42年の時間は飛んでいた。消えていた。今が、1970年だ。11月25日だ。そう思った。
実際、三島由紀夫・森田必勝両氏と、こうして会っているじゃないか。そう思った。
三島由紀夫役の井浦新さん、森田必勝役の満島真之介さん、そして若松孝二監督、私の4人で、話をした。話をしながら、そう感じたのだ。
場所はテアトル新宿だ。7月8日(日)の午後4時から4人のトークは行われた。若松孝二監督の「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」が絶讃上映中だ。
2時からの回が終わって、4時からトークが始まった。若松監督とは、ロフトやTBSなどで何度も話している。しかし、新さん、満島さんと舞台の上で話すのは初めてだ。唐突に聞いた。最も関心があったのは自決シーンだ。新さんは言う。
「生き残って、次の世の中を変えていく筆頭にこそ、森田はあるべきでした。しかし、あれほどまでに真っ直ぐな森田が、自分と一緒に死なないわけはない。でも自分が腹を切りながら、やっぱり森田は生きろ! 待て! と叫びたかった」
これは三島役の新さんの叫びであり、実感だ。又、三島その人の叫びだ。
「あの世で、『なぜ、ここに来たんだ』と三島は森田に言ってるような気がします」と新さんは言う。
そうなんだ。三島は、最後の最後まで、そのことを気にかけていた。
何十年経っても、「三島事件」は人々の記憶に残る。むしろ、どんどん大きくなる。「三島が今生きていたら何を思うだろうか」と人々は思う。三島の本を読む。そして時代を予見した三島に感動する。
ただその時、森田必勝の存在は小さい。脇に置かれている。
「そういえば、もう1人いたな。一緒に死んだ人が」と、一般の人々には思い出されるだけだ。三島にとっては、たまらないことだ。死んでも死に切れない。
だから「命令書」の中で言う。「三島はともあれ、森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と。
あの事件は、三島が「楯の会」の人間を無理に引っ張って行って起こした事件ではない。むしろ、森田たちが三島を突き上げ、決起させたものだ。そのことを、私らは主張し、書いてきたつもりだ。
又、全国で両烈士顕彰、追悼のお祭りを毎年、やってきた。でも、どこまで理解してもらったか、心許ない。
その点、この映画の力は大きい。森田氏を初めとした「楯の会」の学生たちの、ひたむきな心が、行動がよく出ていた。「あの時代の学生は、本当に国の行く末を考え、命を賭けたのだ」と分かる。
「よど号」の人たちだって、DVDを見て、「(方向は違ったが)思いつめてゆく過程は同じだ」と言っていた。
新さんは、「実録・連合赤軍事件」では、坂口をやった。その時は、芸名はARATAだった。三島役をやることになって、「井浦新」にした。1つの覚悟だ。
新さんは、三島事件の時は、まだ生まれてない。他の役者たちも皆そうだ。でも、科白にしろ、仕草にしろ、当時の雰囲気そのままだ。これには驚いた。
三島が東大全共闘と激論するシーンなど、演説、野次、混乱…などを含めて、あの時代そのままだ。そう思わせたのは、「若松マジック」なのかもしれない。
「三島の前に連合赤軍をやったので、〈時代〉を感じることが出来、スーッと入っていけました」と新さんは言う。
若松監督は、「三島のモノマネをしてはダメだ。新のままでやれ」と言ったようだ。でも、それがよかった。若い、瑞々しい、行動的な三島が再現された。
「事前に勉強しなくてもいい」と言われたが、満島真之介さん(森田必勝役)は、かなり勉強した。森田氏の本(日記)を読んだし、「鈴木さんの本も読みました」と言う。
又、四日市に行って、森田必勝氏のお墓を探し、お参りした。
さらに、町の人たちに聞いて、森田氏の実家を訪ねた。「あっ、まさかつさんの家ね。あすこだよ」と、町のおばさんが教えてくれた。今も生きてるように、「まさかつさんの家だよね」と、教えてくれたのだ。
森田必勝氏は、本当は、「まさかつ」と読む。ただ、「ひっしょう」と読まれることが多いし、本人も、そう言われることを喜んだ。
彼は昭和20年(1945年)の、敗戦直前に生まれた。しかし、両親は、戦争に勝つようにと祈りを込めて、「必勝」と名付けた。
私は、必勝氏の2才上だが、それでも、「国の行く末」を憂えた名前が多い。「勝利」「勝男」「勝子」…など、日本の勝利を願った名前だ。
国男、邦男、国子…という名前も、国のことを考えて付けた名前だ。憂国者になるしかない。あるいは反撥して、左翼になるか。
満島さんが、森田必勝氏の実家をやっと探し当てて、訪ねた。
全く、アポなしだ。お兄さんがいるとは聞いていたが、在宅かどうか分からない。もし、在宅だったら、「実は今度、必勝役をやることになった満島です」と自己紹介しようと思った。
ベルを押すと、返事があった。お兄さんが出てきた。
満島さんを一目見て、ギョッと立ちすくんだ。言葉も出ない。あとで聞いたら、「必勝が帰ってきたと思った」と言う。
お兄さんには、いろんな話を教えてもらった。そして、帰り際、「何才ですか」と聞かれたので、「21才です」と答えた。
そしたら、「25才までは生きなさい」と言われた。これも凄い話だ。
森田必勝役になり、なりきるのは嬉しい。でも、余りに気持ちがのめり込んで、同じ年(25才)で死のうなどとは考えないで下さい、と言ったのだろう。
満島さんはそう理解した。多分、それが正しいだろう。
しかし、もう一つの意味があった。と私は思う。
本を読んだりして、森田必勝氏のことを知り、お墓参りに来たり、実家を訪ねる人は多い。事件直後に比べると少なくはなったが、今でもいる。
忘れられない青年がいた。満島さんと同じ21才だった。余りに心のきれいな青年だった。そして、22才で自殺してしまった。必勝氏の25才までも待てないで…。
そのことがあっので、「少なくとも25才までは生きなさい」とお兄さんは言ったのだろう。
09年に、22才で死んだ青年は、下中忠輝君という。
大阪に住んでいた青年で、私のところにも訪ねてきた。ロフトや、他の集会にも、よく来てくれた。心のきれいな青年だった。
森田必勝氏だけでなく、『二十歳の原点』の高野悦子や、『青春の墓標』の奥浩平にも憧れていた。夭折願望があったのかもしれない。
忠輝氏のお父さんは、西宮ゼミにもよく来てくれる。「鈴木さんの書生になりたいと言ってました」と言う。そこまで思ってたとは知らなかった。
私も食えないが、そこまで思いつめていたのなら、書生でも秘書でも、何でもしてやればよかった。残念だ。
私の配慮が足りなくて、若い青年を死なせてしまったようで、申し訳がない。
「森田必勝さんの家に行ってきたんです」と忠輝氏は、喜んで写真を見せてくれた。庭には必勝氏の銅像が建てられている。
私が昔、行った時は、まだなかった。「じゃ私も言ってみなくっちゃ」と言った。そこで必勝氏に再会出来るだろう。
満島さんも、「銅像の前で写真を撮りました」と見せてくれた。
3人いる。必勝氏の銅像の横に満島さん。その横にお兄さん。「お兄さんは80を過ぎてると思いますが、必勝さんと似てました」と言う。
その「似ている」お兄さんが満島氏を見て、「必勝が帰ってきた!」と思ったのだ。
3人並んだ写真を見て、「あっ!必勝氏が3人いる!」と私は叫んだ。必勝氏の墓参りをした時の写真も、満島さんは見せてくれた。私も昔、行ったお墓だ。
背景の風景の中に、必勝氏の顔が映っていた。「ほら、ここにいますよ」と、私は教えてあげた。
写真を見せてもらったのは、舞台のトークの時ではない。それが終わって、5階のお店で、打ち上げをやった時だ。
佐野史郎さんも一緒だった。2時の回の映画を見ていたのだ。「又、同じところで泣いちゃった」と言う。
映画の「公式本」の中で、私も書いたが、例の「別れのシーン」だ。
5人が決起直前に会う。「生きろ」と命じられた小賀、古賀、小川は、三島に直訴する。「僕らもお供させて下さい!」と言う。しかし、三島氏は許さず、生き残り、裁判で我々の思いを伝えてくれと言う。
その時、森田氏が、3人を慰める。「死ぬも生きるも一緒だ。すぐに又、会える!」と。
「死にゆく者」が「生き残る者」を励まし、慰めるのだ。本当にあったシーンだが、凄いシーンだ。
それを見て、佐野史郎さんは、「そうだ。森田の言う通りだ。こうして会ってるじゃないか」と言った。
去年11月25日に、この映画の最初の上映会を、やはり、ここテアトル新宿でやった。
その時、私は森達也さんとトークした。そして打ち上げの時、佐野さんがそう言うのを聞いて、衝撃を受けた。
「これは映画ではない。本当に、5人は会っているのだ!」と思った。映画の作り出す力だ。奇跡だと思った。
本当に嬉しかった。三島・森田にかわって、と言ったら、とてもおこがましいが、でも、監督や役者の皆さん、スタッフの皆さんにはお礼を言いたい。本当にいい映画を作ってもらって、ありがとうございました、と。
「三島はともあれ、森田の精神を恢弘しろ」ということも、こうして映画の力によって実現できた。活字は無力だった。日本に若松監督がいてくれて、よかったと思った。
この映画は、何十年も、何百年も残る。〈歴史〉になる。その歴史的事業に私も、少しだが、参加出来て光栄だ。
「企画協力」として名前も出してもらった。何もしてないのに恥ずかしいが、でも、嬉しいし、誇らしい。三島事件のことが語られる時。これが何十年後でも。何百年後でも三島事件に関心を持つ人は、「まず、この映画を見ろ!」と言われるだろう。
それだけの貴重な資料になった。貴重な歴史になった、と思う。
「編集長は見た!」は月刊『文芸春秋』編集長の島田真さん。前は「週刊文春」の編集長として出演してもらったことがあるそうです。(他の曜日で)。月刊『文芸春秋』編集長としては初めて。「初めまして」と私は挨拶したら、昔、「週刊文春」の取材で会ってます。と言われた。きっと「赤報隊の容疑者」としてじゃないのかな。
今月号の『文芸春秋』は内容が濃い。
〈最先端研究 長寿の秘密がここまでわかった〉
1963年、百歳を超える人は153人だったが、昨年は4万7756人だ。50年で50倍だ。「じゃ、50年後は百歳以上の人が、2500万人になるんですか?」と聞いたら、「そうはならんでしょう」。今、百寿者の特徴は、大きな病気を免れてきたこと。がん、脳卒中、心臓病が日本人の三大疾患だが、百寿者の6割がこれらの病気を経験していなかった。
それと、調査によると、百寿者には「外向性」「誠実性」「開放性」の高い人が多いという。貞包アナなんかは、まさにこれだ。きっと長寿でしょう。それに、貞包アナは、「漢字検定」3級を受けて、見事合格したそうです。おめでとうございました。
『文芸春秋』もう1つの特集は、これだ。私も読んで衝撃を受けました。
〈前皇室医務主管独占インタビュー
天皇皇后両陛下の「主治医」として〉
これは、月刊『文芸春秋』でなくては出来ないと思った。総合雑誌だし、いわば国民的雑誌だ。その権威と安心があって主治医の金澤一郎さんもインタビューを受けたと思う。ここに来るまでは大変だったと思う。我々の知らないことが多く、よくここまで勇気をもって話したと思う。
今までは、宮内庁病院以外の病院を利用することはなかったが、最近は東大病院を利用されることが普通になった。大きく変わった。今の日本の高いレベルといわれる医療を皇室の方々にも受けて頂けないのではないかという危機感があったという。
又、頭痛がすると仰せられても、ご本人の判断ですぐに手持ちの薬を飲むわけにはいかない立場だという。これも知らなかった。その都度、侍医を呼び、説明してご診療を受けるという。陛下はご自分のお身体に関しては自分の身体であって自分の身体ではない。国民のためにあるお身体と思っておられる。手術や他の病院での医療行為に関しては、そう思われているので、許して頂いたのではと金澤先生は言っていた。
さらに、陛下が手術を決断された時の話だが…。
薬による治療を続けることもできる状態だったが、このままでは活動量が落ちてしまう。陛下は、象徴天皇の存在というものは、やはりご公務があってこそ、とお考えのよう。つまりご公務を減らすことは、象徴天皇のプレゼンスが低下することになってしまうのではというお考え。そうならぬためにも手術によって恢復していただくことが必要な段階に入っていたのだという。
他にも、皇后さまのかつてのお病気や、雅子さまのお病気についても語っている。本当に大変なお仕事だと思う。「自分の身体であって自分の身体でない」と陛下は言われている。ここまで厳しいお仕事なのかと思った。又、その実情を語ってくれた金澤氏も覚悟をもって話してくれたのだと思う。これは『文芸春秋』でなくては出来なかった。ぜひ、皆さんもじっくりと、読んで下さい。
このあと、Wコロンの謎かけ。Ust延長戦。今日は、「貞包さん漢検3級合格祝い!」の特別企画。3級合格したのに、何と漢検5級や6級の問題を出して、果たして答えられるかどうかを試す。結構、間違えていた。でも、貞包さんは、「本番」に強いんですよ。
〈「日本の司法を正す会」五周年。
記念講演・シンポジウムと懇親会〉
主催者挨拶が村上正邦さん。記念講演が、亀井静香さんと丸山和也さん。亀井さんの前に、喜納昌吉さんが挨拶し、「花」を歌ってくれる。それに刺激されたのか、亀井さんは「司法はこれでいいのか」の講演の前に、「私も歌います!」と、「兄弟仁義」を歌う。それも2番まで。
「一人ぐらいは、こういう馬鹿が、
いなきゃ、世間の目が覚めぬ!」
と歌っていた。いいのかな、元警察のトップが、現国会議員が。こんな、ヤクザ礼賛の歌をうたって…。「暴排条例」に触れるよ。丸山さんの講演は、「大衆迎合と紳助追放の構図」。丸山さんとは久しぶりで、終わってお話ししました。
このあと、シンポジウム「暴排条例ほか」のテーマで。西部邁、宮崎学、佐高信の3人。司会は青木理さん。あれっ、4人とも名前が1字だよ、と気がついた。頭のいい人は皆、1字なんだ。つなげると「理信学邁」だ。理を信じ、学問に邁進しようという意味だ。凄い発見だ。反暴排コードだ。
そのあと、山本峯章さんの「政・官・監視国民オンブズマン委員会設立発表」。
それから、懇親会だ。もう8時半になっていた。鈴木宗男さんや前法務大臣の小川さん、一水会の木村三浩氏などが挨拶をする。私は、次の会合があるので、失礼する。
今日は、鹿砦社の40周年パーティをやっている。6時からは、Paix(ペペ)のコンサート。8時から、恵比寿で飲み会。私は二次会の飲み会の途中から参加した。松岡さん、板坂さん、マッド・アマノさんなど40人ほどが集まっていた。遅くまで飲みました。
①7月8日(日)。テアトル新宿。「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち=」。2時の回、上映の後、4時から、舞台でトークをしました。左から、若松孝二監督。鈴木。井浦新さん(三島由紀夫役)。満島真之介さん(森田必勝役)。
⑫ロックの会の主宰者の松田美由紀さんと。「カメラはアナログなんですか。でも、アナログの方が光沢があっていいんですよ」と言ってました。そう、デジタルも使ってるけど、ちょっと違うよな。「松田優作さんの映画は全部見てますよ」と言いました。
⑯7月7日(土)午後1時から、文京区民会館で。「冤罪・死刑 袴田事件と名張事件。再審・無罪へ!」の集会で。免田栄さんと。
免田さんは、冤罪が晴れ、無罪が確定し、現在、全国の集会で、冤罪被害者を支援し、頑張ってます。「この前は写真と本、ありがとうございました」と言われました。前に会った時、「送って下さい」と言われたんです。免田さんには、じっくり話を聞きたいです。