まるで、ステファン・ツヴァイクの小説のようだなと思った。ツヴァイクが生きていたら、書いただろうな。と思った。
細川、小泉の元首相が2人、脱原発で意気投合して、現首相を打倒しようとする。現首相はその喧嘩を買わずに、かつて党を除名した桝添を公認する。
その桝添に対し、週刊誌は、「親を介護したという話はウソだ」と言い、元妻の国会議員は、「慰謝料もキチンと払われてない」と言う。
細川はかつて佐川急便から1億円をもらっている。猪瀬は5千万だ。
それも借りただけで、手つかずで返した。と思ったら、「紹介した大物右翼」に、そのうちの500万を貸していた。「手つかずで返した」というのはウソだ!徹底捜査しろ!となった。
その紹介した「大物右翼」は、一水会の木村代表だ。
急に、身近な問題になった。木村代表は友情で2人(猪瀬氏、徳田氏)を紹介しただけだ。
ただ、その後、猪瀬氏と木村氏の間でお金の貸し借りがあった。木村氏は、「疚しい所はない。全て取材には答える。都議会でもどこでも、行って説明する」と言っている。堂々としている。
1月18日(土)に、岡山で「岡山一水会結成30周年」の集会、記念講演会があったが、そこには、マスコミがドッと来ていた。
テレビカメラを肩にしたスタッフや、新聞記者たちが東京から新幹線に一緒に乗って来た。
岡山駅でも、木村氏はマスコミ陣に取り囲まれて取材されていた。「何の騒ぎだ」と岡山の人々も驚いて、見守っていた。
「30周年大会」が終わった後も、再び、マスコミの取材を受けていた。
「凄い展開になったな」と私は、ただただ驚いた。
そして、次の都知事選をめぐり、細川、桝添が声を上げ、宇都宮さんも出る。前回同様、私は宇都宮さん支持の集会にも行った。
ところが、さらなる驚きの展開があった。何と、元左翼の人たちを中心にして、「俺たちも都知事選に打って出よう」という動きだ。
それは面白い。選挙戦もさらに活性化し、論戦も〈我々のもの〉になるだろう。と思っていた。
ところが、その候補者が何と私だという。まさか?と思った。驚天動地とはこのことだ。
私は知らなかったとはいえ、「猪瀬問題」は一水会の代表がからんでいる問題だ。私なんか、立候補する資格はない。
「いや、右や左をまとめて、新しい運動を起こすのは鈴木しかいない」「今しかない。立て!」と言われた。「面白いんじゃない。やってみなよ」と面白がる人もいて、連日、説得されていた。
私は、ひたすら固辞していた。私が尊敬している人たちに言われたので、困った。でも、無理だ。やれない。私なんて、叩けばホコリだらけだ。
「こんなダーティな奴をなぜ立てたんだ」と皆も、バッシングされるよ。と言ったんだが…。
言ってくれた人たちは、私は好きな人だし、尊敬する人たちだ。
でも最後は仕方ない。その人たちと絶交し、殺されたとしても、固辞するしかないと、腹を決めた。
大事件は、思わぬ展開で起き、思わぬ勢いで進行、さらに自分も巻き込まれてゆく。ツヴァイクの小説のようだ。と思った。
1月18日(土)は岡山で、私は一水会結成時の話をした。
1970年に三島事件があり、昔の仲間たちが再度集まり、1972年に一水会を創った。
その運動が全国に拡がり、各地で入会する人が増え、支部も出来た。
一つの県で何人かが集まると、支部が出来るのだが、中には、それまで運動していた団体が、丸ごと一水会に入ることもある。
岡山の場合はそうだった。それまで「憂国青年連盟」というハードな運動をしていた若者の団体が、それを解散し、「一水会岡山支部」となって、参加したのだ。
この「岡山支部結成30周年大会」の初めに、「岡山一水会30年」の歩みがスライドで上映される。
驚いた。皆、戦闘服を着た若いハードな人々が集まっている。一見、暴走族のようでもある。
だが、「岡山新空港反対!」「美しき山河を守れ!」と叫んで過激なデモをやり、警察官と衝突し、逮捕者を出している。
中央の一水会本部はさらに過激で、全員ヘルメット、角材等で、デモをしている。
米大使館などに火炎瓶を投げ、何度もガサ入れ、逮捕されている。
そのうち、「赤報隊事件」や、「内部粛清事件」が起こり、組織は壊滅状態になる。
又、イラクには、軍服姿で一水会の若者たちが乗り込む。「義勇兵として闘いたい!」と言って。
2000年には、一水会代表が私から木村氏に代わり、急に運動は大きくなる。世界的規模の運動になる。
ヨーロッパの右派政党のリーダーたちを呼んで、「愛国者世界平和大会」を開催したりした。
「世界」に目を向けた、世界的な組織になったし、世界的な運動になった。私が代表をやってる時は、とてもこんなことは考えられなかった。
スライドを見てたら、昔の私は、やたら過激だ。何度も捕まっている。後輩たちにも、過激にハッパをかけている。
「命懸けの闘いをやれ!」「逮捕なんて男の勲章だ!」「君らは“革命マシーン”になれ!」とアジっている。〈人間〉をやめて、〈機械〉になれ!と言ってるのだ。
岡山では、そんな昔の映像に刺激され、「闘う日々」の話をした。
又、1960年代後半の右派学生運動の話もした。当時は、かなり団体もあり、〈反全共闘〉ということで、一緒に共闘することも多い。
でも、全共闘が力を失うと、右派学生運動も衰退し、内部分裂、内ゲバを始めた。
その中で、私も、組織を追われる。「運動が伸びないのは、鈴木のような腐敗、堕落したリーダーがいるからだ」「こんな無能なリーダーは追放しろ!」と言われて追放された。
でも、そんな中にあって、ずっと生き延びた活動家もいた。他の団体に移ったり、自分で団体を作り…と。団体を渡り歩く人間もいた。
そんな人間に対し、よく、「あいつは、フーシェのような奴だな」と言っていた。
「ツヴァイク全集」(全21巻)の中に、「ジョゼフ・フーシェ」の巻がある。それを読んだ奴が言ったのだ。又、「フーシェのような奴だ!」と言って、皆、理解していた。
それだけ、(左だけでなく)、右派学生の間にもツヴァイクは読まれていたのだ。
ちなみに、フーシェは、フランス革命の激動のさなか、「昨日の友は今日の敵」で、次々と殺されてゆく。激動、流血の日々に、不思議に、スルスルとその敵、味方の間をくぐり抜けて生き残った人間だ。
そんな不思議な、奇跡的な人間をツヴァイクは書いている。
1月18日(土)は、岡山支部集会で、昔の私の過激な活動を思い出して話をした。
翌、19日(日)は、直島に行った。昔は何もない島だったのに、今は、一躍、「アートな島」として全国に知られるようになった。「劇的ビフォー・アフター」だ。ベネッセと協力して、凄い美術館やホテルが建てられ、道は舗装され、島は大改造された。
瀬戸内海の他の島々も大変身し、「アートな島々」が出現した。そこを見たのだ。
案内してくれた昔の仲間は、すでに80才。でも、50才も年の離れた恋人が出来たというし、元気一杯だ。
「鈴木さんも頑張って下さいよ。これから子供を作って!」と励まされたが…。私はダメですよ。もうアガっているし。と言いながら、元気の素、秘訣を聞きました。
それは『紙の爆弾』で対談してもいいな。
1月19日(日)の夜、東京に帰り、朝まで原稿。本を作るのが6冊ほど並行してやっている。その校正もあるし、寝ないでやった。
そして、翌、20日(月)は、札幌に行く。柏艪舎で本を出す企画があり、その打ち合わせがある。又、21日(火)に「時計台シンポジウム」があるし…。
本当なら、当日行けばいいのだが、今は冬だ。急に飛行機が飛ばないことがある。「だから、1日前に来て、控えていて下さい」と言われたのだ。それに、主催者の柏艪舎とは次の仕事の打ち合わせもあるし…。
柏艪舎の可知さんに取材されていた。その時、彼女の携帯が鳴る。パッと見て、「あっ、知らない人だから」と言って、出ない。
「あっ、ダメだよ。私への連絡だから」と言って、出てもらった。
前の夜、原稿を送ったとこや、連絡をしていた人々に、「2日間、札幌にいるので、用事があったら、ここに電話してくれ」と、柏艪舎の人の携帯を教えておいたのだ。
おかげで、しょっちゅう、連絡が来る。「ゲラを送りたいんですが、会社にしますか」と言われたので、ホテルに送ってもらうことにしました」と言う。
時計台シンポジウムのあと、夜中、ホテルで校正し、そして、戻した。忙しい。
23日(木と)からは、学校も始まるし、その予習もしていた。
札幌は大雪だった。これじゃ人が集まらんのじゃないかな、と思っていたら、超満員。
元北海道の警察のトップで、「裏金問題」で内部告発をし、大事件になった。その張本人の原田さんがゲストで来てくれたからだ。
この機会だからと思い、私も警察の話を突っ込んで聞いた。
凄い闘いをやってきた人だ。おとり捜査、公安、拳銃、麻薬の話が次々と出てくる。
原田さんの本を読んでも思うが、まるでサスペンス小説を読んでいるようだ。ツヴァイクの小説のようだ。
でも、小説ではない。全ては現実にあった話だ。背筋の凍る話が多い。
この日は、飛松五男さんも聞きに来てくれた。わざわざ姫路から来たのだ。
原田さんも驚いていた。「一言、言ってくれればいいのに」「いや、驚かそうと思って」と言っていた。
飛松さんも、〈衝撃的な事実〉を次々と報告してくれた。
だから、この日に聞きに来た人は幸せだ。他では絶対に聞けない話を聞けたのだし。
これじゃ、私の今の生活もツヴァイクのようだな、と思った。(昔の、命懸けで闘っていた非合法活動の日々も十分にツヴァイク的だが)。
そして、1月22日(水)、東京に帰った。前の夜も、仕事をしていて、ほとんど寝てない。
でも、ツヴァイク的な日々の人生を考えていたら、頭が冴えて眠れない。「時効」になった事件の数々についても書かなくちゃいけないな。
どんな形で書こうか、と思っていた。眠れないし、まず、本でも読もう、と思った。
今年は随分と本を読んでいる。忙しいけど、その間をぬって、移動の乗り物の中で読んだり、駅のベンチで読んだり。
児玉清の『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)を読み始めた。児玉さんは、もの凄い読書家だ。それも、原書で読む。日本で翻訳本が出るのが待てないのだ。
一度、会って話を聞いてみたかったと思う。残念だ。
この児玉さんの本を読んでいたら、子供の時から、本好きの少年だった、と書かれている。
物心ついた時から、毎日、日課のように本を読んできた。まさに「寝ても覚めても」だ。
でも、後に、本格的な「本の虫」になり、原書を買って、一気に読むようになったのは、なぜか。
何と、ツヴァイクの影響だという。驚きましたね。ツヴァイクのことを考えていたら、向こうから、ツヴァイクがやってきたんですね。
私には、超能力があるのでしょうか。いやいや、不思議な力に、私はただただ引き寄せられてるんですよ。
そういえば、札幌でホテルに2泊したが、一階の大部屋で、「魔女たちの集まり」をやっていた。
何だこれは、一流のホテルでこんなことをやっていて、いいのか。そう思って、覗いてみた。
魔女のようなオバさんたちが沢山集まっていた。タロット占いや、水晶占いをやったり、食事したり。又、いろんな不思議グッズを売ってたり…。不思議です。
あっ、話が脱線した。児玉さんの本だ。こう書いている。
〈僕が翻訳物、所謂(いわゆる)外国小説に憧れるようになった直接の原因は、高校時代に遭遇したS・ツヴァイクの『マリーアントワネット』『ジョゼフ・フーシェ』『アモク』『人類の星の時間』といった一群の小説にある。ツヴァイクのテーマであったデーモンにしびれ、人生の不可思議、人間の運命、宿命といった超自然の力、理性を超えた魔力ともいえる神秘な力に心を深く抉(えぐ)られ、すっかり虜(とりこ)になってしまったのであった〉
そうだったのか。ツヴァイクを読んだために、本好きになり、西欧への憧れが芽生え、大学の独文科へ進む原動力になったという。
私も「ツヴァイク全集」(全21巻・みすず書房)を読んで、世の中の見方が変わった。そして、ノルマ式読書をやってでも大量の本を読もうと決心した。
さらに、人生もツヴァイクの小説のように、急転し急変した。毎日がドラマになった。特に、「権力とたたかう良心」には衝撃を受けた。ものの見方が変わった。
だから皆も、ツヴァイクを読んだらいい。本の読み方が変わる。人間の生き方が変わる。
原田宏二さんはもう来ていた。飛松さんを見て、「どうしたんですか?」とビックリしていた。「原田さんの話を聞きに来たんですよ」と飛松さん。
そして時計台へ。6時からスタート。原田さんの話は熱い。皆、引き込まれて聞いていた。
そのあと、2人でトーク。時々、飛松さんが「解説」を入れてくれる。豪華なシンポジウムになった。
そのあと、質疑応答。サイン会。そして打ち上げ。
「こんないい会場とは思わなかった。毎回来たい!」と飛松さんは大感激。そうですね。築150年の趣のある建物だ。
その実父の闘いを引き継いだ武彦氏は、平沢氏の養子となって、「平沢武彦」となり、闘いを続けた。
その武彦氏が「孤独死」した。当日の案内状にはこう書かれていた。
〈残された私たちが彼にしてあげられること。それは帝銀事件という権力の犯罪を後世にしっかり語り継ぐこと。そして、平沢貞通氏の無実を信じて人生の全てを費やした森川哲郎・平沢武彦父子の業績を心に刻み、第20次再審請求につなげて行くことだと確信しております〉
全国から多くの人たちが駆け付けました。私も「呼びかけ人」になっていたので挨拶しました。
⑯1月17日(金)参議院議員会館で。アントニオ猪木さんに取材しました。前日、北朝鮮から帰国したばかりです。テレビ局の取材がギッチリと詰まっている中を、無理を言って(レコンキスタのために)、時間を取ってくれました。
㉔原田さん(左)。佐藤千歳さん(右)。千歳さんは、北海道新聞北京支局長でした。
私は北朝鮮に行った時、北京に寄り、ごちそうになりました。又、三島由紀夫の中国語版『奔馬』を探してくれました。千歳さんは今は、北海商科大学の准教授です。