だから、何度も言ってるように、あの時代の学生運動は「マンガ」だったんです。マンガが一番、影響を与えていた。
別に馬鹿にしてるわけではない。だって、1970年3月の「よど号」ハイジャックを見たらいい。赤軍派の9人は、「我々は“あしたのジョー”である!」と言い残して、北朝鮮へ行った。又、白土三平や赤塚不二夫や手塚治虫のマンガにモロに影響を受けていた。
白土三平の『カムイ伝』『忍者武芸帳』から唯物史観を学んだ学生は多かった。さいとうたかをの『ゴルゴ13』で国際情勢を学んだ、という人も多い。「人生に必要なことは全て『ゴルゴ13』に学んだ」と言う人もいた。
又、新左翼の人達は本名を名乗らない。権力から身を守るために組織名を名乗る。コードネームというと、スパイ映画のようだからと、「ペンネーム」と言った。そのペンネームは、ほとんどがマンガの主人公だった。
乱闘も、国際情勢も、仲間のつくり方も、異性との付き合い方も、全て、マンガから学んだ。マルクスやレーニン、トロツキー、毛沢東からではない。マンガから学んだのだ。
ハイジャックの意味も知らないでハイジャックをして、人質の日野原さんに教えられたり…。
東京戦争・大阪戦争などと名前だけは日本の内戦だし、革命だが、実際はチャチなものだった。「日本のレーニン」と言われた人もいたが、今はただのお爺さんだ。マンガだ。全てはマンガだ。
勿論、右翼もマンガは読んでいた。でも、左翼と比べると、右翼の方が真面目というか、融通が利かない。ユーモア精神がない。
でも、バロン吉元の『柔侠伝』は右翼学生に人気だった。又、左翼学生にも人気だった。これは週刊『漫画アクション』に、1970年(昭和45)6月11日号から連載が始まる。
そうか。「よど号」があって、その3ヶ月後だ。僕は産経新聞に勤めていた頃だ。元「楯の会」の阿部勉氏のアパートに居候していた頃だ。右派学生運動の内ゲバがあり、私は追放され、実家の仙台で鬱屈していたが、1970年4月に産経新聞に入社し、久しぶりに上京した。
その時、渋谷で偶然に、阿部勉氏に会った。「これからアパートを探さなくてはならん」と言ったら、「見つかるまで僕のアパートにいて下さいよ」と言う。
高田馬場で六畳二間に、もう1人、福田俊作(やはり、「楯の会」)と住んでいた。「楯の会」の溜まり場のようになっていた。結構居心地がよくて、半年以上いた。
そしたら、1970年11月25日に三島事件が起きた。部屋には祭壇が出来、「楯の会」の人間は、連日集まって、秘密の会議をしている。マスコミも押しかける。警察は張り込んでいる。これ以上、ここにいては迷惑をかけると思い、落合にアパートを借りて、引っ越した。それ以来、ずっと落合だ。
その三島事件から、私の周りの世界も激変する。阿部勉氏や、やはり学生運動の仲間の犬塚氏、四宮氏、田原氏、田村氏…などと共に、「一水会」をつくることになるからだ。
つまり、1970年(昭和45)の5月から11月の半年間は、不思議な半年間だった。活動家にとってのエアポケットのような時代だ。もう運動に戻ることはないと思っていた。多分、一生、サラリーマンだろうと思い、新しい環境に慣れなくてはと思っていた。
そんな時代に出会った、「運命のマンガ」が、バロン吉元の「柔侠伝」だ。
居候させてくれた阿部勉氏が薦めてくれた。「これはいい!」「面白いですよ」と見せてくれた。「漫画アクション」(双葉社)の70年6月11日号から始まっている。それ以来、欠かさず読んでいた。後に、単行本になった時も、全て読んだ。
「楯の会」の人達も皆、読んでいた。かなり後で分かったが、左翼の人達も読んでいたという。連合赤軍事件の植垣康博さんは、特に好きで、後に、出所してから、静岡に「バロン」と名付けたスナックを開店したほどだ。作者のバロン吉元からとったのだ。
今、ここに、1冊の本がある。文藝春秋編『大アンケートによる 少年少女マンガ100』(文春文庫ビジュアル版)だ。1992年発行で、580円だ。これは、歴史的な本だ。「各界有名人が選び出した史上最も面白いマンガはこれだ!」と表紙に出ている。
まずは、10位までを紹介します。
「各界有名人」というから、平均年齢が高いのだろう。だから、昔懐かしいマンガが勢揃いしている。今の10代、20代、にアンケートを求めたら、ガラリと変わるだろう。
でも、これが、学生運動世代に影響を与えたマンガだ。山川惣治は私も小学生の時、夢中になって読んだ。「猿飛佐助」もそうだ。でも、今の若者は多分、誰も知らないだろう。
さて、バロン吉元の「柔侠伝」だ。これは全体のアンケートでは30位になっている。でも私は、これを1位に選んだ。「各人のマイベスト」も載っている。
それがこの文春文庫の楽しいところだ。「鈴木邦男(一水会代表・48歳)」の「マイベスト5」がこう紹介されている。
「少年王者」は日本版ターザンだ。アフリカ旅行中、子供が行方不明になり、ゴリラに育てられる。たくましく育ち、ジャングルの王者になり、大冒険をする。
これは、私の人生の原点になった、学生運動、右翼運動という「ジャングル」に生き、悪い猛獣たちに襲われながら、闘ってきた。私も「少年王者」だ。
「矢車剣之助」は時代劇なのに、とびっきり、奇抜なマンガだった。こんなの、ありえない!と思われるシーンの連続だった。
地面からいきなり城が出てくる。そして、武装集団が何万と現れる。二丁拳銃で主人公は大活躍する。拳銃を撃って、壁に絵を描いたりする。そんなに弾が続くのだろうか。時代劇なのに、気球は出てくる。飛行船は出てくる。城だって、飛ぶ。
こんな奇想天外な発想は、「バカな!」「バカな!」と思いながら、大人になってから、ヒントになっているのかもしれない。「少年王者」の志と、「矢車剣之助」の発想。それが私だ!それに「柔侠伝」のロマンと武闘だよね。
『少年少女マンガ 100』には、私のコメントも出ている。「わがマンガ人生」の総括だ。
〈子供の頃から一貫してマンガは読み続けてきた。それも、かなり真面目に読み続けてきた。ほのぼのとしたマンガやナンセンスマンガは、あまり印象に残っていない。マンガによって自分の生き方を考えてきたからかもしれない。勇気、優しさ、決断…すべてマンガから学んだようだ。
学生時代からずっと民族派の学生運動を続けてきたのも、潜在意識の中にマンガの影響があったからだと思う。だから、僕の人生そのものも、かなりマンガ的だと(いい意味でも悪い意味でも)思う。学校で学んだことはすべて忘れても、マンガから学んだことは覚えている。マンガこそが僕の教科書だったかもしれない〉
そうか。だったら、学校の教科書も全てマンガにしたらいい。そうなったら、「愛国マンガ」と「反日マンガ」の闘いになるのかな。
さて、「柔侠伝」だ。これは、長い長いマンガだ。大河マンガだ。それに、主人公は柔道家だが、正義感が強い。時の権力者とも闘う。
柔道だから体制的だろうと思うかもしれないが、それはない。時には反体制であり、左翼的だ。誰かに似ている。だから、左翼学生も熱狂的に読んだんだ。何人かが、この「柔侠伝」へのコメントを語っている。私は…。
〈この後の「昭和柔侠伝」「現代柔侠伝」を含めて、これは大河ドラマならぬ大河マンガです。柳勘九郎、勘太郎、勘三郎の三代にわたる柔道家の目を通して見た日本の激動の歴史がビシビシと伝わってきます。胸を熱くして読みました〉
明治の末から大正、昭和と続く大河マンガだ。戦争もある。敗戦の混乱もある。砂川闘争、安保闘争もある。その中で、柔道家の主人公はどう考え、どう悩み、闘ってきたか。
「『柔侠伝』の主人公は人間本来のリアルな生活臭とさまざまな煩悩をもったマンガ史上初めての“柔”のヒーローなのです」とは作者の言葉。そんな主人公の行動ひとつひとつが好ましい、と文春文庫には書かれている。
私は「親子三代」だと思ったら、今、文春文庫を見たら、何と「五代」にわたる柔道家の物語だ。
初めは明治35年(1905)だ。100年以上も続く話だ。ともかく、明治38年、柳勘九郎は柔術家だった父・秋水の志を受け継いで、講道館柔道と対決するために九州から上京する。
しかし、柔術はすでに過去のものとなり、柔道の時代になっていた。そんな時、知り合いの女性を助けようとヤクザの大親分を殺害、監獄に入る。
大正3年、出所後、天覧試合に出場。さらに満州(現・中国東北部)に渡り馬賊となる。その後、舞台は一気に昭和11年(’36)に飛び、勘九郎の子・勘太郎を主人公にして「昭和柔侠伝」、さらにその子の勘一、勘平の「現代柔侠伝」へと続く大河マンガだ。
何と五代にわたる柔道家の物語だ。それに彼らは均(ひと)しく反逆児であり、反体制的であり、左翼の運動を助け、権力者や右翼の悪い柔道家とも闘う。柔道家が主人公だが、「政治マンガ」だ。歴史マンガだ。敵である右翼柔道家だって格好いいし、格好いい言葉を吐く。それを読んで僕らも勉強した。
もう随分前になるが、1976年に、前野光保という青年が右翼の児玉誉士夫邸にセスナ機で突っ込み自殺した。ロッキード事件に抗議した死だった。
この時、阿部勉氏は一水会の「レコンキスタ」に「追悼前野光保君」を書いた。その時、前野氏の写真の下に、「大義は尊皇、道は忠」と大きく書かれていた。格好いい言葉だ。
前野氏の言葉なのか、あとで阿部氏に聞いたら、「いや、『柔侠伝』に出ていた言葉だ」という。敵役の右翼柔道家が言うのだ。敵役だが、やたら格好いいし、〈思想〉がある。こんな右翼になりたいものだと思った。
私は学生時代は合気道をやり、3段だった。しかし、『柔侠伝』を読んで、やはり柔道をやらなくてはと思った。そして、かなり後になって、講道館に入門した。今、3段だ。格闘技によって教えられたことは多い。そのスタートになったのが、「柔侠伝」だと思う。
さて、9月2日(金)は、その「柔侠伝」について語ります。最も影響を受けた左右の2人。連合赤軍の植垣さんと、元右翼暴力学生の私だ。そして、「柔侠伝」の作者・バロン吉元さんを迎えて、戦後昭和史を語ります。さらにこの日は、他にもスペシャルゲストが登場いたします。お楽しみに。
〈あの全共闘時代、右も左も「柔侠伝」を読んでいた!柔侠伝で描かれる時代背景は一体何だったのか?〉
と、ロフトの案内には出ています。今週の金曜日(9月2日)夜7時からです。私も楽しみです。
①8月23日(火)6時、ANAコンチネンタルホテル。加藤紘一さんの「だだちゃ豆を食べる会」で小林よしのりさんに会いました。久しぶりに、いろいろとお話ししました。だだちゃ豆はおいしいね、と小林さんも食べてました。
⑥8月21日(日)12時半。中野ZEROホール。問題の映画「南京!南京!」の上映とトークが行われました。抗議の街宣車がドッと来るかと思いましたが、それはなくてホッとしました。でも、警察は随分と出てました。
映画は日本兵の苦悩を描いているし、中国軍の葛藤も…。知られざる事実も描かれてます。考えさせられる映画です。中国でも大ヒットです。ただ、「日本軍の目線だ!」「許せない!」「殺してやる!」という抗議もあったそうです。ぜひ日本でも公開してほしいです。
上映後、陸川監督は、熊谷伸一郎さん(『世界』編集部)とトークしてました。
⑧宇賀神寿一さんも来てました。席がなくて探していたので、「関係者席」の私の隣りに座ってもらいました。昔、爆弾事件で捕まり、20年間も刑務所に入ってたんです。凄い人です。『紙の爆弾』でも対談しました。
この日の上映会は、緊張しました。「許せん!」といって暴漢がスクリーンを切ろうとしたら、私も止めなくちゃならん。その時は、手助けして下さい、と頼んだ。それに、「爆弾を仕掛けられたら、取り外して下さいよ」。「エッ?ムリだよ」。何言ってんですか。爆弾のプロなのに。ともかく、心強い「同志」でした。
⑫8月21日(月)3時から、TBS CS「ニュースバード」内の「ニュースの視点」に出ました。「愛国心と脱原発」です。打ち合わせの時です。左から、針谷大輔氏(統一戦線義勇軍議長)、鈴木、金平茂紀キャスター、竹内久乃アナウンサー。
⑯『紙の爆弾』の取材の後でしょうね。居酒屋「土風炉」でしょう。「女の子、集まって!」と白井さんが写真を撮りました。写真をコンビニでプリントしてたら、知らないお婆さんが覗き込んで、「あら、お孫さんですか」。ムッとしました。「ウルセー、愛人だよ!」と怒鳴ってやりました(心の中で)。でも、人妻の女医さんもいる。まずいな。