「楯の会」初代学生長だった持丸博氏が亡くなった。
9月24日(火)の早朝だ。26日(木)、家族だけで密葬を済ませたという。10月になって「お別れ会」をやるという。
それまでお宅に弔問にうかがっていいものか、どうか迷っていた。
奥さんから電話があって、「鈴木さんとは特別に親しかったのですし、来て下さい。本人も喜びますので」と言ってくれた。
それで、29日(日)の夜、おうかがいした。
杉並区高円寺のご自宅だ。祭壇には元気だった頃の写真が飾られ、横には、「楯の会」の制服と日本刀が。
死ぬまで「楯の会」のことを考えていた。三島事件から43年経っているが、三島由紀夫・森田必勝氏と共に死んだ。そんな気持ちだろう。
「楯の会」は三島由紀夫が作ったと言われる。
確かにそうだが、実質的・組織的に「楯の会」を作り上げ、人間を集め、維持してきたのは、〈学生長〉である持丸氏だった。彼がいなくては、「楯の会」は出来なかった。
9月7日(土)、軽井沢で、椎根和さん、板坂剛さんと3人で、〈三島事件〉を考える鼎談をやった。
その時も、持丸氏の話をした。煌びやかにデビューした「楯の会」は、『平凡パンチ』のグラビアを飾り、よく取り上げられた。
それで、「『楯の会』に入りたい!」という人がドッと応募してきた。1回、グラビアに出ただけで、200人も応募が来たという。
その当時、『平凡パンチ』にいた椎根和さんが証言していた。
椎根さんは、三島の自決までの濃密な時間を身近にいて、見てきた人だ。そして、『「平凡パンチ」の三島由紀夫』を書いた。事件に至る三島の行動・思想について、最も詳しい本だ。
「楯の会」の一期生、二期生などは、民族派学生運動をやってた人で構成されている。日学同、生学連、全国学協から行った人々だ。
だから私も、ほとんどの人を知っている。
それ以降になると、『平凡パンチ』などを見て応募してきた人が多くなる。
その人々を一人一人、面接し、会員にするかどうかを決めたのは持丸氏だ。
当時あった『論争ジャーナル』で、その実務を担当し、近くの喫茶店で持丸氏は面接した。
「三島文学ファンは採るなよ」と三島には釘を刺されていた。
「三島さんと1ヶ月、自衛隊で体験入隊出来る。そばにいられる」なんてファンがいたら、たまらない。「あくまでも、国のことを考える人間を採ってくれ」と言われた。
三島と共に1970年に自決した森田必勝氏は、「僕は三島さんの本なんて1冊も読んでません」と言って、三島に気に入られた。(本当は読んでいたのだが)。
「面接」では、「今の日本をどう思うか」などの質問をして、憂国の情を聞いたようだ。
しかし、人が多いし、時間もかかるし、大変だ。最後には、「目の輝いている人間を採った」と持丸氏は言っていた。
三島は、持丸氏に全てを任せていた。それだけ信頼されていたのだ。
だって、当時の民族派学生の中では1人、群を抜いていた。若いが、立派に〈思想家〉だったし、〈学者〉だった。そして実務家でもあった。
水戸の高校では、〈水戸学〉を学んだ。
高校でそんな授業があったわけではない。水戸学の大家・名越時正先生の家に下宿し、そこで水戸学の英才教育を受けたのだ。
高校ではトップの成績で、早稲田に入った。
大学で初めて会った時から、私らは圧倒されていた。
大学1年生なのに、旧仮名遣いで文章を書いていた。もっとも彼は、「歴史的仮名遣い」だと言っていた。「旧」ではなく、今も生きていると。
日本や中国の古典も読んでいる。原文で読んでいる。
とてもついて行けない。他の大学生とは全く違う。「大人(たいじん)」の風格があった。
それで皆は、やっかみを込めて、持丸氏のことを、「爺さん」と言っていた。皆、悔しかったのだ。
「楯の会」がまだ出来る前だが、早大で、「日学同」が結成された時、参画し、「日本学生新聞」の編集長になった。
文章はうまいし、編集能力もある。「日学同」の基礎を作ったと言っていい。
その後、三島が「楯の会」をつくり、そこに駆け参じる。
そして、〈実務的〉なことの全てをやった。
天皇論、日本文化論においては、三島よりも抜きん出ていたかもしれない。
そんな敬意を込めて、三島は持丸氏を頼りにし、「楯の会」の実体作りを委ねた。
持丸氏を参謀にして、「楯の会」の構想は大きく膨らみ、広がった。
初めは、「祖国防衛隊」という名前だった。「楯の会」になってからも、広範囲な、大衆運動をやろうとした。
いや、そんなこともあった。イザとなったら、スイスのように全ての民間人が銃を取って立ち上がれる組織を作る。又、民間のガードマン会社と組んで、民間防衛組織を作る。…と、いろんなことを考えた。
「楯の会」を作ってからも、これは100人の部隊だが、一人一人が100人を指揮出来るようにする。
そうしたら1万人の軍隊が出来る。それで民間防衛組織を作る、などと考えた。
ところが、不幸なことに、途中で持丸氏は「楯の会」を辞めてしまう。
「楯の会」の事務所的な存在だった雑誌『論争ジャーナル』と三島との間に、考えの違いが生まれたのだ。
『論争ジャーナル』は、左翼全盛の当時にあって、雄々しく闘い、彼らに論争を仕掛けてゆく、という勇気ある雑誌だった。
「楯の会」の募集や連絡、事務作業は、全て、ここでやっていた。
又、ここの編集長はじめ社員は全て、「楯の会」に入っていた。持丸氏もそうだった。
ただ、『論争ジャーナル』は三島の機関誌ではない。広く読者を集め、広告も賛助金も集めている。
たまたま右翼フィクサーの田中清玄から資金援助を受けた。雑誌なんだから、これはあっても当然だ。
ところがこれが三島の耳に入った。
三島は、『論争ジャーナル』には、随分と援助している。原稿だって、毎月のように、タダで書いている。
それに、三島は大の「右翼嫌い」だった。「楯の会」は純粋に、国を思う運動だ。外部の「右翼」などに利用されてはたまらないと思っていた。
だから、田中清玄の、「援助」にはカチンと来た。
さらに、いろんな話が飛び込んでくる。
〈田中は、「楯の会」は俺がやっている〉と言ったとか。『論争ジャーナル』に金を出すことで、「楯の会」を動かしている。という意味らしい。
本当に田中がそんな放言をしたのか。あるいは、誰かが三島にそう吹聴したのか、分からない。
三島は激怒した。
そして、「楯の会」の中にいた『論争ジャーナル』グループを除名した。
ただ、持丸氏には残ってほしいと三島は言った。
板挟みになって、持丸氏は、「両方とも」辞めた。
それからは、いろんな会社を作っては、潰し…の連続だった。生涯に4度、会社が倒産したというから、尋常じゃない。
持丸氏が「楯の会」を辞めたのは、かなり大きかった。三島にもこたえたし、その後の「楯の会」も変わった。
若松孝二監督の映画『11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち』にも、この2人の〈別れ〉が描かれている。
三島は、持丸氏に対し、「『楯の会』の専従になってくれ」と懇願した。
「芳子さんと一緒に専従になったらどうか」と言った。生活費は全て三島が出すという。芳子さんとは、当時婚約者だった松浦芳子さんだ。
こんないい話はない。普通だったら受けるだろう。
しかし、持丸氏は断った。
「夫婦2人で三島さんに飼われたくない」という気持ちもあった。又、「論争ジャーナル」グループへの恩義もあった。
持丸氏が去ってから、「楯の会」は大きく変わる。後任の学生長は森田必勝氏だ。
「学者肌」の持丸氏と違い、森田氏は、「行動派」だ。又、三島を信じ切っている。
三島のやろうとしたことを敏感に察知し、どこまでも付いて行く。
誰でも思う疑問がある。持丸氏が辞めたので、三島は、急激に、決起・自決の道を進んだのではないか。
持丸氏が残っていたら、あの自決はなかったのではないか。
私も持丸氏に何度も聞いた。いろんな人に聞かれたらしい。
中には、「お前が三島さんを殺したんだ」「森田を殺したのはお前だ」と面と向かって言われたこともあるそうだ。
苦しかっただろう。悔しかっただろう。
私も聞いたのだから、他人のことは言えない。
持丸氏は言っていた。「決起、自決を止められたかどうかは分からない。ただ、決起するにしても、もう少し別な形になっていたでしょうね」と。
持丸博氏のお宅にうかがい、奥さん、息子さんと、かなり長く話し込んだ。
「43年間、持丸はずっと、そのことを考えていました」と奥さんは言う。
そのこととは、〈責任〉だ。自分が辞めたために、三島、森田を死なせてしまった。という自責の念だ。
それは、キチンと本にして書いたらいい。と私は、会うたびに持丸氏に言っていた。
「楯の会」を最もよく知っている男だ。大出版社からも、いくつも依頼があった。
そして、書き始めた。でも、「関係者に迷惑がかかってはいけない」「あそこは、もっと調べてからでなくては…」と言って、筆が進まなかった。
完璧主義者なんだ。分からない点は、疑問点としてそのまま書いて、どんどん書き進めたらいいだろう。と私などは言ったが、それは出来なかったようだ。
でも、筆まめな人で、日記やメモ、原稿の下書きなどは大量にあるようだ。ぜひ、まとめて出版してほしい。
祭壇にあったアルバムを見せてもらった。
「楯の会」の写真が圧倒的だ。森田治さん(森田必勝氏のお兄さん)と写したものもある。
「これは事件から35年経って、四日市のお兄さんを訪ねた時です」と息子が言う。息子も同行していた。
「会うなり、“申し訳ありませんでした”と、いきなり、謝ってました」。弟さん(必勝氏)を死なせてしまって、申し訳ありませんでした、という意味だ。
そのことをずっと考えていて、35年も経ってしまいました…と言ったという。
それを聞いて、私も何も言えなかった。それだけ、苦しんでいたんだ。悩んでいたんだ。
「三島さんという人も残酷なんだな」と思った。
だって、100人の「楯の会」の若者たちは、「その後」皆、悩み、悔やみ、そして苦しんで生きてきた。
「なぜ自分を連れて行ってくれなかったのか」と。三島を恨み、絶望し、悲嘆に暮れた。
又、持丸氏のように、「自分のせいで」…と自責の念に苦しめられた者もいる。
「楯の会」時代は楽しかっただろう。しかし、〈11.25〉以降は、〈地獄〉だ。
去年だったと思う。持丸博、松浦芳子夫妻が出版記念会をやった。
芳子さんは、三島さんとの思い出を書いている。持丸氏は佐藤松男氏との対談本を出した。
その時、芳子さんがポロリと言った。「昭和45年11月25日。この日で、持丸は時間が止まりました」。
ゲッ、残酷なことを言う、と思った。
そうか。時が止まったのか。精神は、この11.25で凍り付いたままになり、1秒も針は進まない。肉体だけは生きているが…。
皆、真面目なのだ。真面目過ぎたのだ。新左翼の若者ならば、すぐ気分を切り換えて、「いい体験をした。これを基に小説を書こう。映画を作ろう」と思うかもしれない。ちょっと縁があっただけでも、書いてる人は多い。
それに比べ、「楯の会」は生真面目だ。「そんなことに利用したくない」「申し訳ない」と思う。
じゃ、三島・森田氏の後を追って自決しよう、決起しよう。と考えた人もいた。「でも、それでは、2人の決起に泥を塗る。汚してしまう」と思って、皆、止めた。
開き直って生きることも出来ないし、死ぬことも出来ない。なんとも残酷だ。
それに、これから何十年生きていても、三島ほどの人間に出会うことはない。師事することもない。
そう思うと、若くして、余りに偉大な人に会うのは不幸なのかもしれない、と思う。
「神を見た」若者たちの栄光と悲惨だ。
持丸博氏の奥さん、息子と会って、話し込み、家に帰ってきた。
残念だし、悔しい。あれだけ才能のある人間が、勿体ない。生きていたら、大思想家になっていたのに。
43年間も、ずっと「自分のせいだ」と責任を感じて生きてきた。
辛かっただろう。獄中にいるよりも辛かったと思う。
この日の深夜、ネットのニュースで、「山崎豊子さん死去」のニュースが出ていた。
私はこの人の小説は、好きでかなり読んでいる。
最近、「週刊新潮」に「約束の海」を連載したばかりだった。88才。最後の最後まで現役で書き続けていた。立派だ。
山崎さんの中期・後期の作品はほとんど読んでるし、映画化されたものは全て見ている。
特に『不毛地帯』は最も刺激を受け、影響を受けた作品だ。
他にも、『白い巨塔』『華麗なる一族』『二つの祖国』『大地の子』『沈まぬ太陽』『運命の人』も読んで、感銘を受けた。
長い小説が多いが、読んでる間も緊張感があり、やめられなくなる。集中して読んだ。
まだ携帯を持ってなかったから、集中して読めたのかもしれない。
最近は、ツイッターをしたり、ゲームをしたりで時間をとられて、こういう長い小説は読んでない。いけないな。
それに山崎豊子さんの初期の作品は読んでない。『暖簾』『花のれん』『ぽんち』『女系家族』などだ。これも読んでみなくっちゃ。
暑さにかまけて、最近は、本格的な読書をしてない。「読書ノルマ」をこなすために、新書ばっかり読んでいる。
いけないな。それに原稿も書かなくっちゃ。と反省して終わる。
それから上野公園を歩いてたら、「上野の森美術館」で「魔法の美術館」をやっていた。面白そうだ。
入ろうとしたら、入口にいた女性が「余ってるので券あげます」。お金を払おうとしたら、「いいです」。親切な人だ。
中は実にエキサイティングだった。特に影が写真になるのは凄い。不思議だ。
「影が写真になる」ことについては、化学の先生に聞きました。原理を教えてもらいました。難しい。
3時から「現代文要約」。
5時から「読書ゼミ」。今日は、蓮池薫さんの『拉致と決断』(新潮社)を読みました。「北」での24年間を初めて綴った迫真の手記です。凄まじい内容です。この前、静岡で蓮池さんの話を聞き、そして今、皆で、本を読むと又、違います。
絶望の中で、よく希望を失わず生き抜いたと思います。まさに感涙のドキュメントです。
⑦9月28日(土)、「コリア国際学園後援会設立総会」がありました。4時から、ニューオーサカホテルです。第1部は記念シンポジウム。「東アジア時代の次世代教育」。
(左から)コーディネーターの姜誠氏(ジャーナリスト)。右の3人は、パネリストで、鈴木。寺脇研氏(京都造形美術大学教授)。朴一氏(大阪市立大学教授)。
⑨「シンポジウム、とてもよかっです」と言われました。「人間国宝」の志村ふくみさん(染織家)に。右は娘さんです。
「5月に、京都の細見美術館で展示会を見ました」と言いました。「今度は、ぜひ私の教室を見に来て下さい」と言われました。ぜひ、行かせてもらいます。最近、その教室のことはNHKでもやってましたね。
⑪10月2日(水)、上野の国立科学博物館で「特別展・深海」を見ました。日曜で終わりなので、もの凄い人でした。NHKスペシャルでやったので、皆、知ってるんですね。6メートルの「ダイオウイカ」が展示されてるんですよ。
⑲上野公園の中にはいろんな〈案内〉が。「東京都美術館」では9月19日から「一水会」展がやってるんですね。有名な絵の団体です。知らないで、同じ名前の右翼団体を作った人もいたんです。すみません。
下の方には、「創」展もありました。月刊「創」でしょうか。
㉕これは、9月26日(木)。文京区民センターです。〈谷垣禎一法相による三度目の死刑執行に抗議する集会〉です。今年3度目の執行です。オリンピックが決まるまでは、控えていて、決まった途端に執行です。
熊谷徳久さん(73才)。1人を殺し、自首。一審は無期懲役だったのに、2審で死刑。その経過について、弁護士さんが説明しています。熊谷さんは『奈落=ピストル強盗犯の手記』(展望社)を書いてます。ネットで取り寄せて今、読んでます。