2012/10/29 鈴木邦男

若松孝二監督を拍手で送った。

①「次は原発事故の映画を撮る!」と

若松孝二監督の告別式(10/24) 若松孝二監督の告別式(10/24)

異例の出棺風景だった。私だって、こういう体験は初めてだ。

だって、出棺の時、皆、拍手で送ったのだ。他の人だったら、誤解されかねない。若松孝二監督だから出来た。

これも「若松映画」の一シーンかもしれない。文化放送に出た時、寺ちゃんが、「テレビで見ましたけど、出棺の時、皆で拍手してましたよね」と聞かれた。

ちょっと異例だ。知らないと、異様に思えるかもしれない。

「デイリースポーツ」(10月25日)には、「“スタンディングオベーション”で見送り」と出ていた。

オベーションとは、褒め称える、称賛するという意味らしい。オペラやお芝居が終わり、観客が拍手する。それだけでは足りずに、皆が、立ち上がって拍手する。それが「スタンディン

グオベーション」なのだ。

それと同じ形で、若松監督を褒め称えたのだ。

お別れに800人の人たちが… お別れに800人の人たちが…

ギリシアのテオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」(75年)の中に、拍手で故人を送るシーンがある。若松監督は、この監督が好きで、特に、このシーンに衝撃を受けたという。

又、監督は、湿っぽいのが嫌いだ。常々、言っていたという。

「俺が死んでもメソメソ泣くんじゃねえぞ。あの映画のように、“よく頑張った。ご苦労さん”と拍手で送ってくれよ」と。

出棺の前に、親族を代表し、三女の尾崎宗子さんが、挨拶していた。「だから、今日は、拍手で送ってあげて下さい」と。

それで、全員のスタンディングオベーションになったのだ。私も、生まれて初めての体験だ。これも映画のワンシーンのようだ、と思った。

前日(10月23日)、お通夜の時も、親族代表として尾崎宗子さんが挨拶した。

この日、若松監督の奥さん、それに3人の娘さんが参列していた。

三女の宗子さんだけが映画の仕事をしている。若松プロで働いていた。だから、監督の仕事のことをよく知っている。

若い頃の監督 若い頃の監督

それで、「親族代表」で挨拶したのだ。父親だが、いつも、「監督」と呼んでいた。

「監督はいつも映画のことばかり考えていました」と言う。

次は何を撮るか、を頭の中で考え、周りにも言っていた。

「次は福島原発の映画を撮る」と言っていた。これはテレビでも発言していた。

「俺は国家が喜ぶような映画は撮らない。映画を撮るというのは、国家への反逆だ。俺は死ぬまで反逆するんだ」と言っていた。

今、これだけの覚悟を持って映画を撮ってる人は、他にいない。

「次は原発の映画だ」というので、「もしかしたら、単なる事故ではないのでは」と勘ぐる向きもある。ネットやツイッターで書き込んでいる人もいる。しかし、それはないだろう。

ただ、これだけ偉大な監督を失い、その怒り、悲しみの持って行き場がなく、「陰謀説」を書き込んでいるのだろう。

②「沖縄戦」「白虎隊」も見たかった

お通夜で(10/23) お通夜で(10/23)

原発の映画だけではない。他にも考えていた。宗子さんは言う。「沖縄戦、731部隊、白虎隊…」と、撮りたいと言っていた。

これは是非やってほしかった。撮ってほしかった。国家の隠された悪を暴く。又、東北人としてのレジスタンスをやる。

沖縄にも並々ならぬ関心を持ち、犠牲にされた沖縄の姿を描きたいと言っていた。

現代史は分かる。現代日本の歩みへの怒りも分かる。しかし、もっと歴史を遡って、「白虎隊」を撮りたいと言っていたのだ。薩長軍と闘って、若くして散っていった白虎隊。それを撮りたいと言ってたという。

そうか、それで「若松孝二」なのか。実は、若松孝二さんは、本名は伊藤孝だ。

孝を孝二にしたのは何となく分かる。でも「若松」はなんだろう。きっと、会津若松から取ったのだろう。

奥田瑛二さんと 奥田瑛二さんと

白虎隊にも異常なほどの関心を持っていたし、「東北人・若松孝二監督」の抵抗のシンボルでもあるんだ、白虎隊は。

「そうかもしれませんね」と三女の尾崎宗子さんは言う。結婚したので、尾崎姓になった。

しかし、「宗子」さんという名前は珍しい。「多分、郷土の英雄・伊達政宗から取ったんですよ」と私が解説してあけた。「えっ、そうですか。知りませんでした」と本人は言う。

きっとそうだ。若松さんは、そういう思いで付けたのだ。

出身地の宮城県涌谷町をこよなく愛していた。又、涌谷町の人々も若松監督を愛し、「郷土の誇り」だと思っていた。それは去年、NHKで放映された「ようこそ先輩」にもよく出ていた。(これは11月3日にNHKで再放送されるという)。

政治家の鈴木宗男さんも、実は、宮城県出身だ。お父さんの代に北海道に移った。

(中央)内田裕也さん、高橋伴明さんと (中央)内田裕也さん、高橋伴明さんと

でも、故郷・宮城県を誇りに思っている。

お父さんは、郷土の英雄・伊達政宗のようになれ!という思いを込めて「宗男」と付けた。現に、政界の政宗になっている。

今思い出したが、帝銀事件や永山則夫の弁護人だった遠藤誠さんも宮城県出身だった。反骨・反逆の弁護士だった。

東北は、坂上田村麻呂以来、何度も中央から侵略された。中央と闘ってきたのが東北の歴史だ。「だから国家と対決するのだ。共に立ち上がろう!」と、遠藤さんによく私も言われていた。宮城県は反逆者の産地だ。

③郷土、「涌谷の誇り」だ!と…

篠原勝之さんと 篠原勝之さんと

三女・宗子さんに私は、「河北新報の記事が一番よかったですね」と言った。

見てなかったので、翌日、コピーを渡した。前にこの欄でも紹介したが、

〈「涌谷の誇り」「感謝」
突然の悲報、恩師ら悲しむ〉

という記事だ。中学時代に監督を教えた恩師が今も元気で、コメントしている。前にも紹介したが、若松監督は帰郷すると、必ず先生の前に姿を見せたという。

〈「中学時代は体が小さかったが、負けず嫌いだった。その精神こそ彼の生き方そのものだったのではないか」と話す。
母親を慕い、盆には墓参を欠かさなかった一面も。
「温かい心は、古里涌谷の風土が育てたものと思う。いまはよくやった。偉いと褒めてやりたい」と語った〉
山崎ハコさんと 山崎ハコさんと

85才の恩師も、スタンディングオベーションで見送ったのだ。

若松監督は76才。恩師は85才。9才しか違わない。でも中学3年(14才)の時、先生は23才だ。

こんな若い先生は沢山いた。たった9才しか違わないが、先生は、「ずっと大人」だし、「偉い先生」なのだ。

河北の記事を続ける。

〈昨年9月、若松さんはNHKの番組収録で母校涌谷一小を訪れ、「授業」をしていた。話を聞いた佐藤聖利君(12)—涌谷中1年は、「映画の楽しさを熱心に話してくれた。このような偉大な人が出たのは誇り」と話した〉

素晴らしいですね。こういう「郷土愛」が大事なんです。

本当に、土地に密着し、人々と触れ合った「愛」だ。抽象的な「愛国心」に逃げない。いいことだ。

ここに出てくるNHKの「授業」というのは、「ようこそ先輩」だろう。

(中央)重信メイさん、パンタさんと (中央)重信メイさん、パンタさんと

この時も、85才の恩師・木村さんが出ていた。中学時代の若松監督について聞かれて。

「この子はね、眼が輝いていたわ」と言っていた。76才の大監督をつかまえて、「この子」だ。

いいですね。「76才になって、“この子”なんて言われたよ」と若松監督も言っていた。とても嬉しそうだった。

そうだ。私は、秋田県、宮城県で小、中学校時代を過ごしたが、久しぶりに先生に会うと、私のことを「おもしれー、わらしっ子だった」と言う。

童(わらし)とは子供のことだ。「っ子」というのは小さいものに付けて親愛の意味を表す接尾語だ。ベコ(牛)も、小さいのは、「ベゴッ子」だ。

思想運動をする人も、若くて未熟なうちは、「右っ子」「左っ子」と言う。(言わないかな。じゃ、これから言えよ)。

さらに河北の続きだ。

〈2009年にはベルリン国際映画賞受賞などの功績で、町から特別功労の表彰を受けた。賞状を手渡した前町長の大橋荘治さん(77)は中学の同級生。「受賞の喜びをともに分かち合った。彼は同級生の星。涌谷を愛した彼に感謝したい」としみじみ語った〉

④必勝氏を甦らせてくれた

池田香代子さん、孫崎享さんと(10/19) 池田香代子さん、孫崎享さんと(10/19)

涌谷町からもらった賞か。「人生で一番嬉しかった」と監督は言っていた。国際映画祭の賞よりも、故郷・涌谷からもらった賞が嬉しかったのだ。

若松監督には、国民栄誉賞とか、文化勲章だってあげていいと思う。でも、「国からもらう賞なんてもらえるか」と怒るかもしれないな。「俺は死ぬまで国家に反逆するんだ!」と言って。

そして、故郷の涌谷を限りなく愛した。涌谷の人々も監督を愛し、誇りに思った。

これこそが本当の「愛国心」ですよ。

愛郷心の裏付けのない「愛国心」なんて、全て偽者だ。故郷を愛することも出来ないくせに、「俺は国家を愛している」と叫んでも、嘘だ。実体がない。

前にこのブログにも書いたが、9月29日(土)、四日市に行ってきた。三島と共に自決した森田必勝氏のお墓参りをし、お兄さんに会ってきた。

植垣さん、徐さん、山平さんと(野村秋介さんの墓前祭で) 植垣さん、徐さん、山平さんと(野村秋介さんの墓前祭で)

必勝氏の母校を訪ねたら、必勝氏のことを愛し、誇りに思っている。市の人々もそうだ。

お兄さんは、「ぜひ四日市でも上映して下さい」と言っていた。その時は、若松監督ともお会いしたい、と言っていた。「私がお連れします」と約束したのに、果たせなくなった。

「映画は感動的でした。弟のことも、忠実に描いてくれてありがたいです」とお兄さんは言っていた。

映画の本もよかったという。私が書いた文のことに触れ、佐野史郎さんの言葉に感動した、と言っていた。若松監督の告別式で会ったので、お兄さんの言葉を伝えた。

「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」の中で、決行直前、5人で会うシーンがある。「生き残れ」と命じられた小賀、古賀、小川は、三島、森田に最後の直訴をする。「我々も連れて行って下さい!」と。

一緒に死なせて下さいと直訴したのだ。三島は許さない。森田は言う。「生きるも死ぬも一緒だ。すぐに会える!」と。

その映画を見て、佐野史郎さんは、言った。「森田さんの言葉は本当だ。ほら、こうして5人は再会してるじゃないですか」。

雨宮処凛さん、山本太郎さんと(10/20) 雨宮処凛さん、山本太郎さんと(10/20)

つまり、これは〈映画〉ではない。ここで、本当に会っているのだ、と。

この言葉を聞いて、私は不覚にも涙がこぼれた。お兄さんもそうだったという。

森田必勝氏を演じた満島真之介さんは撮影する前に、必勝氏のお墓参りをし、お兄さんを訪ねている。

「又、お会いしたいですね」とお兄さんが言っていたので、告別式の日、満島さんに伝えた。「嬉しいですね。又、行ってきます」と言っていた。

三島映画、連赤映画に出た役者さんたちも皆、来ていた。私もつい、役名で呼んでしまった。「吉野さん」とか、「永田さん」とか、「植垣さん」とか。

連赤事件から40年。三島事件から42年だ。そんな年月なんて軽く飛び越えていた。あの時代そのままが描かれていた。それだけ若松映画の力は大きかったのだ。もっともっと撮ってもらいたかったのに残念だ。

【だいありー】

三島研で講演する寺尾克美さん(10/22) 三島研で講演する寺尾克美さん(10/22)
  1. 10月22日(月)午前中、原稿。午後、取材と打ち合わせ。午後6時、アルカディア市ヶ谷。三島由紀夫研究会の公開講座に行きました。42年前の三島事件の「生き証人」の貴重な講演です。これはぜひ、行かなくては、と思いました。同じ思いの人で会場は満員でした。講演するのは寺尾克美さんです。元・陸上自衛隊中央会計部長(陸将補)です。

1970年11月25日、人質になった益田総監を救出しようと9人で突入しました。森田必勝は益田総監の胸に短刀を突きつけていました。寺尾さんは森田氏に飛びかかり、手首をひねり上げて短刀をもぎ取ります。その時、三島氏に四太刀、斬りつけられ重傷を負います。病院に運ばれ、奇跡的に助かりました。凄い体験です。

三島夫人の瑶子さんは事件直後、負傷した自衛隊員のお宅を回り、謝罪して歩いたそうです。寺尾さんは、「いや、こちらこそ、三島さんの計画を邪魔して済みませんでした」と言ったら、夫人は大粒の涙をポロポロ流していたそうです。

御手洗さん、寺尾克美さんと 御手洗さん、寺尾克美さんと

重傷を負った隊員の話を聞いたのは初めてです。質問も随分と出ました。終わって、打ち上げにも出て、さらに寺尾さんの話を聞きました。ゆっくり又、聞きたいものです。

  1. 10月23日(火)朝7時の新幹線で仙台へ。そこから塩釜へ。10時半から塩釜・東園寺で父親の法事。23回忌。兄貴夫婦、弟、兄貴の娘が集まりました。
    その後、仙台の兄貴の家に寄り、2時半の新幹線で東京へ。6時から青山葬儀所で若松孝二監督のお通夜。全国から800人が参列しました。皆、いまだに信じられない様子でした。偉大な監督をなくし、残念でなりません。もう、これだけの監督は出ないでしょう。
     多くの人に会いました。井浦新さん、満島真之介さん、佐野史郎さん、パンタさん、山崎ハコさん、内田春菊さん、内田裕也さん、高橋伴明さん、…などです。「残念だ。悔しい」と皆、言ってました。
塩釜・東園寺のご住職さまと 塩釜・東園寺のご住職さまと
  1. 10月24日(水)午前10時30分から12時。若松監督の告別式。足立正生さん、游学社の遠藤社長、井浦新さんの3人が弔辞を読む。井浦さんは、事件の直前まで食事をしていて、見送った後だったという。悲痛な弔辞だった。棺の中に菊の花を入れる。出棺の時、三女の尾崎宗子さんが挨拶。「監督は湿っぽいのが嫌いでした。“よく頑張った“と拍手で送ってほしい」。それで、皆で拍手で送りました。

午後3時、文化放送。寺ちゃんは、テレビで告別式の様子を見たという。「でも、出棺の時、拍手してましたね。どうしてですか?」。確かに、そのシーンだけを見ると、ちょっと分からない。異例だ。だから三女の挨拶の話をした。「そうでしたか」と納得していた。

今日は、番組の初めに、若松監督の話をした。「実録・連合赤軍」「キャタピラ」「11.25自決の日」と、社会的に大きな、衝撃を与えた映画を撮り続けた人だ。私の付き合った中での若松監督の話をした。「とても凄い監督だったんですね。まだまだ、撮ってほしかったですね」と寺ちゃん。

兄貴、私、弟です 兄貴、私、弟です

「ニュース本音と建前」は、〈沖縄アメリカ兵暴行事件で高まる、日米地位協定見直しの声〉。

米軍は日本を守るためにいるという。しかし、今や米軍そのものが、日本の〈脅威〉になっている。基地はいらない、米軍もいらない。歴代の首相の中では、地位協定見直し、基地縮小を堂々とかけ合った人もいた。しかし、今はいない。孫崎享さんの『戦後史の正体』を読むと、それが分かる。

又、若松監督は沖縄に多大な関心を持っていた。沖縄戦を中心として、今の沖縄問題を映画化したいと言っていた。ぜひ撮ってほしかったと思う。

「編集長は見た!」のコーナーは、月刊『MAMOR』(扶桑社)編集長の高久裕さん。

12月号の巻頭グラビア「防人(さきもり)たちの女神」は小松彩夏ちゃん。1986年生まれで、「美少女戦隊セーラームーン」への出演で知名度を上げ、「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」にも出演している。

大阪の討論Bar「シチズン」で(10/21) 大阪の討論Bar「シチズン」で(10/21)

そしたら、「私も『踊る大捜査線』に出てます」と唐突に貞包みゆきアナウンサーが言う。そうですね、じゃ、今度、貞包アナを巻頭グラビアの「防人たちの女神」に出して下さいよ、とお願いしました。「いいですね、検討しましょう」と編集長は言ってました。

グラビアチェックの後は、内容です。

〈自衛隊の階級を勉強しよう!〉

旧軍を連想されないように、「大佐、中佐、少佐」を「一佐、二佐、三佐」に変えた。他も同じ、「大、中、小」を「一、二、三」に変えたのだ。でも、英語にしたら同じだ。そうでないと、海外に通じない。だったら、元に戻してもいいんじゃないか。今の階級と、権限などについても聞いた。自衛隊では「階級によって定年年齢が違う」というのは初めて知った。又、上にあがるための試験が大変なんだそうだ。又、「幹部候補生」とは何か。についても解説してもらいました。

さらに、

討論Barでの討論です 討論Barでの討論です
〈海上自衛隊直伝、ガッツリ食べても健康レシピ〉

海の上に長い間いると、外食は出来ないし、艦内の食事だけが楽しみだ。又、激務に耐える肉体を維持するメニューにも工夫がある。そこで、直伝の名物レシピが紹介される。さらに、

〈国を守るパワーの源。
自衛隊の秘密〉

こうなると、給食も、「国防」の源になる。大いなる〈作戦〉だ。その辺の話も聞きました。

そのあとは、Wコロンの「隣りの芸人さん」。Ust延長戦。

終わって、新宿へ。原稿の打ち合わせ。そのあと、軽く飲んで、家で原稿。早く寝て、夜中に起きて仕事。なんか、受験生みたいだ。

討論Barでの懇談会です 討論Barでの懇談会です
  1. 10月25日(木)午前中、原稿。昼、取材。午後3時、河合塾コスモ。「現代文要約」。5時、「読書ゼミ」。今日は、北川智子『ハーバード白熱日本史教室』(新潮新書)を読んで、生徒と話し合った。
     アメリカの大学で、こんなに頑張っている先生もいるんだ。驚いた。「日本史」に対し、これだけアメリカの学生に関心を持たせ、熱狂的に勉強させる。凄い話だ。終わって、生徒と食事会。そのあと、高田馬場で打ち合わせ。
  2. 10月26日(金)午前中、打ち合わせ。午後2時半、本間龍さん(作家)と対談。本間さんは、『転落の記』のあと、『電通と原発報道』(亜紀書房)という、衝撃的な本を出し、大きな問題提起をしている。広告代理店、原発、言論の自由について話す。
「山本美香さんを送る会」(10/19) 「山本美香さんを送る会」(10/19)

若松監督も「次は原発事故の映画を撮る」と言ってましたよ。本間さんを紹介しようと思ってたのに残念です。と言いました。なぜ電通だけがこれだけ巨大になったのか。又、実際は、何をやってるのか。そして、言論の問題について話し合った。

終わって、家に帰って、ちょっと寝る。夜中に起きて仕事する。昔は、「その日に出来ることを翌日に延ばすな」と思っていたが、今は体力が続かない。眠くなったら、少しでも寝て、それから仕事するようにしている。

  1. 10月27日(土)午後1時から、阿佐ヶ谷ロフト。前の日、「もう予約で一杯だ」と司会の白井さんからメールが。初めは、「生誕100年祭Part2」をやる予定だったが、急遽、「若松孝二監督追悼」の集まりにした。
山本美香さんの映像が流されました 山本美香さんの映像が流されました

永年の仕事のパートナー・足立正生さんも来てくれ、話をしてくれた。又、塩見孝也さん(元赤軍派議長)も来てくれた。「実録・連合赤軍」では、もの凄く格好よく描かれている。徐裕行さん、金廣志さん、平野悠さん…なども来てくれ、若松監督の思い出を語ってくれた。私も、「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」に関わった経緯などを話した。

又、三島と一緒に自決した森田必勝氏の話も。先月、必勝氏のお墓参りをし、お兄さんを訪ねたら、「ぜひ、監督にお会いしたい」と言っていた。「お連れしましょう」と約束した。監督も、心待ちにしていた。ところが、急に亡くなり、約束は果たせなくなった。

…と、思い出は尽きない。終わってからも場所を移して、話し合いました。

  1. 10月28日(日)午前中、原稿。12時より、杉並区立「座・高円寺」ホール2に行く。シンポジウム「ナショナリズムの誘惑」を聞く。
     出演は、安田浩一さん、木村元彦さん、園子温さん、園さんには久しぶりに会う。今、最新作「希望の国」が注目を集めている。3人のシンポジウムも興味深かったし、勉強になった。終わって、一緒に打ち上げに参加して、さらに話を聞きました。水道橋博士も来ていて話がはずみ、さらに二次会に…。

【写真説明】

若松孝二監督の告別式(10/24)

①10月23日(火)午後6時から、若松孝二監督のお通夜が青山葬儀場で行われました。翌24日(水)午前10時半より、告別式が行われました。全国から多くの人たちが参列し、監督にお別れをしました。

お別れに800人の人たちが…

②祭壇の両端には、スクリーンが置かれ、生前の監督の仕事風景が映し出されました。

若い頃の監督

③若い頃の監督の姿もありました。

お通夜で(10/23)

④お通夜が終わった後で。

奥田瑛二さんと

⑤奥田瑛二さんと会いました。ブラジル映画の「汚れた心」に主演してました。終戦直後、ブラジルの日系人の間で「勝ち組」と「負け組」で血で血を洗う抗争があり、多くの人が亡くなりました。深く考えさせられる映画でした。まるで連合赤軍のルーツのようですね、と話しました。
 「連赤事件の全体像を残す会」の椎野礼仁さんも来てたので、紹介しました。

(中央)内田裕也さん、高橋伴明さんと

⑥内田裕也さんに久しぶりに会いました。野村秋介さんとも親しかったんです。「イタリアのフィレンツェで飲んでたら、バッタリ、野村さんに会って、ビックリしたよ」と昔話をしてくれました。ゴールデン街じゃなくて、フィレンツェですよ。いいですね。
 高橋伴明監督は連合赤軍の映画「光の雨」を撮ってます。いい映画です。

篠原勝之さんと

⑦ゲージツ家のクマさん、篠原勝之さんと。「篠原さんが今度、映画を撮って下さいよ。芸術家なんだから」とお願いしました。

山崎ハコさんと

⑧山崎ハコさんと。私は随分と歌を聞きました。

(中央)重信メイさん、パンタさんと

⑨重信メイさん、パンタさんと。若松監督は、パレスチナに何度も行き、「メイさんは凄い美人だ。日本に連れて来て女優にする」と言ってました。でも、メイさんは今は国際ジャーナリストです。映画も撮ってほしいです。

塩釜・東園寺のご住職さまと

⑩10月23日(火)塩釜の東園寺で父親の23回忌がありました。東園寺のご住職さまは、学生時代、ボディビルをやって、優勝したこともあるそうです。ダラムサラやブッダガヤの写真があったので、「私も昔、行きました」とインドの話になりました。
 午前10時半から法事だったので、朝早く、東京を出ました。午後も早めに帰りました。午後6時から、若松監督のお通夜に出ました。

兄貴、私、弟です

⑪塩釜の法事に集まった鈴木家の三兄弟です。兄貴と私と弟です。

三島研で講演する寺尾克美さん(10/22)

⑫10月22日(月)三島由紀夫研究会の公開講座に行きました。元陸上自衛隊中央会計隊長(陸将補)の寺尾克美さんが講師でした。

御手洗さん、寺尾克美さんと

⑬寺尾克美さん。三島研スタッフの御手洗志帆さんと。

大阪の討論Bar「シチズン」で(10/21)

⑭10月21日(日)大阪の討論Bar「シチズン」に行きました。マスターの西岡正士さんご夫妻と。

討論Barでの討論です

⑮討論Barの討論会です。マスターの西岡正士さんとトークしました。
〈左翼が好きな右翼の巨魁と、右翼の好きな左翼の論客による社会イデオロギーについての対談〉
 という長いテーマでした。でも、本音で話し、楽しかったです。

討論Barでの懇談会です

⑯討論が終わってから、我々も客席に移って、皆で懇親会になりました。この討論Barの上は、「メイド喫茶」です。経営者は別ですが。メイドさんが2人、受け付けに手伝いに来てました。「あっ、一緒に写真を撮ろう」と思ってたら、途中で帰ってしまいました。上にお客が来て、混んでるからでしょう。残念でした。今度は、上のメイド喫茶で「討論」しましょうよ。

「山本美香さんを送る会」(10/19)

⑰10月19日(金)午後6時より、「山本美香さんを送る会」に出席しました。東京会館です。山本さんは、シリア内戦で取材中に銃撃を受け亡くなったジャーナリストです。

山本美香さんの映像が流されました

⑱山本さんの生前の映像が流されました。03年、私たちがイラクに行った直後に、山本さんもイラクに行ってます。同じパレスチナホテルに泊まってました。そこを爆撃されて、他のジャーナリストが死亡しました。その時の映像も流れていました。

池田香代子さん、孫崎享さんと(10/19)

⑲「山本美香さんを送る会」のあと、六本木の「ミュージックバー・モビーディック」に行きました。池田香代子さん、孫崎享さんと3人で「原発とアメリカ」についてトークをしました。終わったのは11時です。「これから朝生です」と孫崎さん。「これから羽田に行って泊まり、明日出発です」と池田さん。
 翌日、午後から、私は北海道文化放送の取材を受けました。「午前中は孫崎さんの取材をしてきました」と言ってました。じゃ、六本木のトーク、朝生、北海道文化放送…と、ズーッと喋ってたんだ。寝てないんだ。元気ですね。私と同じ年なのに。

植垣さん、徐さん、山平さんと(野村秋介さんの墓前祭で)

⑳10月20日(日)午前11時から伊勢原の浄発願寺で野村秋介さんの墓前祭がありました。多くの人が全国から集まっていました。(左から)鈴木、植垣康博さん、徐裕行さん、山平重樹さんです。
 この日、野村秋介さんのお孫さんも来てました。男の子は似てます。「若い時の野村さんそっくりだ」と山平氏が言ってました。「じゃ、二十歳になったら野村秋介を襲名したらいい」と言ってる人もいました。

雨宮処凛さん、山本太郎さんと(10/20)

㉑10月20日(土)夜、阿佐ヶ谷ロフトで「ボンバイエ結成10周年記念大会」。10年前に学生のサークルとして出発したそうです。今も、学生、OBが中心です。若者が一杯の集まりになりました。雨宮処凛さん、山本太郎さんと一緒に、この国が直面している問題について考えました。
 私がウーロン茶を飲んでたら、「右翼のくせにダラしない!お酒を飲みなさい!鈴木さんは私の奴隷でしょう!」と雨宮さんに言われ、泣く泣く、ビールを飲みました。それも2杯も。本当は酒が入るとすぐ暴れるので自制していたんですが…。

【お知らせ】

  1. 10月29日(月)北海道文化放送の「スーパーニュース」(午後6時から7時)に出る予定です。孫崎享さんも出る予定です。領土問題と愛国心がテーマのようです。
  2. 11月5日(月)午後3時から、TBSのCS「ニュースバード」に出る予定です。若松孝二監督の追悼特集です。
  3. 11月11日(日)秋田に行きます。北村肇さん(「週刊金曜日」発行人)とトークします。午後5時半から、秋田市土崎港ベイパラダイス2階ドリームタイムです。トークのテーマは、「言いたいことは山ほどある2012=愛国について」です。
  4. 11月24日(土)三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼の「野分祭」です。
  5. 12月1日(土)新潟市で講演です。午前10時半より12時まで、新高教(新潟県高等学校教職員組合。日教組加盟組合)の教研集会で講演します。テーマは〈教育と「愛国」〉です。会場は、新潟ユニゾンプラザ中研修室です。
     本来は教職員の教研集会ですが、私の講演に限って、一般に公開するそうです。関心のある方は、いらして下さい。
  6. 12月4日(火)山形で、午後6時から、佐高信さんと対談します。
  7. 12月16日(日)「鈴木ゼミ」です。西宮です。午後2時から。神田香織さんの講談、そして2人でトークがあります。