いません。一家をテーマに大河小説でも書けばいいのに、と植垣さんに言いました。