森田必勝氏のお墓参りに行ってきました。三重県四日市市です。
そして、お兄さんの治さんにお会いしました。9月29日(土)です。
1970年(昭和45年)11月25日、森田必勝氏は、三島由紀夫と共に壮絶な自決をしました。いわゆる「三島事件」です。あれから42年です。
お兄さんにも久しぶりにお会いしました。若松孝二監督の映画「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」は名古屋の映画館で見た、と言ってました。
「とてもよかったです。弟の真情もよく出てましたし、ありがたいです」とお兄さんは言ってました。
映画で「森田必勝」を演じたのは満島真之介さんです。この時が映画初出演でした。その後、NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」などに出ています。
満島さんには、私も何回か会いました。目のキラキラした、好青年です。
会うと、いつも森田必勝氏の話をしています。彼は、映画の撮影前に、森田必勝氏のお墓参りに行き、お兄さんを訪ねています。何度も、その話を聞きました。
映画公開に合わせて出版された『11.25自決の日』(游学社)でも、その日のことを語ってます。
〈満島は、若松監督からのオファーを受けてすぐ、森田必勝氏のお墓をお参りし、彼の生家を訪ねた。
「お墓をお参りした後、ご実家を探し歩いてたんです。ちょうど農作業をしているおばちゃんたちがいたので、『この辺に、森田さんて方のお家、ありませんか』と声をかけたら、普通に『ああ、マサカツちゃんのとこ?』と、まるきり森田さんが生きてた日常がそのまま目の前にあるようで、衝撃でした」〉
今回、私も同じような衝撃を感じた。「マサカツちゃんのとこ?」がいいですね。四日市の人々の温かみを感じます。
森田必勝氏は、本当は「まさかつ」と読む。しかし、「ひっしょう」と呼ばれることが多く、本人もそれを好んだ。
昭和20年、敗戦の直前に生まれた。それでも、日本が勝ちますようにと願いを込めて両親は「必勝」と名付けた。
「ああ、マサカツちゃんのとこ?」と、おばちゃんに言われ、満島さんは思った。
〈歴史ではなく、日常風景として存在していた「森田必勝」に触れた瞬間だった。そして、教えられた通りに行くと、森田必勝の生家が建っていた。何のアポイントもない。いきなりの訪問である〉
アポイントもなしに訪ねたんだ。今だったら、「梅ちゃん先生に出てる人だ」と分かるだろう。でも、この時は、まだ俳優でもない。普通の、1人の青年だ。でも、お兄さんは会ってくれた。
この時の「出会い」が凄い。まるで映画のようだ。でも、映画を超えた現実なのだ。満島さんは言う。
〈「呼び鈴を押す前に、玄関の前に立ったら、何か、サーッと全身の血が引いていくような、自分が真っ白になっていくような、自分の中に何かが入ってくるような、今までに味わったことのない不思議な感覚を覚えた」という。〉
〈玄関から出てきたのは、森田必勝の実兄だった。
「お兄さんは、玄関に出てきて、立ちすくんでいたんです。顔立ちも全然違うのに、なぜか、必勝が帰って来た!と思った、と言うんです。弟が帰ってきてそこに立っている情景が、ぱーっと脳裡に浮かんだという。その瞬間、僕が森田さんを演じていいんだ、と確信しました」
いきなり訪ねて来た満島に、必勝の実兄は長いこと話を聞かせてくれたという〉
これには驚いた。三島事件以来、実家には、いろんな人が訪ねて来た。皆、知らない人だ。
森田必勝氏のお墓参りをし、お兄さんにも一目会いたい。必勝氏が暮らした家を見たいと思って訪ねるのだ。
「毎年、数人はいましたね」とお兄さんは言う。「弟のことを慕い、憶えていてくれる」と思い、皆、会ってるという。
でも、満島さんの場合は、特別だ。お兄さんは「弟が帰って来た!」と思ったという。
必勝氏は今、生きていたら67才だ。それなのに、どうして、「弟が…」と思ったんだろう。
若松監督は、「その前に、必勝さんのお墓に行ってるでしょう。必勝さんを連れて来たからでしょうね」と言う。
それはあるかもしれない。満島さんに、写真を見せてもらった。
生家の庭には、必勝氏の銅像が建っている。2000年11月25日に建てられたという。
そこで、お兄さん、満島さんが並んで撮っている。
「お兄さんは、必勝さんに似てました」と言う。お兄さんは、もう80過ぎだ。それなのに、「必勝さんと似てました」と言う。
見せてもらった写真は、必勝氏の銅像があり、その隣りに満島さん。そしてお兄さんが並ぶ。
「まるで森田必勝氏が3人いるようですね」と私は言った。本当にそう思った。
必勝氏のお墓の前で撮った写真も見せてもらった。私も撮って載せたので分かると思うが、お墓の上に丸い石が乗っている。真ん中は大きくくり抜かれている。
満島さんの写真を見て、私は、思わず叫んだ。
「あっ、必勝氏が写っているよ!」と。丸い墓石の中に、必勝氏が写っているのだ。
「えっ、本当ですか?」と満島さんは喰い入るように見つめていた。
「必勝氏も嬉しかったんじゃないですか」と私は言った。だからこそ、お兄さんに会った時も、必勝氏が付いて行ったのかもしれない。
9月29日、四日市には他に3人行った。岩井、下中、吉本の3人だ。
「満島さんの写真には、必勝氏が出てましたよ」と教えてあげた。
我々も、デジカメで何度も何度も撮って、見てみたが、必勝氏は写ってない。丸い墓石の中央には、空洞があるだけだ。そこを通して、後ろの墓地が見えるだけだ。私のカメラには現れてくれなかった。
「鈴木さんはいいでしょう。学生時代に、毎日会ってたんだから」と、必勝氏の声が聞こえた。これは本当だ。
必勝氏の実家を訪ね、お兄さんに会った時、ご無沙汰したお詫びもそこそこに、まず、映画の話を聞いた。そして、満島さんを見て、「弟が帰ってきた!」と思った話を聞いた。
隣りにいた岩井さんが、必勝氏の日記を読んできたと言っていた。森田必勝『わが思想と行動』(日新報道)だ。
「これを読むと、高校時代は、むしろ左翼的な青年ですよね。大学に入ったら全共闘活動をやりたいって言ってますし」
そうなんだ。山口二矢や小森一孝のような右翼テロは許せない!と書いているし…。「左翼」というよりは、当時の高校生の「正義感」なんだろう。その正義感で全共闘運動をやろうとしたのに…。
「それなのに、私たちが必勝氏を右の運動に誘ってしまって。すみませんでした」と私はお兄さんに謝りました。
でも、それで必勝氏は三島と知り合った。又、必勝氏がいなかったら、いわゆる「三島事件」も起きなかった。必勝氏が事件の中心だし、推進役だ。それは、映画「11.25自決の日」を見たら、よく分かる。
「それにしても、どうして『弟が帰ってきた!』と思ったんですか?」と、聞いた。
失礼かと思ったが、ずつと引っかかっていた疑問だ。その疑問を解くために四日市に来たと言ってもいい。
必勝氏は、当時、25才。私より2つ下だ。だから生きてたら、67才だ。それに、満島氏とは顔も、身体つきも違う。全く違う。
でも、雰囲気は似てたのか。又、お墓から必勝氏を連れて来たのか。
それにしても、「今なら60過ぎですよ。それなのに、どうして?」と聞いた。お兄さんは答えた。
「今でも、弟は、ずっと25才のままです」と。アッと思った。
そうなのか。家の中には、祭壇に、必勝氏の写真がある。三島さんの写真もある。庭に出ると、必勝氏の銅像がある。町の人たちも、「マサカツちゃん」と憶えている。皆、「25才の必勝氏」を憶えているのだ。
今回、お墓参りをし、お兄さんに会おう。そのことを思ったのは、長い間、ご無沙汰して、必勝氏にもお兄さんにも申し訳ないと思ったからだ。
それと、満島さんに会ったことがある。
もう1つ、下中氏のことだ。今回同行した下中氏の息子さんのことがある。息子さんの下中忠輝君は、東京によく出てきていた。又、西宮ゼミにも来てくれた。純心な、心のきれいな青年だった。
必勝氏や、『二十歳の原点』の高野悦子などが好きで、お墓参りをしていた。必勝氏のお兄さんを訪ねた時は、お父さんも一緒に行っている。
銅像の前で撮った写真を見せてくれた。「あっ、銅像が出来たんだ」と初めて知った。
下中青年は、その後、亡くなった。あまりに清らかな人なので、この汚れた世界には耐えられなかったのだろうか。
下中青年のお父さんは、その後、2度、お兄さんに会ってるという。
私が四日市に来たのは、随分前だ。だからお墓も実家も、うろ覚えだ。
だから、今回、下中青年のお父さんに案内してもらった。必勝氏のお兄さんにも事前に電話をしてもらった。
岩井、吉本さんも行きたいというので、連れて行った。
「今回は学校も見たい」と私は言った。
必勝氏は、海星中学・海星高校という中高一貫のキリスト教の学校に通っていた。カソリックだ。
私も、(プロテスタントだが)ミッションスクールだ。それもあって、どんな学校なんだろう。遠くからでも見てみたいと思った。
岩井氏が調べてくれた。それで、お兄さんに会う前に、お墓参りと、「学校見学」をした。
外から見て、写真を撮って、「じゃ、帰りますか」と私が言ったら、「中を見せてもらいましょうよ」と岩井氏が言い、校内に入って行く。
そこにいた先生に名刺を渡して、頼んでいる。彼は、何でも予備校に勤めているらしい。「だから、入学案内のために見せてくれ」と頼んでいるようだ。
それなら、中も見れるかな、と思って、私も後から入って行った。
ちょうど、先生が学校の説明をしている。
「ご存知かもしれませんが、作家の三島由紀夫さんと共に自決された森田必勝さんは、ここの卒業生で。必勝さんのお兄さんは、長い間、ここの教師をされてたんです…」と。
そこに私が来たので、岩井さんが、「一緒に来た鈴木さんです」と慌てて紹介する。
その瞬間、その先生が、「あっ、テレビで見てます」と言う。『たかじん』を見てくれてたのだ。
それで、「実は、私は森田必勝氏と一緒に早稲田大学で右派学生運動をしてたんです。一度、出身校を見たくて…」と説明しました。
こっちは、何者か分からない。それなのに、「森田必勝さんがここを出られたんです」と誇りを持って言う。
嬉しかった。ありがたいと思った。満島さんに「マサカツちゃんの家か?」と言ったおばさんにしろ、学校の先生にしろ、温かい。
〈森田必勝〉という男を温かく包み、誇りを持っている。今も生きているんだ。25才のままに…。
このあと、学校の中を案内してもらった。各教室に、マリアさまや、キリストの像がある。〈キリスト教の学校〉という色彩が濃い。私らの学校では、これほどではなかった。
帰ろうとしたら、校長先生も来られた。いろいろと話を聞いた。「必勝さんの遺骨は、四日市カソリック教会に納められているんです」と言う。
必勝さんの実家を出てから、その教会にも行った。「海星の校長さんから電話を頂きました」と言って、神父さんが案内してくれた。
そして、遺骨の納められている〈納骨堂〉で、「主の祈り」を捧げました。
四日市の人たちは皆、必勝氏に優しかった。温かかった。誇りを持っていた。
私だって、「森田必勝」という男と出会ったことが、人生の最大の宝だ、と思っている。当時、右派運動をした人たちは皆、そう思っている。
お兄さんが言っていた。「映画の本でも、鈴木さんの書いたものを読んで、とてもよかったです。それにしても、いろんな本を書いたり、テレビに出たり、鈴木さんは多才ですね。才能がありますね」。
とんでもない。無能ですよ。無能だから、学生運動では追放され、勤めた産経新聞はクビになった。
ただ、その後、いろいろ原稿を書いたり、本を書いたり出来たのは、全て、学生時代に森田必勝氏に会ったからですよ。必勝氏に会ったので、衝撃を受け、影響された。
そして、必勝氏の死後も、必勝氏に励まされて生きてきた。それで、運動も仕事も出来たんですよ、と言った。
私だけではない。あの頃、早大にいた人たちは皆、必勝氏と出会ったことを「最上の宝」だと思っている。そして、心の中に大事に、大事に持って生きている。
これは敵だった全共闘もそうだ。大口・全共闘議長も、必勝氏のことはよく憶えている、と言っていた。
皆の心の中に、大きな宝、大きな勇気を与えてくれた。必勝氏と同じ時代に生きた幸せを感じた。同じ時代に出会えたなんて、〈奇跡〉だ。それを大事にして、生きていきたいと思った。
〈日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛にすぎない。ただの排外主義。愛国とは最も遠いものです〉
当たり前のことしか言ってないのに、「天声人語」にまで取り上げられて、申し訳ないです。いろんな人の発言を引き、最後は、こう結んでいます。
〈国民感情を煽る言動、村上春樹さんが言うところの「安酒の酔い」に溺れず、ここは心に一拍おいて国柄を示したい。台風が恨めしいが、今宵は中秋の名月である〉
午前中、原稿。午後、取材。夜、講道館に行く。先生に、「きのう、テレビみたよ」と言われました。「へたな話ですみません」と謝ったら、「いや、なかなかいい事を言うもんだと感心したよ」。えっ、そうですか。
他にも、「朝日新聞、見たよ」とか、「天声人語、読んだよ」という人もいた。柔道家も、読んでるんですか。驚きました。
では、初めから紹介します。「ニュース・本音と建前」は「アメリカの対日圧力と外交問題」。
外交官生活の長い孫崎さんの『戦後史の正体』(創元社)は何と20万部も売れている。内容も我々の知らないことが多い。又、最新刊『アメリカに潰された政治家たち』(文芸春秋)も売れている。吉田茂、田中角栄、岸信介に対する、「これまでの評価」を覆す内容には驚きだ。
「アメリカの圧力」は決して過去の話ではない。今も続いている。たとえば、尖閣問題でもアメリカの影が見え隠れしている、と言う。
〈中国が尖閣領有を主張し始めるのは70年代だが、79年5月31日付の読売新聞の社説「尖閣問題を紛争のタネにするな」では、「この問題を留保し、将来の解決に待つことで日中政府間の了解がついた」とし、棚上げ状態を保つことが日本の国益にかなうとしている。当時の園田直・外務大臣も「我が国は刺激的、宣伝的な行動は慎むべき」と国会で答弁している。それなのに、いま、これほどの騒ぎになっているのは、背景にアメリカがいるからです。日中間を緊張させて中国脅威論を煽り、在日米軍の必要性を日本人に訴えるという意図が顕在化している〉
さらに孫崎さんは言う。
〈今回の尖閣騒動で一番得したのはアメリカです。ケビン・メア元アメリカ国務省日本部長は『文芸春秋』に寄稿して、「尖閣で日本は大変だからF35戦闘機をもっと買え、イージス艦を増やして配置しろ」と要求をエスカレートしている〉
ウーン、あまりにも率直過ぎて驚くばかりだ。さらに、日本の政治家で、アメリカに「追随」してきたのは誰か。自立派は誰か。について具体的に話してくれる。これも又、驚くべき内容だった。これは、孫崎さんの『戦後史の正体』『アメリカに潰された政治家たち』に詳しい。
このあと、「編集長は見た!」。『週刊金曜日』の平井康嗣編集長。現在発売中の『週刊金曜日』(9月28日号)に、何と、今回のゲスト・孫崎さんとオーストラリア人歴史学者のカバン・マコーマックさんの対談が載っている。
〈日本はいつまでアメリカの属国に甘んじているのか〉
マコーマックさんは、孫崎さんの『戦後史の正体』をぜひ、アメリカでも発売すべきだと言っている。実は、日本語のものはニューヨークでも売っていて、売り切れだという。早く英訳して出してほしいものだ。「学界の本流では『望ましい本』とは思われないかもしれないが、大きな波紋が起きるだろう」とマコーマックさんは言う。又、こう言っている。
〈おそらく近現代史で、日本ほど異様に他国と従属関係にある国は存在しない。よほど深い根がある。日本は、ワシントンの指導を喜んで受け入れている。進んで隷属化している。
さらに不思議なのは、冷戦が終結して「敵」がいなくなったのに、「日米同盟強化」と称してますますそうした隷属が深まっていたという点。米国もより露骨に日本に対し、自分たちの利害を押し付けるようになった〉
これは厳しい指摘だ。外から見ると、よりはっきりと、歪んだ「日米関係」が見えるのかもしれない。
続いては、あさって発売の『週刊金曜日』について。オスプレイ配備問題に迫った沖縄の特集です。
〈もちろん、早期リタイアしたからといって、ゆっくり休むつもりは毛頭ございません!第二の現場では、全国どもでも、すぐに行くことのできる「魔法のドア」があると伺っております。そこで…〉
と、次の仕事の抱負を語っている。凄い意志の力だ。精神力だ。死期を分かってから、告別式などの段取りを全て整え、仕事もやり、そして、これから出す原稿なども準備して、行ったという。どこから、その強さは来るのだろうか。もっともっと教えてもらいたかった。残念だ。41才。余りにも若い。
⑭日本に住む中国人向けの新聞だと思いますが、『聯合報道』(9月20日)に「右翼って一体、何?」という記事が出て、私のことも出てました。
〈早大を優秀な成績で卒業したのに、なぜか右翼になった。“俺こそ愛国者だ”という人の多い中で、「下らない。そんなのに血糖値の高さを競い合うようなものではないか」〉と言ってたそうです。私が…。
⑮朝日新聞の石川県版(9月15日)にも出てました。中能登町議会では、町の人たち皆に日の丸を買って掲揚してもらおうと、予算案を作り、可決した。この件につき、いろんな人がコメントしている。大賛成の人もいれば、反対の人もいる。「自分のお金で買って、掲げたらいい。お金を配って揚げさせられたのでは、日の丸がかわいそう。むしろ冒涜だ」という人も。(私でした)。
⑰「一水会40周年記念大会」の様子を報じる「レコンキスタ」(10月号)。今月号は、特別にカラーです。大会の様子、来賓、参加者の挨拶。そして、北朝鮮から帰ってきた「料理人」藤本健二さんの講演要旨など、読み甲斐があります。私も毎月、連載しています。興味のある人は、買ってみたらいいでしょう。1部500円。年間購読料6000円です。問い合わせ、申し込みは、一水会事務局へ。電話03(3364)2015 FAX03(3365)7130です。