1月13日(月・祝)、静岡市に行ってきた。袴田巖さんの再審開始を求める集会に参加した。
驚いた。開会の30分前に着いたのだが、もう満員。超々満員だ。全国から多くの人たちが来ていた。マスコミも多い。
関心が高いのだ。「関心が高いから200人は集まるかも知れない」と主催者は思って準備したが、何と370人も集まった。
配布する資料も足りない。「後でお送りしますから住所を書いて下さい」とアナウンスしていた。
この日の集会名と会場だ。
〈袴田巖さんは無実だ!
“即時再審開始を求める全国集会”〉
会場は、静岡県総合社会福祉会館(シズウエル)7階大ホール。午後1時30分開会。
弁護団の報告があり、ジャーナリストの江川紹子さんの記念講演がある。そのことは、チラシに書かれていたので知っていた。
ところが、「連帯アピール」に登場した人々を見て、驚いた。
冤罪で何十年も刑務所に入っていて、冤罪が晴れて、出獄した「奇跡の人」たちが次々と登場し、熱い連帯の挨拶をする。
免田栄さん。赤堀政夫さん。そして「布川事件」の桜井昌司さん。杉山卓男さん…だ。ゴビンダさんの支援者・客野美喜子さんも挨拶する。それに、元ボクシング世界チャンピオンの輪島功一さんも登場し、熱弁をふるう。
豪華メンバーの支援、連帯だ。
袴田さんは元プロボクサーだ。だから、ボクシング関係者も皆、支援している。無実を信じ、再審開始を求めている。
最後は、袴田さんのお姉さんが挨拶した。「こんにも多くの人が支援して下さって…」と涙ぐんでいた。
それにしても、国家権力は残酷だ。次々と、無実の証拠が出てくるのに、釈放しない。再審にも応じない。47年もの長い間、袴田さんは獄の中だ。酷い話だ。
いわゆる“袴田事件”は、1966年(昭和41年)6月30日に起こった。
静岡県清水市(当時)で、味噌製造会社専務一家4人が殺され、自宅が放火された。
その工場に勤めていた袴田巖さん(当時30才)が逮捕された。
無関係だと主張したが、連日12時間以上の拷問状況での取り調べに、無理矢理、犯行を自白させられた。
その内容は、パジャマ姿で4人を刺し殺し、現金を奪って放火したというものだ。
警察・検察が考えた「筋書き」を無理に認めさせたのだ。
又、ボクサーだから荒っぽいし、こんなことをやるのだろう。という、ボクサーに対する偏見、差別、誤解もあった。だからこそ、ボクシング協会も一丸となって、声を上げ、即時釈放を訴えている。
無理矢理「自白」させられた袴田さんは、その後の裁判では一貫して無実を訴え、パジャマの再鑑定が行われた。
そして、血痕が発見出来なかった。検察側の言う「証拠」が崩れたのだ。この時点で釈放すべきだ。
ところが事件から1年2ヶ月後、工場の味噌タンクの中から、血液が付着した5点の衣類が出てきた。検察は、パジャマではなく、これこそが袴田さんの犯行着衣だとした。裁判官もそれを認め、1980年に死刑が確定した。
それにしても、何度も何度も徹底的に調べているはずだ。それなのに、1年2ヶ月経って、「着衣」が「発見」された。「パジャマではなかった。こっちだった」と検察は言う。
しかし、裁判で袴田さんが、このズボンをはこうとしたが、小さすぎて、全く入らない。ふともものとこで止まり、はけない。
又、DNAの血液鑑定の結果、被害者の血液でも袴田さんの血液でもないことが明らかになった。
無実は明らかになったのに。それでも釈放しない。酷い話だ。
集会では、主任弁護人の西嶋勝彦さんが、そのことを詳しく説明する。
弁護人の前に、主催社代表の挨拶がある。「清水・静岡市民の会代表」の楳田民夫さんだ。
そのあと、弁護人。そして、江川紹子さんの記念講演が50分。「冤罪の構図と裁判官の責任」。裁判官、司法の問題を鋭く批判する。
江川さんは、「名張ぶどう酒事件」についても取り組み、本を出している。「本を読みました」と江川さんと話をした。これも酷い冤罪だ。奥西さんはもう50年以上も獄中にいる。今、88才だ。
奥西さんも、袴田さんも、これだけ長い間、獄中にありながら、無実を訴え続けている。
そして、肉体的・精神的にも打撃を受け、変調を来している。少なくとも、病院に移して、それから審議をすべきだが、裁判所は全く耳を貸さない。
休憩の後、連帯アピール。さっきも書いたように、冤罪で長い間、獄にあり、奇跡的に生還した人々だ。免田栄さん、赤堀政夫さん、桜井昌司さん、杉山卓男さん…だ。
杉山さんは拘置所で、袴田さんと会ったという。運動の時など、一緒に話したという。検察側が、「着衣」を証拠として出してきた時は、「小さすぎて、全然はけなかった。これで冤罪が晴れて、外に出られる」と言って喜んでいたという。
ところが、それでも裁判所は釈放しない。袴田さんの絶望は大きかったという。
このことは杉山さんが最近出した『冤罪漂流記』(河出書房新社)にも書いてあった。
ボクシング世界チャンピオン・輪島功一さんも熱く語る。
「警察・検察は何としてでもポジショニングをつけようとする。早く“結論”を出そうとする。そして袴田さんを捕まえた。“証拠”は次々と崩され、冤罪であることは明らかなのに、検察、裁判所は冤罪を認めない。自分たちが作った“結論”をどこまでも守ろうとする。これは許せない話だ!」…と。
そうだ。もう1人、世界チャンピオンの「連帯の挨拶」があった。
これもサプライズだった。ただ、カナダ・トロントに在住なので、ビデオによる“連帯”だ。
伝説の世界チャンピオンとして有名な、ルビン・“ハリケーン”・カーターさんだ。「世界中のボクサーがついている。頑張れ!」「1日も早い袴田さんの釈放を祈る。フリー・ハカマダ!」と熱い。
この前に講演した江川紹子さんも、正面に出てきて、デジカメでこの映像を撮っていた。
又、足利事件の菅家利和さん、狭山事件の石川一雄さんなどからのメッセージが寄せられた。そして「集会アピール」が読み上げられた。
〈今回の第2次再審請求審では、死刑判決が犯行着衣として有罪の決定的な証拠とした「5点の衣類」について、DNA鑑定、被服の専門家による実験、味噌漬実験、検察官が半世紀近くも隠し続けていた証拠の開示等によって、死刑判決は根底から崩れ去り、袴田巖さんの無実がいっそう明白にされました〉
まったく、その通りだ。明白にされたのに、なぜ再審に応じないのか。なぜ釈放しなのか。
〈逮捕当時、30歳であった袴田巖さんは、47年間という長きにわたって拘禁され、今年3月には満78歳を迎えます。現在は、東京拘置所の独居房で死刑執行の恐怖と長年の拘禁生活による病魔と闘いながら、文字通り“命がけ”で無実を叫んでいます〉
残酷な話だ。人生の大半を国家権力によって奪われたのだ。そして、「アピール」の次の箇所には更に衝撃を受けた。
〈元プロボクサーの袴田巖さんは、かつて獄中からの手紙に、こう書き記しました。
「私の心身は反則によってKOされたまま踏みにじられている。そのKOの底に身を横たえてしまうしかないのか。そして一日一日と正義が殺されていくのか。これが私の生である。私の無念とするところである〉
これは何とも重い。痛々しい。国家権力はフェアープレイをしない。「反則」でKOし、そのことを認めない。
さらに、「アピール」は続ける。
〈まさしく、この手紙にあるとおり、捜査機関の「反則」が、今や次々と暴露されています。とりわけ、事件発生当時に袴田さんは従業員寮の自室で寝ていて、その後被害者宅の消火活動に同僚らと一緒に従事したとする、これまでの袴田さんの無実の訴えを裏づける、同僚らの事件直後の供述調書が検察によって隠されていたこともわかりました〉
検察は厖大な資料、証拠、供述調書を持っていながら、自分たちに都合のいい部分だけを出し、それをつなげて、〈事件〉を作っていく。
「同僚の調書」などは、全く出さない。フェアーではない。「反則」の連続だ。
それらをキチンと判断するはずの裁判官も、「反則」を見逃してしまう。
「集会アピール」の後は、袴田巖さんのお姉さん・袴田ひで子さんの挨拶。
弟をずっと支えてきた。大変なご苦労だ。「この闘いを支えて下さった皆さまに本当に感謝します」と挨拶。
最後は、アムネスティ日本事務局長・若林秀樹さんによる、「閉会挨拶」。「これは日本だけの事件ではありません。世界が注目して見守っています」。
そうなんだ、と思った。これはもう、「世界の事件」なのだ。こんな酷い裁判がまかり通っているのか、と思われる。再審開始しなければ、日本の正義が疑われる。
この全国集会が終わったのは午後5時。それから、私たちは打ち上げ会場に行く。
会場は遠い。駅前まで10分ほど歩く。ここも大勢の人が来ていた。私も挨拶させられた。全国から来た多くの人たちと話し合った。
免田栄さんは、わざわざ熊本から来た。元気だ。お酒も好きだし、カラオケも好きだ。「どんな歌をうたっているんですか」と聞いたら、「哀愁列車だよ!」と即座に言う。
そして、「惚れて、惚れて、惚れていながら行く俺に、窓は二人を引き離す…」と歌い出す。三橋美智也だ。
あれはいい。私も小学生の時に聞いた。父親が好きで、レコードを買ってきて、毎日、電蓄で聞いていた。そんな話をした。「今度、九州に行きますから、一緒に歌いましょう」と言った。
三橋美智也は、私も大好きだし、「古城」「おんな船頭歌」。それに、「ああ新撰組」もある。これもいい。
そして、7時になったので、懇親会場を後にして、スナック「バロン」へ。元連合赤軍兵士の植垣康博さんのやっている店だ。
金勇(キム・ヨン)さんもいた。真田左近さんもいた。真田さんは、元公安で、私が『公安警察の手口』(ちくま新書)を出してから知り合った。そして、『公安化するニッポン』で対談もしている。
金さんは、「金嬉老事件の現場に案内しますよ」と言っていた。寸又峡だ。かなり山の中だ。金嬉老は、そこに立て籠もって在日差別を訴えた。
そして、9時近くになって、店を出る。最終の新幹線で東京に帰りました。
そして「集会アピール」が読み上げられ、袴田ひで子さんの挨拶。閉会挨拶。
全国から370人もの人が集まった。そしてマスコミも多い。「きっと再審になるだろう」と予測し、期待してるからだろう。
この後、打ち上げ会。そこから抜けて、スナック「バロン」へ。植垣さんたちと会い、最終の新幹線で帰りました。
ベッドから下りて、きちんと椅子に座って、対談してくれた。
2時間半もぶっ続けで対談。奥さんが心配して、「もういいでしょう。横にさせて下さい」と土屋さんを寝かせる。
申し訳なかったです。「病人に、シビアーな仕事をさせて…」と謝りました。「いや、久しぶりに仕事したので嬉しいです。気力が戻ってきました」と言う。
土屋達彦さんは、元「東京オブザーバー」そして「産経新聞」にいた記者だ。60年代、70年代の激しい学生運動を取材した。機動隊には殴られたし、危うく逮捕されかけたことも何度もある。命を懸けて取材し、書いていた。
その体験を最近、本にした。『叛乱の時代=ペンが挑んだ現場』(トランスビュー)だ。本の帯にはこう書かれている。
〈佐世保、王子、成田の反対闘争から、日大、東大などの全共闘運動、自衛官刺殺事件、爆弾闘争、国際テロ事件まで、騒然たる時代の現場を取材し続けた稀有なドキュメント〉
本当に貴重なドキュメントです。その頃の取材は、体を使って取材していた。その熱気、執念を感じました。
このあと、代官山に行く。7時半から変わったイベントがあったのだ。
〈三島由紀夫・89歳のお誕生日祭〜懐かしい三島さんを偲んで〉
第1部は、『三島由紀夫の来た夏』(扶桑社)の著者・横山郁代さんの講演。三島は、毎年夏は、下田に来て、マドレーヌを買っていた。高校生だった郁代さんの眼を通して見た三島。お茶目で、優しい三島だ。
そして第2部は、横山さんのシャンソンをじっくりと聞く。企画・総合司会は、御手洗志帆さん。『平凡パンチの三島由紀夫』の著者・椎根和さんも来ていた。楽しいトークになり、終わってからも、いろんなことを話しました。
朴さんは日本でも本を出している。『代議士のつくられ方=小選挙区の選挙戦略=』(中公新書)だ。とてもいい本だ。平沢勝栄さんが政治家になるまでを追い、取材し、日本の「代議士のつくられ方」を書く。私でも知らないことが多く、教えられた。
東京から行った人、大阪から行った人などが、ここで合流。岡山一水会の番家さんが迎えに来てくれた。
それに何と、テレビ局の人たちが沢山来て、木村氏を取材する。「猪瀬問題」です。新たな事実が出たからだ。
取材が終わって、打ち合わせをして、午後6時半より、岡山市民会館4階大会議室。
「一水会岡山支部結成30周年大会」
講師は、木村三浩氏(一水会代表)
「いかに我々の政策を実現させるか」
鈴木邦男(一水会顧問)
「一水会運動の起点」
姫路や大阪、名古屋などからも集まって、満員でした。活発な質問も出て、午後の運動について皆で話し合いました。終わって、懇親会。木村氏は又もやテレビ局の人に囲まれて取材。だから、大幅に遅れて懇親会に参加しました。
⑭金勇(キム・ヨン)さん、真田左近さんも来てました。真田さんは元公安で、私は『公安化するニッポン』(WAVE出版)で対談しています。「公安警察にも裏金問題がある」。
この本では他に、島袋修さん、北芝健さん、野田敬生さんと対談しています。
⑳1月14日(火)ガン研有明病院で、入院中の土屋達彦さん(ジャーナリスト)と病室で対談しました。2時間半も。
ハードな仕事をさせてしまい、申し訳ありませんでした。土屋さんの『叛乱の時代』(トランスビュー)は実にいい本です。
㉒山口二郎さんの紹介で会いました。韓国の大学の先生で、作家の朴喆煕(パク・チョルヒ)さんです。日韓のいろんな問題につて話し合いました。
1月15日(水)。朴さんは『代議士のつくられ方=小選挙区の選挙戦略』(文春新書)を書いてます。読んで驚きました。平沢勝栄さんのことをずっと取材して書いたものです。知らないことが多く、勉強になりました。
㉓1月14日(火)午後7時半より、代官山「山羊に聞く?」で、楽しいライブがありました。
〈三島由紀夫、89歳のお誕生日祭。
=懐かしい三島さんを偲んで=〉
三島由紀夫は伊豆下田が好きで、毎年夏に来て、大好きな「日新堂」のマドレーヌを食べていました。横山郁代さんは、その当時のことを、『三島由紀夫の来た夏』〈扶桑社〉に書いています。
横山さんは「日新堂」のお嬢さん。当時、高校生。三島との楽しいエピソードが一杯書かれてます。横山さんはジャズ歌手です。
この日は、三島の話をし、第2部では、ジャズを歌ってくれました。
㉖三島由紀夫の愛した「日新堂」のマドレーヌを会場で売ってました。私も買いました。おいしかったです。
今度、下田に行って、ぜひ「日新堂」に行ってみたいです。それと、三島が泊まった下田東急ホテルにも行ってみなくっちゃ。
㉗若松孝二監督の「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を、20回も見たという女性が来てました。この前も、どこかで会いましたね。
前は2本の指にまたがる蛇の指輪でしたが、今日は、さらに増えてます。指輪が、指3本を支配し、拘束しています。「拘束されたいの?」と聞いたら、そんなことはないそうです。