ハードでしたね。
7月6日(土)は函館に日帰り。唐牛健太郎さん(60年安保の全学連委員長)のお墓参り。
7日(日)は西宮に日帰り。「鈴木ゼミ」で内田樹さんと対談。
8日(月)は一水会フォーラム。「ライフ」会長の清水信次さんの講演。
9日(火)は、日本外国特派員協会で話す。
有田芳生さんと2人で、「ヘイトスピーチ・デモ」について話し、アメリカ、ドイツ、フランス、スイスなどの記者の質問を受けました。この日のヤフーニュースではトップで報じられてました。
忙しいです。それに、急に暑くなりました。
さらに、家のすぐ隣りでは工事が始まり、音がうるさいし、朝の8時から始まります。寝れません。バテます。
だから、工事に合わせて、なるべく早く寝て、早く起きるようにしています。
でも計画通りにはいかないんですね。
では、7月6日(土)の函館の話です。
この日だけは涼しかったです。函館の唐牛さんのお墓に、学生運動の後輩たちが集まり、お参りし、思い出話をし、これからこんなことをやろう。と話すんですよ。
函館山の上にお墓はあり、函館港が一望できます。そのうちパラパラと小雨まで降ってきました。でも続行です。
「60年安保の全学連委員長」と聞くと、随分と昔の人のような気がします。
しかし、昭和12年生まれですから、生きていたら76才ですか。田原総一朗さんよりも若いんですね。若くても亡くなったんです。
唐牛(かろうじ)と読みます。それ以前は、左翼は、共産党系の運動しかなかったんです。
60年安保の前に〈反乱〉が起こり、反日共系の運動が起こります。より過激な闘いをするようになります。
反日共系、反代々木系といわれ(代々木に共産党本部があったので)、全学連も割れます。
唐牛さんたちは過激なデモを闘い、機動隊とも乱闘します。
一方、日共系は法律を守り、合法的なデモをやります。
反日共系の人たちは、その「静かなデモ」を嘲笑し、「焼香デモ」と言いました。お葬式のお焼香のように、黙々と、静々と歩むからです。
だから、学生運動をやった人の葬儀では、今でも、激しい弔辞が読まれます。
「我々は反動政府と闘い、日共と闘い、彼らの敗北的な“焼香デモ”を乗り越え、粉砕し…」と。
まいったなー。これから本当の焼香が始まるのになーと思いました。
お焼香の時も、静々と進みながら、なんか悪いことをしてる気になります。
でも、お葬式では、どう暴れていいのか、どう闘っていいのか分かりません。
あっ、唐牛さんの話だ。7月6日(土)、午後3時から墓前祭は始まりました。
全国から40名ほどが集まった。唐牛さんの奥さん。昔の運動仲間。唐牛さんを慕う活動家たち。組合の人たち。芸術家。市民運動家などです。
お墓参りのあと、出席者の挨拶。連帯の挨拶だ。
自治労の高橋公さんが司会。「では最初に鈴木邦男さんにお願いします」。
エッ、なんでこいつがいるんだ。右翼のくせに。「我らの輝かしき全学連委員長」のお墓参りに来るなんて…。図々しい。
…と思う人が沢山いたようだ。「だから説明します」と言った。
その前に、「証拠」の写真を見せてあげた。
30年ほど前だ。唐牛さんと一緒に撮った写真だ。えーと、いつの写真かな、と思っていたら、「草間孝次さんのパーティの時です」と奥さん。確か、1982年だったと思う。
草間孝次さんの出版パーティなのか。そこで唐牛さんに会った。「この人があの伝説の全学連委員長か」と感動した。その時の写真だ。
草間孝次さんは別に左翼の人ではない。「だって、陸軍中野学校出身なんだから」と奥さん。
そうなんだ。その体験を活かしたわけではないだろうが、左右の運動に関する情報誌を出していた。唐牛さんにも取材で会ってたのだ。
草間さんは、左だけでなく、右の人とも多く交流していた。右翼の「日本青年講座」の白井為雄先生とも親しかった。
白井先生に連れられて私は出席したのだ。そして唐牛さんに会った。
この年、82年(昭和57)の6月には、一水会勉強会の講師で来てもらい、60年安保の話をしてもらった。
「右翼の勉強会で喋るなんて、生まれて初めてだよ」と言いながら、楽しそうに話してくれた。
「マルクスなんて知らなかったけど、学生運動をやった」「うまい酒を飲みたくてやっただけだ」「安保闘争なんて、“壮大なるゼロ”だな」と言っていた。
唐牛さんが、一水会に来てくれたのが1982年6月。今からもう31年前だ。『新右翼』(彩流社)の巻末年表で、見てこれを書いている。
この前年(1981年)には、こんな記述もある。
〈6月、一水会勉強会に桐島洋子。7月、小沢遼子、「ポーランド連帯」の梅田芳穂、9月、淡谷まり子がそれぞれ講師で出席。「女性解放闘争」に連帯〉。
そうか。桐島さんも来てくれたのか。今、参院選では息子さんが「みんなの党」から出て闘っている。小沢遼子さんとは今年5月31日の朝生で会った。
この頃は、異色の講師を呼んで一水会勉強会をやってるが、今のようにサンルートホテルで大々的にやってたわけではない。
当時一水会事務局は高田馬場の宝来家という焼き鳥屋の2階にあった。6畳の和室が2つあるだけだ。1部屋を事務所にし、もう1部屋を応接室にしていた。
勉強会の時は、そこの机やイスを片付けて、そこで勉強会をしていた。せいぜい20人位しか入らない。
そこに唐牛さんや桐島さんが来てくれたわけだ。
それに、当時は、運動面でも、かなり過激なことをやり、よく逮捕されたり、ガサ入れされたりしていた。
唐牛さんを呼んだのは82年の6月だが、9月には「スパイ査問」に端を発し、新右翼内部でリンチ殺人事件が起こり、見沢知廉氏たち実行犯3人が逮捕されている。
これによって一水会は徹底的な弾圧を受ける。
「日本民族独立義勇軍」が、全国で火炎瓶、爆弾闘争を展開。これが後の「赤報隊」になる。
又、84年6月には、「いまなぜ全共闘か」が池袋文芸座で行われた。
中上健次、立松和平、高橋伴明、前之園紀男。そして私も出た。元活動家による徹夜討論だった。司会は田原総一朗。
これを元に、「朝生」の発想が生まれ、2年後から、あらゆるタブーに挑戦する「朝生」がスタートする。
「いまなぜ全共闘か」の翌月、7月には、「新雑誌X」事件が起こっている。「不敬」天皇イラスト事件で、全右翼が決起。「新雑誌X」、東郷健を襲撃。
私らも積極的に参加し、襲撃した。
多くの逮捕者を出し、犠牲も大きかった。『竹中労』(河出書房新社)の中で、この時のことは詳しく書いた。
こう見てくると、30年前は、過激に闘い、かつ、いろんな人たちに会って勉強していたんだ。そのことを痛感した。「行動右翼」であり、「過激右翼」だった。
それなのに唐牛さんにしろ、桐島さんにしろ、よく来てくれたと思う。
事務所で勉強会をやってるんだから、いつ「ガサ入れ」されるかもしれないし、緊張状態だった。
1982年に唐牛さんと知り合い、何度か会って話を聞かせてもらった。
しかし、この2年後、1984年3月4日、唐牛さんは亡くなる。直腸ガンだった。
だから、晩年の2年間、随分と可愛がってもらい、お世話になった。
青山葬儀所での葬儀には全国から多くの人々が集まり、入り切れなかった。
晩年のお付き合いの縁で「唐牛追想集」には私も書かせてもらった。
ネットで唐牛さんの経歴を見ると、活動していた期間はそんなに長くない。
ただ、時代は「60年安保」だったし、その「全学連委員長」ということで、全国に名前が轟いた。
又、日共から飛び出して、激しい学生運動を展開した。
そして安保闘争の2年後、1962年には、運動から足を洗っている。
唐牛さんは、1937年生まれ。北大に入り、砂川闘争に参加。
1957年、北大教養部自治会委員長に選出される。人望、指導力がある。全国に名が轟く。1959年、全学連委員長に就任する。何度も捕まり、拘置所で全学連委員長に再選される。
しかし、1961年、全学連委員長を辞任。1962年、政治活動から身を引く。
又、その後の人生も凄い。波瀾万丈だ。
〈もと共産党委員長で実業家の田中清玄の経営する丸和産業に嘱託の身分で就職する。以後、全国を放浪。ヨットクラブ、居酒屋経営、漁船乗組員、工事現場監督などさまざまな職業に従事。1982年からは、徳田虎雄の要請で札幌徳州会病院設立に協力した。1984年、直腸ガンで死去〉
全国を放浪し、漁船に乗ったり、居酒屋をやったり…。そのたびに、マスコミを賑わせていた。
私らにとっては、「その後の唐牛」の方が印象が強かった。
武装共産党の親玉だった田中清玄、徳州会の徳田虎雄、さらには山口組の田岡組長…など。
左右、ヤクザを超えて、異色の人たち、凄い人たちと付き合っている。「男が男を知った」のだろう。
この破天荒な生き様を、ぜひ、まとめて書いてほしい。と、私はお墓の前で挨拶した。
又、今、「右傾化」の時代といわれているが、ただの「後戻り」の時代だ。「人民の闘い」「若者の闘い」を忘れた時代だ。
60年安保の全学連世代。そして全共闘世代。今こそ立ち上がれ。「最後のご奉公」で闘え!と言っちゃいました。
どうせ先がないんだ。やるなら、今でしょう!それによって、若い世代も目が覚める。続きますよ!とアジリました。
次の日は、西宮。内田樹さんにやっと会えた。感激だ。感動しました。
合気道の達人だし、自ら道場を持って教えている。
だから単なる学者ではない。深い。合気道の話ばっかりしたようだ。
内田さんは今、日本で最も注目され、読まれている思想家だ。その思考の深いところには合気道があると思う。
例えば、現代人は、どうしたら〈敵〉に勝てるか、を考える。論争し、又、講演し、書き。自らの主張を訴える時、どうしたら、〈敵〉に勝てるか。そんなことを考えている。
又、スポーツ選手、格闘家も、試合で、いかにして「勝つ」かを考えている。
いや、全ての人間がこの世の中を、どうやって「勝ち抜いていくのか」を考えている。
そのために、入試で勝ち、恋愛で勝ち、就職で勝ち…と。〈勝つ〉ことが即、生きることのように思われている。
しかし、そんなのは次元が低いと内田さんは言う。負けてもいいんだ、と言う。
負けることによって、全てを自分の責任にする。「他の人のせいにしない」。
そういう覚悟、責任感を持つ。「勝つ」ことよりも、もっともっとおおきな「教訓」も得られる、と言う。
又、「論争する人間」「試合で戦う人間」だけが〈敵〉なのか。違うと言う。
自分がやりたいことをやれない。それを阻害するものが〈敵〉ならば、他にいくらでもいる。
突然の病気、交通事故、友人との諍い。家庭内でのトラブル…と、いくらでもある。
「試合の敵」「政治活動の敵」よりも、むしろ、そっちの方が深刻だし、大きい。それらをどう捌(さば)くか。
又、そんな〈敵〉や〈危険〉に出会わないようにするか。
自然と、自分がそこに近づかないようになるし、〈危険〉〈敵〉が逃げてゆく。そう言う。
それが武道の達人だし、いや、人生の達人なんだ。なるほどと思った。
確かに、肉体的には強くとも、精神的に弱い人がいる。ちょっとしたスキャンダル報道でメゲてしまう人もいる。
又、他人を追及し、糾弾する時は強いが、いざ、自分が批判され、攻撃されると、弱い人もいる。
だったら、この人たちは「弱い」のではないが、逆に、論争はしないし、しても負ける。
肉体的にも弱いが、不屈の精神を持ってる人もいる。どんなに打たれても、立ち上がる人もいる。多分、人生の「受け身」が出来ているんだろう。
このことについて内田さんに詳しく聞いた。
内田さんは100冊以上の本を出している。私はまだ、20冊ほどしか読んでない。何気ないことを書いていても、「深さ」を感じる。これは武道に裏打ちされたものだろう。
他の80冊も、全て読んでみたい。そして又、話を聞かせてもらいたいと思います。至福の時間でした。幸せでした。
7月9日(火)は、日本外国特派員協会に呼ばれ、「ヘイトスピーチ・デモ」について話をした。有田芳生さんと一緒だ。
今年は4月に「従軍慰安婦」の問題で呼ばれ、2回目で、外国の記者たちの前で話をし、質問も受ける。全く考えてもない質問もある。
日本の政治、そして我々の運動は、世界の中で、どう見られているか。その視点が我々には欠けていたのではないか。そんなことを思った。
特にドイツ、イギリス、フランス、スイスなどの記者の質問を受けて、驚いたことがあった。
「3.11以降の日本には世界中の同情が日本に集まった。こんな大惨事にもめげず、日本人は頑張っていると、感動した。
しかし、今年、大阪鶴橋の1人の女子中学生の演説で、世界は凍り付いた。
そして日本への見方が変わった。世界中が一転して、日本に批判的になった」。
これには正直驚いた。大阪の鶴橋で、1人の女子中学生が、ヘイトスピーチをした。
「ここに住む在日の人たちが憎い。殺したい。このままでは、鶴橋大虐殺をやりますよ。その前に日本から出て行ってほしい!」
「そんなことを言うな!」と止める大人もいない。周りの仲間たちは、「よく言った!」「もっとやれ!」と声援する。
日本のテレビニュースでは全く流れない。よほど熱心な人が、ネットで探して見れるくらいだ。
ところが、この映像は世界中に発信されている。日本人だけが知らない。
ヘイトスピーチ・デモも海外では、どんどん流れている。
そして、「日本はこんな酷い国だ」「排外主義の国だ」となる。
「嘘」ではない。本物の「映像」なんだから、反論も出来ない。ほんの一部の人間がやってることだ。
しかし、それが日本だ。日本人は皆こうだと、「歪んだ日本人像」が全世界に流されている。大変なことだ。
他国を批判し、憎悪をかきたて、それによって「俺は愛国者だ!」と思う人間がいる。
それは間違いだ。錯覚だ。そのことをキチンと言わなくてはならない。
又、世界に対してもキチンと発信しなくてはならない。そう思った。
しかし、経営者はなかなか、政治のことを語らない。その点、「ライフ」の清水さんは勇気がある。憂国の経営者だ。そのことを最近、痛感している。
終わって清水さんと、そんな話をした。さらに打ち上げに出た。
又、「主張」に書いたが、「1人の女子中学生のヘイトスピーチが世界の日本観を変えた!」には、衝撃を受けた。この日の「ヤフーニュース」では、トップで報じられていた。
有田さんは、参議院議員で、今回は非改選だが、他の応援で忙しい。そんな時によく来てくれたと思います。感謝感激です。有田さんたちが国会で集会を開き、首相たちに質問をし、それで、警察の対応も変わってきた。という面がある。
又、外国では、こんなことは法律で取り締まっている国がある。そこまでやるべきか。そうした面も有田さんに話してもらった。
終わって、レーニンさん、白井さんたちと打ち合わせ。
夜は講道館に行く。
午後3時半、渋谷の映画美学校試写室。楠山忠之監督の「陸軍登戸研究所」を見る。よく撮ったものだと思う。私も、知らなかった。
風船爆弾製造、毒物、生物兵器…と、いろんなものを作り、謀略戦をやっていた。戦争に勝つために、そこに携わった人々の証言もある。罪悪感は感じているが、でも当時のことを懐かしそうに語る人が多い。たとえそんな仕事でも、「匠の仕事」をやったという達成感があるのだろうか。考えさせられる映画だ。
当時は、「犯罪」という意識は全くなかったのだろう。戦後、それを「告発」し、それで罪悪感を感じたのか。登場人物たちも悩み、苦しんでいる。終わって、楠山監督と、話をした。
又、受付にいた人は、前に、池袋文芸座にいたという。「昔、そこで全共闘についてのシンポジウムをやり、鈴木さんも出てました」。「あっ、30年前ですよ」。あれがキッカケで、その2年後に朝生が生まれたんです、と言いました。
そのあと、車で文京区民センターへ。試写会が3時間もあったので、あわてて行った。ちょっと遅れて参加した。
「週刊金曜日」主催の集会だ。
〈緊急集会。自民党憲法改正草案徹底批判〉
落合恵子さん、宇都宮健児さん、雨宮処凛さん、伊藤千尋さん…などが話す。終わって、打ち上げに行った。伊藤さんとは初対面。いろいろ話しました。宇都宮さんとも。憲法と自衛隊についていろいろ質問し、教えてもらいました。
50人ほどが出席し、満員。危機を乗り切り、今は、盤石な体勢で頑張っている。よく立ち直ったものだ。出版社の人たち、浅野健一さん、マッド・アマノさん、ペペ…なども来ていた。
第1部は神田香織さんの講談。「チェルノブイリの祈り」。それが1時間。そのあと、懇親会。全国の多くの人たち、マスコミ人、出版社が、鹿砦社を応援してくれた。それも大きかった。又、支える人たちの不屈の闘志もあった。
④奥さまの唐牛真喜子さん。鈴木、(お墓を作った)秋山祐徳太子さん、三島浩司弁護士。 多くの人が挨拶しました。「若くして死んだが充実した一生だった。長く生きていたら、いい男だから、2番目の奥さんをもらったり、愛人が出来て大変だったろう」と話してる人もいました。よく言いますよね、奥さんの前で。
⑥秋山さんが作ったお墓です。海の波を表しています。「これはウサギ波です」「これは三角波です」と秋山さんが説明してくれました。波頭が白くて、まるで白い兎がピョンピョンと飛んでるようだ。ということから表現された。小林多喜二の『蟹工船』にも〈兎が飛んだ〉という表現が出てきます。
⑲早大同級生の宮澤秀機氏と再会しました。元日経の記者で、そのあと、テレビ大阪の社長になって退職したそうです。早大政経で、1、2年の時同じクラスだと言います。
「じゃ、一番出世したんだ」「いや、大臣になった額賀がいるよ」。えっ、彼も同級生だったんだ。「今度、クラス会を開いてくれよ」と頼みました。
㉔7月11日(木)午後6時半より、文京区民センター。「週刊金曜日」主催の
〈緊急集会=自民党憲法改正草案徹底批判〉
平井康嗣さん(「週刊金曜日」編集長)の挨拶。そして、この写真は、雨宮処凛さんと北村肇さん(「週刊金曜日」発行人)の対談です。
㉖打ち上げで。「週刊金曜日」の白井基夫さん。隣りにいた女性を「奥さんです」と紹介してました。ホントですかね。
「週刊金曜日」の平井編集長、北村発行人は、「よく分からない。調査中です」と答えてました。じゃ、次の「週刊金曜日」で特集してほしいです。