今回は、特別対談です。神戸の三宮からです。ルミロックの芝崎るみさんが神戸で展示会を行い、そこに高木尋士さんと私が呼ばれました。
展示会場に入るとそこには芝崎さんがデザインしたたくさんの反物が掛けられていて、思わず魅入ってしまいました。凄いデザインです。思想のあるデザインです。挑発的なデザインです。
こんな画を描く人はどんな人なんだろうと、この対談をとても楽しみにしていました。高木さんは、芝崎さんが作った着物を着て参加しました。気合が入っていました。私も負けじと帯をギュッと締めなおして挑みました。
対談は、浴衣の話から、思想に及び、三島由紀夫も野村秋介も出てきます。2時間たっぷりと話しました。
ここに全部紹介したいのですが、都合により一部分の紹介です。とても残念ですが、いつか近い将来、なんらかの方法でこういった対談全部を紹介したいとも考えています。さあ、始まりです。
芝崎こんにちは。言い出しっぺの芝崎です。かねがね鈴木さんや高木さんのような思想系に強い人を尊敬していて、「着る文化」というのが思想的にどの辺の位置にあるのかをぜひとも確かめたいと思っていました。これまで、なかなかそういう機会がなかったのですが、今回たまたま、鈴木さんが神戸のほうでご用事があるということで、私の方が追いかけて、神戸に個展を持ってきたのです。私はゆかたのデザインをしておりまして、20年ぐらい着物に関する仕事をしています。若い頃は着物の仕事をしようとは思っていなくて、普通に明治大学にいって、栗本慎一郎ゼミにいて、経済人類学をやって、なんとなく卒業した後、河合塾に勤めました。牧野剛先生にお茶を出す係の新入社員でした。
鈴木牧野さんにお茶を出すの?(笑)河合塾には、学生運動をやった先生がいっぱいいますよね。
芝崎そうですね。それから、文化服飾学院に入り直して洋服の修行をしたんです。そして、先生の紹介で手で図案を描く工房に入ったのです。そこで四年間、手描きで修行したのですが、なかなか思うような商品ができなくて、思い切って河合塾で貯めた200万をパソコンに突っ込んで、独学でMacを使って絵を描くようになりました。その後、自分で営業を始めて、ゆかた屋さんの図案をここ10年、20年ぐらいやっているというところなんです。私は、鈴木さんの「SPA!」の連載も読んでいたし、朝生テレビも見ていました。普通に鈴木さんのファンだったんです。
鈴木それは、ありがとうございます。
芝崎図案は、企業と企業の間の仕事なので、上意下達があまりないんです。「売れなければそれまで」で、年間を埋める埋め草でもあったり、微妙なところです。今、職人がブームで、職人がかっこいいという気持ちが江戸の方ではあるんですよ。美大とか立派に出ていても、靴職人が革をすいていたりするほうがかっこいい。それで自分が社長になって、一人二人の弟子を動かすのがかっこいい、という風潮があるんです。それと、ファッションとしての庶民ゆかたの市場も現実的に年間何十万着とあるわけです。その間くらいの微妙なところが私のゆかたなんですね。
高木このゆかたのデザインを見て鈴木さんは、どう思いました?
鈴木凄いね。知的で贅沢な遊びですね。自分が知的なものを持っていなかったら、面白いってわからないよね。例えば、この「田中角栄」柄。普通はわからないでしょう。鯉があって、下駄があって、コンピューター付きブルドーザー。それで扇子でぱたぱた。だから、田中角栄の顔はないけれども、田中角栄だとわかる。それに、この細い線。よく見ると、「ヨッシャヨッシャ」って書いてあるんだね。それに、黒地に赤の三島由紀夫の柄。三島には薔薇刑という写真集がありますね。それから矢が突き刺さっているセバスティアヌスの殉教。そういうものだけで三島を表現している。普通の人は見てもわからないけれど、三島由紀夫が好きだったら、三島の薔薇刑だとわかる。そういう非常に知的な素晴らしい遊びだと思います。
高木これらのデザインは鈴木さんがおっしゃるように、知的で贅沢な遊びですね。これを初めて見たときには、芝崎さんは、何を考えているんだろうと思ってびっくりしましたよ。売れるわけがないと思ったんです(笑)デザインとしては知的すぎるんです。「これが田中角栄の柄ですよ」と言っても、見た人に田中角栄の基礎知識がないと理解ができない。
鈴木ゲバラのTシャツとは違うからね。
高木そうですね。例えばこの坂本竜馬。波を越えて行くイメージ、ピストル、実際に着物にブーツを履いて初めて写真を撮ったとか、いろんなモチーフがあるんですが、「これが坂本竜馬柄なんですよ」と言っても、わかる人とわからない人が当然いるわけで、多分これはわからない人のほうが多いんです。だから、僕はびっくりしたんですよ。わからないものが商品としてある、ということが。
鈴木絵の才能は誰から引き継いだんですか?
芝崎絵は、母方の兄弟が上手かったらしいです。一人っ子なので「絵しか友達がいない」という孤独な子供時代でした(笑)
高木どんな絵を描いていたんですか?
芝崎漫画の模写が多かったかもしれないですね。
高木誰かについて絵を習ったというのは?
芝崎まったくないです。いきなり仕事です。
鈴木漫画とデザインとはまた違うでしょう?
芝崎本でも文章で、こうきてこうきてこう、という定石のようなものがあると思うんですね、間合いとか、タイミングとか。そういうものに近いと思います。アメコミにはない日本の漫画のリズム、空間をダーッと空けて、なるべく描かずに話を持っていくという。
高木その「描かずに」というところが、こういうデザインになるんですね。
芝崎宮廷文化じゃなく、本当に国芳とか写楽とか歌川派のような江戸の庶民の文化で、そういう伝統が漫画に残っているものを私が受け継いで、ここでまた出しているということなんです。
鈴木知的な遊びであると同時に、露骨に描いていたら権力に弾圧されるから、弾圧されないようにいろんな要素を絡めて、こういうデザイン化されたものになったんだね。
芝崎「全部は言い切らん」というところが京都の文化とはかなり違うと思うんです。そして、ゆかたはファインアートとは違って、やっぱり着た人の肉体になるわけなんですよ。だから恥ずかしいものではいけないし、ゆかたとして普通に格好良くないといけない。説明しすぎてもその人が死んでしまうし、顔の回りは綺麗に色の配色とか持っていかなくちゃ変なものになってしまう。
鈴木昔、学ランで内側が派手なのがありましたよね。
高木着てましたよ(笑)
芝崎自己満足だけれど「脱いだときにすごい」という、もう少し使える自己満足のツールなんですよね。
鈴木戦争柄というのは、戦争中に急に出てきたという気がするんだよね。例えば、江戸時代だと、明治維新の頃まで錦絵ってあったでしょう? そのころまでは戦いをデザイン化するというのはなかったんではないですか? あっても、国芳の錦絵のように実際に闘っているもっとリアルな力強いものというか・・・
芝崎江戸時代というのは歴史を振り返ってはいけないので、四十七士がいても、大星由良之助とか名前を全く変えた話で、顔つきは思いっきり当時の人気役者に似せているというもので、ちょっと歪んでいて、ストレートな表現ではなかなか出てこないです。今日は豊田コレクションからいくつかの戦争柄手拭いをお借りしてきているんです。
鈴木戦後だったらペナントってあるでしょう。きっとそういうものがないから、タオルになったんですよ。
高木一つの記念になっているわけですね。
鈴木だから汗を拭いたりしちゃいけないんだよ。この、倒れているのはロシア人ですか?
芝崎日露戦争のものでしょうね。一応古い明治時代のもので、裏も綺麗な、注染の二回染めですね、細川染めといって、型紙を二枚使うんですよ。それで染めてもう一回乾かす。生地も割かし分厚くていい素材です。この頃は多分、本当に嬉しかったんでしょうね。色も鮮やかで、絵も凝っています。いろんな色をさしわけているので、その当時できた注染という技術の粋を尽くしたいいモノとして作った。だから、ひょっとしたらデパートの一番上座に置いてあったぐらいの品物かもしれません。
高木戦争に勝てばこういうことですよね。
芝崎しかも倒れているロシア人の方に描写の力が入っているという(笑)
鈴木そうですね。普通だったら喜んでいる日本人の方を中心にするはずなのに。
芝崎絵描きに描かせたかもしれないですね。今とほぼ同じ手法なんですよ。浮世絵版画と同じで刀で彫るという伝統があるんですね、その手法がこの手拭いなんですけど。これが一番、今回お持ちした中では値打ちがあると思います。
鈴木浮世絵の多色刷りみたいなものだね。
芝崎そうですね。この辺りの時代が、日本人が商品化されるのと同時に、こういう手拭いも大きなロットで作れるようになって、多色刷りになったということが重なって、しかも戦争に勝っていますから、そこにみんな参入していった、という、証人のような品物です。ビジュアルにかなり負けがちな、しかも自分でやるんじゃなくて他人の感じを愛でるというようなのが好きなんでしょうね。
鈴木これは、「滅私奉公」ですね。
芝崎使えなかったんでしょうね。畳み皺が残っています。このシリーズはずいぶん流行ったみたいで、今となってはどういう気持ちでこれを復唱したり鉢巻にしたりしたか、わからないんですけれどもね。なにか文様としての意味があるかと思うんですが。
高木ほかに、「堅忍持久」「七生報国」ですか。
鈴木これは、「戦車教導隊」。
芝崎次は、建設会社ですね。
鈴木「東亞建設」って、
芝崎こういうのは買ってもらって寄付金を募ったのかもしれないです。
高木公債、戦争債、ということですか。
鈴木ずいぶん貴重ですよね。「戦争柄」に詳しい乾先生の本を読んでわかったんだけれども、茶碗なんかにも戦争柄はいっぱいあったそうです。皿や茶碗にもこういう絵を描いたり、日常品として普段の食事に使う。沢山あったけれどもそれは美術品じゃないから価値がないと思われて残っていない。この手拭いも日用品だから美術品ではないよね。歴史的には非常に貴重だけれども、それが美術館とかで展示されるということはほとんどないんだよね。そういう意味で貴重ですよね、戦争柄というのは。
芝崎それでこの注染のちょっと前の長板染めは、伝統工芸品のマークがついて、文部省が滅びないようにと色々支援してくれるんですが、注染は江戸時代の技術ではないので、ここからが試練なんですね。染めている現場では爺さんが染めて孫が教わるという細々とした世界だったりするんです。
鈴木戦争物として戦争に協力したものだろうと変に誤解されて、ということもあるんだろうね。保存してもらおうとしても左翼からも責められたりするだろうし、教育機関がそれにカネを出すことはできないだろう。でも、これは戦争教育的なものではなくて文化だし。また、結構遊びだとか余裕を持った、どこか逆に言えば反戦的なものもあったんでしょうね。でも歴史的な価値もあるし、もったいないですよね。
芝崎最近、日本人の服装がひどく画一化しているんです。女子も男子もほぼ黒いスーツ。ちょっと昔はいろんなものがあったんですけど、今はもう全員が「これから葬式か」というような、白いワイシャツにほぼ黒いスーツで、幅が全くない。安いものはもうそれしか売っていない。このあいだメンズクラブという雑誌に別冊の写真集が入っていて、イタリア人の普通のおじさんとかおにいちゃんをたくさん撮っているもので、それが実に楽しそうなんです。赤いパンツをはいていたり、黄色いネクタイをしていたりして。日本人とは真逆のタイプばかりなんです。この落差が埋められないんですよ。つまり、日本にもかつての野村さんみたいにいろんな人がいてもいいはずなんですけど、もうぺっちゃんこになって全く空洞化していて、みんな同じ。「面白いからいいじゃん」と言ってこういうゆかたを着れる人がものすごく少ない。値段も洋服とそんなに変わらないのにね。
鈴木やっぱり着るのには勇気が要るんですよ。リクルートスーツのような地味なスーツを着ているほうが楽なんです。
芝崎8時や9時の電車に乗ってみると、ホームの端から端まで若いのも年寄りも、男子も女子も、全員揃って黒いスーツで黙って新聞読んでいます。そんな日本人とイタリア人との確実な違いというのはですね、日本人は上着で股間を隠すんです。イタリア人の上着のすそは絶対に股間の上なんです。そして上着の前を開けるんです。
鈴木背広も?
芝崎そう。股間のもっこりを見せるんです。99%、若いのも年寄りも。(笑)日本人は、BeamsだろうがAllowsだろうがかっこいいものを着ていても、股間のシルエットを出さないんです。ダボダボのズボンで全く見せないか、上着で隠してしまうか、ポーズを変えるか、鞄を前に持ってくるか。カメラマンが無意識にそうしているのか、編集部でそうしているのかわからないんですけれど、絶対に見せないんですよ。イタリア人はピッタピタの薄いズボンをはいているので、食い込んでいるんです。食い込んでいてしかも上着が短い、だから股間の皺がキューッと出るようになっているんですよ。別に全員がゲイだとかではなく、それがニュートラルで当たり前なんですね。それがニーッと笑っていろんな服を着て楽しそうにしていて、こないだまで同盟国だったのに、とか思いながら(笑)
高木三国同盟の話ですか・・・
芝崎この違いは何なんでしょう。他から攻めるのでなく見た目が全てという立ち位置から攻めていくと、坂本竜馬なんかビジュアル一枚じゃないかと思うんです。白州次郎なんかも写真一枚で、何も調べなくて全く知らない人でも「あの人はかっこいい人で、日本の駄目さ加減をくどくど言った人で、西洋に対して何でも言えたに違いない」という妄想がある。
鈴木そうですよねえ。
芝崎そういうものの隣に三島由紀夫もいるわけですよ、ビジュアル系として。
高木昨日、芝崎さんとちょっと話をしていたんですけれど、祭りで着るような○○町と描いてある半纏。例えば火消しでもいい、そういう人達が法被なり半纏なりを着る。あれは一種のユニフォーム、制服なんだろうかと。三島由紀夫も楯の会の制服を作った。一体、制服というのは何だろう? と。鈴木さんは詳しい経緯をご存知ですか?
芝崎あのデザインがいいというのは、三島由紀夫本人が?
鈴木そうですよ。三島さんはドゴールの制服を気に入っていた。それは五十嵐九十九さんという日本人が作っていた。たまたまその五十嵐さんは西武のデザイナーだった。それで堤清二さんと三島が仲良かったから、「作ってくれ」ということになった。当時の金で30万くらいかかったらしい。それを100着以上だから、今だったらずいぶんな金額ですよね。当時は3千円ぐらいでいいものあったからね。
芝崎それじゃあ、冗談で作ったわけではないんですね。何故でしょう。
高木三島由紀夫が、ポケットマネーで作って全隊員に配っているわけでしょう?
鈴木そうですよ。僕が楯の会の連中に「バイトでも何でもして費用を出せばよかったじゃないか」って言ったら、「そうですねえ」って言っていたよ。
高木何故作りたかったんでしょう。隊には制服が必要だという三島由紀夫の思想?美学?
芝崎そして何故、こういうダブルの服だったのでしょう。
鈴木三島さんは案外西洋主義なんですよ。だって家だってそうじゃないですか。家の中に畳の部屋なんかなかったと思います。
芝崎あんなに沢山の歌舞伎の台本とか書いて、節回しも全部教えられるくらいの教養がありましたよね。レコードも残っています。
鈴木三島事件で市ヶ谷のバルコニーで演説したときにマイクも何もないのに声が通ったというのは、歌舞伎の発声方法なんですよ。名乗りを上げる、切腹する、全て歌舞伎的ですよね。楯の会の制服を作ったのも、そういうことだと思います。三島さんは、小学生のときから歌舞伎を見ていて、歌舞伎ノートを付けていたというんですからね。だから、女性論とか何とか言ったって全然実体験がない。女性にだまされたとか、女性を遊び歩いたとかいうこともない。歌舞伎で見たり、あるいは映画で見たりした上での女性論なんですよ。ある意味、自分の人生そのものを芝居的に生きている。それが悪いというのじゃなくて、何かの生き方を見てそういう風に生きるんだと自分で芝居的に振舞うことは僕らでもありますよね。三島さんは、そういう意味ではその傾向が強かった。
高木いわゆる劇場型人生で、自分でドラマを作っている、というところに制服が必要だったというのは非常に説得力がありますね。
鈴木四十七士だって制服でしょう?
高木新撰組も制服ですね。
鈴木我々は仲間だから、という感覚ですね。着物でもいいけれども、兵隊さんにしてみたら着物って動きにくいじゃないですか。そしてその当時の若者たちが見てかっこいいと思うような、「平凡パンチ」や「プレイボーイ」に出て、「ああ、かっこいい」ということで人を集めたわけだから。
芝崎(おそるおそる)当時、あれがかっこよかったんですか?
鈴木いろいろ説はあるんですけどね(笑)楯の会の連中はみんな、三島さんには意見が出来ないんですよ、絶対権力だから。あの制服は訓練用じゃないんですよ。訓練用だったらもっと太ももの辺りもダボダボしていないと走ったりできないでしょう?
高木閲兵用というか・・・
鈴木儀礼用。ぴしっとしていて行進とか集合はできるけれど、破れちゃうから走ったり闘ったりするものではない。あくまでも国立劇場の屋上をパレードするときや会合に着て来いとか。着るときには鞄を持っちゃいけないとか、ぴしっと一人一人全部寸法とって作っているから、中にワイシャツを着てはいけないとか、いろいろ決まっていた。それだけぴちっとしていたから、中にはランニングと下着だけだった。だから今、誰も着れないんですよ。
高木もう完全に身体に合わせてあるということですね。下に何も着られないくらい。
鈴木それで電車に乗ると恥ずかしかったそうです。恥ずかしいというのは、例えば当時は左翼が強くて、軍人に対して批判的だったから、左翼から襲われるとか、そういうことじゃなくて、グループサウンズみたいで恥ずかしかったそうです(笑)楯の会の連中にしてみれば、グループサウンズのイメージだったんですね。タイガースとか、テンプターズとか、当時ああいう恰好していた。
高木ぴったりできちんとした詰襟ですね。
鈴木そう。三島さんにも、軍人のイメージだけじゃなくて、グループサウンズみたいなかっこいい時代の先端を行く、というイメージがあったのかもしれない。
高木全員の身体の寸法をとって、一人一人の制服を作って、1千万から3千万のカネをかけて、それでもやりたかったわけですよね。
鈴木今だったら一億近いカネがかかっているわけですから、そのためにどうでもいいような原稿をいっぱい書いているんですよ。本当だったら一字一字きちんと書く人なんだけれど、平凡パンチに口述で喋ったのを書いたような原稿がいっぱいある。
高木楯の会の隊員を集めるのも、平凡パンチや人気雑誌に隊員に制服を着せた写真を載せるというプロモーションをして、とメディアを使っているわけですよね。
鈴木そう。三島さんは非常に背が小さくて162cmくらいしかなかったんだけれど、他の隊員たちには背の高い人がたくさんいたので、最後の決起の前に撮った写真は、三島さんが一人だけ坐って他の隊員は立たせたり、階段の段差で遠近をつけて撮っていたりするんです。ものすごく研究していますよ。
高木ビジュアル系ですよね。きっちりと自分でドラマを作っていた。そのドラマの楯の会には制服が必要だった。その道楽のために、どうでもいい文章を書いて、カネを稼いで・・・可哀想ですね。三島さんは普段何を着ていましたか?
鈴木三島さんは普通の背広だったよ。あとは、ポロシャツで太い腕を出して見せたり…。だから一ヶ月に一回か二回くらいしか制服は着なかったんじゃないでしょうか。
芝崎ビジュアル系の思想家というのは、今いらっしゃるんですか?
鈴木誰もいないんじゃない?
芝崎あの街宣車の人は・・・
鈴木あれはビジュアル系か(笑)あれはね、ビジュアル系というよりも闘う男の心意気ですね。自分たちは黒い街宣車に乗って、乱闘服を着ている。そしたら、機動隊や左翼の連中が来たときにすぐに闘える。街宣車の窓にも投石防止と言って金網を張っている。誰が投石するんだ? と思いますけどね(笑)ただ、自分たちの士気を高めるためにやっているんですよ。
芝崎最近ビジュアル系サラリーマンや会社経営者がほとんどいなくなってしまったので、例えばちょっと前にいた野村秋介さんが紫の背広でテレビに出ていたときは、「すごい」と思いましたよ。
高木野村さんは、ビジュアル系ですよ!
鈴木非常にお洒落な人でした。
高木ヴェルサーチのスーツにボルサリーノをかぶって、イタリアのシシリー島でピストルを構えて坐っているという、とてもドラマチックな写真があるんですよ。
鈴木ナルシストの要素もあるでしょうね。いるだけで絵になる人でした。
高木僕にとっては人生を変えた人です。
芝崎野村さんの後年に残るアイコン的なビジュアルイメージは特にまだないけど、こしらえたほうがいいと思うんですよ。そして、右翼は日本のことを思うのに和服がいない。着物を着ている右翼がいないじゃないですか。
鈴木それはやっぱり機動性がないからでしょう。うちに帰ったら着物やゆかた、どてらに着替えたり、野村さんだとよく作務衣を着ていたね。
高木外ではやっぱり美学というよりも、戦闘、機動性ということですね。
芝崎でも清水の次郎長は着物でしたよ。
鈴木だってあのころは洋服自体がないもん。
芝崎でも、昭和残侠伝は昭和ですよ。
鈴木あれは諸肌を脱いで背中の刺青を見せるためにだよ。洋服だったらワイシャツ脱ぐの大変じゃないか(笑)あれは映画のためですよ。
芝崎右翼ってそんなに戦闘前提なんですか?
鈴木そんなことないよ。ないけども、右翼はいつでも闘う、いつでも死んでやるんだ、というような心意気を持っているということが右翼のモチベーションだと思っているんです。右翼の殆どの人は、99.9%、一生人を殺したりすることはない。それでも、テロを否定しない。なぜかと言うと、これからどうしようもない悪党が出るかもしれないから。野村さんは、「例えば今ヒットラーがこの世に出たら、俺はそいつを殺す」と言っていた。そのためにテロは必要だといいながら、結局そういうことはしないんですよ。でも、右翼の多くの人は、テロを否定すると言うと、男らしくないとか弱虫だとか思われるのが嫌だから、テロをしてでも闘ってやるんだ、と言う。
芝崎そしたら、着物なんかでいたら弱虫だと、いうことですか?
鈴木そうじゃない。闘う姿勢を常に表明するために、戦闘服を着ているということです。腕にちゃらちゃらした金属を巻いているのも、手錠をかけられたときの緊張感を忘れないためなんですよ。
高木そうなんですか?
鈴木そうですよ。そうして常に自分を臨戦態勢に置くという。常在戦場、常に戦場にいるんだ、という。治にいて乱を忘れず、と。だから常に軍歌をかけているじゃないですか。まあでもそういうのはほとんどイメージで続いているだけなんですけどね。昔は天皇のために闘うとか言っていたけど、今はそういうことはないから。
芝崎そうなると守るべき日本の伝統というのはなんだろうって思っちゃいます。
高木先ほどの話ですが、写真一枚でイメージが伝わるっていうのはわかりますね。
鈴木そうだね。坂本竜馬もピストルを持って、着物を着てブーツを履いて、ああいうのはビジュアル的に強烈だよね。
芝崎それで渋い顔をして、何も語らないというところがまた良いんですね。
鈴木すると、竜馬の後は、白州次郎、三島由紀夫、野村秋介、とくるわけだ。ビジュアル的に衝撃を与えて。
高木白州次郎だってイギリス車の前で帽子をかぶってタバコをくわえていたら、白州次郎だなあ、というのがわかるし、坂本竜馬も写真一枚であそこまでイメージ化されている。
鈴木土方歳三もそうだね。
芝崎みんなそのビジュアルに負けないように、普段から自分でそんな写真を撮ったほうがいいだろうと思うんです。
高木鈴木さんはそれをさっき勇気だと言ったんですよね。
芝崎遊びですよ、そんなものは。
鈴木遊びだけどやっぱり勇気が要りますよ。野村さんだってね、今は「ヴェルサーチ、かっこいいなあ」って言うけれど、あの当時は右翼の人たちは、「なんだ、あのチンドン屋が」って言ってる人もいたよ。
高木そんな感じだったんですか?
芝崎元々お洒落なんですか?
高木お洒落はお洒落です。着物を着てる写真もいっぱいあるんですよ。
鈴木だからやっぱり、よくそこまで出来るなあと思っていたね、あの時は。
芝崎突然そういう服装になったんですか?
鈴木うん、真っ赤なシャツを着たり。右翼ってだいたい黒っぽいのを着てたんですよ。野村さんの「さらば群青」にも出てくるけど、元々野村さんは若い時は横浜の愚連隊と付き合いがあって、愚連隊の人たちはやっぱりみんな恰好が派手だったんです。
芝崎「とっぽい」ということですね。
鈴木そうそう、「目立ちたい」という、傾き者ですよね。だからきっと、その頃の野村さんが出てきているんですよ。その野村さんの真似をしたのが見沢知廉ですよね。着物を着たりね。
高木完全に真似ですね。真似をした人生ですよ、自分をドラマチックにどうやって演出するかと。
鈴木だから上着だって人から借金して一着30万くらいするようなのを買ったりしてね(笑)
高木ヴェルサーチのジャージは買うわ、スーツは買うわで大騒ぎだったみたいですね。
芝崎他にビジュアルとして後世に残ったものとして、坂本竜馬や明治の立役者の写真は、イギリスなどのノウハウを使って、「これはこういうキメ写真だから君と君が並んで」とか、必死で意図的に演出したんだと思います。それで、そのとき何を着せるかというのが重要で、ものすごい考えに考えて、これは後世に残るんだから必死にやりましょうってことになったんだと思います。
鈴木明治天皇の肖像画もそうですよね。肖像画を描かせて、それを写真に撮る。だから結構西洋的な顔写真だったりするんだよね。
高木結局、プロモーションの一つですよね。天皇陛下でさえもプロモーションに使う、という。
芝崎天皇が洋服に着替えた日、というのを研究している刑部芳則先生という人が中央大学にいらっしゃるんですよ。何度かコンタクトを取ろうとしているんですけれど、なかなか会えないんです。
鈴木それは是非会ってみたいですね。
芝崎ある日、ちょんまげを切られて天皇が帰ってきて、女官が泣いた日があるとか。板垣やら大久保やらが天皇に「洋服を着せなあかん」みたいに思ったらしいんです。何を着てこの次の政府はあるべきか、外国との折衝で何を着るか、ということが問題になった。公家が烏帽子を取る日というのがあって、天皇に洋服を着せる日、というのがくる。天皇に段々近づくんですよ。その明治天皇の作りに作った写真というところにまで持っていくのにものすごく何年もかかって大変だったようです。
鈴木それは日本の近代軍隊を作ろうとしたからでしょう。平和な時代だったらみんな和服でよかったんだろうけど。明治維新の前までは、日本人の歩き方が違っていたと言うんですからね。ナンバと言って、右手を出すとき右足も出していた。それを、遠くからでも指揮官が見て揃っているかどうかわかるように、大きく手を振って大きく逆の足を出すように変える。そういうふうに人間の体も変えていったし、動作も変えていったし、服も変えていった。天皇様が洋服を着たんだから、西洋的な椅子に坐っているんだから、と指導しようとした。
芝崎多分当時の江戸っ子は天皇とは気分が全く乖離していて全く尊敬していなかったと思います。
鈴木そんなことないんじゃない?(笑)
芝崎いや、「お公家さんが京都にいるなぁ」程度の調子だったと思うんですよ。江戸っ子に洋服を着せるのが大変だったという話もあるんです。今日の高木さんのような着物着た兄さんがいると官憲がやってきて「お前、反乱分子だろう」ってボコボコにされる。「なんでそこまで弾圧するの?」と不思議だけど「しょうがないね、そのくらいだったら痛くもないし着るか」っていうので、段々しょうがねえなで着せられていっている。私は台東区に住んでいるんですけれど、今でもどこかそんな着せられた感がします。
鈴木そうか、断髪令と廃刀令というのは法律だけれども、和服を着ちゃいけないという法律はなかった。でも、いろいろいじめられたりしたんだね。
高木鈴木さんの子供の頃はまだ着物でしたか? もう洋服でしたか?
鈴木いや、もう洋服でしたよ。
高木完全に洋服ですか。
鈴木ええ。
高木いつ頃まで子供が着物着て帯をぎゅっと締めていたんでしょう?
鈴木それは戦前じゃないですか?
高木やっぱりそのくらいまでなんですかね?
芝崎今で言う80代から70代くらいの方々じゃないでしょうか・・・
鈴木別に我々は小学校の頃着物着て学校行ってたわけじゃないですよ。
高木他にそんな人もいませんでしたか?
鈴木いない、いない。だって戦後は「着物を着るな」って厳しくされたんじゃないの?
芝崎着物を着ていたから負けたんですもん。
高木(笑)
鈴木(笑)
芝崎あんなもの着ていたからだということになったんでしょう。
鈴木ああ、そうでしょうね、多分。機動性がないから。
芝崎明治時代、洋服の西洋化については、別に女子はほっとかれていたんですよ。女子は「大変ね、男って」というちょっと引いた目線で、アラブもそうですけど、「女子は女子」みたいな世界があって、そんなには圧力がなく、ちょっと放っておかれた。それから徐々に徐々に巻き込まれていったというところだと思います。
鈴木女子は兵隊に取られないから、着物着ていてもいいということだったんだろうね。
芝崎みんな服にこだわりがなさすぎなんですよ、思想の人は。(笑)
高木なるほど、思想の人は、そうか(笑)
芝崎ビジュアルにみんなすごく負けるので、百の言葉よりも一発の写真なんですよ。
鈴木おおーっ。そうですよねえ。確かにビジュアルには負けますね。
芝崎だから、「やる気があんのか!」と思ったりすることもたまにあるんです。
鈴木なるほど(笑)
芝崎ビジュアルに負けないために、自分もものすごい恰好をしてですね、「あっ、どうしたの、あなたは何者ですか?」といわれるくらいの、着物姿を演出したいというのが私の切なる願いなんですね。(と言って赤い達磨写真を見せる)
高木そう、上から下まで真っ赤な着物を作っていただいたんですが、街を歩いたら本当に大変だったんです。
芝崎服から着物に変えて何か変わりました?
高木すごく変わりましたよ。赤い着物を着たときもそうですし、今日のこの黒い着物を着ているときもそうですけど、「そうだ。芝居だけやろう」と思いましたよ。覚悟がはっきりしたというか。今、この話をしながら、きっと野村さんもそれまで普通の背広を着ていて「よし、明日からヴェルサーチを着てあいつらのところに行ってやろう」と思ったときには、何か大きな思想上の変化があっただろうということを感じています。
鈴木勇気もいるし後戻りも出来ないということだよ。
高木そうです。後戻りできないんです。だから、これからもルミロックでいきますよ。
芝崎真っ赤な着物は、たまたま真っ赤ないい生地があったので、それでうちのほうで捺染して作ったんです。野村さん的にぴしっとすると一番楽なプロモーションなんですよね。高木さんがその服で歩いていれば、みんなが「あっ、そうなのかな」と勝手に理解する部分があって、そのほうがいいんじゃないかと。
鈴木うん、三島由紀夫と楯の会の連中もそうだよね、あんな服を着て、「ああ、制服だね」っという感じで、もう後戻りできなかったでしょう(笑)
高木もうぼくは後戻りできないんです(笑)
芝崎でも別に嫌じゃなかったでしょ?
高木嫌じゃないです。楽は楽です。でも後戻りさせないというのは暴力ですよ。
鈴木そうだよね、暴力的だよね(笑)
高木人の人生に干渉するというのは、暴力ですよ(笑)
鈴木そういうデザインの才能があるというのはいいですね。
高木鈴木さんもルミロックを何か着てみましょう。
芝崎鈴木さんが着たときは何か本気になったときだから、それはそれで結構ヤバイみたいな(笑)
高木そろそろ本気になるんじゃないですか(笑)
鈴木ぎくっ! ・・・そうそう、今度、右翼柄や左翼柄をやってみたらどうですか。
芝崎あっ、そうですね。
高木右翼柄、左翼柄というのは面白いと思いますよ。
鈴木インターナショナルとか。
芝崎一枚の着物が右と左で違うの(笑)
鈴木おっ! 面白い! それはいい、それはいいよ! それでゲバラや毛沢東のようなわかりやすいものではなくて、知性のあるやつで、何かを象徴しているとか。野村秋介を象徴しているとか。あるいは自衛隊柄とか。警察柄とか。そういうのが面白いんじゃないですか?
芝崎最近、「着物でもいいじゃん」っていう変な子が東京では割かし増えてきています。
鈴木国会議員でも着物なんとか連盟ってあったけれど、今でもやっているのかな。
芝崎あれは人気取りもあるのかなあと思うんですが。
鈴木夏だと、花火を見に行く若者たちが、ゆかたを着ていますよね。特に男の子たちがだらしなく着ている。あれを見るとなんかムッとしますけどね。
芝崎私が片っ端から直して歩きます。って、本当にやるんですよ。浅草の花火大会のときに、レスキュー部隊っていう看板をかかげて「にいさん、脱げてるよ」とか言ってくるくるくるっと脱がせて着せ直したりしています。
鈴木ほおーっ!(笑)それはいいじゃないですか。
芝崎一応そういうこともやるんですよ。身体が細くても骨盤の下の方に帯を持ってくれば、あんなだらしないことにはならないんです。若い子は身体の動きが、洋服を着すぎててガタガタなんです。鈴木さんは柔道をおやりになっていらっしゃるので、もう全く何の補正とか工夫もなく普通に着せるとスパッとお決まりになるんですが、若い子だとそういうわけにいかない。受験勉強ばっかりしているから、箸かペンしか持ってないし、しかも右手しか使っていないわけです。そうすると、腰がどこかわからない、首の付け根がわからないんです。すると、着せるほうが首の後ろの付け根に着物をのせられないんです。肩が前かがみの猫背ですから、肩にのせてから首がのっかるみたいな形になっちゃうんです。だからまずは揉んでほぐしてから、みたいになります。
鈴木日本人は畳に坐ったり胡坐をかいたり、足を伸ばしたり椅子に坐ったり、いろんな坐り方をしますよね。骨法という武道をやっている堀辺正史先生に聞いたんですが、江戸時代みたいにみんながきちんと正座しているときは、腰痛なんてなかった。西洋人にも腰痛はない、それは椅子の座り方で背中を伸ばすとことをきちんと子供の頃からしつけられているからだって。日本人だけが椅子に坐ったり、でれっと坐ったり、胡坐かいたり、足を伸ばしたり、たまに正座してみたり、そういうふうにぐちゃぐちゃやっていて、更に今はパソコンをやっているから、肩と首を悪くして、骨盤がずれて腰痛になりやすいと。昔の人たちはすごく帯がぴしっとしていたから、腰痛防止にさらに効果があったと言っていました。
芝崎服もオーダーで作ればまた違ってくるんです。着物はだいたいオーダーサイズなので、それも結構あるかもしれないです。おかあさんやおばあちゃんが、みんなの着物を作り変えたりするわけなんです。
鈴木一枚の着物を何十年とか百年くらい着たりするでしょう?
芝崎まあぼろぼろになるまで基本的には使い倒す、というものです。
鈴木背広なんか百年着るということはないですよね。
芝崎人にあげたりもほとんどないわけですよ。
鈴木ないね。そんなの誰ももらわないよね。
芝崎着物の本質はいろいろあるんですよ、人によって。日本の生地でないといけないとか、手縫いの和裁士さんが作ったのでないと着ないとか、いろいろ言うんですけど、私は人にあげられるのが着物だと思うんですよ。
高木親から子へ、子から孫へということでね。
芝崎着物の寿命は長いでしょう? なんで着物とかゆかたとか残っているのかっていうことを必死に考えたんですよ。わからないなりに考えたんですけど、自分が生まれてくるときにもう、おばあちゃんが産着とか作ってるじゃないですか。いい着物とかお被布とか、七五三とか、七五三が終わったら誰かにあげたり、そのあとお母さんのお古の着物を着たり、大きくなると洋服生活になるんだけど、途中でまた着物が着たくなって集めたりして、「自分が死んだらどうしよう」って言って着物をあげる人を探すばあさんはいっぱいいて、もらったりするでしょう? 「もらっちゃったんだけどどうしよう」みたいな人もいっぱいいて、そのあげたりもらったりが着物界なんですよ。つまり、人間って物理的にはいきなり生まれるでしょう?(笑)本人としてはじわじわ生まれたりしないんですよ。社会的には両親の結婚式を経て、みんなから「赤ちゃんが出来てよかったね」と言われてじわじわ存在するわけで、一年も二年も前から居るような振りして、いよいよ生まれると名前付けたりして実感がついてくるんです。それで「この子が大きくなったらこれ着せよう」とばあさんが思って、着物を用意しているんですよ。それで、死ぬときもいきなり死ぬけど、死んでるのか生きてるのかわからない期間はあまりない代わりに、自分の人生の裾野が拡がるように出来ているんです。不安がないんですよ、あげたりするおばあさんは。「どうなってもいいけどあげる」と言って「ああ、ほっとした」みたいな感じで、自分の肉体を飛散させるようにあげてるんだと思うんですよ。
鈴木なるほど。
芝崎いきなり、という物理的事象に耐えられないので、その周辺を文化で埋めているみたいな感じ。帯なんかも違う国の更紗を持ってきたりして、異文化、空間的に遠いところのものを持ってくると、より強いというか。更紗とかも全然関係ないインカの柄とかを持ってくるほうが強い、というか面白いんですよ。だからお茶の世界もそうだと思うんですけれど、そういう幅広い空間のものを持って来たいし、自分を自分の人生以上に引き伸ばすという役割もあって、それで今変に着物ブームなのかなと。商売とは別に。
鈴木考えてみたら、赤ん坊が生まれたときに、着物を着せますよね。死ぬときも着物を着せますよね。一生の間着物を着たことがない人でも生まれたときと死ぬときは着物なんだね。洋服を着せる人はいないよね。そういう意味ではやっぱり着物から逃れられないのかなと思った。和服は、洋服の生地でも作れるんですか?
芝崎実際、洋服の生地でも作ってます。広幅でないと裄が合わない(袖丈がたらない)人もいるので、ウールなんかもそうですし、ゆかたも安いやつは生地幅を150センチとかで染めて、切って縫って、作っているものもあるんですね。
鈴木武道家で革の着物を着ている人がいますよ。
芝崎革は、昔から武将が革半纏とかを着ていますから。
鈴木昔からあるの?
芝崎元々あるんです。
高木強い人が着るものなんですね。
芝崎結局「こうでないと和服でない」なんて、いろいろ言い出すときりがない。よく背縫いがないといけないって言いますけど、背縫いは別にないんですよ。桃山時代は、武将は偉そうに見せるために外国の絨毯みたいな生地で陣羽織を作ったりしたんです。舶来の生地のほうがすごく強いわけですよ。あの時代の人達はそれこそビジュアル命ですから。旗印だけが意味があるのであって、「見たこともないすごいの持ってる、すみませんでした」って恐れ入らせて帰すんです。もう何にも基準はないです、四角い形ならなんでも。あと、昔の話ですが、天皇のふんどしって、おろしたての絹なんですよ。それを何日分かためておいて、女官が着物にするのにもらって帰っていたらしいです。
鈴木本当かなあ。
芝崎本当です。そういう仕組みになっているんですね。江戸時代もいい着物なんか庶民は着なくて古着ばかりですから、布や着物はそういうふうに上から下へシャワーのようにおりてくる。布の縫い代を切り取らないので、もう一回ほどくと、さらの布になるんですよ。おばあさんが、洗い張りとかしていませんでした?布が四角いままなので、男物も女物も関係なく次にどんな人でも着れるというか、いわば中途半端な半製品なんですよ。その人のサイズには合っているけど、また練りなおすと戻るようなものなので、規定されないでおしめとかにもなっていくんですね、このゆかたというものは。なんかそういう役割を担ってて、耳があって、ほどけて縫い直しができるというのが着物なんですね。
鈴木聞けば聞くほど奥が深いですね。着物と言う文化を改めて考えました。そして、ぼくたちの生活や未来のことも。また、あらためてお話ししましょう!
〈今回は「着物と文化」の特集でした。7月18日(月)、神戸でやりました。芝崎るみさん、高木尋士さんにお世話になりました。テープ起こしをしてくれた吉本千穂さん、ありがとうございました。おかげで素晴らしい特集になりました。じっくり読んでみて下さい〉
⑲9月17日(土)午後9時より、矢崎泰久さんの『あの人がいた』出版ライブ。自由学園明日館講堂で。超満員でした。楽屋で、ゲストの皆に会いました。(左から)鎌田慧さん、矢崎泰久さん、鈴木、松元ヒロさん、佐高信さん、中山千夏さん。