たかじんさんのお別れ会が2月3日(月)、リーガロイヤルホテル大阪で行われた。
〈TAKAZIN MEMORIES 2014 あんたのことがichizuに やっぱり好きやねん〉
というのが、このお別れ会の名前だ。
6時半から始まった。大ホールが満員。
この時間は招待客のみ。たかじんさんの友人、テレビに出てた人などだ。
私は、「たかじんのそこまで言って委員会」に何度か出た。
しかし、東京・関東圏では放送しない。反東京への反骨・反逆精神だろう。
東京では見れないという〈飢餓感〉があって、かえって人気は急上昇。DVDも売れ、ネット放送もされた。
それこそ、そこまで言っていいのか、やっていいのか、という過激、衝撃的な放送で、タブーを破り、激論が闘わされた。
司会も際だっていたし、たかじんさんでなければ、とても出来ない。
お別れ会は、冒頭、たかじんさんの生前の活躍が映像で紹介される。
食っていけない若い時代。そして歌手として大ブレーク。さらにテレビの司会。
次々とヒットし、驚異的な視聴率を取り続ける。テレビ界に次々と奇跡を起こす。
しかし、64才で亡くなった。たかじんさんの映像の終わりは、こう締め括られていた。
「…そして、伝説になった」。
6時半からのお別れ会は、生前交流のあつた安倍晋三首相やビートたけしさんら10人の発起人と、在阪民放5社が共同で開催。辛坊さんなどが司会。
驚いたことに、この「夜のお別れ会」の前に、昼、一般の人向けの「お別れ会」が同会場で行われたという。辛坊さんが発表していた。
そこには何と、3700人が参列して、別れを告げたという。ホテルのロビーには、終わっても帰らずにいる一般のファンが大勢いた。
この日は、政治家、言論人、タレント、スポーツ選手…など、多くの人たちが挨拶した。
「そこまで言って委員会」の人たちは集まって下さいと言われたのが、午後8時半。
田嶋陽子さん、宮崎哲弥さん、勝谷誠彦さん、飛松五男さん、百田尚樹さん…などが集まる。そして、一言ずつ、お別れの言葉を。
それが終わったのが8時50分近く。会はまだまだ続く。私は、あわててタクシーに乗り、新大阪へ。9時20分発の終電に乗って、帰京しました。
次の日、3月4日(火)は、元全学連委員長・唐牛さんの追悼集会だ。
「没後30年。唐牛健太郎を問う」講演会および懇親会。午後2時から、憲政記念館だ。
さらに、3月5日(水)は12時から、西垣内堅佑(にしがいと・けんすけ)さん(弁護士)の告別式。
72才で亡くなった。昔からの知り合いだし、随分とお世話になった。
2月の末は、25日が「竹邑類さんをしのぶ会」。(三島由紀夫『月』のモデル)。
26日は、辻井喬さん(堤清二さん)のお別れ会。
お葬式や、お別れ会が続いた。皆、時代をつくり、駆け抜けていった人々だ。一代の風雲児だ。残念だし、悔しい。
ただ、こういう人たちと同じ時代に生き、励まされたことは幸せだったと思う。
では、3月3日(月)のたかじんさんのお別れ会に戻る。
6時頃に着いたら、「控えの間」に案内された。そこが又、広いホールだ。
たかじんさんの写真や、本や、使っていたものなどが展示されている。各界のビッグな人たちが次々と集まって来る。
そして6時半に、会場に案内される。こんな広いホールがあったのかと驚いた。
松尾貴史さんが、「前もここで会いましたね」と言う。たかじんさんの還暦祝いをやったという。
あっ、そうか。私も出た。ここだったのか。「その時に、元共産党幹部の筆坂さんと3人で写真を撮ったんですよ」と言う。「私が真ん中で、右に鈴木さん。左に筆坂さん」。
そう言ってる時に、筆坂さんとも会った。「年末に、宮本顕治さん、宮本百合子さんのお墓参りをしてきました」と言った。
「エッ? どうしたの」と驚いていた。『東京人』という雑誌の企画で行ってきたんです、と話した。
「佐野学のお墓にも行きました」と言ったら、筆坂さんも佐野学は尊敬してると言う。何か、嬉しかった。
「私は佐野学全集を読んだんですよ」と言った。「転向」したと言われてるけど、違いますよ、という話をした。
元日本共産党にいた有田芳生さんもそばにいたので、その話をした。「じゃ、ぜひ読まなくちゃ」と言っていた。
宮崎哲弥さんは、「坂本龍一さんとの対談本、読みましたよ。とてもよかったですね。鈴木さんの考えがよく出ていたし、それに坂本さんの憂国の情をうまく引き出してるし」と。「すみません。送らなくちゃならないのに」と謝った。
宮崎さんは凄い読書家なんだ。ありがたいです。
田嶋陽子さんは、歌手として全国を回っている。「聴きに来てよ」と言われた。行きますよ。
番組では三宅久之さんとよく喧嘩してたが、でも、本番が終わると、一変する。とても仲良しなのだ。
「仲良しでなかったら、あそこまで怒鳴ったり出来ませんわ」と飛松さんが解説していた。
話題の人、橋下徹さんは前の方に座っていた。お久しぶりですと挨拶した。
「あっ、鈴木さん。久しぶり。この前は新幹線でバッタリ会いましたね」。
そうでした。せっかくだから写真を撮りましょう。と思ったが、頼めるような人がいない。それに会場は、「撮影禁止」なのだ。ホテルの人にも頼めない。
そしたら、松尾貴史さんが目に付いた。「ビッグな人にこんなこと頼んですみませんが」とシャッターを押してもらった。
「いいですよ、その代わり、“カメラ・松尾貴史”と、ちゃんと書いて下さいよ」。はいはい、分かりました。
松尾さんとは、以前、ロフトでよくトークしていた。岸田秀さんと3人で。
でも松尾さんは、テレビのワイドショーに出てるし、忙しそうだ。
「いえ、やりましょう。ロフトで」と言ってくれた。だから、近いうちに実現するでしょう。岸田さんとの三人組で。「三匹のおっちゃん」だ。松尾さんだけは若いから、おっちゃんにしちゃまずいかな。
百田尚樹さんは、今や、本が最も売れている作家だ。
『永遠の0』が出てすぐ私は読んだ。そして、北朝鮮に行った時、「よど号」グループにも買っていって、あげた。
すぐに読み、感動していた。「祖国への思い」は私ら以上に強い。望郷の念もあるし。だから、百田さんの小説には感動していたのだ。
その話をしたら、百田さんは喜んでいた。それに、「よど号」、日本赤軍、連合赤軍にも関心があるという。随分と調べている。ぜひ書いてほしい。
「革命ごっことか言われますが、彼らは〈戦争〉をやりたかったんでしょうね」と言う。
たしかに、革命戦争をやると言ってたし、赤軍、連合赤軍もそうだろう。名前からして、「軍隊」だ。そして革命戦争の中で、闘って戦死したいと思っていたのだ。
「じゃ、そんな話を、どこかでやりましょう」と言いました。
又、『海賊と呼ばれた男』の話もしました。
出光佐三がモデルだ。「先月、出光佐三さんの甥っ子さんに呼ばれて福岡に行って、話してきたんですよ」と言ったら、驚いていた。
出光さんは、実業家だが、本当に国のことを考えていた。経済だけではなく、若者を外国に留学させたり、美術館を造ったり、文化に金を使った。
今、そうした実業家はほとんどいないのではないか。百田さんとも、そんな話をした。
三宅久之さんの奥さんと息子さんも来ていて、挨拶していた。驚いたことに、息子さんは、そっくりだ。
ラモスさん、北芝健さん、それに一色正春さんにも会った。尖閣で中国船が体当たりするビデオを公開した人だ。石平さんたちにも会った。
「そこまで言って委員会」は、激論が展開され、なかなか喋れないが、そこで会った人たちは貴重だ。飛松さんとも、そこで初めて会ったし。
飛松さんとは、月末、たんぽぽ舎でトークをする。いろんな事件について、突っ込んで話をして、本を作りたいですな。
橋下徹さん、田母神俊雄さんとも、「たかじん」の番組で会った。
2人とも過激で、ズバズバ言うけど、私は好きですね。明るいし、ユーモアがある。時には極論を言って、「さあ、どうだ!」と問題提起をする。そのやり方は見事ですね。
たかじんさんを送る会については又、書いてみたい。
次の日の、「唐牛さん、没後30年」のことについて書く。たかじんさんは「そして伝説になった」と映像に出ていたが、唐牛健太郎さんも「伝説」になった人だ。
この人に初めて会ったのは1982年だ。一水会を作って10年目だ。我々もまだ、かなり危ないこともやっていた時だ。
右翼の白井為雄先生に、「草間さんのパーティがあるから行こう」と誘われて行った。
草間さんは情報誌を出していて、そこに、労働運動、左翼そして右翼の情報も載せていた。その席に、何と、唐牛さんが来てたのだ。
当時はデジカメもないし、私もカメラを持ってない。でも、こんな「伝説」と会ったのだ。感動して、そばにいた新聞記者に頼んで撮ってもらったのだ。
この時は感動して、「ぜひ一水会で講演して下さい」と頼んだ。「あっ、いいよ」と引き受けてくれて、実現した。ビデオを撮っておけばよかったのに、残念だ。歴史的な瞬間だったのに。
その時の話は、私の『新右翼』(彩流社)に詳しく書いている。〈新右翼の歴史〉の中でも、画期的な出来事だったと思う。
そうだ。『反逆の作法』(河出書房新社)では、私が影響を受けた人について書いたが、唐牛さんのことも書くべきだったな。と今は後悔している。本当に、一代の風雲児だった。
60年安保では全学連を率いて、国会突入をした。
その後、指導者として逮捕されるが、出所してからも、苦難の道を歩き続ける。
建設作業員をやったり、居酒屋をやったり、北の海で漁師をやったり。自分を追い込み、苛め、敢えて苦難を求め続けた。
〈自分の命令で国会に突っ込み、逮捕され、人生が大きく狂った人たちが多い。その人たちへの責任がある。その人たち以上の苦難を自分は引き受けなくてはならない〉
と唐牛さんは思ったようだ。大変な覚悟だ。そんな話を、じっくりと聞きたかった。
当日、参加した作家の佐野眞一さんは、唐牛さんの評伝を書くと言ってたし、期待したい。
唐牛さんは、右とか左とかを超えた人だった。とてつもなくスケールの大きい人だった。
この日、作家の長部日出男さんと、元文春の堤堯さんが記念講演した。堤さんは、唐牛さんの手記を出そうとして、随分と会ったという。今からでも遅くないから、ぜひ、まとめて出版してほしい。
それと、〈60年安保〉の敵だった岸信介首相と唐牛さんの対談を企画してたという。
これは凄い話だ。マスコミでは、岸はすっかり「悪者」にされてるが、アメリカとの関係を少しでも対等なものにしようと努力した、と言う。(孫崎享さんも、岸は対米自立派だと言ってた)。
唐牛さんは勿論、反米反ソの独立派だ。〈60年安保〉では激突したが、2人の胸中には、似たような対米自立のレジスタンスがあったのではないか、と言う。
この2人の対談が実現したら、日本中が驚いただろう。
唐牛さんは、やってもいいと言った。岸も、いいよ、と言ったという。
でも、出来なかった。残念だ。自分が勤めている雑誌社がダメなら、他に持ち込んでもいい。いや、単独で本にしてもよかったのに。ともかく、2人は会うこともなく、亡くなってしまった。
惜しい話だ。しかし、あるいは、実現しなくてよかったのかもしれない。この点は難しい。
会ったら、最初から最後まで喧嘩するわけにはいかない。理解する部分もあるし、ホロリとする場面もあるだろう。
60年に命をかけて闘い、傷つき、死んだ人もいる。その対談を読んで、「何だ、妥協しやがって!」「許せん!」と思う人も出るだろう。
だから、かつての〈敵〉同士が会って話すというのは、大変なことだ。自分たちの闘いの意味・歴史を全て壊すことになるかもしれない。
2人のリーダーは、会わないままの方がよかったのかもしれない。2人とも亡くなったんだ。そうとでも思うしかないだろう。
「あの時はこうだった」「実は、あの真相は…」と、語られることは意味はあるだろうが、かえって、闘っていたその〈時代〉を、小さく理解させることにもなる。皆、自分が「理解出来るレベル」に落として、分かろうとする。
それではダメだろう。我々の〈理解〉を超えた世界があったのだ。理解を超えた人々がいたのだ。素直に驚いた方がいいだろう。電車の中で、スマホで見て、「あっ、そうか」と簡単に理解してもらいたくない。そんな気がする。
そうだ。「のりこえねっと」で安田浩一さんと対談した時だ。
2月26日(水)の夜だ。ネトウヨや、日本の右傾化の話をした。そして最後に、『アンネの日記』の話を安田さんがする。
全国の図書館や書店で、この本や、関連する本が破られている。どう思いますかと聞くので、「許せないですね。ネトウヨ的な時代の風潮に背中を押されてやったんでしょう」と私は言った。
それに、私も特別な思い入れのある本だ。感動して読んだし、2003年には、アンネの家に実際に行った。
2003年にイラクに行ったが、その帰り、アムステルダムで乗り換えがある。5時間ほど時間があったので、他の一行は勝手にいろんなとこへ行く。
「マリファナ喫茶に行こう」「飾り窓の女を見に行こう」と。
パンタさん(ミュージシャン)と私の2人は、「絶対、アンネの家に行こう」と、行った。
思ったより大きな家だった。ここに潜んでいたのですという屋根裏部屋も見た。我々の他にも多くの外国人がいた。日本人は我々だけだった。そのあと、ゴッホ美術館に行った。
そんなこともあったので、とりわけ、『アンネの日記』を破る人間は許せないと思った。
そんな話をしたら、安田さんが唐突に、「犯人は誰ですか?」と言う。
「えっ、分かりませんよ」と言った。
「案外、知ってるんじゃないですか。知ってても、権力に突き出すのはしたくない。鈴木さんはそう思ってるんでしょう」と言う。
ギクッとした。「赤報隊や、他のいろんな事件もそうだし」と言う。
再び、ギクッ、ギクッだ。他にも未解決事件がいろいろある。テレビでもよく、検証番組がある。
でも、その動機、犯人を知ってしまって、「こんなことか」と、軽くスマホを見て「理解」されるのも嫌だ。
スマホなんかで理解出来ない、大きな、衝撃的な事件なんだよ。そう思う。
それをリアルに伝えるだけの表現力が私にはない。それだけの覚悟もない。
唐牛さん、たかじんさん、西垣内さん、竹邑さん、辻井さん。…そうした覚悟の人。反逆の人。風雲児の生き様を見るにつけ、痛切に、そう思う。
〈TAKAZIN MEMORIES 2014 あんたのことがichizuに やっぱり好きやねん〉
凄い人だった。昼は一般の人のお別れ会があり、3700人がたかじんさんにお別れをした。6時に着いたら、その人たちがまだロビーに残っていた。
控え室には、たかじんさんの愛用の品々、本、DVDが展示されていた。出演した多くの人たちに会った。
6時半から始まり、8時40分頃、私も挨拶。すぐ出て、最終の新幹線に乗って東京に帰った。お別れ会は、9時過ぎまで続いたのだろう。言論人、政治家、それに、オール阪神・巨人。トミーズ雅さんなど芸能人も多かった。
①3月4日(火)やしきたかじんさんのお別れ会。午後6時半、リーガロイヤルホテル大阪。
〈TAKAZIN MEMORIES 2014 あんたのことがichizuに やっぱり好きやねん〉
ヒット曲を歌うたかじんさんの映像が流れた。その後、司会をやり、次々とヒット番組を生み、そして「伝説になった」。
⑦明治天皇の玄孫・竹田恒泰さん、そして飛松五男さんと。「華原朋美さんとの結婚式には、ぜひ呼んで下さい」と竹田さんに言ったら、笑ってました。竹田さんとは2003年に一緒にイラクに行ったんですよ。元皇族としては、勇気があります。
⑭唐牛健太郎さんの写真の前で。私は1982年に会ってます。その時の写真はこのHP(去年7月の墓前祭)に載ってます。一水会の勉強会にも来てもらって講演してもらいました。「右翼の集会で講演するなんて初めてだよ」と言ってました。
⑱小野田襄二さんとも久しぶりに会いました。学生運動の大幹部だった人です。ジャナ専(日本ジャーナリスト専門学校)の講師をしていて、そこで私もご一緒させてもらいました。型破りな先生で、生徒に慕われていました。そのジャナ専も今はありません。淋しいです。
⑳3月5日(水)12時より、用賀で、西垣内堅佑(にしがいと・けんすけ)さんの告別式がありました。72才。
私はとてもお世話になりました。弁護士さんですが、縄文の研究をやったりしてました。塩見孝也さんの弁護士でもあります。
㉓久しぶりに会いました。栗本慎一郎さんです。元大学教授。元衆議院議員。一度、倒れられたんですが、リハビリをやって回復。元気でした。今の名刺には、肩書きは(NPO法人 神道国際学会会長)と書かれてました。