「クニオ、この前、テレビで見だど」と何人かに言われた。
「どんだげ過激な事ば言うなだと思ったげんと、案外、おどなしいごと言ってだっちゃな」
「んだんだ」
「オラダの考えでるごとど、かわんねえ」
「んだんだ」
…と言う。「多分、オラも、ミッションスグールで、教わったからだっちゃ」と私は答えました。
5月18日(土)、午後5時から、東北学院榴ヶ岡高校の同窓会がありました。その時の光景です。
私は1回生です。確か150人ほどいたのですが、ともかく厳しい学校でした。
今は何回生なんだろうと思って聞いたら、52回生だそうです。
じゃ、52年前に私たちは高校に入学したのか。大昔だ。ショックだった。
その52年間の間に、1万人以上の同窓生がいる。凄いですね。
そういえば、10年ほど前、喜納昌吉さんに呼ばれて沖縄のシンポジウムに行った時、「榴ヶ岡出身」という牧師さんに会った。
又、今年の2月11日、名古屋の教会に呼ばれて講演した時、やはり榴ヶ岡高校出身の牧師さんに会った。
聞いたら、牧師になった人は10人以上はいるという。あるいは、何十人もいるのだろうか。偉いですね。
「ミッションだから、いるだろう」と思われるかもしれないが、意外にも、私らは、〈宗教〉とはあまり関係がなかった。
勿論、ミッションだから、毎朝、礼拝があるし、聖書を読み、賛美歌をうたった。「聖書」の授業もあるし、その試験まである。
それで合格点を取らないと、卒業出来ない。だから大学の受験も出来ない。
それで「仕方なく」勉強した。「強制された宗教」だから、反撥した。
厳しい学校で、ちょっと遅刻したからといっては先生に殴られた。服装が乱れているといっては、殴られた。授業中、私語をしたからといっては殴られた。
そんなピリピリした、恐怖政治のような学校にあって、「神の愛」を言われても、「嘘つけ!」と思ったのだ。
この収容所のような生活から早く脱出したい。自由を得たいと思った。ソルジェニツインのようだった。
礼拝や「聖書」の授業も〈強制〉だったので、反撥したのだ。
「聖書」の時間には、皆、「内職」していた。英語などを隠れて勉強していた。私は「聖書」の教科書の下に英単語の本をしのばせて、必死に暗記していた。
ところが運悪く、見つかり、その単語帳をストーブに投げ捨てられた。
一瞬にして大事な単語帳は燃えた。私は茫然としていた。
休み時間に、何人かが集まってきた。
「あそこまでやられたんだ。悔しくないのか」「やり返せ」と言われたのかもしれない。
52年経って、そう「証言」する人もいる。「俺たちが焚きつけたのが悪かった」「皆で、抗議に行くべきだった」と。
でも私の記憶では、そうした「周りの声」は全くない。
カーッとなって、職員室に行き、「聖書」の先生を、物も言わずに殴りつけた。そのシーンだけを鮮明に憶えている。
即刻、退学だ。その時のことは、『失敗の愛国心』に詳しく書いた。
結果的には、半年後、復学し、「1人だけの卒業式」をやってくれた。半年間、教会に通い、懺悔の生活をしたのだ。
だから、キリスト教というと、「強制」と「懺悔」のイメージばかりがある。
それが30年位経ってから、「あっ、キリスト教もいいもんだな」と思うようになった。
世界の文学、美術、建築などを理解するにもキリスト教の理解は必要だ。
地獄のような体験だったけど、でも、ミッションで習ったことはよかった、と思えた。そう思えるようになるまで30年も必要だったということだ。
自分にとっては、キリスト教は「強制」と「弾圧」のイメージだったから、高校で本当に信じていた人がいたことは理解出来なかった。そんな人はいるはずがないと思った。
ミッションだから、いやいや礼拝に出て、いやいや「聖書」の授業に出ているのだと思っていた。
でも、これは間違いだった。あの時代にも、本当に、キリスト教を理解し、信じていた生徒がいたんだ。何せ在学中に洗礼を受けた生徒もいたという。
この話を聞いた時、「嘘だろう!」と叫んだが、本当のようだ。
1学年は150人位だ。その中に、毎年、10人ほどは洗礼を受けていたという。
全く知らなかった。受験だけを目指し、いやいや礼拝に出てた我々とは違い、そんな真面目な人々がいたんだ。ひっそりと、まるで「隠れキリシタン」のように生活していたのだ。
あれっ、変だな、ミッションスクールで「隠れキリシタン」というのは。
でも、宗教の押しつけに反撥していた多くの学生の中で、真剣に学び、信じていた人たちは、ひっそりと、孤立して生活していたようだ。
そして、卒業後、さらに神学校に行ったり、大学の神学部に行き、そして、牧師になった人も10人以上いる。
私たちのような、荒々しい反抗生活を送った人間とは違う。
そうだ。そんな「神の生活」を一筋に送った人に、今度、キチンと話を聞いてみよう。
高校を卒業して50年が経ち、今は、「ひどい生活だった」と笑って言えるようになった。
と同時に、キリスト教の教えが、いろんな所で活かされていると思っている。
「愛国心」の理解についてもそうだ。
三島由紀夫は、「愛国心」という言葉は嫌いだと言って、お上が押しつける「官製」のにおいがある、と言う。
又、「愛」というならば無限のものなのに、「国境」で区切られている。
こんなものが愛か、と。
これはキリスト教の愛を念頭に置いている。キリストの愛は国境を越える。
無限の愛だ。愛とは本来、そういうものだ。
それなのに、この国だけは愛し、他の国は憎む。これが愛という名に値するのか、と。
だから、今の排外主義的な動きは、「愛」だとは言えない。「愛国心」でもない。単に、隣国に対する「憎悪心」だ。「憎悪心」をいくら集めても、自国に対する「愛国心」にならないだろう。
あんなに、ミッションの生活を嫌い、反撥したのに、何故かキリスト教の教えが生きている。自分の体に染みついている。そんな思いがある。
「それと、『生長の家』の教えですよ」と、よく、言われる。
母親が熱心な信者だったので、小さなうちから「生長の家」の教えには触れてきた。
「愛国心」もそこで教わった。「万教帰一」ということも教わった。
対立的に見えていても、全ての教えの根本は一つだという。
ちょうど富士山に登る道はいくつもあるが、皆、頂上を目指し、頂上で出会うという。
私は最近、左翼的な人々と付き合うことが多いし、左翼の集会や労働組合にも呼ばれたり、日教組にも呼ばれて話をした。
「転向だ!」「変節した!」と(昔の仲間からは)罵倒されることも多い。
ところが、「生長の家学生道場」で一緒に修行した布清信(ぬの・きよのぶ)君に言わせれば、「それは“万教帰一”を実行してるんですよ」と言う。
驚いた。そんなことは考えたことはなかったからだ。
自分でも、変節したのかな、転向したのかな、堕落したのかな、と思うことがある。迷う。
ところが布君は、「違う」と言う。「右も左も、方法論、道は違っても富士山に登ろうとしている。理想の世界を目指している。同じだ。それを実践しているのだ」と。
「そんなことを考えたことはないのに…」と言ったら、「それが宗教ですよ」と言う。
じゃ、私は、キリスト教と「生長の家」がベースになって、この運動をやってきたのか。
ウーン、そうなのか。じゃ、私だって「聖職者」かもしれない。
今年の2月11日、名古屋の教会に呼ばれて、私は講演をした。
その時の様子が「キリスト新聞」(3月2日)に載っている。私の話の内容、さらに、主催者の岩本和則牧師の話が載っていた。こう言っている。
〈鈴木さんは聖書の登場人物に例えるならば使徒パウロ。かつてはゴリゴリの武闘派民族主義者だったが、近年は一転して一切の暴力を否定。自らの立場に執着せず、ひたすら言葉による対話の重要性を説き、政治的党派性、宗教、文化の差異を超えて活躍される様子はまさにパウロそのもの。おまけに鈴木さんはミッションスクール出身で、著作の中でもしばしばキリスト教について語っている〉
これは嬉しいですね。そんな気持ちで生きてきたわけではない。
しかし、知らず知らずのうちに、無意識的に、キリスト教の影響があったのだろう。
なんか、キリスト教の「いいとこ取り」みたいで申し訳ないが。
岩本牧師は、さらに言う。
〈教会の中にも、社会派、福音派といった左右の色分けをしたがる傾向は一部に見られる。党派性の呪縛が教会を閉塞させているような気がしてならない。鈴木さんはキリスト者ではないが、その党派性にとらわれない生き方が、むしろ福音による自由の尊さを証明しているように思っていた〉
ありがたい話です。自分では、ただ、「いいかげん」「節操がない」「だらしがない」だけかと思っていたのに。そうではなく、「自由」だったのか。
ミッションにいた時も、ただただ「自由」になりたかった。
又、早稲田に入り、その「自由」を手に入れたと思ったら、そこは全共闘の支配する「抑圧の学園」だった。
「自由」を求めて声を上げたら、「右翼め!」「反動め!」と全共闘に殴られ、ボコボコにされた。
そして、私は「右翼」になった。
はじめに「自由」への叫びがあったのだ。ただ「自由」を求めただけなんだ。
それが「右翼」と言われ、今は「変節漢」と呼ばれ、時には「反日」「売国奴」と言われる。キツイ。
でも、使徒パウロは、もっともっと、キツかったのだ。苦難の道を歩んだのだ。
もっともっと聖書を学んでみよう。パウロの生き方を読んでみよう。「裏切り者」と言われ、弾圧されたんだ。それを跳ね返したのは信仰だった。
パウロの一途さ、強さをもっともっと知りたい。学びたい。
遠藤周作の『沈黙』という小説がある。キリスト教を捨てて、裏切った聖職者が出てくる。変節し、今度は日本のキリスト教徒に棄教を勧める。
「私は、これではないのか」と長い間、悩んでいた。
味方を裏切り、〈敵〉に、味方の情報を教えている。スパイだ。
「どうしたら、話し合いが出来るのか」「右翼が襲撃してきたらどうしたらいいのか」と聞かれることが多い。
こうしなさい、ああしなさいと教える。
味方を裏切った武士が、敵に(かつての)味方の情報を教えている。私は、そんな汚れた裏切り者ではないのか。と悩んでいた。
その悩みは今でもある。使徒パウロは、私とは比べものにならないほどの悩みを持ち、苦しみを持ち、そして、それでもなお、信仰に生きたのだろう。
一部の人間にだけ通じる、小さな〈愛〉ではなく、本当の、無限の〈愛〉を信じて。
又、それを実践しようとして、苦難の道を選んだのだろう。
自分の頭はいまだ混乱している。ミッションの同窓会に出るたびに、そんなことを考える。でも、これはいいことだろう。
普段は、ボーッとして、自堕落に生きている私が、人間の生き方を真剣に考える機会なのだから。
①5月18日(土)午後5時半。東北学院榴ヶ岡高校の同窓会に出ました。仙台ガーデンパレスで。これは1回生と2回生ですね。50年前に高校に入学したんですね。大昔です。先生もいますが区別がつきません。(左から3人目が化学の脇田先生です)
⑧これも「すずめ踊り」です。すずめの真似をして、チュンチュン踊るんです。「竹に雀」は伊達家の家紋かな。又、仙台には「竹に雀」という有名なお酒もあります。
仙台人はすずめです。鳥です。だから翼があるんです。
⑪同窓会の時、2回生に言われました。「明日、クニオ、行ぐんだべ。大道塾へ」と。
エッ?と思ったら、北仙台の青葉体育館で、「北斗旗全日本空道体力別選手権大会」をやるという。午後から東京で用事がある。でも、せっかくだからと、朝早く行って、東孝先生にご挨拶しました。
⑬そうだ。北仙台駅から「わが家」が近かったな、と思い、歩きました。わが家は今は、売り払われ、新しいアパートが建ってました。右の大きなアパートです。立派です。そうか。いつか、ここに部屋を借りて、仕事をする。というのもいいかもしれない。
⑮19日、仙台駅地下1Fの「ずんだ茶寮」で、ずんだセットを食べました。ずんだ餅とアイス緑茶です。さすが「日本一のお菓子」と言われるだけのことはあります。
このあと、「ずんだシェーク」も飲みました。他に、ずんだアイス、ずんだプリン、ずんだ饅頭などもあります。
⑯19日(日)午後1時に東京について、池袋へ。豊島区民センターへ。「かりの会」総会に出ました。私も挨拶しました。「よど号」グループの帰国支援の会です。
かりは鳥です。北を目指し、再び日本に帰ろうとしています。仙台人は雀で、よど号は、かりです。劇団再生はフクロウです。みんな鳥です。だから、みんな翼があるんです。「かりの会」のあと、近くの居酒屋で飲みました。
⑲5月20日(月)午後1時から、想田和弘さんと対談しました。「マガジン9」で。想田さんは「選挙」「選挙2」「精神」「Peace」などの衝撃的な映画を次々と作り、問題提起しております。
今はニューヨークで仕事しています。帰国した忙しい中を会ってくれました。
㉖私は街頭で取材されてます。いや、写真は街頭ですが、電車の中で取材されたのです。
4月9日、札幌に行ってました。6時から鈴木宗男さんとの講演会があったのです。
その前は、「北海道新聞」の取材が入ってました。だから、「北方ジャーナル」から取材を申し込まれた時、「時間がないですよ」と言ったんですが…。「そうだ、千歳まで迎えに来てよ」と頼み、千歳から札幌までの電車の中で話をしたのです。幸い、空いていたので、よかったです。「車中取材」なんて初めてです。