12月1日(土)は新潟の日教組で講演してきた。4日(火)は山形の佐高塾で佐高信さんと対談した。
佐高塾は事務局が社民党だ。日教組と社民党で講演したわけだ。そして、9日(日)は、連合赤軍事件〈体験〉ツアーに行ってきた。元連合赤軍兵士たちと共に、「あさま山荘」などを見てきた。
「アウェイの闘いに、よく出てきてくれましたね」と各主催者に言われた。「さすがは、覚悟の人ですね」と。
でも皆、誤解してるんだ。ホーム、アウェイという観念が私には、もうない。
右翼や保守陣営が私の「ホーム」と思われるかもしれないが、そこからは、ほとんど呼ばれない。
たまに自分から行くと、「なんで転向したんだ!」「昔はマトモだったのに今は左翼だ!」「反日め!」と、批判され、詰め寄られることが多い。
「100%一致するはずなのに…」「同志のはずなのに…」と、〈一体感〉を期待し、それが少しでも欠如していると、「裏切り者」「反日」になるのだ。
距離感がないのだ。期待度が高すぎるのだ。
その点、〈左〉といわれる人々は、期待度はないし、距離感だけはかなりある。一体感なんかない。
大体、昔は、「日教組打倒!」と叫んで日教組大会に押しかけていた。社会党、社民党も敵だった。全共闘、左翼学生も不倶戴天の敵だった。
共に天を戴かない。つまり、日本から追い出すか、殺すしかないと思って、死闘を展開していた。
「かつての敵」の私を、今、日教組、社民党は呼んでくれる。ありがたい話だ。
「何で保守反動、暴力右翼の鈴木なんかを呼ぶんだ!」と、内部で随分と反対もあっただろうに。大変なご苦労があっただろうによく呼んでくれたと、感謝したい。
「アウェイで戦う」という不安感は全くない。そんな敵・味方の意識がない。
今はむしろ、ホームの方がアウェイだ。
新潟の日教組で講演しながら、ふと、不安になった。右翼がドッと押し寄せて来たらどうしよう。「日教組打倒!」と言って襲ってきたらどうしよう。「日教組にすり寄る鈴木も敵だ!」と攻撃されるだろう。
むしろ私の方が「主要敵」かもしれない。
日教組、社民党の方が心が広い。かつての敵を呼んで話を聞くのだ。
新潟では、『論座』や『SPA!』の話をした。コピーも渡した。
7年前、日教組の森越委員長と対談した。〈史上初〉の対談だといわれた。私も、かなり覚悟をして臨んだ。
そのずっと前は、週刊「SPA!」で日教組の若き組合員と話し合った。日の丸、君が代などについても、かなり突っ込んだ話をした。
初めは右翼の人と日教組を〈対決〉させようとしたが、それは出来なかった。だから、別々にやった。
「日教組委員長と対談して、我々の中でも鈴木さんの見方が変わりましたよ」と新潟では言われた。
「それ以来、日教組の大会や教研集会で随分と呼ばれたでしょう」と聞く人もいる。
しかし、呼ばれない。「史上初」の「革命的対談」なのに、その後は続かなかった。7年後に、新潟で初めて呼ばれたのだ。
軟弱な右翼でも、「右翼を呼んだ」と批判されるのが怖いのか。右翼が襲ってくると思うのか。
とにかく、「こんな奴を呼んだって何もいい事はない」と思うのだろう。組織の中にいたら、私だってそう思う。それなのに呼んでくれた。
「随分反対があったでしょう?」と聞いたら…。
「提案した私もそう思ったんです。ところが、鈴木さんを呼びたいって言ったら、“それは面白い”と皆、賛成してくれたんです」と言う。ありがたい話だ。
そうだ。7年前、森越委員長と対談したら、組織内部でも批判があり、ビラが撒かれたりした。日教組は一枚岩ではなく、内部には新左翼の人もいる。それで「右翼と結託した」委員長を攻撃したわけだ。
又、『論座』で対談する前に、打ち合わせで日教組本部に行った。『論座』の編集部の人と一緒に行った。
やたら、ガードが固い。インターホンで話をし、我々だと分かって、やっとドアを開けてくれた。
「ここに入った右翼は私が初めてですか」と聞いたら、「招待されて入った右翼は史上初です」と言う。
じゃ、招待されないで、勝手に入ってきた右翼はいたのか?
「そうなんです。いきなりピストルを撃ち込んで乱入してきた右翼がいました」と言う。「これがその時の傷跡です」と言う人もいました。
「すみません」と、何故か私が謝ってしまいました。ともかく、招待されて、合法的に日教組本部に入ったのは歴史上、私だけです。
そして、日教組で講演したのも私だけです。社民党もそうでしょう。
写真を出しておきました。新潟の講演、そして、森越委員長との対談が載った『論座』ですね。史上初の「日教組vs右翼」のリードがいいですね。こう書かれています。
〈対極にいた二人が、初めて一対一で向き合った。教育を語り、「君が代」「日の丸」を語り、憲法や自衛隊を語り合った。そしていま、58年続いた「VS」の関係の中から「&」を築こうと一歩を踏み出した〉
なかなか、いいですね。歴史的、革命的対談のリードにピッタリだ。何と14ページもある。1ページは二段組みだから、分量としてもかなりある。見出しだけを紹介してみよう。
社会党政権でよくなる、は勘違いだった
日教組委員長は暗殺対象だった
僕らこそ「君が代」「日の丸」を冒涜した
強制しないと、尊敬できないのか
自身のないヤツが「愛」をいう
憲法も不磨の大典ではない
もっと自由に議論したい
自浄作用がないと組織は腐る
聞く勇気、話す勇気がいる
今、読んでも古くなってない。森越さんは抗議に来る右翼とやり合ったこともあるし、その中で、ホロリとするエピソードも話していた。
青年部長だった時、抗議に来る右翼と対応した。抗議文を持ってきて、読み上げる。彼らから、「お前たちは都民に迷惑をかけている!出ていけ!」と言われると、「迷惑をかけているのはお前たちだ!」って言い返した。
彼らがカーッとなってかかってくるのを待機していた機動隊が間に入って止める。
そして隊長に言われた。「黙って話を聞くと帰るので、刺激しないで下さい」って。
そうなんだよね。警察は、適度に「緊張関係」を作って、対立を煽り、「俺たちがいるから大事件になるを阻止している」という構図を作ろうとしている。自分たちの「存在意義」を示すために、「対立」を煽っている。
日教組大会でも、本当に騒ぎを起こしたくないのなら、1kmでも離れたところに阻止線を張って、全く近づけなければいい。
ところが、ギリギリまで入れる。抗議文も渡させる。まわりは当然、騒然とする。一触即発、危ない状況だ。
そこまで警察は緊張、対立関係を作り上げるのだ。
そして、間に入って、「俺たちがいるから事件を未然に防いでいる」と存在をアピールしているのだ。
本当は『論座』のように、誌上で対決させたらよかった。
しかし、両者とも、そんな発想はなかった。又、警察がそれを許さなかったのだろう。
日教組大会でも、たとえば前日に、「一対一で対決しよう」と呼びかけたらよかった。
右翼に呼びかける。「騒然とした中で話すのは無意味だ。だから代表者が1人ずつ出て、一対一でやろう。静かに、じっくり話すために、他の人は入れない。テレビ、新聞などのマスコミだけを入れよう」と提案したらよかったのだ。
「あなたたち右翼の人は、日本人の代表と思っているだろう。日本人はたった1人でも堂々と闘う。だから、1人で来てほしい。私たちも1人で行く。そこで日本人らしく堂々と一対一で戦おう!」と呼びかけたらよかった。
もし拒否したら、「逃げるのか! それでも日本人か!」と追い討ちをかけたらいい。
でも、そんな発想はなかった。又、万が一、そんなことを考える人がいても、警察が必死に止めただろう。
「そんなことをしたら、殺されますよ。論争に負けて黙って帰る奴らじゃありません」とか、散々脅したんだろう。
あるいは、「ボス交と思われ、仲間に裏切り者と言われますよ。〈話し合い〉をすること自体が敗北主義だ。妥協だと言われますよ」と必死で両者を恫喝し、説得したのだろう。
これは私の勝手な推測ではない。根拠がある話だ。
だって、森越さんはこんなことを言っていた。ある時、右翼の深作清次郎さんが抗議文を持って乗り込んで来た。古典的な右翼人だ。森越さんは言う。
〈その方が私のところに抗議文持ってきて、巻紙を読むんです。じっと聞いていたら、「何か言うことあるか」と言われるので、「体に気をつけて頑張ってください」と返したら、ポロポロ泣かれてね。「おまえは槇枝みたいになるなよ」って言われて、「はい」と言ったんですよ。ところが、こうなってしまってね。深作さんに合わせる顔がない(笑)〉
いい話でしたね。聞いていて私もホロリとした。そうか、警察が恐れていたのは、こういうことか。と思いましたね。
闘いの中で人間同士が接触する、話す。そのうち、「案外、いいとこもあるじゃないか」「敵ながら天晴れだ」と思うこともある。
そんな気持ちが生まれることが怖いのだ。
こうした体験があったからこそ、『論座』での、私との一対一の「対決」にも応じてくれたんだろう。
森越さんはさらに言っている。
〈右翼といっても、大組織もあれば小さい零細組織、家内制手工業みたいなとこもあって、おやじさんが巻紙を読むのを奥さんがちっちゃいテープレコーダーに録音して、写真撮ってるんです。ご苦労さんという感じですね(笑い)。
はじめは私、鬼か悪魔みたいに考えていて、相手も同じだったと思うんだけど、話をしていくうちに、立場は違っても一生懸命さみたいなものが伝わってきましたね〉
こういうふうに、相手の立場も理解出来る、となるのが警察は怖い。〈対立〉を煽っている方が楽だし、自分たちの存在意義もある。
と同時に、右翼、日教組にとっても、〈対立〉してる方が楽だったのだ。
相手を「鬼か悪魔」と考えていた方が楽だ、その中で、自分たちは「鬼か悪魔」と闘っている!と志気を高めることが出来る。
ところが森越さんのように、実際に会って、考えは違っても、「一生懸命さ」を分かったりすると、困るのだ。
『論座』の対談でも、ここまで組織の委員長が言うのは、かなりの覚悟がいったと思う。
右翼との精神的交流やシンパシーまで発言している。
「活字になるのだし、そこまで言っちゃマズイですよ。委員長」と言う人もいただろう。「そんな個人的感情を吐露してもらっては困りますよ。右翼に襲われて怪我した仲間もいるのだし…」と言う人だっていただろう。
それなのに森越さんは出てきて、発言した。勇気があると思う。
新潟では、そんな話もした。森越さんも勇気あるが、私を新潟に呼んでくれた新高教(新潟県高等学校教職員組合)の人たちも勇気がある。心から敬意を表し、感謝したい。
そうだ、『論座』の中で私は、「日教組委員長は暗殺対象だった」と言っている。
これは本当だ。日本を悪くしている元凶だと思っていた。
たとえば、60年安保の時、山口二矢は浅沼稲次郎・社会党委員長を刺殺した。
この時、3人を狙っていた。日本を悪くしているのは3人だ。そのうち、どれか1人でも殺そうと思ったのだ。
3人とは次の人だ。日教組の小林武委員長。共産党の野坂参三議長。そして社会党の浅沼稲次郎委員長だ。
日教組、共産党、社会党(今の社民党)。この3つは今も右翼の主要敵だ。
昔は私も、そう思い込んでいた。このどれかを殺して、自分も死ぬ。それが日本を救う道だ。と思っていた時もあった。「テロリスト」願望だった。
それなのに今は、テロ否定だし、暗殺対象の3者とは皆、仲がいい。驚きだ。
日教組には、こうして呼ばれて話をしてきた。
社民党には、前に仙台で、そして今月は山形に呼ばれた。党首の福島みずほさんとはよく会う。「鈴木さんの考えはもう完全に社民党よ!」と言われている。喜ぶべきなのか。複雑だ。
そして共産党の志位さんとは官邸前脱原発デモで、よく会う。「志位さんの次は鈴木さん、お願いします」と演説をさせられる。仲良しだ。
ウーン、「天敵がいなくなって、生態系が崩れた」と言ってた人がいたが、私がそうだ。
地球温暖化で、氷が解け出して、住む所がなくなって、ウロウロしている白熊。それが私だ。
どうする、どうなる、鈴木邦男だ。困惑と、不安と焦燥の中で、今年も暮れようとしている。
夕方5時に、大手門パルズに行く。ここは昔は、教育会館だったらしい。教育関係の団体、日教組、社民党などの事務所、大ホールがある。打ち合わせのあと、6時から、佐高信さんと私の対談「左翼と右翼の交差点」。
でも、佐高さんは来ない。沖縄に選挙の応援に行って、この日、来るので30分位遅れるという。「朝日に書いた愛国心の話でもしておいてくれ」とのこと。だから30分、前座で話をしました。
しかし、沖縄から東京へ飛行機で、4時間位。それから東京駅へ行って、山形まで新幹線で3時間、本当に来れるのだろうか。前座で喋っていて不安になった。お目当ての佐高さんが来ないんだったら、「詐欺だ!」「金返せ!」と山形の人民は暴動を起こすかもしれない。と不安に思っていたら、来ました。ホッとしました。すぐ私の話はやめて、対談に入りました。
選挙の話。愛国心の話。日の丸・君が代の話、憲法の話などをしました。時々、考えの対立するところもありましたが、全体的には和やかに、話は進み、質問も活発に出ました。
終わって、サイン会。2人で対談した『左翼・右翼がわかる!』(金曜日)、それに『愛国者は信用できるか』が積まれていて、かなり売れました。かなり、サインしました。
2人の共著には2人の名前を書きます。まず佐高さんが書いて私に寄越すのです。ところが、「あっ、ヤバイ!『鈴木邦男』と書いちゃったよ!」。見たら、本当にそうでした。自分で自分の名前を間違っている。なんでしょうか、これは。仕方なく、私は「佐高信」とサインしました。他人の名前をサインしたなんて、生まれて初めてです。
それが終わってから、打ち上げ。おいしいお酒と、おいしい山形料理を頂きました。そうだ。私の弟と、貞包さんも付き合ってくれました。弟は、山形大学の名誉教授、貞包英之さんは、文化放送で毎週水曜に一緒に出ている貞包みゆきさんの弟さんです。山大の准教授なので、来てもらいました。私は初対面。弟も初対面。皆と一緒に、楽しくお話ししました。
4月に佐高塾が仙台であった時は、兄貴が聞きに来てくれたので、佐高さんに紹介しました。「邦男さんよりも、勉強家ですよね」と兄貴に言ってました。官界は、弟に対しても、「邦男さんより、しっかりしてますね。真ん中だけが、フラフラしていて、ダメですね」。
そして夜は、上の山温泉に泊めてもらいました。とてもいい所で驚きました。本当にお世話になりました。
1度、家に帰ってから、文化放送へ。午後3時から。はじめに、勘三郎さんの話をしました。又、12月1日(土)は新潟・日教組に、12月4日(火)は山形・佐高塾に行ってきた話をしました。私なんかを、よく呼んでくれたと。ありがたいです。山形で、佐高さん、私の弟、貞包さんの弟さんと一緒に写した写真を皆に見せました。貞包アナにあげました。とても喜んでおりました。
今日の「ニュース 本音と建前」は、〈主要各党の原発政策を徹底比較〉。12の政党が争う。立候補者は1504人で、平成8年の小選挙区制の導入後、最多。原発については、「絶対堅持」という政党はない。10年以内にゼロ、30年までにゼロ、あるいは、見直し…と。脱原発、卒原発…と、いろいろ表現はあるが、原発に依存しない社会を目指すことでは、共通している。
だったら、同じ方向を目指し、スピード、目標点、停止点は違っても、超党派で、協議しあえばいいじゃないか。それがないのは、悲しい。特に、日本未来の党に対する日本維新の会の攻撃は、ちょっと、いかがなものかと思う。「脱原発」を目指す勢力の中での「内ゲバ」のようにも見られちゃう。
続いてのコーナー「編集長は見た!」は、お待たせ!月刊『ムー』の三上丈晴編集長の登場。何かと話題になり、騒然としてきた。だって、現在発売中の『ムー』(12月号)の特集は、これだ。
〈2012年12月23日 マヤ予言 最終結論〉
12月23日で人類は滅亡するという。でも、この号には『ムー』(1月号)の予告も載っている。「滅亡するんじゃないのか?」と読者からの問い合わせも殺到している。その点について、編集長に厳しく問い質しました。
1月号の特集は、
〈伊勢神宮・出雲大社「式年遷宮」大予言〉
来年は、伊勢神宮で20年に1度行われる遷宮。又、出雲大社は、60年ごとの遷宮の年。奇しくも重なる年だ。マヤ予言では、今年は滅亡の年だという。それがあるにもかかわらず、『ムー』は、この特集だ。
来年の同時遷宮は、禍々しい予言を無効にするのか? あるいは更なる試練への警告なのか。じっくりと聞き、考えました。
そうだ。三上さんから、こんな貴重な話を聞いた。伊勢神宮の遷宮には、昔から不思議な言い伝えがある。東の「米の座(こめのくら)」にご神霊がいらっしゃる時代は、精神性が優先される平穏な時代となるが、西の「金の座(きんのくら)」に遷られた時代は物質欲や経済が優先される変遷の年、争いの年になるという。
1689年の「金の座」の時は、赤穂浪士の討ち入りがあった。1849年からの「金の座」の時に、黒船来航、安政の大獄があった。又、1929年からの「金の座」では、世界恐慌、第二次世界大戦が勃発。
…そうなのか。これは知らなかった。一方、「米の座」だが。1909年からの「米の座」は古き良き時代といわれる大正時代。1953年からの「米の座」では、戦後復興の活気ある時代となった。
しかし、必ずしも、はっきり分けられない。だって1993年から2012年の「米の座」は阪神大震災、リーマンショック、東日本大震災などがあった。2013年からは「金の座」だ。再び戦争なのか。ウーン、不安だ。
『ムー』、続いての特集は、
〈雪男イエティは70%の確率で実在する!〉
夢のある話だ。ロシア、アメリカで「発見」されたという。2人は兄弟なのかな?と聞いたら、「いや、種族が全然別です」と、三上編集長。そんなに断言出来るのかな。続いての特集は、さらに夢のある話だ。
〈オフィスに侵入して紙幣だけを盗むポーランドの泥棒ネコ〉
侵入した跡がないのに、金を盗まれる。監視カメラには、犯人のネコの姿が。では、ネコは、この大金を何に使ったのか。女かギャンブルか。「いえいえ、ソファーの下に隠していただけです」。前世が人間で、盗癖の遺伝子だけを引き継いだのか。いや、背後には人間がいて、調教したんじゃないの、と私。あとでソファーの下から取り出そうとしたんだよ…と。「学説」は分かれ、大討論になりました。
でも、こんな論争をしていても、12月23日には地球は滅亡するかもしれない。こんなことをしてはいられない!逃げなくっちゃ。この地球から脱出しなくては!
文化放送が終わって、急いで高田馬場へ。笹井宏次朗氏の送別会に出る。居酒屋「土風炉」だ。笹井氏は一水会創設からのメンバーだ。そのあと、ブラジルに渡り、6年前に日本に帰国し、国体学会の仕事をしていたが、再び、妻子の待つブラジルに帰ることになった。
成人した息子をブラジルの大統領にしたい、と大望を抱いている。笹井氏は情熱家だし、稀に見る魅力ある活動家だ。日本でも、いてくれと引き止める人が多い。日本とブラジルをつなぐ大きな架け橋になって大活躍してほしい。我々もぜひ、ブラジルに行ってみたい。毎日のように送別会があるというが、この日は、木村氏、四宮氏など、一水会の昔からの仲間でやった。懐かしい話も沢山出た。
①日教組加盟の新高教(新潟県高等学校教職員組合)に呼ばれました。第39次教育研究集会です。12月1日(土)、午前10時半から12時。講演しました。「教育と“愛国”」です。
そのあと、「分科会」にも出ました。
夜は「夕食交流会」にも参加しました。現場の先生たちとじっくりと話し合いました。
⑤若松孝二監督は新潟にはよく来たそうです。映画のロケも、ここで随分やっているし、新潟から坂口安吾賞をもらってます。又、この映画館を愛し、必ず寄ったそうです。若松映画は全てここで上映し、トークショーもやったそうです。「シネ・ウインド」です。
館内には、若松監督のコーナーもありました。右が支配人の井上経久さんです。左が、案内してくれた新高教執行委員の小船井秀一さんです。
⑥日教組委員長・森越康雄さんと05年、『論座』(05年6月号)で対談しました。この時から、日教組との〈接点〉は生まれたと思います。「この対談は革命的だ!」と書かれています。日の丸、君が代、憲法、自衛隊について話し合いました。それから7年経って、日教組の大会に呼ばれたんです。
⑧そのずーっと前だと思います。週刊「SPA!」で、こんなこともやりました。
〈若手右翼、日教組組合員が語る、「ここが許せない!」〉
これも画期的・歴史的な座談会だったと思います。新潟でも、『論座』と『SPA!』の話を詳しくしました。
⑨1985年ですから、もう27年も前ですね。「5時間闘論・教育は変えられるのか」というテレビ番組に出ました。それが未来社から本になってます。
日教組の元委員長だった槇枝元文さんと会いました。それに、「積木くずし」の穂積隆信さんとも会いました。
⑮12月3日(月)ロフトプラスワン。針谷大輔氏の『右からの脱原発』(K&Kプレス)の発売を記念してのイベントです。「脱原発と総選挙」です。第1部。左から、針谷大輔氏、鈴木、姫井由美子さん、山崎行太郎さん、久田将義さん。