一生の間に何度も読み返す本がある。その時々によって、感動も違う。20代に読んだ時はこう感じた。40代ではこう感じた。60代ではこう感じた…と。
いい本は20年単位くらいで読み返し、その都度、読書ノートをとっておいたらいいだろう。
学生時代に読んだ本が、思いがけなく見つかることがある。赤線を引いたり、書き込みをしたりしている。エッ!こんなことに感動してたのか。これを読んで、自分はこんなことを考えていたのか、と衝撃を受ける。
「昔は、こんなに素直に読んでたのか」「いや、この読み方は甘いぞ」「うーん、これは忘れていた。感性が鈍くなったのかな」…と。いろんなことを感じる。
いい本は、それについて書評や感想だけでなく、さらに、刺激されて、もう1つの本を作ってみたい。そんな創作意欲も生むようだ。
夏目漱石の『坊ちゃん』は、多くの人に、自分にとっての『坊ちゃん』を書かせた。
未完の『明暗』は、自分なら、こういう続編を書くという意欲を刺激した。
実際、『続・明暗』を書いた人もいた。『吾輩は猫である』についても、何人もの人が、これを元にした小説、論文を発表している。『吾輩は猫である殺人事件』という本もあった。
ドストエフスキーの『悪霊』に刺激されて、高橋和巳は『日本の悪霊』を書いた。
『悪霊』は、ロシア革命前夜のテロリスト、革命家たちの小説だ。理想に燃える革命運動の中でも、陰湿な陰謀や、裏切りや、仲間殺しがある。
高橋和巳は、そうか日本だって同じことがあった、と思い、非公然活動をやっていた頃の日本共産党の人々のことを書いた。それが『日本の悪霊』だ。
自分はドストエフスキーをこう読んだ。それにとどまらずに、もう1つ新たな作品として書いてみたのだ。高橋和巳にとっての『悪霊』だ。
今、読み返してみても凄い。連合赤軍事件やオウム真理教の事件を予言している。私には、そんなふうに読めた。
権力を打倒し、日本の革命を目指す人々が主人公だ。武力で、この権力機構を打ち砕くだけではダメだ。この権力、この体制を支えている人々の「古い意識」を打倒しなければならない。そう考えた。封建的で、ブルジョア的な、古い意識だ。
まず、〈意識革命〉をやらなくてはならない。連合赤軍とも似ている。オウムとも似ている。
連合赤軍では、女性兵士(といっても、女子大生だが)が山に入る。
その時、イヤリングをしていた。「ブルジョア的だ!」と批判され、総括された。俗世間(ブルジョア社会)を引きずっていた。
本当の革命家になる気が少ない。革命精神がない…と言って糾弾されたのだ。総括の末には死だ。
『日本の悪霊』は、もっと徹底している。この社会を打倒するのだ。だから、それを支える「古い道徳観」を捨て、打倒しなくてはならない。
つまり、今までの「道徳」「常識」を捨てろという。
その為には、自分の親父の頭をぶち割り、お袋を強姦する位の覚悟を持て!と言う。
何もそこまで、と思うが、革命家の道を突き詰めると、そこまで行くのか。
右翼の人で、企業を恐喝して捕まった人がいた。彼は、「運動をやるための経済活動だ。当然のことだ」と言っていた。
「スターリンだって革命資金を作るために銀行強盗までやったではないか。日本の赤軍派だって銀行や郵便局を襲っている。同じことだ」と。右翼なのに、左翼の銀行ギャングを例に出してたのだ。
そして言う。「我々は革命家だ。この資本主義社会を打倒するために、自分たちが働いて金を作る必要はない。彼らの金を使って、彼らを倒すのだ」と。
こうなると、銀行強盗も、企業恐喝も全て許されることになる。
元連合赤軍の植垣康博さんは、「銀行の金は元々は〈人民の金〉だ。だから、奪っても当然だ」と言っていた。当時は、そう思ってやったのだ。
革命が達成されたら銀行の金は、全て、我々のものになる。今は、ちょっと預けているようなものだ。
だから、金がなくなると、「銀行に下ろしに行く」と言って、銀行を襲い、金を奪取した。
「日本の…」と付くのは、元の本が、それだけ名作だからだ。『日本の悪霊』『日本の夜と霧』と…。
7月22日(日)、西宮の「鈴木ゼミ」では、そんな話もした。ゲストの池田香代子さんは、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を02年に新訳した人だ。元々、霜山徳爾さんが訳し、ベストセラーになった。
それなのに、何故、池田さんが新訳をすることになったのか。その話もしてくれた。
02年に新訳をしてから、もう17刷だ。私は、霜山さんの旧訳で読み、そして、池田さんの新訳を読み、何回か読んだ本だ。
読むたびに、感動が新たになる。それまで気がつかなかったことに気がつく。あれっ、こんなとこがあったっけと思う。
たとえば、ラストの方だ。収容所から解放されたあとだ。
夢にまで見た解放だ。一緒の人たちは、バタバタと死んでいった。本当に、九死に一生を得て、解放されたのだ。でも、仲間とこんな会話をする。
〈「なあ、ちょっと訊くけど、きょうはうれしかったか?」
すると訊かれたほうは、ばつが悪そうに、というのは、みんなが同じように感じているとは知らないからだが、答える。
「はっきり言って、うれしいというのはなかったんだよね」
わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた〉
これは、ショッキングな文章だ。人間は、こうなっちゃうのか。「うれしい」ことは何十年もなかった。だから、分からないのだという。
そして、言う。
「それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた」
ウーン、そうなのか。「自由」や「解放」を毎日、毎日、夢みたはずだ。そのたびに裏切られた。
だから、忘れていた。「そして、今さあ信じろ、と言われているのだ。今この自由は、はたしてほんとうに現実なのだろうか」。
自由、解放は、〈精神〉だ。だから、ポンと外に出されただけでは〈精神〉の実感がないのだ。ただし、生身の肉体は違う。
〈体は精神ほどにはがんじがらめになっていなかった。待ってましたとばかりに、体はのっけからこの現実を利用した。文字通り、現実につかみかかった。つまり、わたしたちはがつがつとむさぼり食ったのだ。わたしたちは何時間も、何日も食べた〉
そうか。肉体だけは正直だ。すぐに現実につかみかかる。精神の方は、なかなか付いて行けないのだ。
この〈精神〉は、さらに奇妙な働きをする。突如解放された人々は、その現実に付いて行けない。
〈いやむしろまさに突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危険に脅かされるのだ。この(精神衛生の観点から見た)危機とは、いわば精神的な潜水病にほかならない。潜函労働者が(異常に高い気圧の)潜函から急に出ると健康を害するように、精神的な圧迫から急に解放された人間も、場合によっては精神の健康を損ねるのだ〉
これは凄い言葉だ。「精神的な潜水病」か。精神が〈現実〉に付いて行けなくて、ボーッとなり、「嬉しい」とはどんなことか忘れる。その段階なら、まだ、危険ではない。
危ないのは次の段階だ。時として、あれほど虐められ、暴力の怖さを身にしみて知ったはずなのに、今度は、その人間が、他人に対し暴力的になることがあるという。
〈そういう人びとは、今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ〉
〈こうした幼稚な人間にとっては、旧来の枠組みの符号が変わっただけであって、 マイナスがプラスになっただけ、つまり、 権力、暴力、恣意、不正の客体だった彼らが、それらの主体になっただけなのだ。この人たちは、あいかわらず経験に縛られていた〉
ある日、解放された仲間と田舎道を歩いていた。芽を出したばかりの麦畑が広がっていた。〈わたし〉は思わず畑をよけた。仲間はわたしの腕をつかむと一緒に畑をつっきって行った。「若芽を踏むのはよくないのではないか」と、口ごもりながらわたしは言った。すると仲間はカッとなって、わたしをどなりつけた。
「なんだって?」 おれたちがこうむった損害はどうってことないのか? おれは女房と子どもをガス室で殺されたんだぞ。そのほかのことは目をつぶってもだ。なのに、ほんのちょっと麦を踏むのはいけないだなんて」
わたしは、諦めて、自分の心の中で呟く。
「不正を働く権利のある者などいない。たとえ、不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識だ。こうした人間を立ちもどらせるには時間がかかる」
収容所から解放された人は、外の人間では批判しづらい。同情すべき点がある。
でも、同情出来ないのは、「弾圧されてないのに、弾圧された」と思い込み、「だから、何をやってもいい」と思っている人々だ。
オウムなどはその好例だ。連合赤軍もそうだ。
自分たちは正義をやってるのに、こうして日々、国家権力によって弾圧されている。だから、反撃していいんだ。だからサリンを撒いてもいいんだ。…と、逆転した「復讐」思考になる。
右翼の人にもいる。俺達は国のために命を賭して運動している。それなのに一般のサラリーマンは、国のことを全く考えず、自分のこと、自分のサラリーのことしか考えない。だから、そういう連中からは金を脅し取ってもいいんだ…と。
フランクルの言うように、「不正を働く権利のある者はいない」のだ。「精神的な潜水病」にかかってる人間が多すぎるのだろう。
西宮のゼミで、池田さんにも言ったことだが、次の点も、感動した。昔、読んだ時は、全く気がつかなかったことだが…。
収容所の所長や監視者は皆、鬼のような人間ばかりだと思われる。
実際、(厳密に臨床的な意味での)本物のサディストもいた。それに麻痺して、周りの者も見慣れてしまい、鈍感になってゆく。「薬の服用量がだんだん多くなるのに似ている」と言う。
そして他の監視者も、サディズムになんら口をはさまなかった。
ところが、これからが大事だが、収容所の監視者の中にも「役割から逸脱する者」はいた。
〈わたし〉が最後に送られた収容所の所長は、親衛隊員だったが、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者のために近くの薬局から薬品を買って来させた、という。
そして、著者・フランクルは言う。
「全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を超えて引かれるのだ」
えっ? こんなこと書いてあったっけ!と驚いた。もしかしたら、「新訳」で新たに原典から付け加えたのか。
なんせ、原作者が追加したので、「新訳を出す必要性」に迫られ、池田さんは新訳を頼まれたのだし。
そう思って聞いたら、「旧訳にもありましたよ」と言う。
その時は、読んでも気がつかなかったのだ。ナチスの残虐さばかりが印象に残って、そんな「小さな例外」は読み飛ばしていたのだろう。
しかし、今、読むと、凄い言葉だ。そこまで言い切るとは。
収容所にいた人間として、ナチスの〈悪〉だけを強調する方が、得だろう。その方が、「そうだ!そうだ!」と思ってくれる人も多い。本も売れる。
しかし、著者は、こうした〈細部〉をキチンと書く。まるで「神は細部に宿る」とでも言わんばかりに。さらにこう言う。
〈こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入り込み、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。従って、どんな集団も「純血」ではない。監視者の中にも、まともな人間はいたのだから〉
これは又、思い切ったことを言ったものだ。当事者だから言える。
外部の者が言ったら、「とんでもない!」「許せない!」「ナチスは100%悪だ! いい奴などいない!」と怒鳴られるだろう。
このことも池田さんとは、当日、話した。
私だって昔、読んだ時は、全く気付かなかったことだ。あるいは、「そんな馬鹿な!」と読み飛ばしたかもしれない。
しかし、今なら分かる。だから、いい本は、何度も読むべきだ。
池田香代子さんは、『世界がもし100人の村だったら』で大ヒットを飛ばした。又、主な翻訳に『ソフィーの世界』がある。それらの本についても又、ゆっくり話してみたい。
そうだ。私は池田さんとは一緒に本を作っているんだ。そのこと言ったら、
「あの本の帯に、“左右を超えて”と書かれていたでしょう。鈴木さんは右だから分かるけど、私は左じゃないのにね」と言う。
大学の時だって、一度もデモにも集会にも出てない。左翼なんて嫌いだった。最近は、脱原発のデモにはよく出ているが。
そうか。蓮池さんと一緒の本だった。3人で話をしたんだった。と思って、家に帰って探してみた。
あった。09年12月に出た本だ。3年前か。蓮池透さんの『拉致2』(かもがわ出版)だ。本の帯には3人の写真が出ている。
そして、森達也さんの写真も。あれっ? 4人で座談会をやったのかな。と思ったら違う。蓮池さんが、1人1人と対談して、それをまとめたのだ。構成は、こうだ。
〈第1章〉国家という怪物と拉致問題(池田香代子さんとの対話)
〈第2章〉右も左もいっしょになってやればいい(鈴木邦男氏との対話)
〈第3章〉「拉致」解決への道を探る(森達也氏との対話)
本の帯には、こう書かれている。
「複眼的な対話から解決策が見えてくる!」。
うまいコピーだ。確かに、それは言える。ただ、この『拉致2』の下に、サブタイトルが付いている。
「左右の垣根を超える対話集」と。
私は右で、森さん、池田さんは左。そう読める。
「私は左翼じゃないのに」と池田さんは言う。でも、それは森さんだって言っている。
自分は左翼じゃない。当たり前のことを言ってるのに、世の中が急激に右旋回したので、「左」に見えるだけだと。
池田さんも、きっとそれですよ。大丈夫。「中立」ですよ。私だって、この世の中の右傾化、保守化の中で、「もう右翼じゃない」「こいつは左翼だ!」「北朝鮮に帰れ!」と言われてるんだから。光栄ですよね。
じゃ、「左同士の垣根を超える対談集ですよね、これは。オワリ。
凄い人だった。松木さんを除名した民主党からも大勢の議員が来ていた。松木さんの人柄なんだろう。新党大地、みんなの党、「国民の生活が第一」など…。壇上に国会議員がズラリと並んでる。30人以上いた。
谷亮子さんも来ていた。感激しました。「私も柔道をやってます。講道館に通ってます」と言ったら、喜んでました。小柄だし、とてもスリムだ。一瞬、勝てるんじゃないかと思わせるが、そんな勘違いを起こさせるほど、スマートなんですよ。何やっても、敵わないでしょう。
「強い女性」といえば、デヴィ夫人にも会いました。「北朝鮮ではお世話になりました」と言いました。4月、行った時、何度もお会いしました。
松木けんこうさんは、「国民の生活が第一」の議員を紹介し、「余り知られてませんが、この政党では党議拘束を廃止したんです!」。
えっ、知らなかった。「党議拘束を第一番目に廃止したのは、実は、私たち、新党大地ですが」とも言ってた。これから、新しい党や、また、今までの党でも、これを外したら、政治は変わる。
今までは、「増税には私は反対なんですが、党議拘束があるもんで」と、「言い訳」に出来た。それがなくなったら、全て議員個人の責任で判断する。そうなると政治も変わりますと。いいことだ。どんどんやってほしい。石川ともひろさん、伊勢の市長さん…などにも会いました。
前に読んだのもあったが、又、読んだ。皆、分かりやすいし、納得する。説得力がある。
震災後、自民党が先月4日の国会に提出した「国土強靱化基本法案」。その骨子を書いた。いや、自民党が藤井さんの本を基にして作った。だから、この提案の「教祖」とも言われている。
「強靱化」とは、ただ頑丈なだけじゃない。「強く、しなやか」なこと。強くて粘りがあり、しなやかな復興だ。「国土、列島の強靱化」だ。
これは、「受け身」の強さですね、と言ったら、「そうです」と言う。建物も、人間も、「攻める」だけでなく「受け身」が必要なのだ。「ジャイアント馬場さんもジャンボ鶴田さんも、〈受け〉が強かった」という。
突然、プロレスの話になる。とてもプロレス好きなんだ。顔だって、プロレスラーの馳に似ている。体も大きいし、「格闘技はやってるんですか?」と聞いたら、やってないという。でも、思い、考え方は格闘家的だ。
初対面なのに、すぐに打ち解けて、日本の復興策、そして、プロレス…と、縦横に話は展開しました。
「このあと、Wコロンが来ますよ。ねづっちは柔道2段で“炎の体育会”に出てるし。木曽さんちゅうはプロレス好きですよ」と言ったら、「じゃ、残ります」と言って、付き合ってくれた。ねづっちの謎かけには感動していた。「天才ですね」と。
そして、木曽さんとはすぐにプロレスの話になった。とてもディープな話だ。2人はよく知ってる。よく見てる。プロレスに詳しいはずの私ですら付いて行けない話だった。
楽しくて、アッという間に終わってしまいました。今度、又、ゆっくりお話ししたいですね。もしかして「たかじん」で会ってたかもしれないと思ったが、「いや、出てません」という。「TVタックル」によく出ていたんで、それを見て、知ってると勘違いしちゃった。
夜6時半、ロフトプラスワンに行く。7時から、〈「週刊金曜日」創刊900号記念。「言いたいことは山ほどあるノダ!!」〉
3部構成で、盛り沢山な企画だ。会場は満員。私は第1部と第3部に出た。
〈第1部〉19:00〜20:20「日本の政治はどうなっているノダ」
西川伸一さん(明治大學教授)、宇都宮健児さん(前日弁連会長)、佐高信さん、鈴木。
司会:平井康嗣さん(「週刊金曜日」編集長)
〈第2部〉20:30〜21:30「原発なくせっつーの!」
鎌田慧さん(ルポライター)、Misao Redwolfさん(首都圏反原発連合)、雨宮処凛さん。
司会:伊田浩之さん(「週刊金曜日」)
〈第3部〉21:30〜23:00「新聞テレビ雑誌のホンネとウラ側」。青木理さん、植田武智さん(科学ジャーナリスト)、佐野華英さん(編集者)、鈴木。
司会:北村肇さん(「週刊金曜日」発行人)。
〈和歌山カレー事件から14年。林眞須美さんは、獄中から無実を訴え続けています!〉
和歌山カレー事件再審弁護団からの報告。林健治さんの挨拶。記念公演は青木理さん。「『絞首刑』(2008年。講談社)その後」
そして、元兵庫県警刑事の飛松五男さんが、元刑事の立場から、この判決はおかしいと言う。そして、私も、「林眞須美さんを支援する会代表」として、挨拶しました。
終わって、近くの店で打ち上げを兼ねて、今後の方針を話し合う。最終の新幹線で帰ってきました。
⑨これは、ネイキッドロフトです。7月14日(土)です。星飛雄馬さん(中央)、牧田龍さん(右)と。星飛雄馬さんはライターです。本名です。前に、佐藤由樹さんと共著で『天皇家の掟』(祥伝社新書)を作った時、とてもお世話になった人です。
右は牧田龍さんです。「牧田さんのお父さんは有名な爆弾魔の牧田吉明さんです」「星さんのお父さんは一徹さんです。すぐ、卓袱台をひっくり返す人です」と2人を紹介しました。