2012/04/02 鈴木邦男

『続・竹中労』を書こうかな

①お墓参りに行ってきました

竹中労さんのお墓の前で(3/25) 竹中労さんのお墓の前で(3/25)

竹中労さんのお墓参りに行ってきました。山梨県の甲府です。

そして労さんの妹さんの金子紫(ゆかり)さんと会い、労さんの話を沢山聞いてきました。

紫さんは、「竹中英太郎記念館」の館長をしております。英太郎さんは労さんのお父さんで有名な画家です。江戸川乱歩、横溝正史などの挿し絵画も描きました。又、「息子の本を助けよう」と、労さんの本の表紙も随分と描いてます。

記念館には英太郎さんの絵が沢山展示され、又、労さんの本も並べられてます。私が去年12月に出した『竹中労』(河出書房新社)もありました。

実は、この本が出来たことを報告に行ったのです。去年、苦労して書きました。

没後20年なので、「どうしても今年中に出版したい」と河出からはハッパをかけられ、必死で書きました。そして12月に出ました。

1月になったら、さっそく竹中労さんのお墓参りをして、「遅くなりましたが、本が出来ました」と報告しようと思ってました。

ところが、なかなか時間がとれずに延び延びに…。又、妹さんと会うんだから、『紙の爆弾』で対談しよう、と思いました。

編集プロダクションの椎野社長、高橋社員、それに劇団再生の高木さんなども誘いました。そのスケジュールを調整し、3月25日(日)になりました。

「革命は実務だ」と竹中労さんは言ってました。遅れて申し訳ありません。私が杜撰な為です、とお詫びしました。

労さんの妹さんと 労さんの妹さんと

お墓で。「面白かったよ。よく頑張ったね」と労さんは言ってくれたのでホッとしました。他の人には聞こえなかったようですが、私には労さんの声が聞こえました。

労さんは革命家です。アナーキストです。でも単なる運動家ではありません。巨人です。

右翼のことにも詳しくて、三島由紀夫、里見岸雄などについては、労さんから逆に私が教えられました。

その辺のことは、私の本に詳しく書いてます。あまりに巨大で、その全体像は書き切れませんでした。

若い時、日本共産党に入って、後にやめます。しかし、「共産党体験」は労さんの中で大きな存在でしょう。

私は、1975年に初めて会いました。労さんは学生、青年にとって、カリスマ的な存在でした。左翼だけでなく、右翼の若者も魅了しておりました。「共産党の影」なんか全くありません。

でも、「その寸前まで竹中は日共の党員だったんだよ」と言う人がいます。「いや、鈴木と会った時も党員だった。かなり後まで党員だった」と言う人もいます。

これはちょっとありえないと思いますが。これは又、考えていきましょう。「昭和史の謎」です。

②まだまだ「謎」の多い人です

竹中英太郎記念館で 竹中英太郎記念館で

それに、晩年は、創価学会の問題に取り組みました。『第三文明』にも随分と書き、『牧口常三郎とその時代』を4巻も出してます。宗教とは何か。そして創設者・牧口のことを書いてます。

今、読み返してますが、ここも私には分からないところです。読了したあとで創価学会や公明党の人に聞こうと思います。

さらには、「歌」ですね。私があの本で書き切れなかったとこは。労さんは沖縄によく行き、島唄が好きで、その本やレコードを作ったりしてました。

私も、沖縄料理店に連れて行かれました。でも、本人がカラオケで歌うことはありません。当時、カラオケはなかったかな。

それと、他のクラシックや、ジャズ、シャンソンなどの話を聞いたこともありません。演歌の話も聞きません。

もしかしたら、「鈴木君は、その方面には疎いから、話してもムダだろう」と思って、話してくれなかったのかもしれません。

でも、労さんは歌には詳しいのです。『美空ひばり』の著作があります。『女性自身』の記者から始まって、多くの歌手に会ってます。インタビューしています。

妹さんから話を聞きました 妹さんから話を聞きました

そして、ズバズバと書いてます。時には、その人が全く言ってないことも書いてます。

「いや、芸能人は言いたくても言えないのだ。それを代わって書いてやるのだ」と労さんは言ってたそうです。これは月刊『Will』の花田編集長や他の人たちに聞きました。

ところで、歌です。労さんは、歌番組の審査員もしてました。私たちの理解を超えます。

普通、歌の審査員といったら、その道のプロです。作曲家、作詞家など、歌手を育てた人、あるいは元歌手の人とか。ともかく、音楽業界に長くいて、その道のプロが審査員になります。

では、労さんはなぜ、審査員になったのでしょう。

③歌番組の審査員をやってたのですね

12月に刊行された『竹中労』 12月に刊行された『竹中労』

「ホコ天の審査員もやってましたよね」と私は妹さんに聞きました。「歩行者天国で歌の審査員をやったんですか。ないと思いますよ」と妹さんは必死に考えます。

傍で編集者が、「イカ天の間違いでしょう」と指摘しました。そうか、「イカ天」だったか。イカの天麩羅かな。違うな。「三宅裕司のいかすバンド天国」というのかな。そこで審査員をしていた。

その頃の映像が何と、YouTubeでみれる。 そして、「たま」を発掘して、世に出したんだよ、労さんは。

『たまの本』という本も出した。その出版記念会で労さんと会ったのが最後だったと思う。野村秋介さんも出席していた。他にも、右翼の人も来ていた。「えっ?猫の本かよ」と言ってる人もいた。タマは猫の名前だと思ったのだ。

それにしても、何故、猫の名前に「タマ」が多いのだろう。それに、犬の名前は「ポチ」が多いのだろう。

犬は元々は、「○○丸」という名前が多かった。「○○丸」は人間の男の子にも多い。子供同様に可愛がっていたのか。

そうだ。船も「○○丸」が多い。全部かな。これも、男らしさを表す為なのか。船は男で、女は港だし。

竹中労さん、鈴木、猪野健治さんと(1977) 竹中労さん、鈴木、猪野健治さんと(1977)

さて、タマやポチという代表的な名前が少なくなったのは戦後だ。

犬や猫の名前に、横文字がつくようになる。「カトリーヌ君」とか、「シーザー君」とか。敗戦コンプレックスで、欧米風の名前の方が、カッコいいと思ったからだ。

テレビが開局した頃、アメリカのホームドラマがドッと入ってきた。犬を中心にする番組も多かった。「名犬ラッシー」とか、「名犬リンチンチン」とか。日本の犬にも、ラッシーと付けた人が多かった。

では、ラッシーと付けるのは「親米的」「反日的」で、戦前の「ポチ」は「反米的」「愛国的」だったのか。

それは違うのだ。「ポチ」も実は、親米的、反日的なのだ。

明治維新以降、日本にはお雇い外国人が沢山来た。中にはペットを連れて来た人もいた。そして、いろんな訓練、命令をする。「座れ」「立て」「かかれ」…と。

その中の言葉にポチと似た言葉があった。英語か、フランス語か、オランダ語かに。「座れ」「伏せ」だったかもしれない。

ともかく、「動詞」だ。それを見てた日本人が、「ほう、犬はポチと呼ぶのか」と思った。「ポチ」を「名詞」だと思ったのだ。

そして、欧米への憧れを込めて、自分の家の犬にも「ポチ」という名前を付けた。それが「ポチ」の由来だ。どっちにしろ、「自虐的」な歴史なんですよ。

④「天童よしみ」の名付け親なんですよ

木馬亭でやりました 木馬亭でやりました

あっ、いけないな。『たまの本』から、話は意外な方向へと脱線してしまった。

竹中労さんは、テレビで歌の番組の審査員をしてた。という話だ。

「ホコ天」じゃなく、「イカ天」の審査員をやってたのは有名で、今でもYouTubeでみれる。

審査員は他に、ラッシャー木村(プロレスラー)などもいたらしい。

竹中労さんは、「イカ天」だけでなく、その前は、「全日本歌謡選手権」(よみうり・日テレ系)の審査員もやっていた。この番組は、かなり大がかりで、権威もあった。ここで勝ち抜いて、歌手になった人も多い。

たとえば、八代亜紀、五木ひろし、中条きよし、山本譲二などが、ここの出身者だ。歌手の「松下政経塾」みたいだ。

1972年、この年、1人のスターが誕生した。この「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜いたのだ。10週、チャンピオンだ。竹中労さんも絶讃した。この人が天童よしみだった。いや、この時は、本名だったから、まだ「天童よしみ」にはなってない。

「天童よしみ」という名前は、何と、竹中労さんが付けたのだ。そして、プロ歌手・天童よしみのデビュー曲「風が吹く」を作詞したのも竹中労さんだ。

これは知りませんでした。労さんの妹さんから聞いた。ネットで調べたら、その通りだった。

「天童よしみ」は、よく山形の天童市出身かと思われるが、違う。

竹中さんは、では、どんな意味を込めて命名したのか。天真爛漫な童(わらべ)だと思った。童女だ。その印象で付けたようだ。

天童よしみさんは、「私がデビューできたのは竹中労先生のおかげです」といつも言ってるようだ。

労さんが亡くなった時は、甲府まで来て、お墓参りをし、お墓の前で歌をうたったという。いい話だ。感動的な話だ。

⑤「1972年」は「終わりの年」。そして「復活の年」だ

鈴木、竹中さん(後ろ姿) 鈴木、竹中さん(後ろ姿)

私が『竹中労』を出して3ヶ月。その3ヶ月の間にも、いろんな話を聞いた。いろんな情報が集まってきた。これじゃ、『続・竹中労』を書けるかもしれない。

だったら、9年後の「竹中労没後30年」にでも書こうかな。そして、「竹中労没後40年」には『続々・竹中労』だ。

竹中労のプライベートな部分を書いた月刊誌のコピーももらった。又、妹さんには、私らの知らなかった竹中労の話を随分と聞いた。これは、『紙の爆弾』に載せようと思っている。

竹中労さんは音楽が好きだった。天童よしみ、たまを発見し、世に出した。これと同時に、労さんの文章そのものが音楽だ。躍動するリズムだ。

嘘だと思ったら読んでみたらいい。それを感じるはずだ。

又、喋るのも、音楽だった。と同時に、人生そのものが音楽だった。時に激しく、時に優しく、躍動するリズムだった。ベルグソンの「生の躍動」ですよ。エラン・ヴィタルですよ。

ここで終わろうと思ったら、大事なことに気がついた。

天童よしみが全日本歌謡選手権で10週連続チャンピオンになり、プロデビューしたのは、1972年だった。竹中労さんが名前を付けてやり、新曲を作ってやった。

そして、この1972年は、「連合赤軍の年」だ。今年は連合赤軍事件から40年。そんな連合赤軍の年に、天童よしみはデビューしたのか。

1972年は、テレビで「木枯らし紋次郎」がスタートした年だ。虚無が支配する時代だからこそ出現した、ニヒルなヒーローだ。

最近、YouTubeで発見したが、労さんは連合赤軍について、テレビに出て、かなり熱く語っている。

竹中英太郎さんの作品 竹中英太郎さんの作品

これには驚いた。他の人たちは皆、「これで左翼は終わった」「絶望した」「革命なんて考えるから、こんなことになる」と批判・罵倒していたが、労さんだけは〈弁護〉している。

「革命運動において、こうしたことは日常茶飯事だ」「そんなことでオタオタするな!」と。「それだけ、命がけでやってるということだ」と。

今だって、こんなことを言える人はいない。そんなに勇気のある人はいない。

3月23日(金)、月蝕歌劇団の芝居を見に行ったら、高取英さんが、「『竹中労』よかったね」と言ってた。

そして、連合赤軍と文化人の話になった。左翼文化人も評論家も、皆逃げて、あの事件についてはコメントしなかった。

その中で、連合赤軍について堂々と言い、「弁護」したのは3人だけだったという。竹中労、平岡正明、寺山修司だという。これも調べてみよう。研究テーマが又、増えた。

さらに、1972年は、新日本プロレス、全日本プロレスがスタートした年でもある。「革命戦士」「維新軍団」「テロリスト」という言葉がスポーツ紙に躍った。

連合赤軍で政治的な革命は終わり、若者から「革命」は取り上げられた。そして、リング上にだけ、模擬「革命」が行われ、そこにのみ夢を見出したのだろうよ、若者は。

そんなことを4月2日(月)発売の「週刊ポスト」に書いた。

【だいありー】

古賀シュウさんと(談合坂で) 古賀シュウさんと(談合坂で)
  1. 3月26日(月)午前中、原稿。夕方、打ち合わせ。夜、柔道。
     ねづっち(Wコロン)が通ってる道場の先生も来てました。「ねづっちは熱心だよ、偉い」と褒めてました。忙しいのに柔道の稽古もちゃんとやってるようです。だから、「炎の体育会」に出ても闘えるんですよ。
  2. 3月27日(火)午前中、原稿。午後、取材。図書館。
     夜6時、展転社に行く。移転のお祝いで大勢が集まっていた。藤本社長の他、宮崎正弘氏、大原康男氏などとお話をした。
     夜6時、明治大学へ。中沢新一さんの研究室で第2回「緑の会議」。グリーン・アクティブの会議だ。加藤登紀子さん、マエキタミヤコさん、鎌田慧さんなど30人が出席しました。鎌田さんは大杉栄についての本を書いている。私の『竹中労』も読んでくれた。
     「ところで、どっちが喧嘩が強かったんだろう」と鎌田さん。大杉と竹中のことだ。
     さあー、竹中さんかな。「でも大杉は柔道をやってたし、父親は軍人で棒術や射撃も習ってたんだよ」と鎌田さん。
     難しいな。ルールのある格闘技なら大杉だ。「何でもあり」なら竹中かな。と私は答えた。
  3. 3月28日(水)午前中、原稿。午後3時、文化放送。今日のテーマは、「原発再稼働は誰が判断するのか」。「鈴木さんがツイッターで、ストレステストと再稼働のことを呟いていたので、このテーマにしました」とディレクター。
孫崎享さん、貞包さんと 孫崎享さん、貞包さんと

国民の8割以上が反対してるのに、ムリやり「再稼働」させようとしている。まず「再稼働ありき」で、そこに向けて、いろんなところから「妥当」「OK」の保証を出させようといる。もし何かあったら、保障をした人間に責任を負わせようとする。

政府内には内閣府の原子力安全委員会と経済産業省の原子力安全・保安院の2つの組織がバラバラに存在していた。この2つを解体分解し、新たに環境省の外局として「原子力規制庁」を発足させようという動きもある。

しかし、自民党の石原伸晃幹事長が言うように、「これでは新組織の独立性が担保されないし、環境省の外局というのは無理がある」。

それに、地元に金を落とし、「地元」が賛成すれば、それで出来るというものではない。大体、どこまでが「地元」かはっきりしない。事故が起こったら、全国の問題なのだから、全国が「地元」だ。そうした話をした。

寺ちゃん、Wコロンも加わって 寺ちゃん、Wコロンも加わって

次は「編集長は見た!」。『クーリエ・ジャポン』の冨倉由樹夫編集長。特集は「日本の『明日』の話をしよう」。

日本の若い7人のトップランナーを特集している。投資家で京都大学客員准教授の瀧本哲史さん。サッカー日本代表キャプテンの長谷部誠選手。アメリカの代表的な日刊紙「ニューヨーク・タイムズ」の東京支局で、記者として活躍する田淵広子さん。夕張市の全国最年少市長の鈴木直道さん。起業家でデザイナーの山口絵里子さん。福島原発の歴史を通じて『「フクシマ」論』を書いた、東京大学大学院生の開沼博さん。「中国で最も有名な日本人」加藤嘉一さん。

この7人が、「明日」の日本を動かすという。加藤さんは、この前、会ったばかりだ。凄い人だと思い、驚いた。

〈ニューヨーク・タイムズより。「民主化を素直に喜べないミャンマー難民の憂鬱」〉
〈中国「新世紀週刊」より。中国を脅かす「ダム誘発地震」とは何か〉

「クーリエ・ジャポン」の次の特集は、

吉原毅さんと(3/24) 吉原毅さんと(3/24)

これは怖い話だった。それに中国は、これから原発をどんどん建てようとしているし。

そして、〈米「ウォール・ストリート・ジャーナル」より。中央銀行総裁を公募で決めるニュージーランド〉

そこまでするのか、と思ってしまう。詳しくは本誌を。

このあと、Wコロンの謎かけ。Ust延長戦。

面白かったです。リスナーからのメールで、名前を間違って役所に届けられた、という人が。「すみ」だといったら、届ける人が「しみ」と届けた。「てつ子」が「てち子」に、「りつ子」が「りち子」に。

これが皆、秋田の人。秋田の方言では母音は3つしかない。だから、「すみ」と「しみ」は同じように発音するんだ。又、頼んだ人に間違えられた、ということだそうだ。

終わって、スポーツ会館に行き、トレーニングをした。

サルキコフさんと(3/22) サルキコフさんと(3/22)
  1. 3月29日(木)午前中、取材。昼から、新宿の「コニカ・ミノルタ・プラザ」に行く。3人の写真展を見る。大倉将則「選んだ光景」。池口正和「東京の片隅で」。西村勇人「No Curiosity,No Life」。とてもよかったです。
     午後2時から河合塾コスモ。今は春休み中だが学校は開いている。2時間、自習室で勉強。それから、新学期からの授業の打ち合わせ。
     午後7時、紀伊国屋ホール。松元ヒロさんのライブを見に行く。超満員。4日間の全ての券が売り切れたそうだ。ライブも面白かった。
     いろんな人と会った。共産党の小池晃さん、矢崎泰久さん、佐高信さん、田中優子さん、神田香織さん、朴慶南(パク・キョンナム)さんなどでした。
     終わって、佐高さんたちと、近所の「ライオン」に行って飲みました。今日は「3人死刑になった」と神田さんが怒ってました。その話を皆でしました。
清水三年坂美術館で 清水三年坂美術館で
  1. 3月30日(金)午前中、原稿。午後1時、ホテルサンルート。京都で「笑の内閣」という芝居をやっいる人と会う。5月の公演の時のトークに呼ばれた。その打ち合わせ。なかなか面白い芝居のようだ。楽しみだ。
     3時、文化放送。私の出る日じゃないが、『検事失格』(毎日新聞社)を書いた市川寛さんが出るので、聞きに行った。これは凄い本だ。ここまで検察はひどいのかと愕然となった。それにしても、市川さんは真面目な人だ。勇気のある人だ。終わって、話し込んだ。
     このあと、講道館に。それから、「柔道研究会」に出る。ヨーロッパの柔道指導から帰国した村田先生の話を聞く。それと「中学校に武道必修」の話について聞き、意見を言う。
  2. 3月31日(土)午前中、原稿。午後1時、阿佐ヶ谷ロフト。産経新聞(3月27日)に、大きくこんな記事が出ていた。
月蝕歌劇団の舞台 月蝕歌劇団の舞台
〈カメラマン・谷口雅彦さんが写真集。中立の立場で原発考える〉。

そして、

〈31日、阿佐ヶ谷でトークイベントも〉

凄いね。こんなに大々的に「阿佐ヶ谷ロフト」が出てるなんて。それで、聞きに行きましたよ。面白かったです。満員でした。考えさせられました。

午後6時、品川プリンスホテルに行く。睦月影郎さんの「著書四〇〇冊突破パーティ」。エンターテインメント小説と共にマンガも描いている。「ケンペーくん」など。

それにしても、400冊かよ。なんか、ムッとするよね。10冊とか20冊だったら、「頑張れ!応援するぞ!」という気持ちになるけど、400冊じゃなー。集まった人たちは皆、そんな不平・不満を言っていた。それを覚悟のパーティだろう。だから会費なし。無料だ。普段会えない人にも会えて、楽しかった。

  1. 4月1日(日)午前中、原稿。午後、インタビュー。午後4時、渋谷のアップリンクルーム。河合由美子監督「わたしの釜ヶ崎」上映会に行く。凄い映画だ。決死の撮影だ。
     映画のあと、河合監督と、渡辺文樹さん(映画監督)のトークがあった。皆さん、本当にご苦労さまでした。終わって、監督たちと話しました。

【写真説明】

竹中労さんのお墓の前で(3/25)

①甲府市に、竹中労さんのお墓参りに行きました。3月25日(日)です。遅くなりましたが、『竹中労』(河出書房新社)を出版したので、その報告をしました。(左から)椎野礼仁さん、鈴木、金子紫さん、高木尋士さん。

労さんの妹さんと

②竹中英太郎記念館で。館長の金子紫さんと。英太郎さんは労さんのお父さんです。有名な画家で、記念館には多くの作品がありました。労さんの本も随分ありました。

竹中英太郎記念館で

③「竹中英太郎記念館」の中で、妹さんから、労さんの思い出を沢山、聞きました。

妹さんから話を聞きました

④皆で、妹さんの話を聞いてます。

12月に刊行された『竹中労』

⑤去年12月に出した、私の『竹中労』(河出書房新社)です。去年の「没後20年」に間に合わせようと必死でやりました。

竹中労さん、鈴木、猪野健治さんと(1977)

⑥竹中労さんとの長い付き合いの中で、写真が残っているのは、この時だけです。1977年12月8日です。今から35年前です。「木馬亭巷談倶楽部」第4回例会です。木馬亭の壇上で話しました。左は竹中労さん、右は猪野健治さん、中央が私です。テーマは「大東亜戦争」です。このあと「黄金バット」の加太こうじさんも加わったようです。
 この写真は、鈴木義昭さんが提供してくれました。貴重な写真です。木馬亭は通常は浪曲の定席小屋で、2階は安来節や大衆演劇で有名な木馬館です。これも義昭さんが教えてくれました。
 鈴木義昭さんは、高校生の時から、労さんのとこへ出入りしていた人です。最も詳しい人でしょう。『風のアナキスト・竹中労』(現代書館)という本も出しています。とてもいい本で、私も参考にしました。

木馬亭でやりました

⑦やはり木馬亭の写真ですね。前列の人の頭も写ってます。いつも労さんの会は超満員でした。それに、学生、青年ばかりです。年輩の人はいません。それだけ、若者を惹きつけるものを持ってたんですよ、労さんは。

鈴木、竹中さん(後ろ姿)

⑧これは、変わったアングルから撮ってますね。左の若僧は、ポケットに手を突っ込んで、生意気ですね。態度悪いですね。誰でしょうか。本当は、感動し、畏れ入ってるんでしょう。それを認めるのが悔しくて、こんな表情をしてるのかもしれません。
 35年前だから、「大東亜戦争は聖戦だ!」「1回くらい負けたからって何だ。次に勝ちゃいいんだ!」なんて言ってたんでしょう。ゴリゴリの右翼だったから。

竹中英太郎さんの作品

⑨竹中英太郎さんの絵葉書が売ってました。「気に入ったものがあったら、あげます」と妹さん。「じゃ、オッパイを3枚」と言って、もらいました。「なんちゅう言い方ですか」と編集者。「でも、分かりやすくていいわ」と妹さん。
 モデルは妹さんらしいです。きれいですね。お父さんは画家です。「芸術の為だ。脱げ!」と娘に言います。「承知しました」と娘は言います。いいですね。アーチストの父子は。私も娘にそう言ってみたいです。

古賀シュウさんと(談合坂で)

⑩中央高速で甲府に向かいました。途中、談合坂のパーキングエリアで休憩しました。そしたら何と、古賀シュウさんのショーをやってました。人が沢山見てました。「あれっ?鈴木さん。どうしたの」と聞かれました。こんな偶然もあるんですね。
 古賀シュウさんは先月、文化放送で会いました。鈴木宗男さんがゲストで出た時、古賀シュウさんも出てました。宗男さんがいる前で、宗男さんの物真似をしました。似てます。面白かったです。宗男さんも大喜びで、「今度、影武者をやってもらおう」と言ってました。「談合坂」でも、宗男さんの物真似をしてました。

孫崎享さん、貞包さんと

⑪3月21日(水)、文化放送に、孫崎享さんが出てくれました。沖縄問題、領土問題について詳しく話を聞きました。孫崎さん(中央)と。右は貞包みゆきアナです。

寺ちゃん、Wコロンも加わって

⑫孫崎さんのコーナーが終わっても引き止めました。「ぜひWコロンを聞いていって下さいよ」と。残ってくれました。喜んでました。
 終わって、寺ちゃん、Wコロン、貞包アナも入って、記念撮影です。

吉原毅さんと(3/24)

⑬吉原毅さん(城南信用金庫理事長)と。3月24日(土)、「マガ9学校」を聞きに行きました。いとうせいこうさんと吉原毅さんが講師で、「原発とグリーンとお金のはなしをしよう」でした。とても勉強になりました。
 城南信用金庫は脱原発に向けて思い切った行動をとってます。東電株の売却、3割節電、東電との契約解除などです。凄いです。「信用金庫だから出来るのです」と言ってました。経済人は皆、原発に賛成かと思ってたので、驚きました。一般には「右翼は皆、原発推進か」と思われているでしょうし、同じ誤解かもしれません。終わってからも、いろいろと教えてもらいました。

サルキコフさんと(3/22)

⑭3月22日(木)6時から、ホテルニューオータニ。「恵観塾」で、サルキコフさんに会いました。ロシア人で、元山梨学院大学の教授です。領土問題やロシアの選挙について、いろいろ教えてもらいました。

清水三年坂美術館で

⑮3月18日(月)、京都に行った時です。「反弾圧集会」の前に、「清水三年坂美術館」に行きました。「大正美人画」の他、いろんな絵葉書を買いました。これは正阿弥勝義の「柘榴に蝉飾器」です。精巧な芸術です。

月蝕歌劇団の舞台

⑯月蝕歌劇団の「疫病流行記」の舞台です。寺山修司作・高取英演出です。カメラマンの平早勉さんが送ってくれました。とてもスリリングな面白い芝居でした。私は3月23日(金)、見ました。ザムザ阿佐ヶ谷です。

【お知らせ】

  1. 4月2日(月)「週刊ポスト」発売です。「戦後日本とプロレス」の特集だそうです。私も語っています。昔は「プロレス評論家」として、プロレスの本を6冊も出してます。子供の時からのプロレスファンでもありますし…。
  2. 4月5日(木)午後7時。「小川敏夫法相による死刑執行に抗議する緊急集会」が行われます。私も行こうと思います。文京区民センター2F会議室です。参加費500円です。
  3. 4月11日(水)午後7時、一水会フォーラムホテルサンルート高田馬場。講師・伊波新之助さん(ジャーナリスト)。「ミャンマーに見る植民地支配の傷跡」。
  4. 4月24日(火)政治・社会のあり方を問う!「佐高信政治塾」の2012年(第Ⅵ期)が仙台で行われます。
     第1回は、4月24日(火)で、佐高信さんと私の対談です。「右翼と左翼の交差点」です。18時30分より。会場はハーネル仙台です。
     これ以降、月に1回ずつ、行われます。講師は、鴨桃代、照屋寛徳、長谷川公一、朴慶南…さんなどです。
  5. 4月25日(水)午後7時、池袋ジュンク堂。宮台真司さんと私のトークがあります。
  6. 5月10日(木)午後7時、一水会フォーラムホテルサンルート高田馬場。講師は若松孝二さんです。
  7. 5月13日(日)連合赤軍40年を考える集い。午後1時より、目黒区民会館。シンポジウムで、私も出ます。
  8. 6月20日(水)池袋ジュンク堂。7時半より、佐高信さんとトーク。3月からいろんな人を招いて、トーク「佐高信書店」が始まります。6月は私です。