函館は新撰組副長・土方歳三が戦死した地だ。又、詩人・石川啄木の住んでいた地だ。そして60年安保の時の全学連委員長・唐牛健太郎さんが眠っている地だ。
この3人は僕の中の〈理想〉であり、〈浪漫〉であり、〈指標〉だ。土方歳三については最近、岩井正和さんと長時間、語り合った。「司馬遼太郎を語る」だ。
その中で、司馬の『竜馬がゆく』と、土方を主人公にした『燃えよ剣』について語り合った。(この対談は来週にでもupしようと思ってます)。
学生運動が激しかった時代、活動家は(左右を問わず)、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んでいた。〈今は明治維新と同じだ。俺は竜馬だ!〉と思っていた。竜馬が脱藩したように、
我々も生命を賭け、法律なんか飛び越えるんだ。そう思っていた。
圧倒的な〈竜馬派〉によって学生運動は闘われた。その竜馬派の中に、さらに日共・反日共(新左翼)、右翼…と分かれるのだ。
その圧倒的な〈竜馬派〉に対し、少数派の〈土方派〉がいた。その筆頭は森田必勝氏だった。1970年、三島由紀夫と共に自決した、25才の青年だ。
〈土方派〉に対し、批判する者もいた。「新撰組は保守反動で、勤皇の志士たちを殺した殺人集団じゃないか」「幕府のイヌではないか」…と。
それに対し、森田氏は答えていた。「いや、京の朝廷を守るために戦ったのだ」「本当の男たちの集団だ。特に土方は、どこまでも戦い抜き、函館で戦死した」。
最後まで戦い、三島と共に自決した森田必勝氏。土方のように死んだのだろう。
新撰組は100人。「楯の会」も100人。似ている。
学生長として「楯の会」をまとめ、どこまでも三島に続いた。森田氏に薦められて、私らも『燃えよ剣』を読んだ。そして、〈土方派〉になった。
私は、当時、「生長の家学生道場」にいた。2年の後半から、そこの自治会委員長になった。生ぬるい、平和的な学生道場を、闘う学生道場にした。やる気のない奴は追い出し、闘う気概のある人間を迎え入れ、〈闘いの拠点〉にした。
30人の道場生を引き連れて、左翼と闘った。大学のキャンパスで、街頭で…。気分はまさに新撰組だったし、土方歳三だった。
圧倒的な左翼学生の前で、我々はいつも苦戦を強いられた。粉砕され、リンチされたことも多い。でも闘った。土方歳三は、その先にいた。
啄木は説明する必要がないだろう。その浪費、哀しさ、情けなさ…が好きだった。
そして唐牛健太郎さんだ。唐牛(かろうじ)は珍しい名前だ。闘う牛をイメージさせるが、本名だ。
函館で生まれ、函館にお墓がある。毎年7月には全国から同志・ファンが集まって偲ぶ会をやっている。
私は、唐牛さんには随分とお世話になった。学生運動の話を教えてもらった。お酒も飲んだ。
それに何と、一水会の勉強会にも講師で来てもらった。1982年(昭和57)6月だ。「右翼の集会で講演したなんて、生まれて初めてだよ」と言いながら。
でも、楽しそうに話してくれた。もっともっと教えてもらいたかったのに、その2年後の1984年3月に亡くなった。直腸ガンだった。28年前だ。
唐牛さんのお墓参りに行かなくては、とずっと思っていたが、来れなかった。申し訳ありませんでした。あんなにお世話になったのに。
友人の高橋君が函館を案内してくれるというので、急遽、行ってきた。11月3日(土)、4(日)だ。3日(土)の朝一番の飛行機で函館へ。高橋君と落ち合い、唐牛さんのお墓に行く。
山の上の、見晴らしのいい所だ。お墓が並んでる中に、一風変わった墓石がある。横に長い石だ。よく見ると「唐牛健太郎」と読める。
お母さんの家だ。墓のデザインは秋山祐徳太子さんだという。
石の上にギザギザがある。海の波をイメージしたようだ。同志・後輩たちが作ったという。(では、唐牛家代々の墓は、また別の所にあるのか)。
お参りし、今までの不義理をお詫びしました。
それから、外国人墓地を見て、1時に、従兄弟の上谷俊夫さんに会う。30年ぶりじゃないのかな。でも顔はすぐに分かった。
私より二才上だ。函館の市議会議員を6期務めて、今は辞めて、悠々自適の生活だ。
3週間ほど前、突然電話があった。朝日新聞などで私がよく出ていたからだ。
「大丈夫なの?狙われてないの?」と。「私なんか誰も相手にしてませんよ」と答えた。
「函館に来る時は連絡してよ」「はい、分かりました」と言ったら、すぐに、行くことになり、高橋君にアポイントをとってもらった。
カレーのおいしい五島軒で会った。食事をしてたら、「おっ、鈴木さん!」と声をかけられた。立教大学教授の服部秀章さんだ。法事があって、来てたという。「私も唐牛さんと土方さんのお墓参りですよ」と答えた。
驚いた。服部先生は函館の人なんだ。それで俊夫さんを紹介した。
俊夫さんは、実は唐牛さんと同じ高校、大学なんだそうだ。函館高校、北大と唐牛さんの4年下だった。学校では会ったことはないが、全学連委員長を辞めて函館に来た時、一度会って話したという。
その後、亡くなってから、友達から『唐牛健太郎追想集』をもらって読んだら、「邦男ちゃんが出ていて、ビックリしたよ」。
そうなんです。私も書いてるんです。とてもお世話になった。
それに、60過ぎても、親類だと、(子供時代に呼んだように)俊夫ちゃん、邦男ちゃんと呼び合うんですね。ちょっと恥ずかしい。
唐牛さんのことは又、書く。
五島軒で食事したあと、市内を見て歩く。本願寺、護国神社、聖ヨハネ教会、カトリックハリスト正教会。そして、函館山。立待岬。
夜は、もう一度、函館山に登り、夜景を見る。世界一の夜景だ。夜は、魚料理を食べ、地元の人たちと話し合った。
翌日は、トラピスチヌス修道院に行く。懐かしかった。50年ぶりだ。
高校2年の時、修学旅行は北海道だった。ここは一番印象に残っている。
それから、「土方・啄木浪漫館」へ。函館の有名な2人を記念して、いろんなものが置いてある。ぜひ、唐牛さんも入れてほしい。「土方・啄木・唐牛浪漫館」にしてほしい。
そうだ。昨夜、俊夫さんから聞いた。山の上の唐牛さんのお墓は、同志たちが建てたもので、家代々のお墓は湯川寺にあるそうだ、と。
それを思い出して探したら、あった。合同葬で、「慰霊」と書かれている。唐牛家の代々の人々がそこに合葬されている。
一人一人の名前も書かれている。唐牛という名の人が10人ほどいた。お寺の人に挨拶し、いろいろと教えてもらった。
それから五稜郭に行く。五稜郭タワーにも登った。土方歳三の銅像、パネル、写真…と。土方歳三ばかりだ。
新撰組の服を着て、記念撮影をするコーナーがあったので、撮ってもらった。
そして最終の飛行機で東京に帰った。飛行機の上からも函館の夜景が見えた。
そうだ。昔、唐牛さんと一緒に撮った写真があったはずだ。パソコンで探したが、出てこない。
ということは、このブログには載せてなかったのか。
一晩中、家探しをした。やっと見つかった。
でも、いつなんだろう。1982年6月の一水会に来てくれた時か。いや、その前だ。
もしかしたら、私の『新右翼』(彩流社)に載ってるかな、と思い、目次を見た。
あった。「第二章 新右翼と新左翼」のとこに。
〈60年安保—唐牛健太郎と「裏切られた世代」の革命〉
と出ていた。かなり詳しく書かれている。
唐牛さんは初め共産党に入るが、疑問を持ち、共産党を飛び出し、ブントをつくり、全学連委員長になり、激しく安保反対闘争を闘う。「新左翼」の始まりだ。
それがどこかで私らもヒントになったのかもしれない。今までの「右翼」というものに疑問を持ち、新しい運動を目指す。それが「新右翼」と言われた。
私たちもどこか、唐牛さんの闘いを学び、真似ていたのかもしれない。
ネットや追想集で、唐牛さんの歩みを見てみた。
1937年2月11日生まれ。今、生きてたら75才だ。残念だ。
亡くなったのは1984年3月4日。亡くなって28年だ。
北大在学中に日共に入党するが、限界を感じて、ブント(共産主義者同盟)結成大会に参加する。1959年、全学連委員長になる。
何度も逮捕され北大を除籍される。華々しい活動をし、学生運動をリードした。
1961年、全学連委員長を辞任。学生運動をやめたあとは、元共産党委員長で実業家の田中清玄の経営する丸和産業に嘱託の身分で就職する。
以後全国を放浪。ヨットクラブ、居酒屋経営、漁船乗組員、工事現場など、さまざまな職業に従事。1982年からは、徳田虎雄の要請で札幌徳州会病院設立に協力した。
1984年、直腸ガンで死去。
『唐牛健太郎追想集』で、牧田吉明氏(ピース缶爆弾事件)は、こう書いている。
〈(唐牛は)アンチヒーローの時代における、かけ値なしのヒーローだった。唐牛は革命家であるより、叛逆者であり、レーニンの徒ではなく、プガチョフなどの末裔だ。唐牛と共産主義の出会いなんて、(絶滅しつつある)知床の大鷲が間違ってコウモリの里に舞い込んでしまったような話だったのだ〉
〈俺たちは、一体、何を喪ったのだろうか。もし仮に、ソ連軍の北海道侵攻があったとして、その際、遊撃隊の総隊長をやれたかも知れない、ただ一人の男を喪ったのだ。言ってみれば、そういうことだ。虐殺された末娘と、流浪する長男によって保持されていた、安保ブンドの聖家族も、かくして終わった。安保ブンドの鐘の声、諸行無常のひびきあり〉
「虐殺された末娘」というのは樺美智子であり、「流浪する長男」というのは唐牛氏だろう。
私の『新右翼』によると、唐牛氏と私が初めて会ったのは、1982年(昭和57)3月19日の「草間孝次氏を激励する会」だった。
亡くなったのは1984年3月4日だから、たった2年間のお付き合いだったのか。
でも、濃い2年間だった。何度か会ったし、1982年6月には一水会勉強会の講師にも来てくれた。
話を戻して、初対面のことだ。「草間孝次氏を激励する会」だ。
草間氏は60年安保当時から情報誌を発行しており、左だけでなく右にも知人が多くいた。
そこに何と、唐牛氏が来ていたので、草間さんに紹介してもらった。このHPの初めに載せた写真は、その時かもしれない。
これがあの有名な唐牛さんか、と感激したし、アガって、話もロクに出来なかったようだ。でも、その3ヶ月後には、一水会に来てもらった。
今は、「一水会フォーラム」といってホテルで開催しているが、この頃は、「一水会勉強会」といって、一水会事務所でやっていた。
高田馬場の宝来家という焼鳥屋の2階を借りて事務所にしていた。六畳二間の部屋で、一部屋は机を4つ置いた事務所。一部屋が、人と会う部屋だ。
そこのイスなどを片付けて、畳に座って、唐牛さんの話を聞いた。
その時のテーマは「甦れ60年安保、反米愛国の熱狂はいま」だった。
「安保闘争を動かしたのはマルクス主義ではない」と断言し、唐牛さんは、こう言っていた。
〈安保闘争当時、デモで警察に追われて逃げ込むと、学生がかわいそうだと皆、助けてくれた。あれは理屈じゃない。警察や政府、アメリカに対する反感だった。だから女の子が一人死んだために代々木は負けたんだ。安保闘争も成り行きだけど、張った目がよかったんだ。マルクス主義は〈生活〉がないからダメなんだ。うまくない酒は皆やめちゃうよ〉
大好きな酒にたとえて言うなんて、面白い。60年安保は生命を賭けて闘った。でも阻止出来なかった。あれは「壮大なゼロだよ」と言う。かなり、ニヒルだ。さらにこんなことまで言う。
〈元も子もない言い方をすれば、革命なんてサギだ。安保闘争にせよ、「革命を!」なんて言っても、結果として出来ないことはサギなんだから。サギは大きくなるほどやってる側にとっては面白いということじゃないかな〉
そこまで言っていいのかと驚いた。でも、唐牛さんなら言っていいのだろう。そう思った。「壮大なゼロ」になったが、ただ、このままでは終わらせないという覚悟があった。決意があった。こうも言っていた。
〈60年安保出身者は政界、財界、大学、マスコミとあらゆる分野にいるし、たとえ表面的に見て体制側に見える人間がいても、志はいまだ持っている。彼らを結集して再度、革命をやる〉
又、『追想集』には晩年の唐牛氏の、こんな言葉も収められている。
〈革命が最後のひと息でも、虫の息でも呼吸しているんなら、オレはその息にかけるね。革命はまだ呼吸してるよ。かなりあんべえ悪いようだがね〉
いいですね。土方も同じですよ。最後の最後まで、闘った。『追想集』で、桐島洋子さんは、こう書いている。
〈彼は私が知る最も男らしい男の一人であった。かつての仲間たちが次々と転身して体制に順応していくのをしりめに、彼だけはあくまでも無頼の一匹オオカミとして放浪を重ねながら、きびしく反骨を貫いた〉
本当にそうだと思う。厳しく反骨を貫いたのだ。
山の上の唐牛さんのお墓からは、函館の海が一望出来る。今も、大好きな函館の海を見ながら、うまい酒を飲んでいることだろう。
英雄・唐牛健太郎さんに、会えてよかった。
元赤軍派兵士の金廣志さんは今年の7月にお墓参りに行ってきたと言う。全国から多くの人たちが集まったという。
でも、ほとんどの人が生前の唐牛さんに会ってない。「それが悔しい。鈴木さんが羨ましい」と金さんは言っていた。
最後まで闘った人たちに会ってきた。不屈の人たちに会ってきた。そして影響を受けてきた。それだけが私の宝だ。
孫崎さんは、オバマの方でよかった、と言っていた。「でも、かなり前から、私はオバマの圧勝を知ってました」と言う。
アメリカでは大統領選も賭けの対象にされており、オバマ圧勝の予測だったという。「大金を賭けてるんだから、この予測は命懸けです、評論家とは違う」と言います。いろんなとこから情報が入ってるんだ。驚きだ。日本との関係、中国との関係などについても詳しく語ってくれた。
さらに、中国の共産党大会。田中真紀子文科大臣の大学設置不認可の問題などについても話し合った。
ここに、猪木正道さん(元防衛大学校校長)の死去が伝えられた。98才。猪木さんは京都市出身で、東大を卒業後、自由主義を唱えた河合栄治郎教授に師事。1970年から防衛大学校の校長を務めた。
この時、田母神さんが防大の学生として在学中だった。以前、田母神さんから聞いたが、70年は三島事件が起きた年だ。それで、田母神さんは、急激に国家への愛に目覚めたのかと思ったら、違うという。「三島事件には衝撃を受けなかった」と言う。そうか、防衛大学校でも、学生が動揺しないように、必死に抑え、教えたのだろう。それから20年ほど経って、渡部昇一さんの講演を聞いたのがキッカケで民族主義的になり、国家への愛を考えるようになったという。昨日、渡部昇一さんに会った時、そのことも聞けばよかった。
孫崎さんは、3時半から6時過ぎまで、全てに付き合ってくれた。Wコロンも面白いね、と言ってメモをしていた。Ust延長戦も付き合ってくれた。「これから家に帰ってUstの放送です」と言っていた。水曜と日曜に、自宅から放送するそうだ。凄いですね。
この日の「毎日新聞」(夕刊)で、若松監督の特集をやると聞いていたので、駅で買う。私も取材されたが、何十人か載るんだろう。一人5行位かな。と思ったら、何と、第10面の全ページだ。それに塩見さんと私の2人だけが喋っている。驚いた。「特集ワイド。人間・若松孝二考」。〈映画を撮ること自体が国家に対する反逆なんだ〉。そして、
「民衆の情念描いた」(元赤軍派 塩見孝也氏)
「左右の区別超えた」(新右翼幹部 鈴木邦男氏)
まとめ方、編集もうまいし、なかなかいい特集でした。井田純記者が書いてました。お世話になりました。
②唐牛さんは、1984年に亡くなりました。今年の11月3日(土)、初めてお墓参りをしました。長い間、行けなくて本当に申し訳ありませんでした。札幌にいる高橋君が案内してくれました。山の上の見晴らしのいい所にお墓はありました。右がお墓です。
③お母さんの字で、「唐牛健太郎」と書かれています。お墓は、秋山祐徳太子さんがデザインしたそうです。横に長く、上はギザギザになっています。波打つ海をイメージしたそうです。唐牛さんの同志や後輩たちでこのお墓を建てたそうです。
⑨トラピスト修道院は男子で、トラピスチヌス修道院は女子です。50年前、私が東北学院榴ヶ岡高校の2年の時、修学旅行で函館に来ました。五稜郭は見ませんでした。「土方歳三の気分になって、学校に反抗されたら困る」と先生方は思ったのでしょう。教会ばかり見学しました。
このトラピスチヌス修道院は、一番印象に残っています。50年前と全く同じです。懐かしかったです。
⑭ここにも「自由の女神」がいました。「大間原発無期限凍結!」と叫んでおりました。偉いです。そうだ。映画の「ゴースト・バスターズ」では、ニューヨークにある「自由の女神」が突如歩き出します。どこへ行ったのかと思っていたら、実は函館に来てたんですね。
⑮立待岬で。この海の向こう側に見えるのが大間原発です。ところで「立待岬」のいわれは?
1.「男女が駆け落ちするのに待ち合わせた」
2.「右翼が左翼を待ち伏せして攻撃した」
3.「魚を待ち伏せし襲った」
さて、どれが正しいでしょう。実は3なんです。ここは海流がいくつも入り込み、激突する。だから、魚も集まる。そこで魚を待ち伏せして、獲った。というので、「立待岬」になったそうです。
⑯従兄弟の上谷俊夫さんと会いました。私より2才上です。唐牛健太郎さんと同じ高校、同じ大学でした。「1度しか会ったことはない」と言います。俊夫さんは函館の市会議員を6期24年やりました。ご苦労さまでした。
⑲11月5日(月)、3時から、TBS CSの「ニュースバード」の中の「ニュースの視点」に出ました。90分の拡大枠でした。『追悼・若松監督。最後の無頼を偲ぶ』。本番が終わって、皆と。(左から)金平茂紀キャスター、鈴木、足立正生さん、松澤千晶キャスター。