何度も来てるけど、ゆっくりと歩き回ったことはない。観光したこともない。京都のことですよ。
よく京都に来るんだけど、赤軍派の関係の集会に来て、すぐに帰るとか。刑務所に面会に行って、すぐに帰るとか。そんなことばっかりだ。こんな「政治的」「運動的」理由だけで京都に来てるのは私だけだ。
普通、京都に来るといえば、お寺を見て回り、湯豆腐を食べたり、新撰組が誕生した壬生を見たり…。それが京都の正しい訪ね方だ。私にはそれがなかった。
「じゃ、正しい訪ね方をしてもらいましょう」と、岩井正和さんと吉本千穂さんが京都を案内してくれた。それで、初めて「由緒正しい京都観光」をしました。
嵐山に行って、有名な渡月橋を見て、渡る。天龍寺で龍の絵を見る。龍安寺で石庭を見る。まさに〈京都〉だ。
そして夕方は、日本浪漫派の巨匠・保田與重郎の30回忌「炫火忌」(かぎろひき)に参加した。
保田與重郎のお孫さん、檀一雄の長男。谷崎潤一郎の甥御さん。そして保田、三島の担当編集者だった小島千加子さん。イタリアの評論家、ロマノ・ヴルピッタさん、それに、イタリア領事のマリオ・ヴァッターニさん…などに会いました。福田和也さんも来ていた。生きた日本文壇史を見ました。興奮しました。
そして、最終の新幹線で帰りました。
京都観光したのは、9月24日(土)です。ちょっと遅くなりましたが、コンビニで今、写真をプリントしてきたので、書いているのです。
前の日、9月23日(金)は、大阪の油野美術館で渡辺文樹監督の上映会があり、私はゲストで呼ばれて話をした。飛松さんや風見さんたちも来てくれ、終わって、近くの居酒屋で飲みました。
そしてこの日は遅くなったので、近くの東横インに泊まったのです。夜中までホテルで原稿を書いてたような気がします。いつも仕事を抱えていて、焦っています。
次の日、朝10時に、岩井・吉本ジャンボ・コンビが迎えに来てくれました。そして京都に行き、夕方まで秋の京都を堪能しました。
そうだ。京都に行く時、駅の売店で「朝日新聞」を買った。Be面に出てましたね、大きく。「会ってみたい革命家」。1位はゲバラだと思ったのに、何と、ガンジーでした。優しさと癒しを求める現代だからなのか。連合赤軍の永田洋子、森恒夫もランキング入りしている。「いや、この人たちはただの犯罪者だ。革命家ではない」と拒否した人も多かったです。
では今回は、その話を書きましょう。
…と思ったら、先週書きましたね。「革命に失敗した人のことを犯罪者と言うんだ」「“あらゆる犯罪は革命的である”と平岡正明も言ってるじゃないか」「連合赤軍も、50年後には、NHK大河ドラマになる」と「解説」していた人もいたね。
それを読みながら、大阪から京都へ行きました。そして嵐山へ。あこがれの渡月橋です。この橋にそって月は渡っていくんだそうです。
でも、何回か来たような気がする。修学旅行かな。昔、家庭を持っていた頃、妻や子供たちと来たんだろうか。あるいは夢か。妄想か。
でも、確か、渡月橋を渡った気がする。足が覚えていた。渡った所からさらに歩いて竹林を歩いた。淋しい庵があって、その傍に死体があった。あっ、それはテレビドラマだな。
ともかく、この辺を歩いた記憶がある。金閣寺、銀閣寺にも行った。銅閣寺にも行った。これはないか。あったら、金、銀、銅とメダルが三つ揃うのに。残念だ。昔はよく来た。金閣寺に行った時には火をつけた。
いかん、これは三島由紀夫の小説「金閣寺」か。何度か行った。清水寺にも何度も行った。清水寺からよく飛び降りていた。清水の舞台から飛び降りる、というし。
まぁ、そんな覚悟で決断したことが人生に何回かあったということですよ。
では、ここからは、ホンマの話ですねん。渡月橋を渡って、近くの食堂で、ゆばの入ったソバを食べた。岩井さんの携帯を使って、元「SPA!」の担当者に電話して、それから、トロッコ電車に乗ろうと思ったら、満員で乗れなくて。
天龍寺に行って、天井に描かれた龍の絵を見た。そして龍安寺に行って石庭を見た。まるで高校の修学旅行のようでした。石庭って、何回か見たような気がする。
座り込んで、じっと見ながら、哲学しておりました。そのように見るものです。
それから、又、歩いたな。万歩計を持って行けばよかった。3万歩くらい歩いただろう。疲れた。
もう東京に帰ろうかな、と言ったら、「保田與重郎さんの会があるんでしょう」と言われた。そうだった。3人で会場の京都ブライトンホテルへ。ロビーのラウンジでお茶を飲んでいたら、福田和也さんに会った。又、ロマノ・ヴルピィッタさんに会った。
ロマノさんは先週、「里見岸雄」の勉強会でもお会いした。この日はイタリアの領事を連れていた。「イタリアには面白い民族派の集団があります。ぜひ、会ってみたらいいでしょう」と言う。いいね。会ってみたいですね。
午後4時から、始まった。保田與重郎没後30年「炫火忌」だ。保田與重郎の本は学生時代から読んでいる。民族派にとっての、いわば、テキストだ。でも、特に縁が深くなったのは去年だ。
去年は、「保田與重郎生誕100年記念」だ。5月21日に新橋のヤクルトホールで「上映会とシンポジウム」が行われた。
そこに私も行った。保田を紹介する映画がとてもよかった。又、シンポジウムもよかった。元早大全共闘の高橋公さんも出ていて、「日本回帰」を訴えていた。私よりも右派だよ、今や。
その会場で、保田節さんと、保田興さんに会った。保田與重郎の次男のお嫁さんが保田節さんだ。その子供が保田興さんだ。「“たかじん”見てます」と声をかけられた。
ウワー、保田與重郎の親族の方か、と感動した。保田が住んでいた奈良に住んでいるという。ぜひ寄って下さいというので、その数ヶ月後に、お邪魔させてもらった。感激でしたね。その時の話は前にHPで書きました。
9月24日は、岩井、吉本さんも、始まる前に、「あの時はお世話になりました」と挨拶をしてから帰りました。2人は用事があるそうで…。
この「炫火忌」は、黙祷、献杯(谷崎昭男)、そして発起人挨拶(伊藤桂一)。谷崎さんは谷崎潤一郎の甥っ子だそうです。
それからスピーチ。檀太郎さん、十倉良一さん、福田和也さん。檀太郎さんは、あの『夕日と拳銃』『火宅の人』で有名な作家・檀一雄さんの長男だ。十倉さんは京都新聞社。福田さんは有名な作家で、保田與重郎についての本を何冊も出している。私も読んだ。
そして、休憩。歌碑の紹介。それから、又、スピーチ。イタリアの評論家のロマノ・ヴルピッタさん、イタリア領事マリオ・ヴァッターニさん。彦由真希さん、小島千加子さん、芝房治さん、謝辞を中井武文さん。保田の本を出している新学社の人だ。そして保田家を代表してお孫さんの保田興さん。凄い人たちだ。
小島千加子さんは保田だけでなく、三島由紀夫の担当もやっていたし、三島についても詳しい本を書いている。生きた日本文壇史だ。日本文学の証人だ。
彦由(ひこよし)さんは、テレビプロダクションの代表だ。旦那さんは、元早大全共闘の副議長。にがみ走ったいい男だった。全共闘には凄い奴がいるなー、と「敵」ながら惚れ惚れとしていた。
彼は剣道が強くて、早大全共闘議長の大口昭彦氏も剣道の有段者。今は弁護士だ。学生運動の季節が終わると彦由さんは、麿赤児と共に、保田與重郎を訪ねる。5.15事件の三上卓も訪ねたという。私よりも、ずっと民族派だ。
そして、テレビプロダクションの会社をつくる。いろんな企画を出し、たとえば、満州で走っていた列車を日本に持ってこようとか。いろんなことをやった。テレビのワイドショーの司会もやった。
他にも、里見岸雄の勉強会で会った金子さん。民族派運動を、昔、一緒にやっていた石飛さん。などにも会った。
小島千加子さんにも休憩時間に、いろいろお話を聞いた。そして檀太郎さんにも。檀さんは、1943年生まれだという。私と同じじゃないか。私は8月2日だが、太郎さんは8月29日。近い。
『夕日と拳銃』は、夢中になって読みましたよ、と言ったら、
「あれは右翼のバイブルですからね」。
それと、『火宅の人』だ。これは私小説だ。妻や子供がいながら、他の女に走り、家を出て、省みない。放浪、無頼の日々だ。映画にもなっている。
「文学としては素晴らしいが、息子さんとしては辛かったでしょうね」と聞いた。こんなこと聞いちゃいけないのかな、と思いながら。
そうしたら、「いや、結構、優しい父親でしたよ」と言う。エッ、そうなのか。そして、いろんなことを教えてくれた。
そうか。子供には大甘だったのかもしれない。他の本だと思うが、子供の病室で座って、水泳のアナウンスの真似をして励ますシーンがある。「あれは、次郎ですね」。そうだったか。もう一度、読み返してみよう。
だが、奥さんが、檀さんのことを書いてる本があって、「あんなことは嘘だ。子供を看病したり、励ましたりしたことはない」と書いていた。私小説なんだから、いいだろうと私は思った。でも、太郎さんは、とっても優しい父親だったと言う。
10月9日(日)、角館に行ってきた。楯の会一期生で、一水会副代表だった阿部勉氏の13回忌だ。
彼も、いわば「火宅の人」だ。酒を飲み、荒れ、無頼の人だった。もの凄く才能のある人だったし、そのことは、『月刊タイムス』の11月号にも詳しく書いた。「三島由紀夫に置いてゆかれた」という気持ちがずっとあったのだ。
阿部氏も、檀一雄が好きだった。自分でも小説を書けばよかったのに。檀太郎さんに紹介したかったな、と思った。
そうだ。保田與重郎のことが『民間学辞典』(三省堂)に出ていたな。それを紹介しよう。〈人物篇〉です。
〈やすだ よじゅうろう(保田與重郎)1910(明治43)〜1981(昭和56)作家・評論家。
奈良県生まれ。東大文学部美術学科卒。一時、共産主義に傾倒する。在学中の1932(昭和7)、同人雑誌『コギト』の創刊に参加。35年、亀井勝一郎、神保光太郎らと同人雑誌『日本浪漫派』を創刊し、その中心的指導者として反近代主義的、反進歩主義的、審美主義的な評論を多く書き活躍する。『日本の橋』(1936年)、『後鳥羽院』(1939年)、『戴冠詩人の御一人者』(1938年)などは戦前・戦中の重苦しい時代の若者に熱狂的に読まれた。戦後、公職追放となる。また、文壇からは好戦的、国粋的な戦犯の張本人と攻撃されるが志を曲げず、49年に『祖国』を創刊し、ふたたび時代批判を展開する。64年『現代畸人伝』を刊行。右翼・民族派の青年はもちろん、左翼の青年にも保田の愛読者は多い。左右という政治的違いをこえて日本人の精神、死生観に訴えかけるものが保田の美学にはあった。〉
誰が書いたんだろう。あっ、私でしたね。
1.暴力団排除条例で「改姓、改名した暴力団関係者」があなたの背後に忍び寄る。
2.キム・ジョンウンを丸裸にする。
3.北朝鮮、「3回目の核実験」が迫っている。
⑬「週刊金曜日」の白井基夫さん(左)、松沢呉一さん(中央)と。9月3日(土)。「右から考える脱原発集会&デモin横浜」の時ですね。
松沢さんはフリーのライターで、私が昔、「週刊SPA!」で「夕刻のコペルニクス」を連載してた時、「松沢堂の冒険」というスリリングな連載をやってました。
⑭「週刊新潮」10月13日号です。覚えてますか。先々週号のこのHPに佐川さんの写真が載ったのが。
それを見て、「ぜひ佐川さんの話を聞いてみたい」と週刊新潮から電話があり、紹介しました。こんなに大きくグラビアに取り上げてもらって、いいですね。
〈アパート立ち退きを迫られる「佐川クン」は「上戸彩」の大ファン〉
幅広いファンに支えられて上戸彩も嬉しいでしょう。
⑮雨宮処凛さんから『14歳からの原発問題』(河出書房新社)をもらいました。とても分かりやすくて、いい本です。「鈴木さんも河出から頼まれてるんでしょう。ちゃんと書いてる?」と聞かれました。変だな。ないですよ。中学生向けに『失敗の愛国心』を前に書いたし。それは理論社だし。でも、「14歳シリーズ」は私には無理です。
それに、私だったら、『80歳からの攻撃術』とか、『90歳からの徘徊術』でしょうね。書くとしたら。