今年は一水会結成40周年だ。そして一水会の機関紙「レコンキスタ(失地回復)」が400号になる。一水会フォーラムは開催500回だ。よく続いてきたものだと思う。
多くの人たちに支えられて続いてきた。40周年大会は9月14日(金)、盛大に開かれ、多くの人々が駆けつけてくれた。その詳細は次週に報告する。
今回は一水会発足当時のことを書こう。
元々、一水会というのは勉強会の名前だった。「一水会例会」だ。それが、「一水会勉強会」「一水会現代講座」と名前を変え、今の「一水会フォーラム」になった。「一水会例会」から数えて500回目だ。
1970年(昭和45年)11月25日の三島事件に衝撃を受け、昔の民族派学生運動の仲間たちが再度集まってきた。
この頃は、ほとんどの人は運動をやめて、サラリーマンになったり、故郷に帰ったり、大学院に行ったりしていた。
三島事件以降、「何かしなくては」と思っていた。三島由紀夫、森田必勝両氏が自決し、衝撃を受けた。
だが、どうやって精神を継いでいけばいいのか。何をしたらいいのか、分からなかった。
集まっては酒を飲み、ただ、議論していた。一水会が出来たのは、この1年半後だ。1972年5月に、第1回の一水会例会をやっている。
まだ、〈運動体〉ではない。サラリーマンがほとんどだ。マスコミ、ミニコミ関係の人が多かったので、「マスコミ研究会」も作り、仕事に少しでも役に立つ集まりにしようとした。
つまり、3年ほどは、「一水会」と、「マスコミ研究会」の2つが並行して進んでいった。
サラリーマンの「アフター5」の、いわば、「サークル活動」だったのだ。一水会は。
この時は、右翼団体を作ろうなどと思ってない。私も、産経新聞に勤めていた。第一水曜に勉強会をする、という「一水会」も別に右翼的な名前ではない。
それが、「運動体」になったのは、1974年から75年にかけてだ。
74年に私が、防衛庁に突っ込み、逮捕された、産経新聞をクビになる。その後、一水会専従のようになる。そして、1975年8月に、一水会の機関紙「レコンキスタ」を創刊する。
これで、〈運動体〉として一水会がスタートした時だ。三島事件から5年目だ。長い準備期間を経て、スタートした。
この長い「準備期間」がよかったのかもしれない。それだからこそ、40年間、やってこれたのだろう。
一水会が出来た1972年は連合赤軍事件があった。1974年は連続企業爆破〈狼〉の事件があった。
これを取材して書いた私の『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)は、かなり騒がれた。「右翼が左翼過激派を評価し、支持した」と言われた。「左右接近」とも言われた。
そんな中で、「レコンキスタ」も創刊された。又、野村秋介さんが出所してきた。河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に12年服役していたのだ。
そして、山形県米沢市で市会議員をしていた鳥海茂太さんも加わり、「新しい日本を創る青年集会」運動を起こす。野村さん、鳥海さんが中心になり、私らが参加した。
その中で、一水会にも若い人たちが入り、一気に〈運動体〉として成長した。
今、手元に、「レコンキスタ」の400号がある。記念すべき400号だ。9月1日に出ている。
1面に、「写真で見る一水会四十年の歩み」が出ている。懐かしい写真だ。
その中で、アッ!と思った写真がある。「反原発」運動の写真だ。
一水会の街宣車に大きな横断幕が張られている。「反原発に立ち上がろう!」と書かれている。「昭和53年」と書かれている。1978年だ。34年前だ!
「一水会は、かなり前から反原発で闘っていた」と、私は、いろんなところで発言してきた。
でも、20年前だったか、30年前だったか。それは確かではない。
しかし、ちゃんと、こうして〈証拠〉が残されていた。やはり、昔からやってきたのだ。それも34年も前だ。
福島県の浪江で反原発の合宿もやった。高木仁三郎さんを呼んで勉強会もやった。先駆的な闘いだったと思う。
ところが、右翼仲間からは猛バッシングだった。「左翼かぶれだ」「原発は日本に必要だ」「将来、核武装するためにも、なくてはならない」…と。我々は完全に孤立していた。でも、やった。
そして今は、「右から考える脱原発デモ」に見るように、右翼・保守でも脱原発は多い。
去年の福島原発事故以来、日本の国土を汚し、住めないようにしている。これは許せない、と反対の声が出始めた。小林よしのり、西尾幹二、竹田恒泰さんなどの発言も大きな影響を与えている。
そして、一水会では、34年も前から反原発の運動をやってきたのだ。そして、「新しい日本を創る青年集会」の合宿でも取り上げ、街宣車で演説し、抗議運動をしてきた。
この「400号」には、「レコンキスタ」創刊号の写真も出ている。1975年8月号だ。
1面は、「保守の拠点か、変革の原基か=氾濫する〈天皇論〉に何を見るか」。
かたい論文だ。かなり気負っている。私が書いている。
当時は、こういうかたい論文も書いていたのだ。今じゃ、ちょっと書けない。今までの右翼・保守とは違う、新しい地平を切り拓くのだ、という気負いがあったようだ。
その「レコンキスタ」も、今月号で400号だ。縮刷版も2冊発行されている。以前は小さなタブロイド版だが、今は大きなブランケット版だ。
特に、10年前に木村三浩氏が代表になってからの活躍・飛躍は目覚ましい。
日本だけでなく、世界に雄飛している。そして、日本で、世界の愛国者を集めた、「世界愛国者大会」を一昨年、開催している。
フランスの国民戦線のルペン党首も来たし、皆で、靖国神社に参拝し、大きなニュースになった。「愛国者インター」とも言われた。
この時は、ヨーロッパの愛国者が多かった。これからは、アジア、アフリカ、南米…と、拡げてゆくようだ。あるいは、近いが、アジアが1番、大変かもしれない。
だって、世界の紛争、戦争は、まず、その国内の「愛国者」が騒ぎ、世論を煽動し、政府を突き上げて、起こす。
だったら、各々の国の愛国者同士が集まり、そこで激論を交わし、問題点を浮き彫りにしたらいい。
それで、誤解も解け、大きな争いになるのを止められるかもしれない。
あるいは万が一、〈戦争〉が避けられないとするならば、愛国者同士が闘い、それによって、国家対国家の「全面戦争」を避けるということも出来るかもしれない。
これからは、ナショナリズムの時代だ。その「光と影」を背負った、先頭に立つ人間同士が談判し、あるいは戦う。
それによって戦争の空しさを教えることも出来るかもしれない。
一水会40年の歴史は平坦なものではなかった。何度か、もうダメだ、と思ったことがある。
特に大きかったのは赤報隊事件と、見沢氏によるスパイ粛清事件だった。これは私の『新右翼』(彩流社)を始め、何度も書いている。
ともかく大変な時だった。権力の弾圧はあったし、又、仲間もどんどん辞めてゆく。右翼の人からの猛バッシングもある。今考えても、よく耐えてきたものだと思う。
そうだ、他にもまだまだあったな。『新雑誌X』事件やら何やら。今なら、もっとうまい対応があったかもしれない。反省すべきことが多い。
あの頃は、潰れて当然だと思った。でも何とかやってこれた。決して私たちだけの力ではない。多くの人たちに支えられて出来たことだと思う。
最近、17年前の一水会を取材したDVDを見た。おう、皆、頑張っているなあ、と思った。懐かしかったし、感動的だった。
今、『ニッポンの嘘=報道写真家・福島菊次郎90才』という映画が上映されている。
90才の福島さんは、もう伝説的な人だ。この映画を撮った監督はまだ40前の若い人だ。長谷川三郎さんという。
銀座シネパトスで、この監督とトークをした。私が、「これは素晴らしい映画だ。全国民に見てほしい」とツイッターで呟いたら、映画会社の人から連絡があって、「ぜひ、監督と対談して下さい」と言われたのだ。
その時、長谷川監督は、「私が映画監督になるスタートは、一水会の若者を撮ったドキュメンタリーです」と言っていた。
驚いた。それも在日の青年で、その青年を取材する過程で、在日のこと、民族主義のこと、愛国心のことを考えたという。
又、考えの違う人たちとも積極的に話し合って行かなくてはダメだ。と思うようになったという。
『ニッポンの嘘』のパンフに載ってる長谷川監督のプロフィールにも、そのことが書かれている。
〈1996年ドキュメンタリージャパン参加。「TIME OF LIFE・青春〜右翼青年22歳へ」の演出でデビュー〉
以降、NHKや民放を舞台にディレクターとして活躍。「ザ・スクープ〜1999 釜ヶ崎、無情」「真剣10代しゃべり場」「課外授業ようこそ先輩」などを演出している。
憲法24条や、ゲバラを取り上げたドキュメンタリーもある。ヒット作、いい作品を多数手がけている。
その原点になったのが、「右翼青年22才」だという。
「そういえば…」と私も、かすかに記憶がある。じゃ、見せて下さいよと頼み、無理を言って探してもらい見た。
完全に忘れていた。しかし、懐かしいDVDだ。17年前当時、いろんな青年が一水会に入ってきた。
左翼運動から入ってきた見沢知廉のような青年もいたし、専門学校生で一水会を取材に来て、そのまま活動家になった青年もいた。宗教活動に飽きたらずに入ってきた人もいた。
その中に、1人の22才の在日の青年がいた。その青年がなぜ一水会に入ってきたのか。何をやりたかったのか。それを追っていく。
そして、「初めての街宣デビュー」をするまでを追う。
右翼運動の場合、「街宣」は大事だ。駅前で車を止めて、人々に訴える。そこで新聞や本を売る。又、街宣車を使って、走りながらの「流し街宣」をやる。さらに抗議行動をする。
在日の青年は、「思い」だけはあるが、どう行動に移していいか分からない。
その彼を、一水会の先輩たちが指導する。懇切丁寧に説明している。どう街宣するか。どう訴えるか…と。まるで、「初めてのおつかい」みたいだ。
又、彼は在日ゆえの悩みもある。不当な差別も受けた。それゆえに、民族主義について真剣に考えた。
監督に対しても、問いかける。在日のこと。愛国心のこと。映画の中でも、「その点、長谷川さんはどう考えますか」と監督に問い返す。
その中で監督も、考え、悩み、じっくりと話し合う。これは、実にいいドキュメンタリーだ。
「まぶしいですね」と、一緒に見ていた人が言っていた。一途で、ひたむきな青年の表情が、言葉が、まぶしいのだ。
これは貴重だと思った。今はネット右翼の排外主義が注目されている。いや、日本全体がネット右翼化している。排外主義になっている。
17年前の在日の青年の問いかけは、これらとは全く違う。
これは、長谷川監督のデビュー作となった。この在日青年に出会い、話し合うことで、その後の監督活動もあるという。
又、今、『ニッポンの嘘』を撮る動機付けにもなったという。「開かれた民族主義」というテーマは、一水会の活動の原点にもなっていると思った。
今、一水会は40年を迎え、世界に羽ばたいている。木村三浩代表をはじめとした人々の活躍の賜物だ。そうした開かれた、国際的な運動のスタートになったのだろう。
一水会は失敗もした。試行錯誤の連続だった。しかし、こうした「開かれた姿勢」に向かって、努力してきた。それはあったと思う。
そんなことを、このドキュメンタリーから教えられた。長谷川監督とは、又、ゆっくりと話し合ってみたい。
又、9月14日(金)に行われた一水会40年大会については、次週に、詳しく報告したい。
私としては初めてだ。嬉しい。キリスト教の教会で、「聖書」の話をしますよ。詳細が分かったらお知らせします。
〈候補者乱立。自民党総裁選と民主党代表選の行方〉
自民党は石原伸晃氏が谷垣氏を追い落とす形での出馬となった。「平成の明智光秀」とも言われている。
そこまで言うことはないだろう。でも、谷垣氏は(野党時代)の自民党を必死に支え、分裂しないで、民主を追い詰めた。頑張ってきたんじゃないか。と思う。ちょっと納得がいかない。
民主党は朝日新聞の世論調査では、「4人の候補者の中の誰がいいか?」という問いに、1番多かったのは、「この中にはいない」。46%だったという。じゃ、民主の代表は、いらないんだ。そうなる。どうも、シラける。
「編集長は見た!」のコーナーは、月刊『文芸春秋』の島田真編集長。総力特集は、
〈戦後政治65年を総点検する
「国会改革」憂国の決起宣言〉
〈韓国、中国「領土紛争」の深層〉
〈保存版・人生を変えた伝説の名授業30〉
どれも、内容の濃い特集だ。それに、いろんな分野の人の、いろんな角度からの意見が載っていて、勉強になった。「文芸春秋」は、実に、読み甲斐がある。
又、「独占手記。元自衛官、尖閣に日の丸を掲げるの記」
これもよった。凄い人がいるものだと感動した。
「伝説の名授業30」の中では、
〈夏目漱石先生は「英単語は語源から理解せよ」と教えた〉
〈石川啄木は子どもたちにストライキ節を歌わせてクビになった!〉
〈東大特別名誉教授・小柴昌俊。正解のないテスト〉
ともかく、内容が豊富です。読んでみて下さい。
終わって、大久保のスポーツ会館に行ってトレーニング。ここは昔から通っている。合気道、サンボもここで習った。ところが今月一杯で閉館だ。残念だ。
全国から多くの人たちがお祝いに駆けつけてくれた。懐かしい人も多い。政治家、文化人の人も多い。本当にありがたいです。もう40年も経ったのかと、感慨深いです。「開会の挨拶」をやりました。
そのあと、全国の仲間たちと二次会へ。遅くまで飲み、語り合いました。
昔の仲間たちと、高校時代の思い出を語り合いました。「ジョジョの奇妙な冒険」の荒木飛呂彦さんは私の16年、後輩です。仙台での同窓会では、二度会ったけど、こっちの東京懇親会には来てなかった。残念です。皆に、「今月の朝日、見たよ」と言われました。尖閣についてコメントをしたのが載ったようです。帰りに新聞を買いました。
⑧見沢氏の書生になって、住み込んでいた平田竜二氏と。彼の持ってるのは、見沢氏の著書『テロならできるぜ、銭湯は怖いよの子供達』。ここに平田氏のことも書かれています。今度、ゆっくり話を聞こうと思ってます。
⑮アイドルの愛ちゃん(中央)、心ちゃん(右)。左は、嫌われ者のクニちゃん。3人合わせて、「愛国心」です。いいですね。これで歌をうたいましょう。小学生アイドルのかなるちゃんも入れたら、「愛国心かな?」ですね。