『回想・寺山修司=百年たったら帰っておいで』(角川文庫)を読んだ。
寺山の元奥さん、九條今日子さんが書いた本だ。いい本だ。
九條さんはSKD(松竹歌劇団)で活躍し、松竹映画に移り青春スターとして活躍。
「九條さんのファン」だった寺山修司と出会い結婚。67年、「天井桟敷」をともに設立し、制作を担当。離婚後も劇団運営に従事し、寺山亡き後も、その遺志を継ぎ、精力的に活動を続ける。
青森県にある寺山修司記念館の名誉館長も務めていた。
寺山が亡くなって31年。寺山は偉大だ。天才だ。
「でも、死後、どんどん大きくなった」と中森明夫さん(評論家)は言っていた。
劇団を支え、寺山をプロデュースし続けてきた九條さんの力があったからだ。と中森さんは言う。
その九條さんが亡くなった。78才だった。
5月4日(日)、午後5時からお通夜が行われた。信濃町の千日谷会堂だ。
多くの人が参列していた。式が終わった後も、一般の人やファンの人の長蛇の列が、九條さんに最後のお別れをし、献花しようと、会館の外にまで溢れて並んでいた。
お通夜から帰ってきて、九條さんの本を読んだ。
寺山修司の本も読み直している。高取英さんの「月蝕歌劇団」などで寺山の芝居はかなり見てるつもりだった。寺山の遺伝子を継ぐ演劇人も多く知っている。
でも、何も知らなかったんだ私は。寺山の全ての本を読み、全ての演劇、映画を見てみよう。そう思った。
寺山の〈世界〉は、かなり知ってるつもりだったが、九條さんと会ったのは1回だけだ。それも、亡くなるほんの前だ。まさに一期一会だ。
2月17日(月)、阿佐ヶ谷に月蝕歌劇団の芝居を見に行った。終わって、高取さんに誘われ、駅前の店に行った。
そこに、いろんな人が集まって来た。今の芝居を見終わった人だ。
中森明夫さんがいた。劇団の人、編集者の人、ライターなどがいた。そして、九條今日子さんがいた。
あの伝説的な人だ、と思った。レジェンドだ。中森さんも初対面だと言う。寺山修司の話で盛り上がった。
九條さんは78才だというが元気だった。お酒も飲んでいた。
ところが、その2ヶ月後に亡くなった。そしてお通夜。
それから、九條さんの本や寺山の本を買い込んで、今、読んでいる。
『回想・寺山修司』の表紙にはこう書かれている。
〈公私ともに無類のパートナーとして支えた著者が振り返る。演劇界の貴重な回顧録であり、深い絆を描いたエッセイ〉
そうですね。演劇界の貴重な歴史だし、証言だ。普通の夫婦なら、別れたらもう一生会わない。そんな夫婦が多い。
ところが、離婚後も、2人は共に演劇の世界で活躍する。
又、寺山の死後、九條さんが、演劇、詩歌、本、映画などを管理し、寺山修司記念館の名誉館長を務めてきた。
そのおかげで、寺山は死後、更に、どんどんと大きくなり、世界に知られ、メジャーになった。
寺山の遺伝子を継ぐ劇団も次々と生まれ、多くの作品が上演された。
寺山の本は、今でも若者たちに圧倒的な人気がある。九條さんの力が大きい。
『回想・寺山修司』の「解説」を書いている萩原朔美は言う。
「一度、離婚した相手の仕事を、最後までサポートするのは並大抵ではない。距離を感情抜きで維持しなければならないからだ。こういうスタイルこそが本当の比翼の鳥、連理の枝というものかも知れない」
それにしても…と思う。別れた後まで、どうして仕事をサポートしてやったのか。出来たのか。萩原もそんな疑問を持つ。
「それにしても、と思わざるを得ない。どうして九條今日子という人は、離婚後別の生き方を選択しなかったのだろうか。何がそうさせない決定的な要因だったのだろうか」
天才・寺山の引力なのか。別れても、その仕事を手伝いたいと思わせる「大きな仕事」だったのか。
いや、〈表現〉の問題だと、萩原は言う。
〈表現というのは飢餓だ。他人との埋められない溝に対する寂寥(せきりょう)。自分の夜見た夢を他者に説明できないもどかしさ。コミュニケーション言語ではどうしても伝えられない事柄を前にした時、人は表現に活路を見出すのである。寺山さんと九條さんとの共通項はこの飢餓感ではないだろうか〉
そうなのか。夫婦関係を超えても、同じ「表現者」としての飢餓感を共有していたのか。
寺山の死後、寺山をプロデュースして寺山をさらにビッグにしたのは九條さんだ。と中森明夫氏は言っていたが、もしかしから、生前から寺山修司をプロデュースしていたのかもしれない。
萩原は言う。
〈表現への傾斜は、九條さんがそもそも松竹歌劇団に身を投じたことから始まったと言える。彼女はすでに十代で受け手の人生ではなく、送り手側に籍を置いたのだ。離婚したぐらいで、すぐ受け手に舞い戻ることなど身体感覚が許さないだろう〉
九條さんは「寺山修司」という夢を人々に向かって送ったのだ。離婚後も。寺山の死後も。
これは送り手、演劇人、表現者としての「業(ごう)」だ。もっときれいに言えば、使命感、義務かもしれない。
寺山は死ぬ前に医者にこう言ったという。
「今、45才だけど、あと5年間は演劇をやりたい。その後、10年間は文筆一本にしぼる。だから、とにかく60才まで生かしてほしい」
しかし願いは叶わなかった。47才で死んだ。
しかし、死後も成長し続けている。寺山は不滅だ。不死だ。
『回想・寺山修司』のカバーには、こう書かれている。
〈幸せでした。恋と結婚。そして永遠の別れ…
天才の遺志を継ぐ私の人生。〉
この本は、2005年10月、デーリー東北新聞社から刊行され、2013年4月に、角川文庫になった。
その「あとがき」に九條さんはこう書いている。
〈私は本来楽観主義者なので、本当は辛かったことや悲しかったこともあったはずなのに、「あー楽しかった!」と言って静かにフェードアウトしたいものだと考えている〉
いいですね。本当は、「聞いておけばよかったのにと思うことがありすぎるほどだけど」と言う。
そうでしょうね。寺山の死の47才は余りに若すぎる。
九條さんにとって寺山は「師」であり、「兄」のような存在。いや、「同志」だったのだろう。
でも年は九條さんの方が1才上だ。寺山は時には、やんちゃな「弟」のように甘えたのだろう。
最近、腰痛を患い、部屋の掃除に頼んだ女性が九條さんに言ったそうだ。
「寺山さんて(私のこと)、もしかしたら寺山修司さんのお母さんですよね?」
これにはショックだったようで、一日寝込むほどだったという。酷いよね。九條さんに向かって、「お母さんですよね」はないでしょう。
〈彼女は慌てて「お姉さんでした?寺山修司さん若くして亡くなったのですよね」
寺山がたとえ元気でいても、もう喜寿になっているのと、改めて早く逝ってしまったことへの悔やみがわいてくる。四十代の寺山の写真の前では、もう何も喋るのをよそうと思う〉
でも、自由奔放に生きた寺山だ。我が儘に表現活動をした寺山だ。
道を歩いている時に、突然大声で叫んでみたり、突然、走り回ったり、いきなり、町を歩く人々に演説してみたり。突飛な行動があったらしい。
道に迷って私有地に入りこみ、住民の通報で警察に捕まったこともある。「覗き」の嫌疑をかけられて…。
大きくなっても、腕白少年だ。子供だ。不良少年だ。
九條さんも、「いけない子ね。子供よね」と思ったことも多かったようだ。そんな時は「母」になっていたんだ。
九條さんのお通夜で、「ここ前に来たことがある」と思った。
デジャブではない。そうだ。景山民夫さん(作家)の葬儀だった。
「この前、来た」と、近くにいた康芳夫さんに言った。
「“この前”じゃないよ。もう20年も前だよ。私も来たよ」と言う。この千日谷会堂だ。
景山さんは人気作家だったが、「幸福の科学」に入り、いわば「広告塔」のような存在になった。歌手の小川知子さんもそうだった。
私は、プロレスの取材で景山さんと会い、それからよく会うことになった。
景山さんはプロレスの大ファンで、「ひょうきんプロレス」では自分もプロレスラーになり切って、闘っていた。
とてもいい人だし、面白い人だった。
景山さんに誘われて、「幸福の科学」の集まりにもよく行った。でも、「入信しなさい」などと言われたことは一度もない。
よく、奢ってもらった。何度か対談した。突然の事故で亡くなり、この千日谷会堂でお葬式が行われた。
その時、奥さんが挨拶していた。
「景山は私の師であり、父であり、兄でした。多くのことを教えてもらいました」
そうだろうな。偉大な作家だった。今、読んでも面白いし、映画になった作品もある。
続いて、奥さんは言う。
「同時に、景山は私の弟であり、子供でもありました」。
エッ!と思った。子供って何だ!「ママ!」と言って、甘えたのかな。赤ちゃんプレーをしたのかな、と、妄想が湧き、気持ちが掻き乱された。
たとえ年下の奥さんでも、夫のことを「まるで子供ね」「いい年をして…」なんて、思う時があるのだろう。九條さんも荒れた頃の寺山を見て、そう思ったに違いない。
もう一つ思い出した。月刊『創』(今出ている。5・6月合併号)にも書いたが、フランスの「国民戦線」の話だ。
日本では、「極右政党」と紹介されることが多い。ルペンさんが党首だったが、今度、娘のマリーヌ・ルペンさんが新しい党首になった。
パパ・ルペンさん、娘さんには私も何度か会っている。
2003年、国民戦線30周年大会に招待され、木村三浩氏(一水会代表)と共にフランスのニースに行った。
その時、ルペンさんは我々2人のために時間をとってくれ、3人だけで、じっくり話をした。
三島由紀夫のことや、武士道の話をルペンさんはする。
驚いた。会場には娘さんのポスターも貼られていた。次は、娘さんになるのかと思っていた。
今、娘さんに代わり、かなり、「極右色」を薄めている。
マリーヌさんは、弁護士だし、人権派だ。又、バツ1だ。そして今は、別の相手と事実婚だ。
「開かれたナショナリズム」の持ち主だ。
それで、支持率もグングン伸びている。
最近の「国民戦線」の状況を聞いた。3月22日(土)だ。
下北沢で、畑山敏夫さん(佐賀大学教授)の講演を聞いたのだ。「欧州極右・仏国民戦線・ルペン」と題した講演だった。
畑山さんはルペンさん親子に何度も取材しているし、本も出している。「日本で一番ルペンさんに詳しい方です」と主催者の及川健二氏に紹介された。
今、「国民戦線」は、マリーヌさんの下で、急激に伸びているという。
そして畑山さんから興味深い話を聞いた。
この躍進する「国民戦線」の書記長は、実は、マリーヌさんの別れた夫だという。
驚いた。普通、別れたら憎み合って、「一生会うものか!」と思う夫婦が多いのに…。
と思ったら、畑山さんは言う。
「夫としては失格でも書記長としては有能なんです」。
日本じゃ、こんな事はないよ。スキャンダルで潰されちゃう。
「夫として失格」だったら、人間としても失格。全てに失格。生きていく資格はない…と思われちゃう。
その前に、週刊誌やテレビのワイドショーで叩かれ、葬り去られる。
その点、フランスは凄い。人間を小さな尺度で見ない。
「じゃ、今マリーヌさんが事実婚している夫は何をしているんですか」と私は畑山さんに聞いた。
「国民戦線の幹部をしてます」。
これも驚きだ。マリーヌさんは、元夫と今夫の2人に支えられて党を引っぱっているのか。凄い。日本じゃ、あり得ないよ。そう思った。
でも、寺山修司がいたか。「夫としては失格」でも、〈表現者〉としては天才だった。
又、それを受け入れ、支える人々がいた。そんな話も、沢山聞いてみたかったな。九條さんに…。と思ったが、何とも残念だ。
③康芳夫さん、篠田正浩さんと。康さんは、怪人です。「呼び屋」です。アリvs猪木戦を仕掛け、ネッシー探しの探検隊を組織し、「人間か猿か」と騒がれた「オリバー君」を日本に連れて来た人です。沼正三の『家畜人ヤプー』を出版し、三島由紀夫もこれは絶讃してました。
康さんの出版社に「楯の会」の森田必勝氏たちがバイトに行ったこともあります。私も昔からのお付き合いです。篠田さんは「ゾルゲ」などで知られる映画監督です。去年までは早大で教えていました。九條今日子さんの出演した『乾いた湖』は篠田さんの監督作品です。
⑥九條今日子さんとは今年の2月17日(月)に初めてお会いしました。それが最後になってしまいました。残念です。
左端が九條今日子さん。中央が中森明夫さん。右端が「月蝕歌劇団」の高取英さんです。
この日、「月蝕」のお芝居を見に行って、その打ち上げで、九條さんを高取さんから紹介されました。九條さんは元気で、お酒も飲んでました。それなのに…。
⑫スカイツリーの建物・スカイツリータウン・ソラマチの中の郵政博物館では、現在、「蕗谷虹児展」が開かれています。5月25日(日)までです。蕗谷虹児は大正から昭和にかけて、少女雑誌の挿絵や表紙絵などで活躍。当時の少女たちを魅了しました。
実は、三島由紀夫が自決の2年前に作った限定豪華本の表紙、挿絵も描いてます。『岬にての物語』です。三島のお母さんが熱烈な蕗谷ファンで、そのため、「最後の親孝行」のつもりで蕗谷に頼んだようです。その経緯を、蕗谷の三男・龍夫さんに聞きました。
5月3日(土)は、その蕗谷龍夫さんのミニ講演会もあるというので、聞きに行きました。右が龍夫さんです。父・虹児の描く「花嫁」と一緒に写真を撮りました。
⑮『少女画報』(昭和8年12月号)の表紙です。モデルは奥さんの龍子さんだそうです。
『少女画報』の字も、一つ一つ、デザイン化しています。
龍夫さんが教えてくれました。ハートやダイヤで字を作ったり、「報」の字は、(キューピットの)矢が龍子さんに向けられています。
この本が12月で、発行後すぐ、12月20日。2人は婚姻届けを出してます。人生も美しい絵にしています。
⑳女子柔道の溝口紀子さんと対談しました。『紙の爆弾』(6月号)です。
溝口さんは92年、バルセロナオリンピックで銀メダルを獲りました。女子柔道の問題点を歴史的に掘り下げた『性と柔』(河出書房新社)を書いてます。
現在、静岡文化芸術大学准教授。話は面白かったし、とても勉強になりました。
㉑原稿を書いていて疲れたので、落合のあたりを散歩してました。そしたら、あったんですね。前のアパートが。
みやま荘に移る前に住んでました。新宿区上落合です。左の狭い階段を上がって、2階です。六畳一間で、トイレ、洗面所は外。風呂はないので、近所の銭湯に行きました。
2階なのに本が多すぎる。公安が聞き込みに来る。学生時代の友人が洗濯機を借りにきて、洗濯をしてる時に、ホースを外してしまい、水が全部下の大家さんの部屋に落ちる。主にその事件のために「出ていってくれ」となりました。
ともかく、ご迷惑をかけました。ありがとうございました。