「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。ドイツのビスマルクの言葉だ。
ズバリと本質を衝いている。と思った。愚かな人間は、自分の小さな体験からしか学ばない。
お母さんは、子供にクドクドと説教する。「勉強しないとお父さんのようになるよ」と。そうなっては大変だと、子供は勉強する。
「いつまでも弾圧されたら大変だ。方法を変えよう」と、政治運動の活動家たちも考える。
皆「体験」から学ぶ。別に悪いことじゃない。
しかし、それではダメだ。もっと、広い視野で、〈歴史〉全体から考える。そう言うのだ、この格言は。
しかし、〈歴史〉は、実は客観的な正義ではない。又、完結したものでもない。今も続いている。
又、時の権力によって「作られた」ものだ。たとえば、明治時代になって豊臣秀吉は英雄になったし、〈物語〉は出来た。
江戸時代は、秀吉はいなかった。だって、豊臣秀吉の一族を滅ぼして、徳川の世になった。徳川時代になった。だから、豊臣は「滅ぼされるべくして」滅んだ。「旧悪」だった。徳川300年を通し、豊臣は旧い悪であり、タブーであった。
ところが、明治時代は違う。徳川を滅ぼして、明治維新は出来た。自分たち(薩長)が倒した「賊軍」(徳川軍)は徹底的に罵倒した。
又、その徳川に対抗した豊臣は、〈英雄〉として甦った。「日吉丸物語」も、明治になって、流布した。
そして、明治は、徳川の幕臣や、徳川の体質を色濃く持ったものを疎外し、弾圧した。
又、新政権になった薩摩、長州、土佐の人間だけが、〈歴史〉の表舞台に登場した。そして華々しく活躍した。どうしても、そうした面に我々の目は向きがちだ。
だが、徳川時代には実は、優秀な幕臣たちがいたのだ。
又、彼らが築いてきたものがあったから、明治も成功した。
前にも紹介したが、星亮一『明治を支えた「賊軍」の男たち』(講談社+α新書)は、そんな人々について書いている。
「男たち」だけではなく、新島八重さんのように、「賊軍の女たち」もいた。
この本の帯には、こう書かれている。
〈逆境にあって生き抜く!日本人の肚の据え方!〉
〈逆賊として差別される旧幕府陣営。幕末から明治へ。不屈の魂がつくりあげた近代日本!〉
〈貧困、冷遇、嘲り、敗北をはね返した実例10人!〉
その代表的な「実例10人」とは、この人たちだ。
①渋沢栄一
(徳川将軍の家臣から日本財界のトップへと上り詰めた真の経済人)
②福沢諭吉
(下士出身。超個性派が海外視察三昧で慶應義塾を開く)
③榎本武揚
(世界を見て回った幕臣随一の秀才。五稜郭敗戦ののち、蝦夷島政府総裁となる)
④原敬
(薩長藩閥政治に鉄槌を下した名宰相)
⑤山川健次郎
(東大総長となった白虎隊士)
⑥後藤新平
(東京を作り直した水沢の腕白少年)
⑦藤原相之助
(官軍参謀を糾弾した気骨のジャーナリスト)
⑧内藤湖南
(東洋史学の大家。薩長官製の維新史を強く批判)
⑨野口英世
(「おれは会津のサムライだ」が口ぐせだった世界の医聖の心意気)
⑩朝河貫一
(無謀な侵略戦争に反対し全米で尊敬を受けた学究)
凄い人たちばかりだ。「朝敵!」「国賊!」と罵倒され、差別された中で、「なにクソ!」と思い、闘った人たちだ。
実は、この人たちこそが明治日本を作ったのだ。
第1番に挙げられているのは、渋沢栄一。日本の資本主義を作った男ともいわれる。星亮一は書いている。
〈経済人として近代日本の国家建設に貢献した渋沢栄一は、岩崎弥太郎のような勝者サイドの人間ではない。敗者サイドの人間である。それが日本の財界を仕切ったことが痛快だ〉
岩崎はNHK大河ドラマ「龍馬伝」にも出てくる。坂本龍馬にくっついて活躍した。三菱を作り、日本の財界を作った。
しかし渋沢は、〈敗者〉の賊軍だ。ハンディを背負いながら、苦闘する。
そして、日本の資本主義の父と呼ばれた。大変な苦労だ。
〈生涯、かかわった企業が約500社。明治6年(1873)に創立した第一国立銀行、現在のみずほ銀行では40年間、頭取を務めた。「憲政の神様」と言われた尾崎咢堂(行雄)に「渋沢は西郷、大久保に匹敵する人間」と言わしめた明治国家のスーパースターである〉
そうなのか。西郷にも匹敵する男だったのか。それで、急に会いたくなって、生家に行って来た。勿論、もういない。しかし、生家はある。埼玉県の深谷にある。それも奇妙な名前の町にある。
〈生家は武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村、現在の埼玉県深谷市である。深谷駅は「高崎線」の快速で上野駅から約70分。駅前広場に渋沢の銅像がある。そこから渋沢の生家まで歩いていくのだが、目の前に生家の全景が広がった時は、その広さに驚いたものだった〉
私も、深谷駅から歩いた。深谷駅には、「渋沢栄一、生誕の地」と大きく書かれている。駅には銅像があるし、そこから歩いて10分。生家がある。
又、そこから少し離れたとこに渋沢栄一記念館がある。ここにも銅像がある。駅前、生家にもあるが、この記念館の銅像は巨大だ。
尾崎咢堂は、「渋沢は西郷に匹敵する人物」と言った。だから上野の西郷さんの銅像に匹敵するものを作ろうとしたのか。いや、いや。西郷さんよりもさらに大きい。もしかしたら、日本でも一番大きな銅像かもしれない。
記念館そのものも、新しいし、きれいだ。古代ローマの建物を思わせるような洒落た建物だ。アメリカにあるミュージアムのようだ。
その前に、「血洗島の生家」を見てきたから、特にそう感じたのかもしれない。
昔は壮大な屋敷だったのだろう。又、畑も広々と広がっていた。
今はかなり小さくなっている。これが日本の資本主義を作った男の生家か、と思ったほどだ。
説明してくれる人も、いなかった。少し待ってたら、「すみません。畑仕事をしてたもので」と、おじさんが走ってきて説明してくれる。
ここに来た人は、まず第1に疑問に思う。ここの住所だ。今も、「深谷市血洗島」になっている。
島といっても海に浮かぶ島ではない。場所のことを「島」といったんだ。他にも西島とか、なんとか島という町名がここにはある。
問題は「血洗」の方だ。血で血を洗うような戦争があったのか。
「ここは元、刑場だったと聞きましたが」と質問する人もいる。初めは私1人が、説明を聞いてたが、ボツボツと何人かが集まってきた。
その中で、質問する人がいるんだ。「古戦場があって、血なまぐさい戦いがあったんじゃないですか」と言う人もいる。
生家の説明係の人は、「いえ、違うようです」と、説明パネルを指さす。今まで、何百回、何千回も質問されたんだろう。まず、このパネルを見て下さい、ということだ。
パネルには、こう書かれている。本当は、土地が荒れていたので、「地荒い」だった。そこから「血洗」になったというのが第1の説明。
じゃ、町名は、「地荒い」でいいじゃないか。でも、土地が荒れているというのは恥ずかしい。
誰かが冗談で「血洗」という字を当てた。「面白い!」と手を叩く人もいて、初めは冗談で、通用してたが、そのうち、これが町名になった。
ウーン、これが一番ありうると思う。
今なら、「血洗」なんて不気味だ。不吉だ。怖い。と思うだろう。
でも、昔は、日常的に戦いがあって、血に対する観念も違う。
他の地方では、敵の首を洗った池が残っていて、「血洗い池」「首洗い池」なんてのもある。又、切った敵の武将の首を、奥方や娘たちが洗って、化粧して殿に見せたという。
首、血、洗う…ということに対する観念が今の我々とは違うのだ。「気持ち悪い」「ゾッとする」という感覚はない。
むしろ「地荒れ」の方が、カッコ悪い。恥だ。と思って、「血洗い」にしたのだろう。そんな気がする。
でも、現在も、「血洗島」のままというのも怖い。
他にも説があって、アイヌ語だという説。又、日光の神と赤城の神が戦った時、腕を切られた赤城の神がその傷を洗った場所だとか。又、八幡太郎義家(源義家)が受けた傷を洗った場所だとか。いろんな伝説があるそうです。
渋沢は、「最後の将軍」徳川慶喜を慕い、仕えた。
名前を覚えてもらおうと、慶喜の朝の調馬を毎日、追いかけた。それも走ってだ。
〈渋沢は背が低く、肥満で腹が出ている。馬になど追いつけるものではない。でも毎日、走った〉
そして、慶喜の目に止まり、「あれは何者だ」「太っておるな」ということで、お目通りがかない、やがて財務担当として頭角を現した。
さらに渋沢はフランスに行った。
慶喜はフランスとの提携による近代日本の建設を考えていた。そして、パリ万博に実弟の徳川昭武を派遣した。
その昭武のお供として渋沢はフランスに行った。
その時の写真が生家には飾ってある。
行く時は、チョンマゲだが、向こうで、落として総髪にした。
その写真を日本の奥さんに送ったら、「情けない!」と言って泣き出したそうだ。チョンマゲを落としてはもう武士ではない。人間ではない、と思ったようだ。
フランスに行くまで48日だ。香港、サイゴン、アラビア半島、紅海…と。船に乗ったり、汽車に乗ったりだ。スエズから汽車に乗ったが、一同は驚いた。
「細長い家屋の如きものが動いている」。
これが蒸気車だったのだ。
又、フランスでは、人々の生活に驚いた。政治の仕組みにも驚いた。
〈渋沢が各地で感心したことは、国民全体を考えた政治だった。政府のためではなくすべて、国民のためだった。渋沢は美人が多いことにも驚いた。皆、胸を張って歩いている。日本とは違うと思った。街は夜でも煌々と明るく、至る所に噴水があり、人家は7、8階の高層建築で、その屋敷の壮観なことは、大名の屋敷も及ばぬものだった〉
西欧の進んだ文化に対しては、素直に感動する。日本はとてもとても遅れている、と思う。
その気持ちがあったから、「追いつき追い越そう」とする気持ちも生まれる。
維新を成し遂げた薩長よりも、むしろ、そのコンプレックスは強かったのだろう。
だからこそ、日本の「資本主義の父」にもなった。
又、フランスの女性を見て、「美人が多い」と思った感性だ。
他の日本人たちの見聞記では、外国人は、ただ大きくて赤ら顔で、天狗のようだ。…という表現が多い。
見慣れた日本人の女性こそが美しい。外国女は、グロテスクだ。気持ちが悪い…。と思った人が多い。
「美人」観はそれだけ保守的なのだ。
「テルマエロマエ」でも、ローマ人は日本人の女性を初めて見て、何だ、この「平べったい顔の、平べったい胸」の人間は!と思った。これは映画だが、実際に外国人が日本人、日本女を見た時も、そうだったのだろう。
そうした民族的「美人観」を超えて、渋沢は、西欧の女は美しい、と感動した。これは凄いことだと思う。
フランスに行っている途中、日本では徳川幕府が崩壊する。その話を聞き、渋沢はただ、泣きに泣く。
そして日本の再建に尽力する。「西欧体験」が大きく影響した。
〈渋沢が見るに日本の商工業は、すべてが零細だった。この狭い国土に小さな商売人がひしめき、農業といえば大根を作り、沢庵漬けにする程度であり、商業は味噌を量り売りする程度。工業といえば老婆が糸車を回して、小娘が機織(はたお)りするのが関の山だった。金融機関は両替商、蔵元、札差(ふださ)ししかなく、まともな金融機関はない〉
そんな遅れた日本を渋沢は変えたのだ。大変な苦労だ。
明治6年(1873)、第一国立銀行を設立(名前は国立だが民間の銀行だった)。
〈渋沢は全体を統括する総監役に就き、幾多の試練を乗り切り、鉄道建設、紡績業、海運業と手を広げた。今日の王子製紙、東京ガス、帝国ホテル、サッポロビール、JRなど渋沢が手がけた企業は枚挙にいとまがない〉
凄い人だったんだ。志を持った、道義の人なのだ。
そんな渋沢に、接近してきた男がいた。土佐出身の岩崎弥太郎だ。
渋沢を向島の料亭に招いて、岩崎はこう言った。
「僕と君が手を握れば、日本の実業界を思う通りに動かすことができる」。これに対し、渋沢は…。
「冗談ではない。君が言うことは、ただの金儲けではないか。そんなことをする気は毛頭ない」
そして、渋沢は怒って退座したという。
〈渋沢と岩崎には、決定的な違いがあった。渋沢に言わせれば、岩崎は薩長政権と結託した御用商人ではないか。自分は違う。痩(や)せても枯れても幕臣の端くれだ。徳川慶喜公にお仕えした者だ。幕臣をなめてもらっては困る。そんな心境だった〉
今だったら、「守旧派」と罵倒されるだろう。現政権からの誘いにも乗らず、「幕臣」の誇りを持って、生きた。
経済人として、それを貫くのは大変だったろう。学者や言論人ならば、言えるかもしれないが。
いや、今の政府の有識者会議「安保法制懇」を見ても、完全に「御用学者」ではないか。
「渋沢がフランス各地で学んだことは私心なき社会奉仕だった」と星亮一は言う。
さらに、早大、日本女子大などの設立に協力した。
70才を過ぎてから3回も訪米し、日米関係の改善にも骨を折った。
「渋沢はヨーロッパの自由正義、民主主義を身につけ、かつ日本古来の道義心も兼ね備えた日本人だった」。
この、「日本古来の道義心」というのがいい。
皆、維新以降は、薩長に靡き、徳川幕府を罵倒し、それが日本を世界に押し出す力だと思っている。それが〈愛国心〉だと思っている。
「違う!」と渋沢は言う。幕臣の誇りを持って、言う。
日本古来の道義心を失っては、ダメだ、と。
これは今も言える。この覚悟を持った人がどれだけいるのか。考えさせられた。
と、ここで終わりだ。最後に、大阪ロフトについて少し触れておこう。
深谷に行った2日後、大阪に行った。4月から大阪にロフトが出来たのだ。ちょうど1ヶ月前だ。
初めて行った。トークをした。大阪の宗右衛門町の賑やかな所にある。
いい所だ。会場も広いし、きれいだ。音響もいいし、ガラス張りの「喫煙室」も出来ている。
そこで、5月13日(火)、トークをした。お相手は、部落解放同盟大阪府連池田支部長の、みなみあめん坊さんだ。久しぶりだ。
それにもう1人、松井かんこさん(映画宣伝プロデューサー)だ。
タイトルは「タブーの側からタブーを撃つ!」。
解放同盟も右翼も、以前は「怖い」と思われ、「タブー」だった。
ところが今は、〈言論〉の場を持ち、又、「朝生」などによって、「話し合いの場」に出ている。
これはいいことだが、それによって、かつてのような厳しい姿勢や緊張関係が薄れているのではないか。そんな疑問や反省もある。
社会的な差別がなくなり、それで団体の力が弱まるのならばいい。
でも、かえって差別表現が広がっている。大久保では堂々とヘイトスピーチのデモがやられている。昔なら、とても人前では言えない民族排外の差別言葉も発せられている。
それらにどう闘うべきか。そんな話を中心にして、3人で話し合った。
又、会場からも活発な質問や問題提起もあった。
ロフトが生まれたのは「朝生」と同じ頃だ。テレビでも、政治討論番組が増え、いろんな喫茶店、居酒屋でも、「討論」する店が増えた。
ロフトはその第一番の功労者だ。ロフトプラスワン、阿佐ヶ谷ロフト、ネイキッドロフト…と、毎日、熱い議論が展開されている。
そして、今、大阪にも進出した。さらに、福岡、札幌にも考えているという。
これは楽しみだ。そして、念願の「ニューヨーク・ロフト」もぜひ、実現してほしい。
さらには、「ソウル・ロフト」「ペキン・ロフト」「ピョンヤン・ロフト」だ。
世界各地で、民間同士の討論が行われたら、確実に世界も変わる。
政治家やマスコミだけではダメなんだ。民間人の交流、討論が必要だろう。
①5月13日(火)大阪ロフトに行きました。初めてです。正確には、「Loft Plus One West」というらしいです。午後7時半から、「タブーの側からタブーを撃つ!」。みなみあめん坊さん(部落解放同盟大阪府連池田支部長)とトークしました。左がみなみさん、右は松井かんこさん(映画宣伝プロデューサー)と。
⑦ロフトに来てた女性が、こんな指輪をしてました。先は尖っています。「護身用」といいますが、ほんど凶器です。うっかり握手も出来ません。「ロフトは、危ない人が多いから護身用です」と。「それに、私は可愛いから、狙われるし…」と。
そうだ。東京には蛇の指輪の女性もいる。闘わせてみたい。面白い勝負になるだろう。
⑮産経新聞(3月5日)にも出てました。「ここは東京駅?」と。産経によると、この深谷駅は平成8年に、東京駅を模して改装されたそうです。「これは東京駅が、深谷産のれんがを使用していることによるが、こちらはれんが風のタイルを貼ったものだという」。
フーン、そうなのか。
⑳チョンマゲ姿の渋沢です(右)。左は、フランスから渋沢が奥さんに送った写真です。チョンマゲを切ったんです。「まあ、カッコいい」と奥さんに言われたかったようです。でも、奥さんは、「情けない!もう武士ではない!」と泣いて嘆いたそうです。
㉖「アエラ」(5月19日号)です。ジョン・ハンターの『小学4年生の世界平和』(角川書店)の書評を書きました。アメリカでは小学生が、ゲームを使って、世界平和を考えている! 驚きました。凄い本でした。考えさせられました。
㉗5月14日(水)月刊「創」で山口二郎さんと対談しました。山口さんは、北海道大学教授でしたが、今年から、法政大学教授です。家が北海道にあるので、土・日は帰るそうです。単身赴任です。今の「右傾化」する日本について話し合いました。