襲い来る台風に立ち向かい、闘った。
もうダメだと何度も諦めかけた。でも頑張った。執念で切り抜けた。
そして勝った。その不屈の闘いの記録である。
9月14日(土)の夜、東北学院榴ヶ岡高校の同窓会に出ていた。「早く帰らなくっちゃ」と、地方から来た人は言う。「夜中から大型台風が来るんですよ」と言う。
「ヤバイな。明日は静岡に行くんだけど」と私は言ったら、「ムリ、ムリ。新幹線は動きませんよ」と皆、言う。心配になった。
翌15日(日)、目が覚めたら、もの凄い雨だ。テレビをつけたら、東海道新幹線は〈新横浜—小田原〉間が止まっている。と出ていた。
ゲッ、大変だ。どうしよう。行けないかな。静岡市で蓮池薫さんの講演会がある。それを聞きに行く予定だ。
普通なら、この時点で諦める。何も、自分が講演するわけじゃない。聴衆として聞きに行くだけだ。台風で新幹線が止まってるんじゃ、ムリだ。やめとこう。と思う。
でも、せっかくの機会だし、新幹線の切符は取ってある。
「新横浜—小田原」間は不通ということは、それ以外は運行しているんだ。
じゃ、在来線か小田急で小田原まで行き、そこから新幹線に乗って静岡まで行けばいいじゃん。
俺って、頭いい。と思ったが、ネットで調べると、そのどちらも止まっている。
万事休す。ダメか。他の手段を必死になって考えた。レンタカーを借りて、自分で運転して行く。久しぶりの運転で不安がある。
それ以上に、道路は渋滞していて、とても昼過ぎには着けないだろう。
やっぱり諦めるしかないのかと思っていたら、テレビで、「新横浜—小田原」間、運転再開。とテロップが流れる。
ヤッタ!神は見捨てなかった。あわてて、東京駅に行く。11時13分東京駅発の切符を取っていた。それに乗れば、12時17分に静岡に着く。余裕で間に合う。
ところが、新幹線が再開したといっても、その前に止まっている列車がある。
東京駅は大勢の人で、ごった返していた。「1時間ほどの遅れで、出発しております」とアナウンス。そうすると、12時13分発で、静岡着は1時16分だ。でも、間に合う。
蓮池薫さんの講演会は、午後1時半開場。2時講演開始だ。時間には十分に余裕を持って切符を買った。
実は、申込みの電話をした時点で、「もう〆切りました」とフェイスブックには出ていた。350人入る部屋だが、早々に予約で一杯になった。だから、入れませんという。
主催者の松谷清さん(静岡市議会議員)に連絡した。「この前、静岡で会った鈴木ですけど。立ち見でいいから入れませんか」とメールしたら、「立ち見ならいいですよ」と返事。それで早めに行こうとしたわけだ。
東京駅に着いたのは、午前10時40分。駅員さんに聞いた。「11時13分発のひかりは、出発が1時間後だとすると12時13分ですか」。
そしたら意外な答えが。「9時30分発のひかりがもうすぐ出るので、それに乗って下さい」。
1時間前に出る予定だったひかりが今頃、出る。
飛び乗った。きっと立ちっ放しだろうな、と思ったら、ガラガラ。人が来たら移ればいいと思って、とりあえず座る。
そうか。9時か10時頃出るのは、切符を買った人も、運休と聞いて、皆、諦めて来ないのだ。
だから、初めの予定よりも早く静岡に着いた。台風で新幹線のダイヤは乱れたのに、かえって早く着いたなんて、変な話だ。
開場の1時間前だから、かなり早く着いたが、それでも、会場はもう長い列が出来て並んでいる。
主催者の松谷さんも来た。そして30分前に蓮池薫さんも来た。控え室に行った。「お兄さんとはよく会ってます。4日前も会いました」と挨拶した。「あっ、鈴木さん。兄からよく聞いてます」と言う。
それで、『拉致2』(かもがわ出版)を渡しました。蓮池透さんが、森達也さん、池田香代子さん、私と対談した本だ。
そのあと、植垣さんが来たので、主催者が紹介する。「連合赤軍事件で27年間、刑務所にいた植垣さんです」と。
薫さんは拉致されて北朝鮮に24年間いた。2人とも過酷な人生だ。
それから、講演を聞く。「立ち見」だと言われて来たが、急遽、補助イスを出してくれた。350名予定のところに、500名近くが集まったようだ。
薫さんの話は初めてだった。当事者でなければ分からない、生々しい話だった。
何が起こったか全く分からない中で、絶望し、死んでしまおうと思ったという。
その中で、どうやって生きる希望を見つけたのか。その24年間の話をする。
又、これからは、どうやって残りの人々を奪還するか、についても語る。
本当に精神の強い人だと思った。あんな情況で、希望なんか持てるのだろうか。そして〈絆〉を信じることが出来るのだろうか。とても考えさせられた。感動的な話だった。
終わって、サイン会をしている薫さんに挨拶して、スナック「バロン」へ。植垣さんがやっている店だ。
「その前に、三島が演説したバルコニーを又、見たい」と私が注文。静岡市役所を通りました。
若松孝二監督『11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち』で、井浦新さん扮する三島が、ここで演説したのだ。この静岡市役所を市ヶ谷自衛隊に見立てて演説した。
スナック「バロン」に行ってからは、さっき聞いた蓮池薫さんの話。北朝鮮の話。連合赤軍の話などを皆でしました。
いつもは10時半頃の最終で帰ればいいのだが、台風が来ている。それに翌日は新潟の新発田だ。だから早く帰らなくては、と思い出した。
皆は、「明日はもっと台風が激しくなるよ。ムリだよ」と言う。ともかく、8時半、静岡から帰りました。
翌16日(月・祝)。午前10時12分、東京駅発の新幹線に乗る。12時17分に新潟着く。ここまでは大丈夫だ。
ところが、そこから在来線が止まっている。新発田(しばた)までは行けない。駅員に聞いても、「さあ、復旧は何時になるか」と言う。
ここまで来て、新発田に行けないのも悔しい。最後の手段はタクシーだ。1万円位で行くだろう。でも、タクシーがない。
そのうちアナウンスが流れる。新発田まで代替バスを出すという。それで「忠犬タマ公」のとこに並んでいて下さい、と言う。
エッ!何だ。渋谷の忠犬ハチ公なら知ってるぞ。と思ったら、駅構内にいた。「忠犬タマ公」という。
猟犬で、何でも主人が土砂崩れに遭って、生き埋めになった時、助けたという。
どうやって助けたのか。土を必死にどけたのか。主人の服をくわえて、引っぱり出したのか。そんなことが2度もあったという。それで、新潟駅構内に銅像が造られ、顕彰されている。
私も祈りました。「じゃ、今度は我々を救助して下さいよ」と。
しかし、30分経ち、1時間経っても、バスは出ない。そのうち、「新発田行きの列車が復旧しましたので、お乗り下さい」というアナウンス。
そして、途中、止まり止まりしながら、新発田に着く。
そうだ。何のために、新発田に行ったかだ。
この日、「大杉栄メモリアル2013」があった。そこに行ったのだ。新潟県新発田は、大杉栄が10年間、少年時代を過ごした土地である。
「僕のふるさとというのはほとんどこの新発田にあり、僕の思い出もほとんどこの新発田に始まるのだ」と大杉栄は『自叙伝』で言っている。毎年、ここで、追悼の催しをやり、講演会をやっている。私も一度、講師で来たことがある。
今年の講師は『「青鞜」の冒険』(平凡社)の著者・森まゆみさんだ。これはぜひ聞きに行かなくちゃ、と思ったのだ。
森まゆみさんは1954年生まれ。何と早稲田大学政経学部の卒業だ。地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を3人の女性で創刊し、編集人になる。(2009年終刊)。
著書に『鴎外の坂』、『円朝ざんまい』、『千駄木の漱石』などがある。又、中島岳志さんとの共著『帝都の事件を歩く』(亜紀書房)もある。
これは東京の〈事件の現場〉を歩くのだ。血盟団、2.26事件などの〈現場〉だ。凄い本だ。目次も凄い。たとえば。
「右翼クーデターは江戸川橋ではじまった」
「東京駅はテロの現場」
「隅田川と格差社会」
「日本橋と血盟団事件」
…などだ。
早大政経の10年後輩じゃないか。
それに、「円朝」の本を出してる。中島さんと一緒に「右翼テロ」の現場を歩いている。大杉栄、伊藤野枝についても書いている。
これは、ぜひ、聞きに行かなくちゃと思ったのだ。
「大杉栄メモリアル2013=映像と言葉で日本の近現代史を振り返る」は、16日の午後1時から始まる。会場は新発田市生涯学習センターだ。
でも、台風で遅れに遅れ、新発田に着いたのは、午後2時だ。それから、タクシーを飛ばして会場へ。
開始から1時間半が過ぎている。主宰者の斉藤徹夫さんが受付にいた。
「ちょうど、よかったです。今、終わったところです」。
エッ?終わったの。「あっ、映画が終わったところで、これから森さんの講演です」。
ホッとする。間に合った。
1時から第1部。ドキュメンタリー映画「100年の谺(こだま)。大逆事件は生きている」の上映。
「2012年、藤原智子監督作品で90分。内山愚童(唯一の県人死刑囚)の箱根林泉寺も登場」と紹介されている。私はこの映画は東中野ポレポレ座ですでに見ていた。
映画は1時から2時半。そして5分間の休憩をはさんで、いよいよ、森まゆみさんの講演だ。
「大杉栄と辻潤〜伊藤野枝の眼で読み解く」。
伊藤野枝は、平塚らいてうと共に『青鞜』の編集に加わり、辻潤と結婚。
その後、大杉栄に走り、関東大震災の直後、大杉と共に憲兵に逮捕され、虐殺される。野枝、そして大杉・潤の関係。当時の社会運動。『青鞜』の闘いなどについて講演する。
とても興味深かったし、感動的だった。
終わって、駅の近くの居酒屋さんで交流会。そこで、ゆっくり話を聞きました。
僕らの頃は早大の政経は1学年1000人のうち、女性が5、6人でしたよ、と言ったら、「私の時は1300人のうち30人位だった」という。1クラスに2人位いたという。でも、1人は休んでばかりいて、森さん1人だったという。
「円朝全集」を私は読破したんですよ、と言ったら驚いていた。
又、「鈴木さんは中島岳志さんと仲良しなんですよね」と言う。共通の話題が多い。
それで話が盛り上がり、夜の更けるまで、話し込みました。
翌日・9月17日(火)は、斉藤さんが、「日本の38度線に行きましょう」と案内してくれる。
えっ、日本にも板門店があるのか。北朝鮮では見たけど。でも、北朝鮮のほうがずっと北の方だと思ったが、同じ北緯なのか。知らなかった。
その前に、「田宮高麿さんのお墓参りをしましょう」と、瑞雲寺に行く。
前にも私は来た。和尚さんは覚えていてくれた。「あっ、鈴木さん。『たかじん』でよく見てましたよ」と言う。
新発田は、よど号ハイジャック事件のリーダー・田宮高麿さんが住んでいたところで、この瑞雲寺は田宮家代々のお墓もある。そこで、お参り。
さらに、田宮家のあった所に行く。今は駐車場になっている。
すぐその隣りが小和田さんの家だった。小和田雅子さんのおじいさんと、高麿さんのおじいさんは、隣近所だし、同じ教育者で仲が良かったという。「孫が生まれたら、結婚させたいね」と言ってたのかもしれない。
そして、いよいよ、本日のメイン「日本の板門店」だ。「北緯38度線」だ。
これを記念して、看板があり、モニュメントがある。大きな顔があり、大きな手でがっちりと大地をつかんでいる。そんな感じだ。
朝鮮半島の板門店。そして日本では新潟県の加治川町(今は合併して、新発田市になった)。さらに宮城県の丸森町も38度線らしい。同じ38度のギリシャから天然石を持ってきて、彫刻したという。凄い。
「“日本の板門店”として大々的に宣伝したらいいのに」と私は言いましたよ。世界中の38度線の都市の人々を集めて、「38度線サミット」をやったらいい。
他にも大杉栄がいた。田宮高麿がいた。じゃ、駅前には、大きな像を建てて、「アナキスト宣言の町」と書くとか。あるいは、「ハイジャックの町」とか…。それで町興しをしたらいいのに。
森まゆみさんとは、田宮高麿さんのお墓で一緒に写真を撮った。ご住職さんとも撮った。又、38度線でも撮った。
まるで、『事件を歩く』みたいですねと言ったら、「中島岳志さんとは右翼事件の現場ばかりだったから、今度、左翼現場を歩いてみたいわ」と言う。
そうか。じゃ、植垣さんとか、塩見さんとか、いくらでも左翼の人がいるから紹介しますよ。それで歩いて本を作ったらいい。あさま山荘、大菩薩峠の福ちゃん荘、東大安田講堂、羽田空港、成田…と。
『「青鞜」の冒険』は本当にいい本ですね。『青鞜』の歴史がよく分かるし、あの頃の女性たちの闘いが目に浮かぶようです、と私は言いました。
それに、同人紙(誌)を出したり、自分たちの意見を発表してる人たちにとって、いい参考になります。市民運動をする上での「テキスト」になりますよ。どっかで、そういう話をしませんか、と提案しました。
「ぜひ、やりましょう」と言ってたので、どこかで実現するかもしれません。メルマガの「マガジン9」の連載に、そのことを書いて、この日、メールで送りましたので、関心のある人は読んでみて下さい。
私は昼過ぎに皆と別れて、新潟に向かいました。夕方から用事があったので。森さんは、斉藤さんたちと、さらに新発田を見て、もう1日、泊まるとのことでした。
どうも、お世話になりました。又、お会いしたいです。ぜひ、『「青鞜」の冒険』をテキストに話をしましょう。
…と、台風の中の、あわただしくも、実りの多い3日間でした。
そうだ。森さんは、「台風だから、前の日に来て下さい」と言われて、15日(日)の最終で新発田に着いたそうです。
大変ですね。本当にお疲れさまでした。私なんて、聞きに行くだけで、アタフタしましたが、とても勉強になりました。
そうだ。蓮池薫さんも、15日(日)の講演のために、静岡にかなり早く入ったようです。お疲れさまでした。
それなのに私は、こんなことを思ってたんですよ。「台風の中、こっちは大変な思いをして行ってんのに、講師が来れなくて中止になった、なんてことになったら目も当てられないな」と。
すんません。そんなことを一瞬でも考えた私が愚かでした。講師お2人は、大変な覚悟で、着いてたんでした。反省します。
「これから第2部の講演です」と主宰者の斉藤徹夫さん。森まゆみさん(作家)の講演を聞く。「大杉栄と辻潤=伊藤野枝の眼で読み解く」。とてもいい話でした。
そのあと、交流会に出る。森まゆみさんとは初対面。でも、早大政経出身だ。私の10年後だ。森さんの『「青鞜」の冒険』『円朝ざんまい』など、私はかなり読んでいる。その話をした。夜の9時頃まで、地元の人たちと楽しくお話しし、お酒を飲みました。
「その前に、田宮高麿さんのお墓参りをしましょう」と瑞雲寺へ。私は前に来てる。ご住職さんは覚えていてくれた。「たかじんで見てますよ」と。
田宮さん一家の話を聞き、それからお墓参りに。そして、田宮さんの家があったとこ(今は駐車場)を見る。すぐ隣が小和田さんの家だった。
そして、今度は、「北緯38度線」に行く。大きく看板が出ている。モニュメントもある。「なんで38度線を記念するようになったのか」と聞いたら、「じゃ、市役所に行きましょう」と言って、斉藤さんが案内してくれる。市役所の人が応対してくれ、親切に教えてくれた。
そこから新発田駅に送ってもらい、私は東京へ。森さんはさらに新発田を見て、もう一泊するようだ。私は3時過ぎに東京に着き、仕事の打ち合わせ、取材。
そして夜は柔道。さすがにバテて、帰ったら、すぐに寝た。
⑥講演の後、スナック「バロン」に行きましたが、その前に、静岡市役所を見ました。若松孝二監督「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」で、三島が自衛隊に向けて演説するシーンはここで撮られました。この市役所のバルコニーから(井浦新さん扮する)三島が演説するのです。
⑧翌、9月16日(月)は、又もや、台風の中、今度は新潟県新発田市へ。「大杉栄メモリアル」に、森まゆみさん(作家)の講演を聞きに行きました。「大杉栄と辻潤=伊藤野枝の眼で読み解く」。終わって、会場のロビーで。
⑪木島正之さんと。「鈴木さんが来ると聞いたので」と。『現代の眼』発行人・木島力也さんの甥御さんです。新発田市長選に出た時、私も応援に来ました。当選したら、「大杉栄記念像」を造ってもらおうと思ってたのに、残念でした。
『現代の眼』は、一世を風靡した反体制の月刊誌で、学生は皆、読んでました。野村秋介さんと私の対談も1976年に、ここに載り、それが「新右翼をつくった対談」と言われました。その発行人・木島力也さんのことは又、ゆっくり聞きたいと思います。
⑱この力強いモニュメントは平成4年に作られました。元は加治川町だった時に作られ、今は新発田市に合併されました。そのモニュメント建設の主旨を聞くために、新発田市加治川庁舎に行って教えてもらいました。38度線のギリシャから運ばれた石を使ってます。「大地に根をおろし」です。力強いですね。
⑲38度線で、斉藤さん、森さんと。田宮高麿さんのお墓。小和田さんの家の跡。38度線…と、まるで、「事件を歩く」ですね、と森さんに言いました。森さんは中島岳志さんと『帝都の事件を歩く』(亜紀書房)を書いてます。血盟団事件、2.26事件などの〈現場〉です。
⑳新発田駅構内にある忠犬「タマ公」の像です。猟に行って雪崩に遭い、生き埋めになった主人を救ったんです。2度も。よく見ると、お乳があるので、メスのようですね。生き埋めになった主人にも、授乳して元気づけたのでしょう。
㉑9月14日(土)高田馬場の喫茶店「ミヤマ」会議室で。『紙の爆弾』で、元連合赤軍の岩田平治さんと対談しました。一見すると普通のおじさんですが、連赤事件では地獄の体験をしたんです。その前も後も、激動の人生です。生き証人です。
㉒歴史的な対談を聞こうと、多くのギャラリーが詰めかけました。終わって、記念撮影。あれっ、赤軍派の金さんもいますね。猟銃強奪事件の雪野さんもいます。連赤ウォッチャー、連赤本を出してる出版社の人もいます。
㉓対談が終わって皆は、近くの居酒屋「土風炉」へ。私は、上野東天紅へ。東北学院榴ヶ岡高校の同窓会があったのです。東京支部の同窓会です。私は校長先生(右)と同窓会長(左)の間に座らされました。学校が一番手を焼いた「問題児」だったからでしょう。今でも、腫れ物に触るように扱ってくれます。ありがたいです。
あっ、榴ヶ岡出身の漫画家・荒木飛呂彦さん(「ジョジョの奇妙な冒険」)は、来れませんでした。残念です。
㉔校長先生、同窓会長、先生たちの挨拶が続き、最後の締めの挨拶が私でした。「では皆さん、隣りの人の首に手をかけて下さい。一気に締めましょう。一本締めです!」。なんて言えませんね。連合赤軍の会じゃないから。
真面目に高校時代の反省と懺悔をしました。「私の原点は榴ヶ岡にあります。そこで全てを学びました」と言いました。
㉕「えっ、鈴木さん、榴ヶ岡出身なんですか?」と声を掛けられました。19回生の安松聡さんです。扶桑社の社員です。「夕刻のコペルニクス」は、ワクワクしながら読んでました、と言います。その時も扶桑社にいたそうです。「担当の河井さんは私の先輩でお世話になりました」。
じゃ、写真撮ってメールで送ろう。おーい!河井さん、見てますか!
㉖私は1回生で、この日は1回生は2人だけ。10回生、20回生あたりが多い。途中から男女共学になったんだ。ズルイ。隣りにいた女性は何と、40回生だそうだ。今年の1年生は55回生だという。じゃ、私は高校に入学してからもう55年になるのか。やだな。ついこの前のような気がするのに。