2011年(平成23)も、間もなく暮れる。今年は大変な年だった。激動の年だった。東日本大震災があり、原発事故があった。
天災だけでなく、政治の無能、混迷という人災が続いた。全国で怒りのデモが次々と行われた。右翼・民族派からの脱原発デモも行われた。
又、普通の、一般の人が、ツイッターで呟くと、それに応えて1千人以上の人がデモに集まる。という現象も起きた。ちょっと前ならば全く考えられないことだ。デモのやり方も、「抗議の方法」も大きく変わってきた。
今年は多くの人が亡くなった。震災で無くなった人々。それに、私の知り合いでも実に多くの人々が亡くなった。
JR東労組の松崎明さん。「人権110番」の千代丸健二さん。連合赤軍の永田洋子さん。日本赤軍の丸岡修さん。「よど号」グループの柴田泰弘さん。運動でお世話になり、野村秋介さんの盟友だった青木證司さん。
又、落語界では、立川談志さん。そして、ビン・ラディン、カダフィが殺された。年末になって北朝鮮のキム・ジョンイル総書記が亡くなった。
金総書記の死亡については、新聞はどこも「独裁者の死」ばかりを強調していた。しかし、日本政府も弔意を伝えた。これは当然だと思うし、私も哀悼の意を表したいと思う。
後世の人々から見ると、2011年は「震災と北朝鮮」の年と書かれるかもしれない。
私事ながら、今年は北朝鮮に2回行った。3月と10月だ。
東北には3回行った。ボランティア活動で2回行き、1回は仙台の高校の同窓会だった。同窓生でも亡くなった方々はいたし、「家を流された」「親が死んだ」と語る人も多かった。
震災、原発については、『愛国と憂国と売国』(集英社新書)に詳しく書いた。私は東北で生まれ、東北で育った。いわば、「東北製」の人間だ。私の思想、行動様式、嗜好は全て「東北」で出来ている。
その東北が壊滅的な打撃を受けている。私の全てが壊されたようだ。
又、農業、漁業、工業…と多くの分野で、東北は日本を支えてきた。これだけ東北に頼ってきたのかと痛感した。
その東北が震災で、原発で、住めないようにされている。この事実に、右翼・民族派の人々も立ち上がったのだ。
今年は、『愛国と憂国と売国』(集英社新書)の他に、もう2冊、出した。『新・言論の覚悟』(創出版)と『竹中労』(河出書房新社)だ。3冊とも苦労して書いた。
又、震災で出版もかなり遅れた。『竹中労』は「没後20年」に出した。だから、何とか今年中に出そうと必死で書いた。
書きながら、次から次と、「新事実」が発見され、又、今にして、「そうだったのか!」と思い当たることがある。まるで推理小説の謎解きみたいだな、と思いながら書いた。
あっ、あの時も、「震災と北朝鮮」の年だったな、と『竹中労』を書きながら、思った。
1995年(平成7)だ!1月17日に阪神大震災が起こった。4月27日から30日に、一水会訪朝団が初めて北朝鮮に行った。木村三浩氏、そして(出所したばかりの)見沢知廉氏ら3名だ。
訪朝団団長だった私だけはビザが下りず、行けなかった。16年前だ。それから、20回ほど、ビザを申請したがダメ。やっと2年前に入国出来た。
そして今年は2回も行った。「よど号」グループとも、じっくりと話が出来た。来年には帰国か、という話も出たが、キム・ジョンイル総書記の死去で、国内も大変だし、帰国どころではないだろう。延びてしまった。
そうだ。 1995年(平成7)は、3月20日にオウムによる「地下鉄サリン事件」があったのだ。1995年は「阪神大震災と地下鉄サリン事件」の年だったんだ。他に、「戦後50年謝罪」「不戦決議」があった。
又、オウムに関しては、村井秀夫氏の刺殺事件もあった。実行者の徐裕行氏は、12年間、刑務所に入り、出所後、野村秋介さんの墓前祭で初めて会った。(野村さんは1993年に自決)。不思議な因縁だ。
又、今年はオウム裁判が終わり、麻原以下に死刑が宣告された。サリン事件の1995年は不幸な年だし又、大きな転機になった年でもある。
今、『新右翼(改訂増補版)』(彩流社)の年表を見ている。1995年の一部を紹介しよう。
1995年(平成7年)
1月17日 阪神大震災
1月22日 見沢知廉、獄中で書いた『天皇ごっこ』で、「新日本文学賞」。授賞式。(この日、私も行った。お母さんもとても嬉しそうだった)
3月20日 地下鉄サリン事件
3月30日 警察庁長官国松孝次氏が自宅前で何者かに狙撃され、一時危篤状態に。
4月23 日 村井秀夫(オウム真理教最高幹部)が刺殺される。
4月27日〜30日 一水会から木村三浩、見沢知廉ら3名が北朝鮮を訪問。「よど号」グループと会談。(この時の様子は、見沢知廉氏が新潮文庫版の『天皇ごっこ』に書いている)。
4月28日 「朝まで生テレビ」でオウム問題。鈴木邦男も出る。他に遠藤誠、鳥越俊太郎、浅野健一など。鈴木の発言が「警察批判的」で「オウム寄り」だとして抗議・脅迫の電話が殺到する。「村井と共に地獄に落ちろ!」「死ね!」「鉄砲玉を飛ばすぞ!」と。(他にも、お経だけを延々と流したり…。この「朝生」には上祐さんも出る予定だったが、「村井さん刺殺」の4日後であり、「命が危ない」「それに右翼も出るのだし」と、出演拒否。オウム刺殺犯は初め「右翼関係者」というニュースが流されたためだ。その後、出演拒否した上祐さんとも16年後、ロフトで会った。この時の話をした。
5月3日 大阪・関西テレビの「ワンダラーズ」で右翼とテロの特集。「テロルの決算・戦後50年。日本の民主主義はどれだけ成熟したのか」。小田晋と鈴木邦男が激論。
(小田晋さんはとても変わった人だった。太田竜の話をかなりした。連続企業爆破の〈狼〉事件を初め、多くの事件に太田は「黒幕」となっている、という。その後の新左翼運動の中でも大きな影響を及ぼしている、と。それだけ太田竜を評価しているのだろう。今年(2011年)、太田竜の本が復刊され、私が「解説」を書いた。小田さんにも送らなくっちゃ。又、
対談してみたいですね。『週刊金曜日』がいいんじゃないの。白井さん)
5月6日 朝日ニュースターの「ぶっちぎりトーク」で「新しい時代のニッポンの安全保障」。小林節(慶大教授)、ばばこういち、鈴木邦男他。(朝日ニュースターには随分と出た。かなり自由に、アナーキーにやらせてくれた。他の番組では、とても出来ないことをやる。でも、この「朝日ニュースター」も、今年で消滅する。淋しいし、残念だ)
5月13日 改憲派・護憲派が九段会館で激突。「憲法フェスティバル」。姜尚中、大谷昭宏、常岡せつ子、鈴木邦男。
5月17日 松山大学でシンポジウム。「戦後50年。明日をみつめて」。辛淑玉、鈴木邦男他。
6月23日 立命館大学で見沢知廉、鈴木邦男の講演会。「思想と宗教=サリンとオウムと戦後50年」(よく、こんなテーマで学内でやれたもんだ。今なら出来ない。それに講師の見沢は殺人罪で12年の刑を終え、出たばかりだ)
6月27日 早稲田大学の大隈講堂で呉智英(評論家)と鈴木邦男の講演会が予定されていたが、革マル派に阻止される。「鈴木だけは学内に入れない」とのことで、呉智英の単独講演会になった。
8月5日 「朝まで生テレビ」100回記念スペシャル。「戦後ニッポンと天皇制とオウム」に鈴木が出演(これも凄い。こんなにも、オウムの番組をやっていたんだ。
9月2日 神田パンセ。「戦後50年。9・2集会」。塩見孝也、遠藤誠、小西誠、北野誠、見沢知廉、鈴木邦男(これも凄い集会だ。「誠」が3人いるというのも凄い)
9月22日 沖縄で米兵による少女レイプ事件。国内に怒りが沸騰。
9月27日 早朝、鈴木邦男宅をはじめ、全国10カ所で兵庫県警によるガサ入れ(家宅捜索)。鈴木が月刊「SPA!」の連載で赤報隊事件について書き、警察を批判したのが理由だ。不当弾圧だった。
10月1日 河合塾大阪校で左右激突討論会Part5。塩見孝也、安倍譲二、知花昌一、木村三浩、鈴木邦男。
12月9日 朝日ニュースターの「ぶっちぎりトーク」で「総括1995年。戦後50年を振り返る」。島桂次(元NHK会長)、矢崎泰久、鈴木邦男他。
他にも沢山ある。今年(2011年)は、やたら忙しかったと思ったが、この1995年の方が、もっと殺人的な忙しさだ。
「朝生」には2回出てるし、他のテレビにも出てる。地方でも精力的に講演している。「週刊SPA!」に「夕刻のコペルニクス」を連載していた。河合塾では千駄ケ谷校と駒場校で教えていた。ジャーナリスト専門学校でも教えていた。さらには、ガサ入れまでくっている。
この年の方が、ずっと過激に、スリリングに生きていた。姜尚中、安倍譲二、島桂次さんとも討論していた。
島さんは亡くなる少し前だ。スタジオにバナナを持ってきて、「お腹が空いたら食べるように医者に言われてる」と、少しずつ食べていた。
早大で呉智英さん単独の講演会になったが、「何故、鈴木を阻止して、俺を阻止しないんだ。俺の方が危険な思想家なんだぞ!」と講演会で叫んでいたそうな。
この年、3月から4月にかけては大事件続発だ。3月20日。地下鉄サリン事件。3月30日、國松長官狙撃事件、4月27日、村井秀夫刺殺事件…と。
村井さんを刺殺した徐裕行さんとは、今、何回も会っている。12月23日(金)の阿佐谷ロフトの集会にも来てくれて、1995年のこの事件について話してくれた。
さらに、國松長官だ。何と、今月、12月20日(火)、会ったのだ。「だいありー」に書いてるが、全生庵で会った。警察庁長官の時なら、とても会えない。近寄っただけで逮捕される。それが、今では、こうして会える。
「日本の警察や公安についてお話しを聞かせて下さい」と言った。どこかで実現するかもしれない。
國松孝次氏は1937年生まれ。現在74才。狙撃事件(1995年)の2年後、1997年退官。その後、自動車運転安全センター理事長、特命全権大使(在スイス)を歴任し、2003年4月より、NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク理事長だ。
長官時代、狙撃され九死に一生を得たが、その前には赤軍派に襲われている。ウィキペディアによると…。
〈本富士警察署長時代、赤軍派による本富士警察署襲撃事件が起こり署長室に放火されるが、國松は隣の部屋にいて無事だった〉
この時も危なかったんだ。二度も命を狙われている。
実は、狙撃事件の体験があって、それが起因となって今のドクターヘリの仕事をしている。狙撃され、30分で病院に運ばれ手術を受け、かろうじて命が助かった。
「もし、他の地方にいて、病院に着くのが50分、1時間かかっていたら確実に死んでました」と言われた。病院・救急センターの違いで、命の格差がある。これではいけないと、救急車、そして、救急ヘリの完備に力を入れている。
又、3年間スイスにいたことも大きい。スイスの民間防衛の力を見せつけられた。「国は我々一人一人が守るんだ」という意識が強い。
人口の9割が、核シェルターを持っている。常に、イザという時のことを考えている。
本富士署襲撃事件、狙撃事件を経て、スイスの民間防衛を目の当たりにして、「危機管理」を強く訴えるようになる。
オウム事件で、「日本の安全神話」は崩壊し、体感治安という言葉を國松氏は使うようになった。
講演が終わって、スイスのことや、日本の危機管理のことを話し合った。゜私も警察に苛められたので、偏見を持ってるのかもしれません。ぜひ、危機管理について教えて下さい」と言いました。
では、そろそろ終わりです。1995年も凄かったけど、今年、2011年も凄かった。國松さんを初め、郷原さん、東国原さん、小林旭さん、古賀茂明さん…など、多くの人に出会えた。これは私の貴重な財産だ。
本も3冊出して、さらに来年は、頑張って勉強し、書いていきたい。今年はもう、〈事件〉はないでしょう。
1では、いいお年を。来年もよろしくお願いします。
森永卓郎さんが、地方に行ったら、小学生に声をかけられたという。「有名人を見たのこれで2人目です」「1人目は誰?」「猫ひろしさん。お笑いの人を2人も見れて、嬉しいです」。知らなかった。お笑いの人だったのか。
私が連載してる「書評」は森永さん、佐藤優さん、吉田豪さんはじめ7人。だから2ヶ月に1回、回ってくる。編集者、カメラマンが優秀だ。最も読まれている「書評」コーナーだろう。それだけに大変だ。頑張らなくっちゃ。
ビンゴが始まる前に中座する。タクシーで、ロフトプラスワンへ。7時から、「創」のイベントが始まっている。
森達也さん、雨宮処凛さんが出ていた。8時半頃着いて、登壇しました。原発の話、オウムの話、北朝鮮の話をする。
その後、「おしどり」さんの漫才。さらに、おしどりに加えて、上杉隆、雨宮処凛、私でトーク。
上杉さんは来年、仕事を休止する。そこに至った思い詰めた気持、事情を説明する。この日は超満員だった。
鈴木さんも関係してたでしょう。だから、その話を2人でしてもいいのですが」と言う。私は無関係ですよ。でも「日本の危機管理と公安」については、じっくり話を聞かせて頂きたいです。
この日は、ドクターヘリの話でした。とても必要なものだと分かりました。
そのあと、急いで高田馬場に行く。一水会の忘年会をやっている。でも着いた時は、もう終わっていた。
談志さんが最後に見たのが松元ヒロさんのライブだそうで、その時にやった「今日のニュースと天気予報」をやる。よかった。感動的だった。それから、落語家さんたちが次々と挨拶。
「死んだというけど、シャレ!本当は死んじゃいないの」と言う人がいたり、又、「よく談志師匠は、マンセー、マンセーと言ってました。凄いですね。キム・ジョンイルまで連れて行ってしまった…」と言う人も。
凄いですね。トップの芸人たちのトップの芸を目の当たりにしました。数え切れないほど多くの人に会いました。「日本のよふけ」「ミライ」で、見沢知廉と私を出してくれた鶴瓶さんとも久しぶりに会いました。又、志の輔さん、昇太さん、談之助さん、キラーカーンさん、夢枕獏さん、山本晋也さん。などなど。
11時半から2時頃まで続き、最後は毒蝮三太夫さんの「三本締め」。「普通、こういう時にはやらないんだけど」と言いながら…。
終わって、急いでタクシーで浜松町へ。文化放送。「今日のテーマ」は、「キム・ジョンイル総書記死去、どうなる北朝鮮!?」
小泉元首相は、「残念だ。総書記が健在の時に、話し合いを続け、拉致問題を解決させるべだった」と言っていた。私も同感だ。総書記だから、他を抑えて独断で決められた。これからは難しくなる。
キム・ジョンイル総書記の料理人だった藤本健二さんは、正恩大将で、「改革開放に向うのでは」と言っている。それに期待したい。藤本氏は、正恩大将は子供の時から知ってるし、「後継」も唯一人、藤本氏の言うことが当たった。できたら藤本さんが、北に行って協力したらいい。
「編集長は見た」は「週刊新潮」の馬宮守人デスク。総書記の死亡報道を受けて、大々的な特集をしている。徹夜続きの作業だったろう。凄い。特集が「金正日総書記死亡!北朝鮮大崩壊。日本の大危機」。「軍事クーデターなら心配されるテポドン核弾頭」「真冬の飢餓難民20万人の脱出におびえる日本海沿岸部」…など。「Ust延長戦」は、日韓首脳会談で問題となった「従軍慰安婦問題」について話し合いました。
①元警察庁長官の國松孝次さんとお会いしました。12月20日(火)、谷中の禅寺・全生庵です。かつて中曽根首相が座禅に来て、赤報隊に狙われたことがあります。「そこで鈴木さんと会うのも不思議な因縁です」と國松さん。
④松元ヒロさん、鶴瓶さんと。ヒロさんは、持ちネタの「今日のニュース」「天気予報」をやりました。談志さんが最後に見て、褒めていたそうです。鶴瓶さんは「日本のよふけ」「ミライ」で、見沢知廉氏と私を取り上げてくれました。恩人です。久しぶりでした。
⑧東京大学先端科学技術研究センター教授の御厨貴さんの「最終講義」を聞きに東大に行きました。12月17日(土)です。そのあと研究室で忘年会です。(左から)東大准教授の五百旗頭薫さん。御厨貴さん。宗教学者の島田裕巳さん。東京工業大学准教授の上田紀行さん。
⑭12月15日(木)、新宿ロフトで、若松プロの忘年会が行われました。「11,25 自決の日=三島由紀夫と若者たち」の完成を祝っての忘年会です。
映画で、「持丸博」役をやった渋川清彦さんと。学生ながら「爺っちゃん」と言われていた持丸氏によく似てました。