むのたけじさんに会いました。98才の闘うジャーナリストです。前々から会いたいと思ってました。
5月15日(水)、何と東京で講演会があったのです。午後3時です。
さらに、この日の夜は、前宮内庁長官の羽毛田信吾さんに会いました。
この日は、凄い人に2人も会ったのです。歴史を作り、今も作っている2人です。
まずは、むのたけじさんの話からしましょう。
午後3時、むのさんの話を聞きに行きました。とても元気でした。終わってから話をしました。
むのさんは終戦後、戦時体験を反省。ケジメとして朝日新聞を退社。苦悩の2年半を過ごし、故郷の秋田県横手市で、「週刊たいまつ」を発行。そして30年、闘い続けました。
秋田の、というより日本の誇りです。伝説的な存在です。
「僕も子供の頃、横手にいたので、むのさんのことは、とても偉い人だと知ってました」と挨拶しました。
私は、父が税務署に勤めていたので、2年か3年で、転勤。東北地方を転々としました。
生まれたのは福島県郡山市。それから(最近知ったのですが)会津若松に行きました。
そして、青森県石黒市、秋田県横手市、秋田市、湯沢市。それから、宮城県仙台市です。
今年4月に会津若松に行き、このHPに、その報告を書きました。
NHKの大河ドラマ館で、「八重の桜」のスペンサー銃を撃ち、「あっ、こんなことが前にあった。前世の記憶だろう」と書きました。
それを見た私の兄貴に、誤りを指摘されました。
「前世ではなく、お前は現世で会津若松に住んでいた。2、3才の頃だ」と。
兄貴は鶴ヶ城のすぐ傍にあった「鶴城(かくじょう)小学校」を卒業したそうです。
5月18日(土)には、高校の同窓会があり仙台に行きました。その時、兄貴のとこに寄って、「私の歴史」をキチンと聞いてきました。
しかし、生まれた郡山、2、3才の時の会津若松などの記憶は全くない。
記憶があるのは横手で幼稚園に入ってからだ。でも幼稚園は余り好きじゃなかったようだ。「行きたくない!」と泣き叫んで、電信柱にしがみついていたそうだ。
そう言えば、そんな「記憶」がある。いや、親に何度も聞かされているうちに、〈映像〉のように自分の頭の中に、クッキリと残ったのだろう。実体験なのか、聞かされた知識なのか、自分でも分からない。
ともかく、幼稚園と小学1年が横手市だ。小学2年・3年が秋田市の保戸野小学校。小学4年から6年は湯沢東小学校。中学1・2年は湯沢中学。そして中学3年は仙台二中。高校は東北学院榴ヶ岡高校。そして大学は早稲田だ。
小、中学校は全部、秋田県だ。だから私は「秋田産」なんですよ。
父親も母親も保守的・良識的な人間だと思う。我々の世代の親は皆、そうだろう。「お父さんは新左翼」なんて人はいない。新左翼はまだ発明されてない。
両親は普通の保守的な家庭だ。母親は「生長の家」に入り、愛国的でもあった。
でも、「横手には、むのたけじさんという偉い人がいるんだよ。凄い人なんだよ」と母に聞かされていた。考えが違っても、地元の人々からは尊敬されていたのだ。
最近、山形で佐高信さんと一緒に講演会をやった。その時、弟も来てくれて、佐高さんに紹介した。
佐高さんは、仙台で講演した時、私の兄貴にも会っている。
「鈴木さんと全然違うね」と佐高さん。「お兄さんも弟さんも紳士だし、よく勉強してるし」と言う。
そうですね。真ん中だけが粗野で、不勉強なんですよ。
講演会のあと、弟も一緒に打ち上げに行った。その時、たまたま、むのたけじさんの話になった。
「とても偉い人だ」と母親に聞かされていた。ぜひ会ってみたい、と言った。
その時、弟が言った。「親父も誉めていて、よく一緒に酒を飲んだらしいよ」。
エッ!と思った。そんな話は聞いてない。親父は横手税務署の署長だと思う。署長と反骨のジャーナリスト。全く接点があるとは思わなかった。
でも、むのさんは、いろんな人に会って取材していた。税務署長の父にあったとしても不思議ではない。父親からキチンと聞いておけばよかった。
それにしても、どうして父親は弟にだけ、そんな話をしたのだろう。次男坊の私は、粗野で、そんな話をしても分からないと思ったのかな。
ともかく、むのたけじさんのことは、昔から気になってたし、ぜひ会ってみたいと思っていた。秋田にいる知り合いの新聞記者にも、「ぜひ、会わせて下さいよ」と頼んでいた。
でも、機会がなかった。98才だし、もう東京で講演会をすることもないだろう。と思っていた。
そんな時、『月刊マスコミ市民』の5月号が届いた。パラパラ見てたら、「むのたけじさん講演会」の案内が出ていた。驚いた。まさか、と思った。
それで電話をして予約し、行ったのだ。
5月15日(水)午後3時から5時。内幸町の日本プレスセンター9階だ。演題はこうだ。
〈希望は絶望のど真ん中に
=人類と個人・世界と地域—秋田・東北・ジャーナリズムを語る=〉
「首都圏秋田懇話会10周年記念」と書かれている。秋田の県人会のようなものなのか。
〈あくなき世界平和を望み、98才のジャーナリスト・むのたけじが、今問う! 人間とは、東北とは、ふるさと秋田は、真のジャーナリストは絶望から希望は見いだせるのか…と〉
数々の絶望を体験した。戦争の絶望、大震災の絶望。
そして故郷・秋田は自殺者が全国でトップ。少子化。過疎化。その中から、どう〈希望〉を見つけ、〈再生〉するのか。を語る。
どんな絶望的な中でも、希望を持ち努力すれば必ず叶う。諦めるからダメなのだ。諦めず努力すれば、必ず実現するという。
98才のむのさんの体験から出た話だけに説得力がある。
国民もジャーナリズムも、希望・夢を見失い、自分を見失ったからダメになった。
戦争中、軍部が新聞社にやってきて、「これは書くな!」「これを書け!」と検閲をして弾圧したのではない。そんなことは一度もなかった。社内で皆、「自制」し、「自粛」したのだ!と言う。ジャーナリズムとしての「自分を忘れた」のだ、と言う。
そうだったのか。軍に弾圧されて、書けなかったのかと思ったが違うという。
今だって、ジャーナリズムは「自分を見失っている」。自分のことを「メディア」という。これは「媒体」「手段」ということだ。
ものを考えない。自分がない。「こんなことでは記者とは言えない。トロッコだ!」と言う。記者と汽車をかけたのだ。
「あっ、今日は笑ってくれましたか。若い記者の前で言っても、誰も笑わないんですよ」とむのさん。
戦争中の、「自分を見失っていた」屈辱の体験から、むのさんの再出発はある。
そして、反骨のジャーナリストの闘いが始まる。プロフィールによると、こうだ。
〈1915年1月2日に秋田県仙北郡六郷町で百姓の子として生まれた。1936年3月に東京外国語学校を卒業。報知新聞に入社。地方支局と社会部で働く。1940年12月に職場を朝日新聞東京本社に移して社会部で働き、戦場にも出かけた。1945年8月に敗戦時に新聞人として戦時体験を反省。ケジメとして朝日新聞を退社〉
30才の、まだ若い記者なのに、自分なりに責任を感じ、反省し、朝日新聞を辞めたのだ。
これは凄い決断だ。そんなことをした記者は、他には(あまり)いなかっただろう。
辞めた後、どうしたか。
〈そして苦悩の2年半を過ごす。1948年2月に秋田県横手市で「たいまつ新聞」を作り、タブロイド判「週刊たいまつ」を発行。破壊された農業・農村を立て直し、戦争要らぬ・やれぬ社会づくりを提言。青壮年と女性の学習運動に努力した。経営は困難で、それを家族全員の労働で補いながら、発行を30年続けたが、1978年1月、第780号を出して休刊。
それから今日まで、常に生活者の視点から日本の姿を見つめ、鋭く深い思索に裏打ちされたことばを紡ぎだしてきた。日本は果たして生まれ変われたのか?を問いかけながら、今も「戦争のない社会の実現」に向けて言論活動を続けている〉
むのさんは98才だが、元気一杯だ。ずっと立ちっぱなして喋る。声も大きい。マイクなしで、後ろまで聞こえる。
戦争中のマスコミの批判・自省は凄まじい。
「軍が怖かったのではない。怖くなかった。何かあったら、新聞がつぶされたら困る。そう思って、自主規制したのだ」と言う。自分で自分を見失っていたのだ、と。
「もしあの時、朝日と毎日が手を組んで命懸けで反対していたら戦争を止められたかもしれない」と言う人もいた。
そうだったのか、と思った。「あの当時、新聞は読者を忘れていた。しかし軍部は読者を知っていた」。
これも深い言葉だ。それで、戦争に突っ込んでいったのか。新聞の責任は重い。
むのさんの主な著書は。『たいまつ16年』(岩波現代文庫)。『戦争絶滅へ、人間復活へ』(岩波新書)、『希望は絶望のど真ん中に』(岩波新書)などだ。
ぜひ皆さんも読んでほしい。ジャーナリストとしての使命。記事の書き方などについても話してくれた。又、秋田県人としての「誇り」もある。「自殺論」についても。
「自殺者が日本でトップというのは悲しいことではある。しかし、恥ずかしいことではない。又、秋田の人が弱いからでもない。勇気がないからでもない」と前置きし、こう言う。
「秋田の人は、人がいい。悲しみ、苦しみにまっすぐにぶつかる。逃げないで、自分で引き受ける」。
「(他の県の人なら)何か問題があると、他人のせいにする。秋田の人は、他人のせいにしない。自分で引き受ける」。
だから自殺者もトップなんだ、という。故郷・秋田に対して優しい。もしかしたら、日本人の本来持っていた〈謙虚な国・日本〉の典型例がそこにあるのかもしれない。
「他人のせいにしない。全て自分で引き受ける」。それは恥ではない。
ただ、その結果、自殺ということになるのは何とも悲しい。
もう一つ、秋田は殺人事件を含め、犯罪事件は日本最低なのだ。これも、「他人のせいにしない」からだろうか。
そして、秋田美人で有名だ。美人率は日本でトップだ。小・中学校の学力検査でもトップだ。
美しい女性と、賢い子供がいる。そして、犯罪はないし、日本一治安のいい県だ。
何があっても、他人のせいにはしない。ある意味、ユートピアなのかもしれない。あとは自殺を止めることだ。
そうだ。秋田の中学・高校は全部、ミッションにしたらいい。そうしたら、自殺者はいなくなる。
キリスト教では、命の大切さを教えている。この体は神にいただいたものだ。自分勝手に処分してはいけないと教えている。
5月18日(土)に、東北学院榴ヶ岡高校の同窓会があって、行ってきた。皆、元気だ。勿論、自殺した人は1人もいない。病気で亡くなった人も1人もいない(少しはいるかな)。ともかく、ミッションに入ったら、皆、健康で、長寿だ。
そうだ。もう1つ書こうと思っていたんだ。
5月15日(水)、むのたけじさんの講演を聞いて、二次会にちょっと出て、中座した。7時から谷中の全生庵に行ったのだ。北野さんが主催して毎月、「全生庵勉強会」をやっている。
数年前、私はここの講師で呼ばれた。それ以来、「どうしてもこの人の話を聞きたい」と思う時は、来ている。
元警察庁長官の國松さんなどは、他では絶対に会えない人なので、嬉しかった。
又、今回の羽毛田信吾・前宮内庁長官なども、普通なら会えない。
だから、光栄だったし、感動した。
羽毛田さんは、「ここは三遊亭円朝のお墓があるんですね。私、落語が好きなもので」と言う。
知りませんでした。「私も好きです。円朝の全集を読破しました」と言いました。
今、羽毛田さんは、九段にある「昭和館」の館長をやっている。その話もしてくれた。
「でも皆さんのお聞きしたいことは、天皇・皇后両陛下のご生活のことでしょうし。11年間、私はお仕えして、感じたことをお伝えしたいと思います」と言う。
かなり詳しく話してくれた。とても誠実な方で…と。国内での行事、海外での行事…などについても話してくれる。
皇居の中で天皇陛下は、車を運転することがある。
別に対向車もないし、公道ではない。それでも、キチンと制限速度を守られる。
又、曲がる時は、誰も来ないのに、キチンとウインカーを出される、という。
そうしたお話は初めて聞くことばかりだ。日本に皇室があってよかったと思った。
保守派の人や右翼的な人が、天皇論を言うのと違い、お近くでお仕えした羽毛田さんが言うのだ。
両陛下のご生活が目に浮かぶようだし、説得力がある。本当にいいお話を聞かせて頂きました。ありがとうございました。
〈希望は絶望のど真ん中に
=人類と個人・世界と地域—秋田・東北・ジャーナリズムを語る〉
満員でした。終わって、挨拶しました。むのさんは、秋田県横手市に住んで、ジャーナリストとして闘っています。「私も、小学校の時、横手にいました。今度、横手に行きますので、じっくり話を聞かせて下さい」とお願いしました。
そのあと、打ち上げに出て、6時に中座。 午後7時から谷中の全生庵に行く。「全生庵勉強会」だ。今日の講師は前宮内庁長官の羽毛田信吾さん。これは聞きに行かなくちゃと思って、急いで行った。
実にいい話でした。 長い間、天皇・皇后両陛下のおそばで仕えた人の話は違います。実に感動的でした。終わってからも、いろんな話を聞きました。
「よど号ハイジャック」に興味があるという生徒もいたり、「昔のことで、知らない」生徒もいたり。43年前だから、確かに歴史だ。それに、日本史、世界史の試験にも出ないし。
でも、当時の時代情況や、若者たちのことを知るには、いいテキストだと思う。終わってから、生徒と食事会へ。
家に、『北方ジャーナル』(6月号)が届いた。第1の特集が、『右』の6人、脱原発を語る』。凄い特集です。私も出ている。来週詳しく紹介しよう。
夜、久しぶりに柔道に行く。体がなまっている。いけないな。帰ろうとしたら、メールが来て、今日、猫ひろしさんがロフトに出てるよ、と。谷川真理さんと対談してる、と。
あっ、カンボジアから帰ってきてるのか。じゃ、ちょっと会いに行こうとロフトに行きました。
久しぶりでした。前に文化放送に出てもらった時は、楽しい話を聞かせてもらいました。でも、あの番組は終わったんですよ、と言いました。向こうの話や、マラソンの話や、オリンピックへの意気込みなどについて聞きました。猫ひろしさん監修の『爆笑!あるあるマラソン』をもらいました。なかなか面白い本です。
そして、5時から、榴ヶ岡の仙台ガーデンパレスへ。東北学院榴ヶ岡高校の同窓会だ。
懐かしい同級生たちに会いました。吹奏楽部の演奏で校歌が流れると、目頭がうるみます。私にも愛校心があるのでしょう。あるいは単なる感傷でしょうか。
本当に苦しかった高校生活だったな、と思いました。あまり思い出したくありません。でも同窓会には来るんですよ。
終わって、同級生と夜の街に出て、痛飲しました。仙台名物の牛タンで焼酎を飲みました。私より15期下の荒木飛呂彦さん(漫画家。「ジョジョの奇妙な冒険」の作者)も来てるかと期待しましたが、忙しくて、来れなかったようです。前には、2回ほど来てました。いろいろ話をしました。「今度、高校生活のことを、どっかの雑誌で話しましょうよ」と言ってたんだけど…残念です。
夜は仙台に泊まる。
④前宮内庁長官・羽毛田信吾さんが「全生庵勉強会」に来ました。とてもいいお話でした。とても感動的なお話でした。5月15日(水)午後7時からです。
むのさんの講演を聞いて、ちょっと二次会に出て、それから千駄木の全生庵に駆けつけました。
⑬2千年前の人間が洞窟に描いた絵です。何と「翼を持った人間」が描かれてます。鳥を真似て仮装したのだと言いますが、昔々の人は本当に翼を持って、飛んでいたのかもしれません。
今でも、翼を持ってる人はいますし。ただ、右とか左とか、一方だけの翼ですが。
㉒5月14日(火)『紙の爆弾』の対談。緊縛師の有末剛さんから、「緊縛と日本思想・文化」の話を、じっくりと聞きました。
稲作が日本に入り、縄が編まれ、神社の注連縄など、いろんなところに縄が使われた。自分を戒める縄。犯罪者を捕縛する縄。そして、時には、快楽を追求するためにも使われた。縛られることによって、より〈自由〉になり、より〈美しく〉見せることも出来るという。
目からウロコの日本文化論でした。とても勉強になりました。学校では教えてくれない日本文化論、日本の歴史でした。