今回もそうでした。つい、つい、言ってしまったのです。会場の雰囲気・熱気に煽られて、言ってしまったのです。「週刊金曜日」20周年大会の時と同じです。
「金曜日」の時は、「編集委員を選挙で選べ! 私も立候補する!」と突然、発言してしまいました。
今度もそうです。あのヤバイ話をしてしまいました。
あの時は、本当に私はやる気でした。「これで、殺されてもいい!」と悲壮な覚悟でした。14年前のことを思い出し、〈全て〉を話しました。保坂展人さんのパーティで。保坂さんの為に命を捨ててもいいと思ったんですね。
あるいは、「2人とも国賊だ!」と、2人一緒に殺されていたかもしれません。そんな話をしたのです。
11月12日(火)、「保坂展人と世田谷の未来をひらく会」が開かれました。新宿・京王プラザの5階、コンコードボールルームです。午後7時からです。
私は、その前に大手町でシンポジウムを聞き、それから地下鉄丸ノ内線に乗って新宿に行き、京王プラザに着いたら、6時15分。パーティは7時からだ。
早すぎる。喫茶店でコーヒーを飲んでようか。でも先に受付だけでも済ませておこうと、5階に行きました。
ビックリしました。受付に人が溢れている。そして長い列だ。まだ45分も前なのに。私も並んで、やっと入れました。
このホールは京王プラザでも一番か二番に大きいホールだ。それなのに、もう一杯。
凄いね。国会議員だって、これだけ集まる人はいないよ。と思いました。
ある国会議員が言ってました。「皆、保坂さんを励まそうと思って来るんじゃない。逆に、保坂さんに励まされようと思って来るんだ。保坂さんにすがりつきたいんだ」。
ウーン、そうなのか。「呼びかけ人」を代表して菅原文太さんが話す。脱原発の話をする。
「小泉さんと細川さんが会って脱原発を話したそうです。いいことです。応援したいです」と。
さらに、菅直人さんも駆け付けて、あの原発事故の時、いかに危なかったか、大事故になる寸前だったという話をする。
そして、国会議員、首長、都議会、区市議会議員…と挨拶する。
それから、伊東えりさんの歌があり、再度、挨拶がある。
そうだ、文太さんは、保坂さんに、「次は都知事だ! 頑張れ!」と言っていた。
勿論、国会議員に戻ろうなんて小さなことは考えてないだろう。あるいは、ここに集まった人たちは、「保坂を総理に…」と思っているんじゃないのか。
そんなことを感じた。それだけの器だ。
私も挨拶を求められたんで、そう言ったんですよ。「保坂さんを総理に」と。
だって、これだけ努力し、包容力のある人はいない。それに、人間を右だから左だからといって差別したりしない。
区長なんだから、あるゆる人々に会う。国会議員よりも大変だ。「やるか、やらないか」。その決断を毎日、迫られている。国会議員の1人だと、「どうしようかな」で過ぎてしまうこともある。
しかし、区長となると違う。福祉、教育、あらゆることに言える。
世田谷の人口は80万人以上だ。7つの県よりも大きいという。そうすると財政規模も7つの県よりも大きいのだろう。
「知事」よりも力を持った「区長」だ。次は「都知事」か、「総理」か。
今、改憲論議が盛んだ。自民党の改憲試案だと、国旗・国歌への尊重義務が書かれている。1999年の国旗・国歌法でも、まだ不十分だというのか。
私は日の丸・君が代は好きだ。だからこそ、皆がもっと大事にしてほしいと思う。排外主義のデモに掲げられるのでは、日の丸は泣いている。
又、法律、義務として、いやいや歌わせるものでもない。
そんなことをしたら、君が代は泣くだろう。
法制化した時も、「ただ確認のためだ」「決して強制するものではない」と言っていた。
しかし、出来てしまえば学校で強制された。起立しない先生や、歌わない先生は処分された。
そうなることは分かっていたので、私は法制化に反対した。
元々、大日本愛国党の赤尾敏さんだって、強制には反対していた。学校で教師や生徒に強制すべきことではないと言っていた。大人が誇りを持って歌えば子供はついてくる。そう言っていた。
だから大人が歌って模範を示したらいい。
そのためには、まず、国会で議員が歌おう。毎日でもいいし、開会、閉会の時だけでもいい。
しかし、共産党や社会党(注:赤尾さんが生きてた時は、まだ社会党でしょう)は起立しないだろう。歌わないだろう。だからといって、彼らを処分出来るか。除名に出来るか。出来ないだろう。国民に選ばれた代表だからだ。
それなのに弱い立場の学校に強制して、歌わないなら処分するという。これはおかしい。と。赤尾さんは言ってたのだ。大賛成だ。
…という話を、1999年に、いろんなところでした。「朝日新聞」にも書いた。
多分、それを見たか、聞いたかしたのだろう。当時、社民党の議員だった保坂さんに呼び出された。
「この法案は危ない。何としても潰さなくては。それで、僕が国会で総理に質問をします。その時、鈴木さん、参考人として出て下さい」。
ウッと思った。全く、考えてもいなかった提案だ。
しかし、言った手前、「分かりました。十分に応えられるか分かりませんが、全力でやります」と即答した。
引き受けてから、大変なことになったと思った。
それでなくても私は右翼からは批判されている。アパートを放火されたこともある。
社民党の参考人として「国旗・国歌法案」に反対で国会に出たら、全国の右翼が怒り狂うだろう。「日の丸・君が代」の法制化に反対するとは何事だ!と。
それに、「アカの手先になって国会で発言するとは、国賊だ!」となるだろう。
右翼に殺されるかもしれないな。そう思った。
でも、あの時は、どこか捨て鉢だった。まあいいさ。なるようになれだ。と思った。
それに、〈思想的事件〉で殺されるなら、それは名誉の死だろう。老衰で死ぬよりはいいだろう。などと考えていた。
1999年で私の人生も終わるのか、と腹を括っていた。
そんな話をしたんですよ。今年の保坂さんのパーティで。14年前の「2人の誓い」だ。
ところが、幸か不幸か、私が国会に出ることはなかった。
何月何日にやろう、と決めていたのに、(それを自民が察知したからではないだろうが)、急遽、強行採決をして通してしまった。私の「参考人」はなしになった。ガックリきた。
「命拾いした」と喜ぶべきかもしれないが、そうは思えなかった。
自分なりに、〈国〉のために命を賭けようと思ったのに。保坂さんのために命を賭けようと思ったのに。
緊張の糸がプツンと切れて、それ以降の私は、生きた屍ですよ。まあ、それほどではないか。
この年、一水会代表を辞めた。
命懸けの仕事が出来なかった。そんな喪失感もある。
と同時に、「朝日新聞」などに私が喋ったことが、全右翼・全保守派から批判、糾弾された。
私はいいが、〈現場〉で運動をやっている一水会の活動家たちに迷惑がかかる。
そう思って、木村氏に代表を替わってもらい、私は1999年に一水会代表を辞めた。私は今は一水会顧問だ。
木村代表になってから、一水会は、どんどん国内だけでなく、国際的に活躍している。イラク問題でも活発に発言し、イラクに何度も行っている。2003年には私も連れて行ってもらった。私はお邪魔にならないようにしている。
1999年当時、保坂氏との「密約」は他には洩れてない。だから、その責任を取って辞めたわけではない。
いろんな理由があるが、私が勝手なことを言ってる。左翼とも付き合いがある。そんなことが、他の人たちからの批判の材料になっていた。
一水会の若手が、街宣やいろんな集会に出ると、他の団体の人に言われる。
「お前んとこの代表は、メチャクチャなことを言ってるぞ」「あれでも右翼か」…と。
これでは申し訳ない。若手の活動家の運動をやる時のネックになってはダメだ、と思い、代表を辞めたのだ。
その中でも、一番大きな理由は、「朝日新聞」(1999年7月4日)に載った私のインタビュー記事だった。
今、手元にないので、ググってみた。出てきた。「私と日の丸・君が代」というタイトルで、いろんな人に聞いてたようだ。私は断言している。
〈教育に強制、絶対よくない〉
読んでみたが、そんなに強烈なことを言ってるわけではない。中学、高校生なんて、強制されたら何でも反撥するんだし、そんなとこに敢えて強制することはない。 〈見本〉を示したいのなら、国会議員や公務員がやればいい。
そして、こんなことを言う。
〈高校生までは校歌と校旗で十分です。「二十歳になったら初めて歌う」ぐらいでいい〉。
そして、最後の方で、こんなことを言ってる。右翼に対する挑発のようだ。
〈「反対するやつは命をかけて殺してでも」なんて、僕も昔だったらそう思うかもしれないけど、日本の歴史で国旗や国歌が出てきてからまだ百数十年。明治維新で西欧の影響を受けてからです。「極右」の人なら、西欧をまねて作った国歌や国旗なんて捨てて、「本来の日本に戻れ」と主張してもいい〉
かなり思い切ったことを言ってる。国歌、国旗、憲法なんて、それまで2千年以上、日本になかった。なくても済むもんだ。何も西欧の真似をして、作らなくてもいい。
そんなものは捨てて、元の日本に戻れ、と「極右」ならそう言うはずだ。と挑発している。
何も法律を作らなくても、国歌・国旗は皆が分かっている。認めている。又、それに反対する自由もある。それでいい。
もし、どうしてもキチンと決めたいというのなら、何年かかけて、全国で公聴会をやって決めたらいいだろう、と言った。
さらに、ちょっと付け加えた。そこが、全右翼、全保守派の怒りを買った。この最後の部分だ。
〈要は、もっと気軽に論じたらいいんですよ。公聴会だけでなく、2〜3年かけて全国で討論会とかやってから、国民投票で決めたらどうですか。その結果、国旗が「赤旗」になって、国歌が「インターナショナル」になるならそれでもいい〉
随分と、凄いことを言っている。
特に最後の行だ。私は、そんなことは絶対になり得ないから、余裕で言ったんだけど。右翼の人々は「余裕」や「ジョーク」は通じない。「赤旗でもいいとはなんだ!」と随分糾弾された。
今、読んでみて、「国民投票」で決める、というのもマズイな、と今は思っている。
だって、圧倒的な支持率で日の丸・君が代は認められる。99%いくだろう。
そうしたら、法律よりも、もっと「強制力」になる。「日の丸・君が代」反対なんて言えなくなる。言論の自由がなくなる。「99%も賛成してるのに、反対するなんて非国民だ!」と言われるだろう。
それにしても、1999年は、よく、こんなことを言ってたもんだ。これじゃ、一水会代表を辞めたのも当然だね。
さらに、保坂さんと一緒になって、国会に出て、「法制化反対」をしたら、確実に殺されていたね、と、思う。
それから、食べないようになった。心優しい人だ。
だから、とても経団連には入れないだろうと思ったら、大丈夫だという。じゃ、好奇心もあるし、入ってみよう、と行った。
午後1時から、「日中関係の針路とメディアの役割」というシンポジウム。初めに、丹羽宇一郎さん(前中国大使)の基調講演。それから、朱鋒さん(北京大学国際関係学院教授)の基調講演「21世紀の日中関係の再構築に向けて」。
そして、「日中報道の問題報告」。高井潔司さん(桜美林大学教授)と西茹さん(北海道大学准教授)。
そして、パネルディスカッション「日中関係の針路とメディアの役割」。コーディネーターは高井潔司さんで、パネリストは4人。史哲さん(南方週末ニュース)、于徳清さん(新京報評論部)。佐藤千歳さん(北海道商科大学准教授)、中川潔さん(共同通信)。
1時から5時まで。長かったが、とても勉強になったし、有意義だった。両国とも、カッカしたマスコミばかりが相手の悪口を書きまくってると思ったが、こんなにも冷静に考え、日中関係を心配してる人がいたんだ。
それに驚いたが、佐藤千歳さんがパネラーで出ていた。前に、北海道新聞の記者で何度も取材された。その後、中国に行き、北海道新聞の中国支局長になった。その時、私は、北朝鮮に行き、北京で佐藤さんと会い、現地のジャーナリストを紹介された。又、ご馳走になった。
そんなこともあったので、お礼を言いました。次はぜひ、日韓で、こうしたシンポジウムをやってもらいたい、と思いましたね。
終わったのは5時。そのあと、パネラーの人たちと少し話し、それから新宿へ。「保坂展人と世田谷の未来をひらく会」に出る。本文でも詳しく書いたので、これ以上は書かない。
3時、「現代文要約」。
5時、「読書ゼミ」。坪内祐三さんの『総理大臣になりたい』(講談社)を読む。なかなか面白かった。
⑱11月13日(水)午後7時から9時まで。Ustreamの「月刊 中島新聞」に出ました。三島事件から43年。三島由紀夫、森田必勝、持丸博氏らの話をしました。中島さんは、とても勉強してるし、詳しいです。
㉑11月10日(日)午後4時〜7時。「ミヤマ」会議室で、渡辺真也君と対談しました。7年前に、私をニューヨークに呼んでくれた青年です。
あの時は26才でした。憲法24条を書いたベアテさんや、向こうの憲法学者を紹介してくれました。そして、憲法のシンポジウムをやってくれました。
今は、ドイツの大学で学生に教えながら、自分も勉強しています。
日本に一時帰国したので、会いました。