11月は三島由紀夫・森田必勝両氏の追悼の月だ。又、両氏について語り、43年前の事件について語る月だ。
本は今も出ている。「新しい発見」もある。四日市での集会のように、新しい企画、新しい出会いもある。
又、悲しいことだが、関係者の訃報も届く。
「楯の会」初代学生長・持丸博氏が9月24日に亡くなり、10月27日(日)に「偲ぶ会」が行われた。69才だった。
又、今日、11月29日(金)の「産経新聞」を見て驚いた。
堤清二さんが亡くなった。
〈25日午前2時5分、肝不全のため死去したことが28日分かった。86歳〉
と書かれていた。残念だ。
三島由紀夫とも親しかった。堤清二さんはセゾングループの創業者で、又、詩人・作家としても有名だ。辻井喬の名前で多くの詩集・小説を書いている。
平成16年に父・康次郎氏を描いた『父の肖像』が野間文芸賞を受賞した。24年には文化功労者に選ばれた。
「2つの顔を持つ異才経営者」として産経には評伝が出ていた。
経営者としての堤清二氏を紹介し、次に辻井喬氏を紹介する。
〈隠喩を巧みに駆使した詩は高く評価され、後に小説にも進出。「彷徨の季節の中で」に始まる自伝的小説3部作や、父・康次郎氏の半生を描く『父の肖像』などで、日本人にとっての家や父性といった根源的な問題を追究し、独自の私小説を確立した〉
とてもいい本だった。産経では、続いてこう書いている。
〈西武百貨店時代に営業部門の反対を押し切り、当時はなじみが薄かった抽象画家らを積極的に紹介。経営の一線を退いてからも、セゾン文化財団の理事長として、若手芸術家の育成に尽力した。晩年も、入退院を繰り返しながら詩作に励んだ。物腰は柔らかく、インタビューには穏やかな口ぶりで丁寧に答えた〉
そうなんだ。全く、偉ぶったところがなかった。
実は私も何度かお会いした。一緒にお酒を飲んでいても、本当に穏やかだった。
初めに会ったのは、宮崎学氏と3人で、池袋で会った。
池袋は西武デパートがあるし、セゾン文化財団もある。だから池袋かな、と思ったら、路地裏の本当に小さな店だった。
学生が飲むようなところで、畳の上で飲んだ。
宮崎学氏は『突破者』で有名な作家だ。それに2人とも「元・日共」なのだ。
日共に入り、活動をしたことがあって、その後、作家になっている。共通体験があるから、2人はとても仲がいい。うらやましい。
それに、辞めたとはいえ、共産党を罵倒しない。批判はするが、「いい体験だった」と言う。
元共産党の人には、口汚く共産党を罵倒し、右翼以上に右翼的になった人が多い。
そんな「反共主義者」にはなりたくない。と2人とも言う。それには私も感動した。
2人は、東日本大震災後に、対談本を出している。『世界を語る言葉を求めて=3.11以後を生きる思想を求めて』(毎日新聞社)だ。
とてもいい本だ。私は、週刊「アエラ」(2011.12.5)で、書評した。そのため、丁寧に読んだ。
「僕自身は共産主義に触れたことで、今の自分があると思っているんです」と辻井さんは語る。
又、宮崎学氏はこう言う。
〈黒字か赤字かでいえば、私は多分に黒字でした。いちばん恩恵を受けたのは、人を見る目をあたえてもらったことです〉
人を見、物事を見、世界を歴史を見る目が与えられたのだろう。
それが多少、間違っていて、偏見であっても、社会に向きあう姿勢が出来た。
そうした運動に入り、勉強しなかったら、まともに〈社会〉を見つめることもなかっただろう。
宗教や政治運動をやって、後に辞めた人は、怒りや恨みだけで自分の過去を振り返る人が多い。
そして、ただ、罵倒し、口汚く罵る。中には、「青春を返せ!」と絶叫する者もいる。
嫌だね。浅ましい。お前の意志で入ったんじゃないか。
その点、この2人は、いい。清々しい。
カルトや危ない新左翼過激派と違い、共産党は合法政党だから、安全だ。武装闘争など考えていない。
2人も、いい体験だったというし、いい勉強になったという。
いい「学校」だ。だったら、この貴重な体験は2人だけが独占するのではなく、全国民に「お裾分け」したらいい。
今の若者はだらしがないから、「軍隊に入れろ」とか、「強制的にボランティア活動をさせろ」…と言う人がいる。多い。
だったら、むしろ共産党の方がいい。世の為、人の為に無私の精神で働く。人間も大きくなるし、視野も広がるし、人を見る目も与えられる。
「書評」でも、そんなことを書いたと思う。
又、辻井氏は、日共時代の貴重なエピソードを紹介していた。
〈僕は上田耕一郎から、毛沢東と宮本顕治が掴みあわんばかりの喧嘩をしたことを聞きました〉
中国の文化大革命開始直後、日本にも遊撃戦術を取れと毛沢東は言った。つまり、武装闘争をやれと言ったのだ。
宮本は断固として拒否した。そして、掴みあわんばかりの大喧嘩になったわけだ。
あの時、共産党が武装闘争に立ったら、大変だった。拒否した宮本は偉い。
〈そうか、宮本顕治によって日本は救われたんだ。真の愛国者として、人間国宝にすべきだった〉
と『アエラ』の書評には書かれていた。おいおい、そこまで言うかよ、と言いながら読んでしまった。あ、私の文章だったか。
辻井喬さんとは何度かお会いした。ある出版社から、「2人の対談本を作りませんか」と言われていた。辻井さんも承諾してくれた。
私は、辻井さんの詩、小説、評論などを読んで勉強した。
著書は厖大にある。メモを取りながら読み、「こういう問題について話し合いたい」とレジュメも出した。
辻井さんも私の本をいくつか読んでくれた。
そして対談の日程を決める時に、辻井さんは体調を崩された。「回復してからやりましょう」と出版社は言う。
心配しながらも、対談の準備はしていた。三島由紀夫とのこと。又、三島が辻井さんに頼んで「楯の会」の制服を作ってもらった。又、野村秋介さんとも何回か会って、文学の話をしたという。
さらに、「経営者」と「文学者」。2つの分野、2つの顔をどう使い分けていたのだろうか。聞いたみたいことは沢山あった。「愛国心」や日本人論についても。
さらに、かつての共産党体験についても。それなのに…。残念だ。
辻井さんの話が長くなった。今週は、「追悼の3日間」について、まず書くつもりだった。順番が逆になったが、書こう。
何度か、いろんなとこにも書いたが、11月23日(土)は四日市に行った。
朝早く東京を発ち、9時20分に、名古屋。岩井さんや下中さん、飛松さんたちと合流し、四日市へ。そこから森田必勝氏のお墓へ。
もうすでに多くの人がお参りしてるようで、沢山の花が供えられていた。
「お兄さんのおかげで、やっと四日市で集会が出来ます」と必勝氏に報告した。
それから、必勝氏の母校、海星中学・高校へ行く。カソリック系のミッションスクールだ。
そして、会場の四日市文化会館へ。
〈1970年 森田必勝が駆け抜けた時代〉
=あの時代を、いま語り継ぐ=
会場は超満員だった。「憂国忌」を主催する三島研の人たちが30人、バスで来てくれた。
宮崎正弘、斎藤英俊、山本之聞といった、当時の活動家たちが来てくれた。
懐かしいし、ありがたかった。作家の中島岳志さんも札幌から来てくれた。
森田必勝氏のお兄さんの森田治さんが、この集会が出来るまでの経過を話し、宮崎正弘氏が、大学時代の必勝氏について話す。私も、思い出を話す。
そして第2部は3人によるシンポジウム。今まで知らなかった話も披露されました。
必勝氏は二浪して早稲田に入った。早稲田にどうしても入りたかった。
初めは全共闘運動をやりたいと思ったが、余りに横暴な全共闘に失望。
そんな時に、斉藤、宮崎、そして我々と知り合い、民族派学生運動に飛び込む。
初め日学同(日本学生同盟)に入り、そのあと、「楯の会」に入り、学生長になる。
この頃の〈複雑な事情〉も宮崎氏は詳しく話してくれる。
あの事件については、実に多くの本が書かれている。100冊以上の本が出ている。
その中でも、森田必勝『わが思想と行動』(日新報道)は群を抜いている。というより、森田必勝氏の肉声はこれしかない。
必勝氏の中学・高校時代の日記、そして大学に入ってからの日記、活動日誌などをまとめたものだ。
まとめたのは宮崎正弘氏だ。この努力、この功績は大きい。
事件直後、宮崎氏は森田氏のお宅にうかがい、4日間、泊まり込んで、日記を読み、写した。それを基にしている。
今と違い、コピーもない。これはと思うところを書き写した。18冊の大学ノートを読み、写したのだ。
そのおかげで我々は今、必勝氏の思い、思想を知ることが出来る。
又、鈴木亜繪美さんの『火群(ほむら)のゆくへ=楯の会会員たちの心の軌跡=』(柏艪舎)もいい。楯の会会員たちを訪ね歩いて、生の声を聞いたものだ。「楯の会」の田村司氏が、全国の会員に連絡し、取材協力を頼んでいる。
当日、必勝氏と一緒に活動した多くの人たちが来てくれた。
と同時に、必勝氏の小学校や中学校の同級生たちも来てくれた。運動のことは知らないが、昔の子供時代の話をしてくれる。
又、お兄さんは、教員をし、その後、県議になっている。その頃の知り合いの人たちも発言してくれた。いろんな政党の人たちが、必勝氏について語る。
又、「ミッションスクールにおける必勝氏」についても同級生が語る。
四日市で開催して本当に良かったと思った。
終わって、近くのお店を借り切って、話をした。
夜、最終の新幹線で帰京した。
翌、11月24日(日)は野分祭。
午後2時から市ヶ谷健保会館で行われた。
厳粛な追悼祭のあと、中山嶺雄氏の記念講演。半袖のシャツ姿だ。
一体どうしたんだろうと思ったら、「シベリアに抑留され、亡くなった人のことを思ったら、寒いなんて言えない!」と言う。獅子吼だった。
そして直会。この日は、東北や岡山など、全国から同志が駆け付けてくれた。
その翌日、11月25日(月)は憂国忌に参加した。星陵会館だ。
以前は九段会館でやっていたが、地震で使えなくなり、今は、ここだ。
野分祭も高田馬場のサンルートで毎年行っていたが、今年は館内改修のために、市ヶ谷になった。
憂国忌は、今年は、憲法についてのシンポジウムがメインだった。
三島は43年前、憲法改正を訴えて自決した。
今の「改憲ムード」を三島はどう思うのか。
「やっと考えてくれたか」と思うのか、「いや、俺の考えたものはそんなことじゃない」と思うのか。
この問題に関して、パネラーの間でも考えが分かれた。
そして、終わったあとの直会の席でも議論されていた。
又、シンポジウムの前に、富岡幸一郎氏が話していたが、その中で、「こんな本が出ました」と1冊の本を紹介していた。
元楯の会班長・本多清氏監修の『天皇に捧ぐ 憲法改正』(毎日サンズ)だ。
私も、翌日、本屋で買った。これは衝撃的な本だ。帯にはこう書かれている。
〈超国家主義憲法の衝撃!〉
三島は、「楯の会」の中に、「憲法研究会」を作り、学生で討論させ、改憲試案を作らせた。三島自身も参加し、考えを言う。
その「討論の中味」が公表されたのだ。
これは貴重な資料だ。「憲法研究会」の責任者は阿部勉氏だった。「楯の会」一期生で、事件後は、私らと共に一水会創設に関わる。
早大法学部だったので、「じゃ、阿部ちゃんだ」と三島に指名されたようだ。
前に、阿部氏から聞いていたが、こうした形で、まとまって読むのは初めてだ。学生の真摯な論争、そして三島の「時代を見通す眼」を感じた。
詳しくは又、書いてみたい。
43年経っても、まだまだ「三島事件」は熱い。全国で追悼され、語られている。
そうだ。もう1冊、紹介しなくては。
11月25日に発売された、板坂剛の『三島由紀夫と全共闘の時代』(鹿砦社)だ。
板坂は全共闘を闘った人間だ。そして、フラメンコダンサーでもある。そこから、三島を語る。
本の帯には書かれている。
〈血と死と狂瀾の時代を、〈三島由紀夫〉で今に読み解く、洗練と鮮烈の新・文化論!〉
この本のうち、半分は、鼎談だ。
板坂剛。「平凡パンチ」で三島番だった椎根和さん。そして私の3人だ。〈三島由紀夫 死への希求〉だ。
真剣勝負の鼎談だ。意見が一致し、新しい発見もある。と同時に、激突し、喧嘩する場面もある。それを、はっきりと記録する。
若松さんの三島映画をめぐっても対立した。私は激怒し、「やってらんない。もういいよ!」と言って席を立った。鼎談はそのシーンも忠実に記録している。そして、そこで、「もういい!」で終わっている。
こんな迫力のある鼎談も珍しい。史上初だろう。
終わって、河合塾コスモへ。3時、「現代文要約」。
5時、「読書ゼミ」。渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書)を読んで、生徒と考えました。
さらに、外国と日本の〈家族〉観の違いなどを話してくれた。知らない分野だったので勉強になりました。終わって、ゲストや店員、お客さんたちと話しました。
①11月23日(土)13時半。四日市文化会館第3ホール。
〈1970年 森田必勝が駆け抜けた時代。
=あの時代を、いま語り継ぐ=〉
(左から)森田治氏(森田必勝氏のお兄さんです)。鈴木。宮崎正弘氏(国際ジャーナリスト)。
㉓シンポジウムを司会した佐波優子さん。そして御手洗志帆さんと。
佐波さんは「サハ」と読むのかな。「名前はサハだけどウハ」と思ったら、「サナミ」と読みます、と言われました。キャスターで、予備自衛官です。最近、『女子と愛国』(祥伝社)を出して、売れてます。私も買って読みました。