11月の声を聞くと、厳粛な気分になる。三島由紀夫・森田必勝氏が自決したのが11月25日だ。その前後に、全国で追悼・顕彰の集いが行われる。東京では11月25日の憂国忌。11月24日の野分祭などだ。
私たちは野分祭をずっと続けてきた。野分祭の命名者は元「楯の会」1期生の阿部勉氏だ。しかし今は亡い。惜しい人物だった。
又、野村秋介氏を初め多くの亡くなった人々を思い出す日にもなっている。
死後40年以上経って、三島の人気は衰えない。いや逆に、全世界で高まっている。
10月22日から25日まで北朝鮮に行ってきたが、21日は北京に一泊した。日本人記者や、中国人のジャーナリスト5人と会った。その時、中国人ジャーナリストの方から、三島の話になった。
「三島の作品は随分と翻訳され、読まれてますよ」と言う。そうですか?と驚いた。中国では「右派的作家」、「軍国主義者」として批判されてると思ったのに、それは違った。
でも、『潮騒』とか『金閣寺』などの純文学的なものは分かる。しかし、いくら何でも、『奔馬』などは翻訳されてないだろう。だって、主人公は「右翼テロリスト」だ。
そう言ったら、「いえ、そんなことはありません。翻訳されてます」と言う。そして、後で、日本に送ってくれた。
本当だ。中国語だ。『豊饒の海』の全4巻も出ている。「中国では三島はとても人気があります」と言う。じゃ、三島の映画もヒットするだろう。と言った。
実は、若松孝二監督が「11.25 自決の日=三島由紀夫と若者たち=」を作り、完成したのだ。その話をしたら、「それは、ぜひ見たい。中国でも多くの人が見に行きますよ」と言っていた。
その翌日、10月22日の昼、北京からピョンヤンに行った。「よど号」グループの小西隆裕さん、若林盛亮さんに会った。そして、若松さんの映画の話をした。
三島由紀夫を描いた映画だが、「よど号」ハイジャックのシーンが出てくる。その話をした。2人ともビックリした。
「よど号」が三島に衝撃を与えたんです。何せ、「先を越された!」と三島は叫んだんですから。と言ったら、2人とも、「本当ですか?」と言う。本当なんだ。
そこで話は、11月25日(金)に飛ぶ。映画「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち=」の完成披露上映会が行われたのだ。午後8時から、テアトル新宿だ。
2時間の上映のあと、トークイベントがあった。森達也さんと私だ。テーマは、「11.25自決の日に、『三島』を語る!」。
凄い映画だった。私は前に、DVDで見たが、大画面では全く違う。迫力が違うし、まるで、あの時代に引き込まれたかのようだ。
そのトークの時、「実は10月に訪朝し、『よど号』の人達に伝えたら、驚いてました」と言った。
「よど号」だけではない。金嬉老事件も、又、ベトナム戦争も出てくる。これらが三島に影響を与え、三島を衝き動かしたのだ。それと60年の山口二矢だ。演説中、社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺した17才の少年だ。
映画はこの山口少年が自殺するところから始まる。そして、その直後に、三島の『憂国』は書き上がる。そうだったのか、と思った。単なる偶然ではない。山口二矢が三島を突き上げたのだ。
そのことは、この映画では実によく描けている。この日は、元「楯の会」の人達も、何人か見に来ていた。実は、この映画の脚本を書く時に、何人かの「楯の会」の人を紹介したのだ。
そして、田村司氏、本多清氏、持丸博氏の奥さんと息子さん。などが見に来ていた。
映画の中で、三島が、「よど号」ハイジャックの報を聞いて、「先を越された!」と叫ぶシーンがある。
一般の三島ファンや三島信奉者なら、「そんなはずはない」「左翼になんか影響を受けるはずがない」と思うだろう。
しかし、影響を受けたのだ。これは若松さんの解釈ではない。事実なのだ。だから、「よど号」グループにも言ったんだ。
実は、この話は元「楯の会」の本多氏から聞いた。「よど号」ハイジャックの日、突然、三島から本多氏の家に電話がかかってきた。取り次いだお母さんは驚いた。「清!先生からお電話だよ」と。
今まで無かったことだ。急いで出ると、「先を越された!」と言った。何のことか分からなかった。しばらくして、「よど号」ハイジャックのことか、と分かった。
その話は、以前、本多氏に取材して、「夕刻のコペルニクス」に書いた。映画を見終わってから、本多氏は「よかった」と言っていた。「あのハイジャックの話が入っていたね」と言う。
「本多さんのおかげです。若松監督に言ったら、入れてくれたんですよ」と言った。
「よど号」ハイジャックにしろ、キチンと調べて描いている。
それに、映画を見て驚いたことがある。あの当時の雰囲気が、そっくりそのまま出ていた。
たとえば、全共闘の立て看板を、右翼学生が蹴飛ばして壊す。そこへ全共闘がワーッとやってきて、乱闘になる。
そうだよな。あの頃は、こんな乱闘が毎日のようにあったなと思った。私もよく殴られた。まるで40年以上前のあの時の〈再現〉映像だ。
それに、映画で話している言葉も、あの頃の、そのままだ。不思議な話だ。
だって、出演している若者たちは、三島事件の時はまだ生まれていない。そんな時代の空気を知らない。
でも、あの時代の喋り方、考え方を再現している。三島を演じたARATAさんは、37才だ。三島はあの時は45才。8才も若い。
始め、キャスティングを聞いた時、「若すぎる」と思った。ところが、映画を見ているうちに、どんどん〈三島〉になってゆく。
そうか。45才の三島は若かったのだ。若者たちと一緒に、1ヶ月、体験入隊し、他にも剣道をやり、空手をやり、ボディビルをやる。左翼学生とも激論する。そして夜は、執筆だ。朝までずっと書き続ける。
映画が終わってから、ARATAさんと話をした。「よくあの時代の雰囲気を再現できましたね」と。
そしたら、前に若松さんの「実録・連合赤軍」に出して頂いて、それで雰囲気がつかめ、次にこの映画だから出来たんです、と言っていた。
そうなのか。それにしても、〈三島〉が甦ったようだった。実際、ARATAさんに降りていたのだろう。
森田必勝役の満島真之介さんとも話をした。眼がいい。映画初出演だという。この眼に惹きつけられて若松監督は選んだのだろう。とても勉強家の青年だ。
「鈴木さんの本を随分読んでます」と言う。それに、「独断で、森田さんのお宅にお伺いしました」と言う。
突然訪ねたのにお兄さんが会って、2時間もお話をしてくれたという。弟のことを演じてくれる、とお兄さんも喜んだのだろう。
市ヶ谷に行ったのは5人だ。三島、森田は自決。古賀、小賀、小川は生きる。いや、「生きろ」と三島に厳命されるのだ。
「いくら、先生の命令でも、それは聞けません。お供させて下さい」と3人は泣いて訴える。でもダメだった。森田は静かに言う。「生きるも死ぬも同じだ。又、すぐに会える!」と。
生き残ることを命じられた3人への森田の「労り」だと私は思っていた。この上映が終わって、監督、俳優など内輪の人間だけで、打ち上げをやった。私も、「企画協力者」として、参加させてもらった。
俳優の他、この時、見に来ていた佐野史郎さんも出席した。佐野さんとは以前、「創」で対談したことがある。ソクーロフ監督の映画「太陽」についての話だった。憶えていてくれて、「久しぶり」と握手された。
その佐野さんが、森田の言葉について、こんなことを言った。
「森田は、『もうすぐ会える』と言うでしょう。あの言葉を聞いて、ゾクッとしましたね。だって、こうして会ってるんですからね」
アッと思った。これは〈映画〉ではない。実際、彼らは会っているんだ。「映画というのはそれだけの力があるんです」と佐野さん。
そうか、時間を超えて、本当に再会しているのか。凄い人だな佐野さんは、と思った。家に帰って、この言葉を思い出した。ふいに涙があふれた。
森達也さんとのトークの時に私は言った。「日本に若松孝二という監督がいてよかった」と。
皆、こうした映画は撮ろうとしない。昔、ポール・シュレイダーが「MISHIMA」を撮った時、世界中で公開され、大ヒットしたのに、日本でだけは上映できなかった。一部の右翼が反対したからだ。
それがトラウマになり、誰も三島の映画などやらない。それなのに若松監督はやった。勇気のある人だ。
それに、若松監督は、今まで、PFLP、日本赤軍、連合赤軍の映画を撮ってきた。だから、「左翼的な監督」だと思われてきた。左翼的なファンが多い。
それなのに今回は三島由紀夫だ。そして山口二矢も出てくる。きっと、「何故だ!」「裏切られた!」と思う人も多いだろう。
しかし、そんな奴はいらない、と監督は思っているのだ。たった1人でもやってやるという覚悟を持っているのだ。今、75才だ。それで、これだけの闘志を持っている。
三島を撮ったあと、もう2本、撮ったという。凄い。その作品の予告もしていた。
そうだ。三島の映画で、特に印象に残ったシーンがある。東大全共闘との討論だ。「君たちが一言、天皇といってくれたら、共闘する」と言った。あの時の東大だ。
映像などでは何回も見ているが、この映画の方が、より忠実だと思った。三島の演説、学生の野次、反論…。まさに当時の空気そのものが再現されている。
そして思った。今、こんな思想家はいないよな、と。
だって、敵だらけだ。たった1人で出かけてゆく。もしかしたら、監禁されて、何日も帰れないかもしれない。
実際、東大教授の林健太郎は全共闘に突き上げられ、1週間も監禁された。心配した大学の職員が、「警察を呼びましょう」と言ったら、「無用だ」と言った。そして、「只今、学生を教育中」というメモを寄越した。凄い人だなーと思った。
林にしろ、三島にしろ、こんな勇気のある人は今はいない。テレビや雑誌などの絶対安全地帯にいて、怒鳴り、吼えてるだけだ。
それに三島は、実に誠実だ。学生の下らない質問にも答える。観念的、抽象的な質問にも、その次元にまで下りて、キチンと対応し、答える。
今だったら、こんな誠実な人間はいない。「そんな観念論じゃダメだ」と問題を逸らして、自分の世界の話をするか。全く無視するか…。
三島は持丸博の奥さんに宛てた手紙で、「私たちは、フラスコの中で純粋性の実験をしているのです」と書いている。
そうか。「純粋性の実験」なのか、と思った。どこまでも純粋で、どこまでも誠実だった。だから、あそこまで思いつめたんだ。
「楯の会」を三島と共に作った初代学生長・持丸博が三島さんの家に来る。映画の話だ。「今度、結婚することになりました」と持丸は言う。
「そうか、よかった。あの芳子さんか」。「はい、そうです」と言う。この時、持丸の要件は、それだけではなかった。「実は『楯の会』を辞めたいのです」と言う。
この直前、雑誌「論争ジャーナル」グループと三島の間に問題が起き、彼らは、「楯の会」を辞めた。持丸も責任があるので、辞めるという。
学者肌の持丸が辞め、二代目学生長は森田必勝になった。行動派だ。そして、11.25に突き進む。
もし、持丸が辞めなかったら、11.25はなかったかもしれない。国民的な広がりを持った、民間防衛隊になっていたかもしれない。それがよかったかどうかは別だが。
又、芳子さんと結婚してなければ、あくまで三島についていき、一緒に自決したかもしれない。
「俺のせいだ」と持丸は自分を責めた。「あの時から、持丸は時間が止まりました」と、後に芳子さんは言う。
その芳子さんと、息子さんも、この日、見に来ていた。招待状をもらったのだ。「親父は目が悪くなったので、私たちが代わりに来ました」と息子さんは言う。
親父は「歴史上の人物」だ。凄い父親を持って誇りだろう、と私は言った。
持丸博に芳子さんを紹介したのは実は、私だ。私は生学連(生長の家学生部)の書記長だった。芳子さんも生学連にいた。
持丸を生学連の合宿に誘った時、「かわいい娘がいる」というので紹介してやった。2人は結ばれた。(詳しいことは「SPA!」に昔、書いた)。
映画を見ながら、私は自分の責任も感じた。私が2人を結びつけなかったら、「楯の会」は別の道を歩んだのかもしれない。三島も死なずにすんだのか。
でも、そうしたら、我々が今、思う「三島」もいなかった。
私は、生学連の書記長をやりながら、住んでいる生長の家学生道場の委員長もやっていた。二重の独裁者だった。
持丸はよく学生道場に遊びに来ていた。たまたま、私の部屋に来た学生を見て、「いい眼をしてる。あの学生を『楯の会』にほしい」と持丸は言う。「いいですよ。あげます」と私は即答した。
それが伊藤邦典だ。その奥さんも生学連で、私が紹介した。2人の「楯の会」を結婚させた愛のキューピッドなんですよ。
伊藤邦典は神奈川大学だった。同大学の古賀、小賀を「楯の会」に誘った。そして、2人は三島と共に市ヶ谷に行く。
私が、持丸に芳子さんを紹介しなかったら…。私が邦典を「楯の会」にあげなかったら…。と、〈責任〉を感じる。
でも、〈罪〉ではない。あの事件は起こるべくして起こったのだ。その中で、(たとえ、隠れた要因かもしれないが)三島事件という大きな歴史的事件に、参画できたのは幸せだったんだ。映画を見ながら、そう思った。
〈内部告発者はクビ、そして強制異動…。公共通報者保護法の不当性〉
〈マンガ業界の勢力図・裏事情〉
〈ワンピース頼りで後がない!
増刷を乱発する集英社「ジャンプ」の功罪〉
そのあと、Wコロンの謎かけ。私の新著、『愛国と憂国と売国』と掛けて。と言ったら、ねずっちは、「この本の著者と解きます。その心は。二つともクニオ必要としています」。ヘエー、うまいですね。「国を必要」と「邦男」だ。
Ust延長戦は「オウム裁判」について語り合いました。
終わってすぐ高田馬場へ。午後7時から、カフェ「ミヤマ」の会議室。高橋巖先生を囲む会の勉強会。高橋先生はシュタイナー研究の第一人者だ。「ベーシック・インカム」の話を中心に聞く。先生は、「経済活動よりも精神活動」を、と説く。又、竹中労も好きで読んでるという。今、私は竹中労の本を書いてるので、それが出来たら又、お話をしたい。
この日は、4、5人の勉強会のつもりだったが、「ぜひ参加したい」という人が増えて、20人ほどになった。会議室が超満員。終わって、「土風炉」で飲みました。
⑥11月19日(土)カタログハウス本社で、「マガ9学校」が行われました。左から鈴木。藤波心ちゃん。司会の鈴木耕さん。中学3年のアイドル・心ちゃんが中心でした。原発や、3.11以降の日本などについて話してくれました。