10月27日(土)、午後1時から、阿佐ヶ谷ロフトで「若松孝二監督追悼イベント」をやりました。
50年以上もパートナーを組んでいた足立正生監督を中心にして、関係者が集まり、話し合いました。
若松監督の「実録・連合赤軍」には赤軍派議長の塩見孝也さん、兵士の金廣志さんが出ています。格好いい役者が演じてます。この〈実物〉2人もゲストで出てくれました。
若松論をめぐっては足立vs塩見のバトルもあり、会場も沸きました。
しかし、映画の中の「塩見孝也」は格好いい。格好よすぎる。どうしてだろう。若松監督はそんなに塩見さんを評価していたのか。
「いえ、私の人徳です」と、当の塩見さんは恥ずかし気もなく答えてました。
ちょうどこの会場でよかったんですよね。と思いました。だって、映画で使われていたからです。
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の中で、東大全共闘と三島が激論するシーンです。この阿佐ヶ谷ロフトが、東大の巨大な教室に化けるのです。
信じられませんでした。映画を見ても信じられない。
ところが、撮影風景を撮った「メーキング・ビデオ」を前に見せてもらいました。
阿佐ヶ谷ロフトに集まり、地下の会場に機材を運び込んでいる。そして、狭い店内を東大の大教室に変えてゆく。人も入れて、満員の東大全共闘、学生が揃う。
やっぱり、この阿佐ヶ谷ロフトだったんだ。と分かりました。
そしてすぐに「三島と東大全共闘」の激論は始まります。
会場からは、「ナンセンス!」という野次も飛び、三島は、「君たちが一言、天皇と言ってくれたら共闘できるのに」と言います。有名な言葉です。
そのシーンがまるで40年の時代を超えて、生で迫ります。
学生たちの身振り、言葉遣い、言葉のイントネーションも全く同じです。40年前の〈光景〉がそのまま再現されていました。よく撮ったものだと思います。
この撮影現場にいた増田監督、昼間氏も、「若松監督追悼イベント」に出席してくれました。その日の撮影風景について詳しく語ってくれました。
パネラーは他に、徐裕行さん、本間龍さん、古川琢也さんなどでした。ロフト席亭の平野悠さん。「連合赤軍事件の全体像を残す会」の椎野礼仁さん。…なども出てくれました。
若松監督のやってきた偉大な仕事の数々。そして、これからやろうとした映画について、皆で考え、話し合いました。
急遽、「追悼イベント」にして、よかったと思います。
元々は、誰かの「生誕祭」で借りていました。「生誕祭なんてやってる場合じゃないだろう」と司会の白井基夫さんが言い出し、このイベントになりました。
一昨年から始まった「生誕祭」は毎年8月に行われ、今年8月に「第3回 S君生誕100年祭」が行われました。その時、森達也、斉藤貴男さんたちとやった「言論の覚悟」がよかったから、第2部をやろう、となり、10月27日(土)に予定を押さえていたのです。
「言論の覚悟」じゃなく、「映像の覚悟」だな、と白井さんは言います。
確かにそうですね。そうなりました。この時、一昨年の第1回生誕祭の映像が流れました。実は、若松監督が出ていたからです。
「第1回生誕祭」には、他にも佐川一政さん、元連合赤軍兵士の植垣さん、雪野さん、金さん。それに元刑事の北芝健さん、飛松五男さんなども来てました。
「キャタピラ−」が大ヒットし、「次は三島映画を撮る!」と若松監督は阿佐ヶ谷ロフトで言ってました。ただ、まだはっきりとは構想がまとまってないようで、「これから脚本を作るんだ」と言ってました。
「17才シリーズ」の完結編を作ると、言ってました。
人間が、対社会的に目覚め、行動に駆り立てられるのが17才です。若松監督はこの年に家出をして上京しました。
私も、「17才」は、60年安保の時でした。
山口二矢(17才)が社会党の浅沼委員長を刺殺します。同じ17才の私は、その「刺殺シーン」をテレビで見てました。衝撃でした。こんなことをする人間がいるんだ、と。
そして、山口二矢は自決します。自分は受験のことしか考えていない。しかし山口二矢は国のために人を殺し、自決した。これが「国のため」「愛国」ということなのかと考えました。
17才の時に、この事件に出会わなければ、私の人生も、平穏なものになったでしょう。
若松監督は、〈17才〉が全てを決める、と考え、「17才シリーズ」を撮るわけです。
第1作目は、「17歳の風景」で、母親殺しの少年が自転車で、北を目指します。その間に多くの人に出会い、そして考えるのです。
第2作目は、「実録・連合赤軍」です。あさま山荘に立て籠もった中に、17才の少年がいました。最後に、「自分たちには勇気がなかったのだ」と叫びます。17才の少年の眼から見た連合赤軍事件です。
さらに、第3作目は、山口二矢です。一昨年の阿佐ヶ谷ロフトでも、その抱負を語っていました。
さらに、山口二矢から始まって、60年代、70年代を闘い、駆け抜けた男たちを撮ってみたい。と、構想はさらに膨らんでいました。「山口二矢、三島由紀夫、永山則夫、野村秋介…を撮りたい」と言ってました。
この日、このビデオを見るまで、忘れてました。そうか、永山則夫、野村秋介も撮りたいと思っていたのか。
若松監督の告別式の時は、三女の宗子さんが、「監督は、原発事故、沖縄戦、731部隊、白虎隊を撮りたいと言ってました」と挨拶で言ってた。
じゃ、これから10本以上の映画を撮ろうとしたのか。
そう言ったら足立監督が、「いや、それは違う。それらが全て、一つのものとして若松監督の頭の中にはあったのだ」と言います。これも凄い話ですね。
オウム事件も撮ってもらいたかった。その意味もあって、徐裕行さんを若松監督に紹介しました。
又、福島原発事故を撮りたいというので、『電通と原発報道』(亜紀書房)を書いた本間龍さんを紹介しようと思っていたのに…。残念でした。
それにしても、不思議ですね。「若松監督追悼イベント」をやったら、それに関わりのあることが、どんどん起きてくるのです。忘れたことも思い出されます。
10月20日(土)は、野村秋介さんの墓前祭に行きました。野村さんも若松監督とは親しかったです。そして、野村秋介さんを映画で取り上げようとした。見たかったですね。
9月29日(土)には、四日市で、森田必勝氏のお墓参りをし、お兄さんに会いました。
お兄さんは、「ぜひ若松監督にお会いしたい」と言うので、「じゃ、連れて来ますよ」と約束した。しかし、その1ヶ月もしないうちに亡くなるとは思ってもみませんでした。
10月29日(月)には、永山則夫遺品展を見てきた。こんなにも勉強していたのかと驚きました。
4人も殺したことは勿論許せません。しかし、獄中で反省します。総括すべく『無知の涙』を書きます。又、膨大な本を読んでいます。
貧しさ故に、犯行に走り、裁判でも、一度は「無期懲役」になります。しかし、「死刑」に戻り、処刑されます。
遠藤誠弁護士も弁護しました。「遺品展」には遠藤弁護士に宛てた手紙も展示されていました。マルクス、サルトル、万葉集、古今和歌集、そして、中国の古典なども読んでました。
ただただ驚きました。そんな若き永山の犯行と反省について、若松監督は映画を撮りたいと思ったのでしょう。見てみたかったです。
若松監督の亡くなった後、多くの映画監督に会いました。高橋伴明、崔洋一、園子温、河合由美子…と。若松監督がやり残したことをやってほしいと思いました。
「だいありー」にも書きましたが、園子温監督に会った時、驚くべきことを聞きました。
17年前に、今の「ネット右翼」「在特会」を予言する映画を撮ってたんですね。
「BAD FILM」です。外国人から高円寺を守るために自警団をつくり、「中国人は出ていけ!」「高円寺を守れ!」と叫ぶんです。
本物の街宣車を使い、本物の街宣をするんです。ダミーのビラも作って、配ります。
何と、それを〈本物〉と思い、「私も外国人を叩き出す運動に参加したい!」と入会を申し込む若者がいたそうです。在特会のハシリです。
10月28日(日)の「ナショナリズムの誘惑」というシンポジウムで園監督が発言し、その映画のシーンを見せてくれました。
「この時、友人の鈴木邦男さんから街宣車を借りたのです」と言ってました。これには又もやショックでした。完全に忘れてました。
「でも、この映画は見たのかな?」と思いました。多分、見てないのでしょう。だって、映画としては完成されず、フィルムのままとってあったそうです。
17年経ち、今年になって完成させ、11月に発売される「園子温初期作品集」に収められるそうです。ぜひ、劇場公開もやってほしいですね。
この話を聞いて、もう一つ思い出しました。前に書きましたが、90才の反骨カメラマン福島菊次郎さんを撮った映画『ニッポンの嘘』です。
この監督は、長谷川三郎さんですが、16年前に、一水会の在日の青年を撮ったのがキッカケで、映画監督になったと言ってました。
又、17年前に、一水会の街宣車を使って「BAD FILM」を作り、その後、次々と衝撃作を撮るようになった園子温監督。
不思議な縁です。2人の監督の出現に、私も少しは貢献したのかもしれません。
本屋に行ったら、「若松監督追悼」と出てました。そして、監督の書いた本、対談集などが並んでました。
いろんな本を出してるんですね。対談集の中には、阿部勉氏(元楯の会。一水会副代表)との対談も入ってました。彼が、野村さんや私を若松監督に紹介してくれたんです。
そうだ。阿佐ヶ谷ロフトでやったトークも、まとめて本にしたらいい。
それに今年、ロフトプラスワンでやったよね。私が4月に訪朝し、「11.25自決の日」を「よど号」の人たちに見せた。その感想をここで聞いたのだ。
ロフトから北朝鮮に電話して、話を聞いた。あの時の映像もある。
ロフトに出た時の映像だけでも、まとめてDVDを作ってもいい。又、一水会フォーラムでも今年、話してもらった。
又、私は、以前『まとりた』という雑誌で若松監督と、「新・天皇論」と題し、話したことがある。「五右衛門」という有名な豆腐料理店でやった。
あれも貴重な対談だったな。珍しく監督はナショナリズム論、天皇論を語ってくれた。
余り知られていないが若松監督は、『明治天皇と日露大戦争』の助監督をやっていた。主演の嵐寬寿郎のお世話係もして、大変だったようだ。嵐寬寿郎は、休憩時間も完全に天皇になり切っていたという、興味深い話も聞かせてくれた。
話が飛ぶ。どうも頭が混乱している。崔さん、伴明さん、園さん、河合さんたちとは、これからの日本映画について、私は、しつこく聞いた。「若松監督亡きあと、日本映画なんてあるのか」と。
若松監督がやろうとしたことを撮れる人がいるのか。
いや、それは若松監督しか出来なかったことだ。それはもう「完結した世界」として、考えるべきなのか。皆が立ち上がって、拍手で送るべきなのか。まだまだ分からない。考えている。
足立さん、園さん、河合さんたちとも又、このテーマで考えてみたい。
〈1997年8月1日、東京拘置所内で処刑された永山則夫さん。享年48才。事件時19才の少年の、内省と償いの作業の28年間の独居生活の最後の日。残されたものは? この夏、初めて展示された永山則夫さんの遺留品。この秋、期間限定で、再び公開〉
驚きました。こんなに本を読み、作品ノートを作り、小説を書いていたのかと。その精神的闘いの現場を見た感じでした。ドストエフスキー、マルクス、サルトルは分かりますが、意外だったのは、中国の古典を沢山読んでいたことでした。ノートも、几帳面に、きれいに書かれています。又、普段使っていたフトン、着ていた服なども展示されています。貴重な品々を見せてもらい感謝します。
この展示会は、10月11日(木)から11月18日(日)まで開いてます。ただ、ギャラリーは毎日開いているわけではないので、電話で問い合わせて行って下さい。090(9333)8807 市原さんです。
この日、29日(月)は、特別講演がありました。『永山則夫 聞こえなかった言葉』(日本評論社)の著者・薬師寺幸二さん(元家裁調査官)です。永山事件に触れた、いい話でした。「若松監督も永山則夫の映画を撮りたいと言ってました」と言ったら、驚いていました。
そうだ。永山さんから遠藤誠弁護士に宛てた手紙も展示されていました。遠藤弁護士からも永山さんのことは聞いていました。
世界の流れは死刑廃止に行っている。日本は遅れている。犯罪人引き渡しを求めても、「日本は死刑を残しているから」といって拒否されることもある。又、死刑賛成か反対かのアンケートの「聞き方」もおかしい。「死刑存置」に導くような問い方になっていると批判。
その後、安田弁護士が、民主党の強行した死刑の実態について報告しました。又、死刑にされた人々の弁護士さんからも報告がありました。亀井さんは途中で帰られたので、挨拶しました。朝日新聞(9月19日)の「オピニオン“愛国”」の話になりました。
「これはよかった。勇ましいことを言ってるだけでは何も変わらん。頑張ろう」と言われました。死刑廃止議員連盟副会長の福島みずほさんには言われました。「鈴木さんはもう社民党よ!」。ありがとうございます。私も「進化」しました。
1時間ほどいて、私は中座しました。ホテルニューオータニで行われている「サルキソフ・コンスタンチン博士 古稀を祝う会」に出ました。サルキソフさんは大変な親日家です。日ロの架け橋になっています。
サルキコフさんは、ロシア科学アカデミー東洋学研究所の日本研究センター所長を永年務め、現在は、ロシア日本研究会名誉会長として日ロ友好関係の促進に取り組んでいます。
会は、600人ほどが集まり大盛況でした。ロシア大使、池口恵観さん、木村三浩氏(一水会代表)も来てました。木村氏は昨夜帰国したと言います。ドイツ、ハンガリーなどを回り11日間の旅です。ヨーロッパの「愛国者会議」にも出たようです。
その後、木村氏や、新聞社の人たちと一緒に赤坂のレストラン「カナユニ」へ行きました。1966年開業だそうです。趣のある店です。「実は、三島由紀夫さんが、よく来ていた店です」と木村氏。店のマスターは「そこの中央の椅子に座って、オニオン・グラタン・スープを飲んでました」と言う。我々も皆、同じものを飲みました。
〈イギリス。サンデー・タイムズ・マガジンより。
「逆差別」と貧困にあえぐ南アフリカの哀しき白人たち〉
これは全く知りませんでした。ネルソン・マンデラがアパルトヘイトを撤廃して、20年近くが経つ。人種間の融和が進んでいるかと思いきや、今度は白人貧困層の問題が新たに浮上している。65万人の白人(16才以上)が失業状態にあるという。
次は、アメリカのニュース。
〈現代の「1%」は、カネだけでなく権力も持っている。世界は二つに分断されてしまうのか〉
人口たった1%が富の40%近くを独占している。アメリカではそんな不平等な社会が現実になっている。昨年秋、アメリカ各地で盛り上がった「オキュパイ・ウォールストリート」運動は、われわれは「99%」だというキャッチフレーズで、暴利を貪り続ける1%に対する抗議運動を行った。
〈イギリス。ニューサイエンティスト誌より。
なぜ「格差社会」は生まれたのか〉
一方、「競争」も「平等」も大嫌いな不思議な日本人という記事も紹介されている。しかし、日本の所得格差を問題視している人も多い。そうした問題を考えました。
このあと、「隣りの芸人さん」、Ust延長戦…。藤井さんは最後まで残って付き合ってくれました。そして、皆で、プロレスの話などもしました。
このあと、私は、講道館へ。久しぶりの柔道です。でも、入場する時、カードが入らない。「変ですね。他のカードと一緒に入れてませんか?」。入れてますよね。図書館、銀行、TSUTAYAのカードなどと。「他のカードの磁気に負けたんですよ」。エッ?そんなことあんの。それに、他のカードの磁気に負けちゃダメだろうよ。講道館は。仕方なく預けて、直してもらうことにした。でも柔道は出来たし、久しぶりに身体を動かして闘ったので、とても気分がよかったです。