5月は飛び回ってますよ、全国を。
飛松さんの所にも行くし。いろんな人に会い、勉強し、本を読み、いろんなものを見ています。
時には子供のような好奇心で見ています。美術館や動物園にも行ってます。
ガンジーの言った「永遠に生きるつもりで勉強しなさい」ですよ。何才になっても、「あっ自分はまだ小学生だ。これからが勉強だ」と思うんですよ。最近の私のモットーですね、これは。
5月は、大阪、仙台、札幌、姫路と行きました。では、ざっと書いときましょう。
まずは、5月13日(火)です。
大阪ロフトに行って、部落解放同盟のみなみあめん坊さんと対談。
その前に、大阪の町を散策しました。グリコの看板や「くいだおれ」の人形を見ました。
法善寺横町にも行きました。我々が学生の頃にヒットした歌で「月の法善寺横町」という、藤島恒夫の歌がありました。立派な料理人を目指す若者が全国のお店を回って修業するのです。
その間に、お店のお嬢さんに淡い恋心を抱いたりして、という歌です。大ヒットしたので、歌詞も覚えています。「包丁一本、さらしに巻いて。旅に出るのも、板場の修業…」という歌詞で始まります。
この歌は全国で爆発的にヒットし、皆が口ずさんで歌いました。「恋」など知らない子供たちも大声で歌ってました。大学生も。そして、右翼青年も、左翼青年も。
右翼青年は、素直だから、この歌詞のまま歌ってました。
ところが左翼青年は、歌詞を変えて、「自分たちの歌」にして歌っていたんです。これも「歴史秘話」ですね。
たとえば、連合赤軍事件に参加した植垣康博さんたちは、山に登る前に、M作戦(資金強奪)のために、銀行や郵便局を襲い、大金を奪いました。
それも、武器はピストルや銃などではありません。包丁です。度胸がありますね。包丁を見せて、銀行を脅し大金を奪ったのです。そんな「毎日」を歌ったのですよ。「月の法善寺横町」のメロディで。
「包丁一本、さらしに巻いて。銀行に行くのも、革命の修業…」
凄いですね。「革命の修業」なんですね。
そして、銀行、郵便局強盗は全て成功。天才ですよ、植垣さんは。
でも、そのあと、山に登り、連合赤軍に参加、あの陰惨な〈総括〉があったのです。
全てが終わって、植垣さんは、裁判。そして27年間の獄中生活。気が狂うような、長い長い獄中生活です。それを耐えて、無事、出獄。
今は静岡でスナック「バロン」のマスターです。30才以上年の違う美人妻と、可愛い小学生の息子と共に、幸せに暮らしています。
この前、裁判の時の話を聞きました。「革命の修業」に使った包丁は、その後、どうしたか。
裁判で聞かれたんですね。「凶器」だから、すぐ捨てるでしょう。
逃げる時に、川に捨てるとか。その辺のゴミ箱に捨てるとか。あるいは山に穴を掘って捨てるとか。
ところが、捨てなかったんですね。「凶器の包丁はどうしましたか?」と裁判長に聞かれて、植垣さんは答えました。
「皆で、アパートを借りて自炊してたので、料理に使ってました」。
そこにいた人々は、皆、ドッと笑ったそうです。
でも植垣さんは大真面目です。「だって、勿体ないでしょう」。
そうですね。凶器に使ったからといって、捨てたら、勿体ないです。料理に使えるんだし。次の銀行強盗の時も使えるんだし。
あっ、大阪ロフトの話が長くなった。5月の「修業の旅」の次は仙台ですね。
5月17日(土)、東北学院榴ヶ岡高校の同窓会があったんです。この話は、後で詳しく書きましょう。
昔の同窓生、習った先生と会い、遅くまで話をし、飲みました。一泊して、翌日は教会に行き、夕方、帰京。夜はTBS・BSの番組に出ました。
5月20日(火)は、札幌時計台のシンポジウム。伊東秀子さん(弁護士)とお話をしました。
伊東さんは、元社会党の衆議院議員でした。私は、「朝まで生テレビ」などで、よくご一緒しました。
土井さんの後を継いで社会党の委員長になる人だ、と私は思ってました。ところが政界から引退し、弁護士活動に専念。「恵庭OL殺人事件」などに取り組んでいます。
「冤罪」と、特定秘密保護法案について話をしてくれました。終わってからも、打ち上げで、遅くまで、話し合いました。
翌21日(水)は、次の講師の合田一道さんが、旭川を案内してくれました。
「三浦綾子記念文学館」に行きました。又、「氷点」や「塩狩峠」の舞台になった場所を案内してくれました。
さらに、旭山動物園に行きました。夢のような1日でありました。
5月25日(日)は、朝、姫路に行きました。「飛松塾in姫路」です。
「包丁一本、さらしに巻いて、銀行へ行くのも、革命の修業」の元連赤兵士・植垣康博さん。飛松さん、そして私で話し合いました。
…というわけで、5月は、旅巡業の毎日でした。その間に原稿はあるし、本を読むノルマはあるし。あまり寝れない日も続き、大変でした。
では、仙台の同窓会の話です。5月17日(土)午後5時半から、仙台のガーデンプレイスで行われたのです。
第1部は同窓会の総会。同窓会会長の挨拶。活動報告などがあり、6時から、パーティです。
この時は人もドッと増えて、150人ほどが集まりました。胸には「名札」を付けている。名前の前に「何回生」と書かれている。
私は「1回生」だ。でも、若い人を見ると、「52回生」なんて書かれている。ギャー、52才も違う後輩か。東北学院榴ヶ岡高校が出来たのは55年前。その第1回生なんですよ。私は。
ミッションスクールで、とても厳しい学校でした。男子校です。「女子とは口をきいてもダメ」。丸坊主。遅刻したり、服装の乱れた者は、容赦なく鉄拳制裁。
毎日のように、先生に殴られていました。でも20年ほどして、高校は何と「男女共学」になり、服装も自由になる。
じゃ、弾圧された我々は、何だったのか。「自由を返せ!」「青春を返せ!」と叫びたいですね。
5月17日(土)の同窓会だ。パーティが始まって、吹奏楽部の演奏がある。男女半々で、実に楽しそうだ。
俺たちの時には、こんな自由も楽しさもなかった。キビキビとしている。手を打ち鳴らし、踊ったりしながら演奏している。AKBの曲なども演奏する。
そして最後は、校歌だ。懐かしい。「世の光 わが誇り。いざ誉めよや 友よ…」と皆が起立して歌う。
ウッ、涙が出る。なんだこれは。あんなに苛められ、苦行の毎日だったのに…。それを懐かしがってるのか、お前は。と思いながらも、涙が出る。
あっ、ここが私の「原点」なんだ。と思いましたね。
吹奏楽団の演奏の後は、先生方が挨拶する。脇田先生なんて、私らと6才しか違わない。若い先生がいたんだ。
亡くなった先生も多い。私らが入学した時の校長先生、国語の先生、体育の先生、牧師さんも亡くなった。
主事の田口先生は存命だが、体の調子が悪いので来られない。厳しい先生だったが、会いたい。
「少人数でいいから田口先生を訪ねようよ。玄関で、お顔を見るだけでいいから」と私は同窓会長に言った。
「考えておきましょう」と言う。
「又、お前、殴るんじゃないの?」なんて言う同級生もいる。
失礼な。田口先生は怖かったけど尊敬してますよ。1回会ってお詫びしたい。それだけですよ。
「お前は先生を殴って、退学になってるからな」と言う人もいる。あれは別の先生を殴ったのだ。
それに、半年間、教会に通って懺悔の生活をし、許されて、「一人だけの卒業式」をやってもらった。皆が、卒業した半年後だ。
それから東京に行って、早稲田予備校に通い、必死に勉強し、早稲田の政経に入ったのだ。
これで、人生を取り戻した。末は博士か大臣か。と思ったのに。ところが、左翼学生に苛め抜かれて、反動で右翼学生になり。…と。劇的な人生が続く。
回想シーンが終わり、5月17日(土)だ。学院同窓会だ。
今の先生方が紹介される。中には後輩も多い。榴ヶ岡高校を出て、又、戻ってきて、ここの先生をしてるんだ。
自分が先生をして、そこに子供を入れてる人もいる。同窓生の中には、「うちは息子3人を入れました」と言う人もいる。
いいなー。私も子供が出来たら榴ヶ岡高校に入れよう。でも、子供だけでなく、孫も入れてる人がいるのでは…。1回生は、70になるんだから、いてもいい。今度、先生に聞いてみよう。
今の榴ヶ岡の校長の湯本さんが挨拶する。「今は、自分から希望して入ってくる生徒も多いです」。ここで皆が、ドッと笑う。
知らない人が聞いたら変だろう。皆、希望するから入学する。試験もあるし、受かった人は入る。当たり前の話じゃないのか。
ところが違うんですな。ここの高校は、55年前に出来てから、「希望しない人」がズーッと入っていた。
55年前、仙台は高校が少なかった。県立の一高、二高がいい高校だ。
ところが、ここを落ちた人の「受け皿」がない。いい私立がないのだ。
東北学院は中・高一貫で、高校からは採らない。それで、一高、二高を落ちた人は浪人をした。大量の「中学浪人」が出た。
文部省の要請もあって、東北学院に、「新しく高校を作ってはどうか」という話になった。中・高一貫とは別に、榴ヶ岡という所に高校を作った。
初めは東北学院高校の「分校」だった。東北学院高校榴ヶ岡校舎といっていた。米軍が使っていたバラックをそのまま、使った。中央には礼拝堂もあるから、ちょうどよかったんだ。
1クラス45人。3クラスで135人だ。私は二高を落ちて、そこに入った。
入学式の時、校長先生が言った。「君たちで、ここを希望して入った人は1人もいないだろう。皆、一高、二高を落ちて、仕方なく入ったと思う。悔しい思いをしてるだろう。自分より成績の悪い人間で、一高、二高に入った人もいるだろう。恨みもあるだろう。だったら、3年後にその恨みを晴らせ! ここで必死に勉強し、大学に入り、そして友達を見返してやれ!」。
凄い。復讐心を煽るのだ。「恨み」や「復讐」という言葉は使わなかったかもしれないが、自分にはそう聞こえた。
先生も必死だ。新しい高校の成果は、3年後の大学進学で決まる。生徒も勉強したが、先生も厳しく指導した。
その甲斐あって、3年後、東北大学に10人以上が入学した。その後、浪人して合格した人もいるから、20人近いのかもしれない。
135人の1回生の中から、これだけの数が東北大に入った。快挙だ。それで、榴ヶ岡高校の名は上がり、ドッと受験者も増えた。定員も増やし、その後、泉区に移り、きれいな校舎になり、男女共学になり、服装も自由になった。
「全ては1回生の苦労のおかげだ」と先生方は言う。いやいや、先生方が生命を懸けて、指導してくれたおかげだ。
東北大に10人以上入り、さらに、早稲田、慶応などの私立大にも随分と入った。
今、1回生135人のうち10人以上東北大学に入った。と言ったが、本当は正確ではない。
135人入学したが、3年後は、120人か、110人位に減っていた。付いて行けなくて退学した人もいる。
又、学校側が、退学にした人もいる。少なくとも1割以上はいる。厳しい校則のもと、違反者はどんどん退学にされた。まるで新選組だ。
卒業間際に、私は、教師を殴って退学になった。しかし、半年後に、復学させてもらった。これは幸いだった。
でも、他の退学になった人は全て、復学は許されない。それもそんなに酷い理由で退学になったのではない。
カンニングをした、タバコを持っていた、町で女性と口をきいた。…そんな些細なことだ。
町で、女性と口をきいて退学になった人は、「桃色遊戯に耽り、よって退学に処す」と廊下に名前が貼り出されていた。かわいそうに。
後で聞いたが、2回生では、修学旅行の時に、道が分からなくて、歩いてる女性に聞いたら、それが、「女性と口をきいていた。淫らなことをした」と、退学になったという。それも、何人も。
今度、その話を詳しく聞いてみよう。しばらくは、毎年1割位は退学にされた人がいたようだ。
「じゃ、退学になった人だけを集めて同窓会をやったらいいんじゃないの。それこそが神の愛だ」と私は提唱したが、無視された。
「お前がやればいいんじゃないの」と言う人もいる。「でも、退学になった人は皆、些細なことで退学になっている」と同窓生が言う。
町で女性と話をした。タバコを持ってた…と。「それに比べたら、邦男は最も悪質だ。職員室に乗り込んで、先生を殴ったんだから!」「そうだ、そうだ!」と皆が私を批判する。連合赤軍の総括のようだ。
「それに、邦男は、聖書の先生を殴ったんだぞ! 牧師さんを殴ったんだ! 神に対する最大の反逆だ!」「ひでえ奴だ!」
そうか。牧師さんだったんだ。申し訳ありませんでした。懺悔します。
牧師さんを殴って、私は、即、退学だ。じゃ、オラは高校中退で終わりだ。じゃ、グレてやる。アウトローになってやる!と私は荒れました。
ところが、両親は、必死になって、学校にお詫びに行き、いろんな所に相談に行った。
札幌に嫁いでいた姉は、ご主人と息子たちをおいて、仙台の我が家に来てくれた。「クニオ君、やけにならないで…」と必死に諭してくれた。
そして、教会に連れて行ってくれた。毎日、教会に行って、私は懺悔の生活をした。
この時の力は大きい。姉の力がなかったら、高校中退のまま、自暴自棄になって、のたれ死んだか。犯罪者になったか…。
そんなことを思い出していた。姉がいたからこそ、私は救われ、今も生きている。そして、今は、キリスト教を学んだことが幸せだと思っている。そう思えるようになった。
「聖書」も読んでるし、ドストエフスキーをはじめ、世界の文学を読む時でも、「自分のこと」のように理解出来る。ミッションを出たおかげだ。
5月21日(水)に、旭川の三浦綾子記念文学館を訪ねたが、凄い人だと思う。
主要な作品は読んでるが、「全集」を読破しなくてはと思っている。
三浦文学のテーマはキリスト教だ。そして「原罪」だ。読んでいて、涙が出る。
今の小説なんか全て読まなくていい。三浦綾子を読め!と私は言いたい。
そんなことを分かるのも、高校時代にミッションにいたからだ。苛められたが、これも神の試練だったのかもしれない。
同窓会の時は、終わって、町に出て、飲み直した。今の校長先生も一緒だった。
「田口先生は今回も来られなかったようですね」と私が言った。
とてもお世話になったし、ご迷惑をかけた。一目会ってお詫びしたい。と言ったら、「毎週教会には行ってるらしいですよ」と言う。
エッ、そうだったのか。80才半ばで、歩くのはちょっと不自由だけど家の人が車で連れて来るそうだ。広瀬河畔教会ですよ、と言う。「じゃ、行ってみます」と言った。
そして、翌、5月18日(日)、この教会に行った。「あっ鈴木さん。どうしてここへ」と受付の人に声をかけられた。「たかじん」で見たという。
「実は、榴ヶ岡の卒業生で」と言ったら、歓迎してくれた。教会の礼拝の時も、「今日の新しい参加者です」と紹介してくれた。
そこに、出村先生が来た。1回生として入った時に習った先生だ。
「田口先生も来るはずです」と言う。そうだ。礼拝が終わった時、司会の人が私を紹介してくれたんだ。「今日来ておられる田口先生にも習ったといいますし」という。
エッ、来てますか。後ろの方にいた。私が高校を出てから52年ぶりだ。
その間、一度も会ってない。あんなに心配をかけ、迷惑をかけたのに。「鈴木です」と言っても、すぐには分からない。
そばで、「ほら、○○先生を殴って退学になった生徒です」と囁く。
その瞬間、目が輝いて、「おっ、鈴木君か! よく来てくれた! 心配してたんだ」と。固い握手を交わし、一緒に写真を撮りました。
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした」と、心からお詫びしました。
神への疑問、反逆、暴力、そして謝罪、再生…。まるで三浦綾子の文学のようじゃないか。と思いました。
そして、ハッと気がつきました。「ここは以前、来たことがある」と。
そうか。高校を退学になった後、姉に連れてこられた教会ではないのか。
だって、ここは元は東北学院大学の大学内教会だった。それが独立して、立派な教会になった。
学院榴ヶ岡高校を退学になった生徒が、通うとしたらここしかない。私の「懺悔の原点」だ。
それからタクシーで柏艪舎へ。
そして6時から、札幌時計台ホールへ。「鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台」。
今回のゲストは伊東秀子さん。テーマは「冤罪と特定秘密保護法案」。弁護士として、恵庭OL殺人事件に今、取り組んでいる。「これは冤罪です」と詳しく話す。又、冤罪を生み、それを改めようとしない司法制度の問題点を衝く。この事件について伊東さんは本も書いている。
又、以前は社会党の国会議員だった。「朝まで生テレビ」などにもよく出ていた。私もそこでご一緒した。きちんと論理立てて話すし、冷静だ。カッとなって怒鳴ったりしない。
土井委員長のあとは伊東さんが社会党の委員長になるものとばかり思っていたのに。でも、政界からは引退し、今は弁護士だ。
国会議員の時代のことは何冊かの著書で書いている。本を読んで驚いたが、この時計台シンポジウムで、いつも司会をしてくれる中尾則幸さんは、テレビに出ていた。その前は国会議員だ。
何と、伊東さんと一緒に社会党議員として活躍していたのだ。「伊東さんに誘われて、引き込まれたんです」と言っていた。
その頃の思い出や、今後の政治についても伊東さんに語ってもらった。
終わって、打ち上げ。話は尽きない。ホテルに帰ったら、1時を過ぎていた。それから、原稿を書く。
まず、塩狩峠に行く。三浦さんの名作『塩狩峠』の舞台になったところだ。電車が故障で暴走し、運転していた長野さんが、自分の体を線路に投げ出して、暴走を止めた。とても出来ることではない。
長野さんはキリスト教徒だった。それを知って、三浦さんが書いたのだ。
塩狩峠は今もある。長野さんの殉職の碑もある。
さらに、「塩狩峠記念館」がある。三浦さんの旧宅をここに移したのだ。もとは、雑貨店をやっていた。その時に、朝日新聞の懸賞小説に応募し、『氷点』が当選し、大ベストセラーになる。そこから作家としての三浦さんの生活が始まる。
その雑貨店の跡が残されている。又、少女時代に読んだ本なども展示されている。山中峯太郎の『敵中横断三千里』なんていう勇ましい本も読んでいる。又、菊池寬の『第二の接吻』なんてのも読んでいて、学校の先生に叱られたという。「こんないやらしい本を読んではいけません」と。
旧三浦宅を出て、旭川に行き、三浦綾子記念文学館に。森の中にある静かな文学館だ。合田さんは、学芸員の人たちと皆、知り合いだ。学芸員の人が、案内してくれる。
とても勉強になりました。私は、三浦綾子の「全集」を読破しようと思い、今、挑戦中だ。来年は高木さんと、三浦文学について対談しようかな。
このあと、「時間がありますから、旭山動物園へ行きましょう」と可知さんの提案で、動物園へ行きました。
でも、あんなに有名で、全国から、人が来るだろうから、混んでて大変だろう。と思ってたら、ウィークデーなので空いていた。
配置、見せ方がうまいですね。感動しました。白クマ、レッサーパンダ、シンリンオオカミ、カバ、オットセイ…などがいました。
そのあと、旭川飛行場まで送ってもらい、皆と別れて帰京しました。家に帰ったのは夜の11時。
それから朝方まで原稿やら、校正やら、忙しかった。眠い。
⑤翌、5月21日(水)、旭川の三浦綾子記念文学館に行きました。7月15日(火)に時計台シンポジウムで対談する合田一道さん(作家)は、かつて北海道新聞に勤めていた時、三浦さんの担当をしたそうです。それで、案内してくれました。(左から)柏艪舎の可知さん、鈴木、合田一道さん。大阪から聞きに来た下中さん。
⑰高校は男子校でメチャ厳しかったですね。ところが、20年前から、共学になったんです。後輩たちと。右2人は1回生。左の3人は52回生です。52才も違うんですが、この日、出席した1回生は4人。「あとは絶滅したんですか?」「そうです」