新春恒例の「読書対談」が、1月4日(土)、行われた。
「平成の読書王」と呼ばれる高木尋士氏(劇団「再生」代表)と私の対談だ。
他に、「ノルマ読書」を実行している、椎野さん、あべさん、高橋さんなどが参加する。
「去年、何冊読んだか」「一番感動した本は何か」といった具体的な話から始まって、「何の為に本を読むのか」「ノルマ読書法に意味はあるのか」「読書は量ではなく質ではないか」「増えた本はどうすればいいのか」…といった問題も話し合われた。
将来は、「読書道」として、キチンとした「道」として確立させたい。
皆が、もっともっと本を読み、そして考え、語り合う。そこから日本の活力も生まれる。
その時に、何冊でもいいから、ノルマを決め、自分に課する。これは大事だ。
1月4日の「読書対談」の時も、「私は月に10冊のノルマを達成しました」「私は年に100冊のノルマです」「来年は200冊に挑戦します」…といった決意や報告がなされた。いいことだ。
それと、今年のテーマは「全集」だった。芥川全集、安吾全集、あるいはツヴァイク全集、シェークスピア全集…と、自分が関心のある全集に挑戦してみる。
1年で読み切れなくてもいい。「3カ年計画」でも「5カ年計画」でもいい。長期プロジェクトにして、挑戦したらいい。「一つの山脈」を踏破したような感動と自信が味わえる。
私の人生なんて、思想全集、文学全集を読んできた「読書人」としての人生だ。
又、いろんな活動家や危ない人々とも会い、話をしてきた。「歴史上の人物」とも会ってきた。これも生きた「読書」なんだろう。
時には、本の中に入り込み、動き回り、闘ったこともある。まるで、ミヒャエル・エンデの「ネバーエンディング・ストーリー」だ。
1月4日の「読書対談」の様子は、近くこのHPにupされるだろう。テープを録ってた人がいたから。詳しくそれを読んでもらうとして、その時に感じたことを少し書いておこう。
前も、かなり熱い議論になったのだが、「何を1冊とするか」だ。こんなに考えが分かれるとは思わなかった。
単行本でも新書でも文庫でも、本になってるものは1冊だ。何の疑問もないだろう。
…と思うだろう。でも結構、こだわる人がいるんだ。つまり、「読書道」のルール作りでもめたのだ。
基本的には「単行本、新書、文庫など、本として売られているものを「1冊」とする。当たり前の話だ。
日刊紙、週刊誌、月刊誌などは、1冊に数えない。特集号などで、単行本何冊か位の分量と内容がある号もある。でも、「1冊」には数えない。
それと漫画も1冊に入れない。中には小林よしのりさんの『天皇論』『戦争論』のように、単行本10冊よりも中味が濃いものもある。でもルールとしては1冊に入れない。
「いや、よしのりは入れるべきだ」と言う人も多いが、では、他の漫画はどうする。その線引きは難しい。「思想漫画は別枠として認めてもいいのではないか」という意見もあり、これは今後の課題として継続審議になった。
それと、原作を基にした映画、芝居はどうか。1冊読んだようなものだ。
でも、実際には活字で読んでないのだから、入らない。
私は、ハリー・ポッターの映画は全部見てるが、原作本は読んでない。読むのは大変そうだし。
だから、ハリー・ポッターについては(本当は)何も知らないのと同じだ。今度、英文の原書で読んでみようかな、と一瞬、思った。
それから、面白い指摘があった。「上・下巻」あるいは、「全3巻」の本は、どうするのか。
「上・下巻で2冊だろう」と私は言った。「いや、同じ本なんだから、上・下で1冊だ」と高木氏は主張する。
元は厚い単行本だったのに、文庫にしたら、上下2巻になったり、3巻になったりする。それを2冊、あるいは3冊に数えるのはズルイ。と言うのだ。
ウーン、難しい。文庫で3冊になったら、「3冊」でいいだろうと私は言った。「大活字本」になると、さらに冊数が増える。1冊の単行本が、5冊になったりする。
でも、「読書欲」を高める為に、これは認めるべきだ。少なくとも各人の判断でいいだろう。と私は思う。でないと、読書のモチベーションが上がらない。
最近、司馬遼太郎の『播磨灘物語』(全4巻)を読んだが、かなり読み応えがあったし、黒田官兵衛の人生について考えさせられた。これが「1冊」になるんでは、初めから、読む気力が失せてしまう。やはり、「4冊」でいいだろう。
だから、「月に20冊読んだ」「私は年に100冊読んだ」…といっても、微妙だ。120冊読んだ人が、100冊の人に必ずしも勝ったわけではない。
でも、そんなに厳密にルールを考えて、ルールを作り直すこともないだろう。
それと、編集をしてる人は、1冊の本の「必要な所だけ」を読む。時には半分以上読む。
「これは1冊に入らないのか」という質問があったが、入りません。悔しかったら残りも全部読んで、それで、「1冊読んだ」と申告しなさい。そう言いました。
私は、年初めの「読書ゼミ」のために、前年何冊読んだかを発表している。
毎月何冊読んだか、何を読んだかも手帳に書いてある。誰に会ったか、何の話をしたかは書いてないが、何の本を読んだか、本と「どんな会話」を交わしたか。そんなことを書いている。
では、去年の読書の「数」だけを報告しよう。
2013年の私の読破数だ。
(1月)33冊。(2月)31冊。(3月)32冊。(4月)56冊。(5月)40冊。(6月)31冊。(7月)31冊。(8月)43冊。(9月)41冊。(10月)36冊。(11月)30冊。(12月)35冊。
コンスタントに、「月30冊」のノルマは達成している。偉い。
たとえ、達成出来ない月があっても構わない。全体を足して、12で割って、「月平均読破数」が30冊を超えればいいのだから。
去年は、全体の合計が439冊。それを12で割って、「月平均読破数」は36.5冊だ。おめでとうございます。
このように、毎月「30冊読破」してるのは珍しい。
それに、去年は「優良月」(月40冊以上読破した月)が4ヶ月もあった。これもよかった。
ちなみに、高木氏は去年の「読破数」は、426冊。「月平均読破数」は35.5冊だという。僅差で私が勝った。昨年の雪辱を果たした。
でも、単純に喜んではいられない。高木氏の場合、「全3巻」なら、それで1冊にしている。それに、『人類の知的遺産』などの思想的全集にも挑戦している。
又、「読書代行」のバイトをしているし、これは精読し、メモを取りながら読んでいる。時間も随分とかかる。そんな精読を入れて426冊だ。
ボーッとしながら439冊読んだ私よりも、質的にはずっと上だ。
ちなみに私の2012年と2011年の読破数も紹介しておこう。
2011年 405冊(月平均33.7冊)
2012年 429冊(月平均35.7冊)
013年 439冊(月平均36.5冊)
こう見てくると、この3年間、どんどん向上している。私の「学力」も向上しているだろう。
そうだ。昔読んで、又、今読み返してみるという本はどうなんだろう。これも「1冊」に入るのか。新しく買った本ならいいだろう。
自分が持っている「同じ本」を読み返すのでは、どうしても雑になる。飛ばし読みをしてしまう。又、赤線が引いてたり、書き込みがあったりする。
そうすると、前に読んだ時と同じ状況・同じ精神的気分で読んでしまう。
これでは、「読書」にならない。BOOK OFFでもいいから、新たに買う。そして読む。前に読んだ時とは違う感想を持つ。線を引く箇所も違う。感想も違う。それでこそ「読書」だ。
その上で、前に読んだ本と比べてみたらいい。感動した部分は違うはずだ。その間の人生があるからだ。
「じゃ、自分の本はどうだろう」と私は言った。本を作る時、少なくとも3回か4回は校正のために読むのだ。「これも1冊に数えていいのかな」と皆に聞いたら、高木氏もギャラリーも、「それは入りません」と即座に却下された。ウーン、そうだろうな。
他の人が書いた本で、古い本は、勿論、1冊に数える。
最近必要があって、村上一郎の『北一輝論』『草莽論』を読んだ。いい本だ。
三島と同じ時代に生きた。そして、自分で日本刀で頸動脈を切り、自決した。凄い評論家だ。
三島も村上を評価し、何回か対談している。三島の自決の10ヶ月前にも対談している。「尚武の心と憤怒の抒情」だ。「日本読書新聞」昭和45年1月1日号で対談している。
今、読み返すと、三島とは「死」の話を随分としている。内容も深い。見出しだけ見てもそれは分かる。
思想的な徹底性とは—革命と反革命とは違う
言葉がばかにされ—文学の責任、文学者の態度
祭祀国家の意味—文化の基礎はイロジカル
言葉の城を守る緊張—政治詩と抒情詩がくっつき
地獄を見た王朝人—能は文学的死体愛好症
見出しだけ見ても分かるだろう。内容が濃い。今、こんな思想的対談は、ほとんどない。
「日本読書新聞」で対談したのだが、私は今、三島由紀夫『尚武のこころ』(日本教文社)で読んでいる。これは三島の対談集だ。昭和45年9月25日に初版発行だ。
ところが、この2ヶ月後に三島事件だ。三島は自決する。
それで、この本を買い求める人が多く、売れに売れた。3ヶ月後の12月5日は、「第5版発行」になっている。私が今、読んでるのもこの5版だ。
私は講道館の醍醐先生からもらって、再読した。日本教文社というのは「生長の家」の出版部門が独立したものだ。
谷口雅春先生の『生命の実相』(全40巻)の他にも、「愛国書」を随分と出している。この本の巻末にもそれらの本は紹介されている。その本のタイトル名が凄い。
『限りなく日本を愛す』『日本を築くもの』『我ら日本人として』『青年の書』…などだ。
タイトルに惹きつけられて買った人も多い。
60年代後半の右派学生たちも皆読んでいた。「生長の家」の宗教書には関心がないが「愛国書」は読みたいと、買って読んだ人は多い。日学同や「楯の会」の人たちも随分と読んでいた。森田必勝氏も読んでいた。
谷口雅春先生は、さらに、憲法や古事記についての本も書かれていた。『憲法の正しい理解』『占領憲法下の日本』『古事記と現代の預言』…などだ。今読んでも凄い。
そして三島由紀夫『尚武のこころ』も日本教文社から出ている。
今回、読み返してみて驚いた。これだけの対談者はちょっといない。
村上一郎だけでない。当時はこんなに凄い人たちがいた。そして三島も対談していた。と驚くばかりだ。
ネットの古本屋で探して読んでみたらいい。目次と対談者を紹介しよう。
天に代わりて 小汀利得
サムライ 中山正徳
刺客と組長 鶴田浩二
大いなる過渡期の論理 高橋和巳
守るべきものの価値 石原慎太郎
現代における右翼と左翼 林房雄
二・二六将校と全学連学生との断絶 堤清二
剣か花か 野坂昭如
尚武の心と憤怒の抒情 村上一郎
エロスは抵抗の拠点となり得るか 寺山修司
どうです。凄い顔触れでしょう。それに、46年ほど前だが全く古くなってない。今の問題をズバリと語っている。予言的な対談集でもある。そのことについては又、書こう。
1月4日の「読書対談」では、「感動した本」の1冊として、皆に紹介した。あと2冊、紹介した。元楯の会班長・本多清氏が監修した『天皇に捧ぐ憲法改正』(毎日ワンズ)だ。
「楯の会」の中では憲法研究会が作られ、改憲試案が練られていた。その厖大な記録だ。試案だけでなく、そこに至る長時間の討論の記録だ。
これは貴重だ。天皇・国防などについて、こんなに激しく討論していたのかと驚いた。
女帝の問題も真剣に論じられている。47年も昔だ。多分、当時、そんな議論をしてたのは彼らだけだろう。予言の書だ。
この本については、『月刊タイムス』の私の連載に今月、書いた。
もう一つ、皆神龍太郎の『iPadでつくる「究極の電子書斎」』(講談社+α新書)を紹介した。「蔵書はすべてデジタル化しなさい」とサブタイトルがついている。これはいい。
1部屋の木造アパートでは、何万冊もの蔵書は入らない。どんどん増えてゆくと、BOOK OFFに売ったり、友人にあげたりするしかない。あるいは必要な部分だけを破いて保存するか、コピーするか。
その点、これはいい。蔵書をすべてスキャンし、デジタル化するのだ。1万冊でも2万冊でも入る。
そうすると、ノートパソコンを持ってゆくと、旅先でも、喫茶店でも、どこでも原稿が書ける。参考文献をすぐ引用出来る。これはいい。家には本なんかなくていい。スッキリする。
まあ、辞書のたぐいや、自分の書いた本だけは並べておけばいい。
それに、空いた白い壁には、いつでも蔵書を映し出せる。何なら、常に、映し出しておいたらいい。
必要なところは、パソコンを操作して本を取り出し、ページをめくり、読むことも出来る。本箱にギッチリと本が入っている。それをいつでも手にして、探せる。
でも、ただの壁だ。Kindleなど電子書籍で読むのもいいが、これが淋しいのは、自分の「蔵書」がないことだ。本を読んだという「証拠」が残らない。
その点、この「電子書斎」はいい。壁に映し出しておけばいい。「3万冊もあるの? こんなに本を読んだの?」と聞かれたら、取り出して、パラパラとページをめくってやればいい。赤線が引かれているし、書き込みもされている。「すんごい!」と友人たちも感嘆するだろう。
それを、家でなくても披露出来る。ノートパソコンさえ持っていけば喫茶店の会議室でも壁に映し出せる。来年の「読書対談」では、それを披露しようか。
そうだ.読書し、一緒に話をする友人たちもパソコンの中に取り入れられないだろうか。それが次の課題だ。
友人も全部、iPadに入れちゃう。たとえば亡くなった人でも、その「発言」「思想」の全てをデジタル化して、取り入れたらいい。グーグルかどっかでやってほしい。
そしたら、「生きてる我々」と「亡くなった作家」たちがリアルに「会話」出来る。
「これについてどう思う?」と聞いたら、即座に答えてくれる。うん、これはいい。
そしたら、一日中、亡くなった人たちと会話することになる。三島由紀夫、高橋和巳、村上一郎…といった人たちと話をしている。
そうすると「自分」もデジタル化された感じだな。いやいや、こっちの方がリア充ですよ。電車の中でゲームをやったり、メールをやったりする。その人立ちの方がフィクションだ。
だから、本を読みましょう。それだけが、現に、ここに生きている証(あかし)です。
先週のHPで田中卓先生の『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』(幻冬舎新書)を紹介しました。田中先生もお読みになって、喜んでおられたそうです。
ただ、私の読解力のなさから、少々ミスをしてしまいました。それを指摘されました。
まず、田中先生の文章(女帝論)に対して…。
「山田孝男、新田均、伊藤和史、中西寛、西尾幹二…といった人々が、猛反論、猛批判した」とありますが、このうち、山田・伊藤・中西各氏はむしろ賛成の立場、また新田教授については「かつての教え子」とありますが、これは誤りだそうです。申し訳ありませんでした。
よく読まないで、早トチリしたところがあり、申し訳ありませんでした。
終わって、近くの「ライオン」で打ち上げ。
⑭これが「ゼウスの法廷」のチラシです。主演は小島聖です。「人が人を裁くとはどういうことか」「愛を裁けるのか」…と、問題を突きつけます。現代の裁判への根源的疑問を呈しています。それも、「説教」「主張」ではなく、ハラハラ、ドキドキのエンターテインメント作品になってます。だからこそ、考えさせられます。
⑯1月8日(水)、午後7時より豊島公会堂で「宇都宮けんじ、キックオフ集会」がありました。都知事候補として一番に名乗りを上げました。元気に「こうして都政を変える」「東京が変われば日本が変わる」と訴えていました。
⑳日本共産党の小池晃さん(参議院議員)も応援に来てました。「おっ、これは驚きのツーショットですね」とマスコミの人に言われました。「いや、朝生にも一緒に出たし、よく会ってるよ」と小池さん。そうだ。松元ヒロさんのライブにも見に来ていました。